キリストの無限の愛 エペソ3:14−21 主の2006.3.5礼拝
最近、新聞、テレビで見たものに、「子どもを抱きしめてあげよう」という広告があります。子どもを心から抱きしめてあげることによって、「お前のことを大事な宝物のように思っている」という親の愛情を伝えることは大切なことです。抱きしめられた子どもは親との一体感を全身で感じ、理屈ぬきに親の無私の愛情を感じると思います。その愛が子どもの心を豊かにして行きます。
本日はエペソ3:14−21です。15節に「『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る(すべての名のもとである父)」という言葉があります。私たちクリスチャンは天地万物を創造された創造主である神に、何の気がねもなく祈ることができます。ふつうの宗教では難しい儀式、分からない言葉だらけの経文、或いは型にはまった祈祷文などを唱えるという手順を踏んで神々や教祖に近づく事が許されます。クリスチャンはいつでも、どこでも、自分の言葉で自由に神をほめ讃へ、何でも神様にお祈りできるという恵みを与えられています。神様は私たちのために、ご自分の最愛の独り子であるキリストをこの世に遣わされ、罪ある私たちの罪の赦しと救いの道を開くために十字架にかけて、罪の贖いとされました。親は子どもを抱きしめて愛情を伝える事ができます。神様は独り子であるキリストを犠牲にして、私たちを愛するという無限無量の測り知れない大いなる愛を示して下さいました。19節に「キリストの愛」とあります。測り知れない神の愛を、私たちに具体的に示されたお方がキリストです。キリストの愛を、今朝のメッセージを通して教えていただき、ひとり一人の心がキリストの愛で満たされ、生きる喜びの力を受けて行くようにお祈りして参りましょう。
内 容
1、私たちは創造主であるまことの神に祈る。3:14−15
2、私たちは救主イエス・キリストの愛によって支えられている。3:16−19
3、私たちはキリストの教会につながり、恵みに満たされる。3:20―21
資料問題
15節「あらゆる源の父なる神」、神は天地を創造し、諸々の諸民族を創造された神である。神はユダヤ人、異邦人の区別なく全ての人々の父である。17節「住む」、一時の宿を取る事ではなく永住する事を意味する。18節「その広さ、長さ、高さ、深さを理解する」、キリストの愛の全貌、全体、全方面を知るようにという意。19節「神に満ちているすべてのもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」、神のプレーローマに満たされるようにという事。プレーローマは神の萬善充実完備の姿を示す語である。神のプレーローマは具体的にキリストに宿り(コロサイ2:9)、私たちもこのキリストのプレーローマに達し、神の十全なる恵みに満たされるよういというのがパウロの究極的な祈りである(エペソ4:13)。これは私たち自身の信仰生活における祈りであり、目標である。
1、私たちは創造主であるまことの神に祈る。3:14−15
こういうわけで、わたしは膝をかがめて、天上にあり地上にあって、「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。(14−15節)
この手紙を記したのは使徒パウロです。彼はローマの獄中からエペソ教会、ピリピ教会、コロサイ教会宛に手紙を書き、彼の弟子であるピレモンに宛てて手紙を書いています。それら四通の手紙は新約聖書として現代の私たちに伝えられています。今朝お開きしたエペソ書は、私たちの救いの始まり、救いの恵みが述べられ、特に教会についての教え〈教会論〉が述べられている手紙として知られています。
パウロは膝をかがめて祈っています(14節)。私たち日本人はひざまずいて祈るという習慣があります。ユダヤ人は立って祈ることが多いようです(ルカ18:19−14)。エルサレムの神殿の遺跡である嘆きの壁に行ったことがありますが、大勢のユダヤ人が壁の前に立って神に祈っている姿が印象的でした。キリストはゲッセマネの園で、ひざまずいて祈っています(ルカ22:41)。
パウロはひざまずいて祈っていますが、誰に向って祈っているのでしょうか・・・。彼は「父なる神に祈る」と言っています。「信仰の発見」という書物があり、その副題に「日本人はなぜ手を合わせるのか」と記されています。日本人は一般的に何かを感じることによって、人間を超えたものの存在を漠然と考える傾向があります。食事の前に手を合わせ、「いただきます」と言って食べますが、健康で、ご飯をいただけることをありがたく感じて手を合わせるのです。聳え立つ山を見ると神々しく感じ、森の中に入ると静寂の中に何か心が安らぐように感じます。風が吹き荒び、雷鳴が轟き渡れば、人の力を越えた神秘な力に怖れを感じます。なぜ人間の力を越えた大自然の中に、多くの人々は人間を越えたものの存在を感じるのでしょうか。それは人間が神様から命の息を吹き入れられて、生きる者になっているからです(創世記2:7)。ところが、現在の人間は罪を犯して命を与えて下さった神様から離れています。罪を犯し、神様から離れていますが、人間には神様のことを思う考えが心の中に残っているので、神様の所に帰りたいという気持があります。その気持が、人間の力の及び難い自然に接する時などに、人間の力を越えたものの存在を何となく感じるのです。それで山を拝んだり、大木に注連縄を張ってご神木としたり、或いは見えない何かに向って手を合わせたりするのです。ところが、どんなに感じても、そこを離れれば、人間の気持は元に戻ってしまいますので、それはただ感じるだけのもの、気休めにしか過ぎないことになってしまいます。
パウロは、漠然とした感じで祈っているのではなく、「あらゆるものの源の父なる神」に向って祈っています。神は唯一であり、万物を創られた何でもおできになるお方です。地上に住む全ての人々に命を与えておられる創造の主であり、生きているまことの神様です。たしかに山や森、雷鳴などは人間の力ではコントロールできない力をもっています。しかし山に向って助けを求めても答はありません。鳴り轟く雷鳴に叫んでも何の意味もありません。答を下さるのは生きているまことの神様です。神は言われます、「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名乗っておられる者がこう仰せられる、わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」(エレミア33:2−3)。
Kさんはある会合に行くことに決め、出かけようとしましたが、急に心臓がドキドキして足が前へ進みません。仕方なく、出かけるのをやめたところ、心臓は正常になり、足も軽くなりました。そこで再び出かけようとすると、また動悸が激しくなり、やはり足が前へ進みません。それで行くことを断念しました。後で分ったのですが、その時に出かけていたら、トラブルに巻き込まれ、多くの人々に迷惑をかけ、自分もダメージを受け、大変なことになるはずであったことを知りました。常日ごろ、聖書を読み、祈っているKさんに対し、神様が守って下さったのです。どんな場合でも、父なる神様に向って祈って下さい。その祈りが私たちを支え、守る恵みとなって表されます。神は善にして善を行われる神ですので(詩篇119:68)、祈る者を最善に守って下さるのです。キリストが教えて下さった主の祈りは、「天にまします我らの父よ」という言葉で始まります。繰り返しますが、天地を創造されたあらゆるものの源なる父なる神に向って祈りましょう。それが祝福の源になります。
2、私たちは救主イエス・キリストの愛によって支えられている3;16−19
信仰によってキリストがあなたがたの心のうちに住み(住んでいてくださいますように)・・・(17節)
パウロの祈りは、16節−21節まで続きます。その祈りの中心は、キリストが心のうちに住み続けるようにということです。住むという言葉(17節)があります。住むというのは、一時的に住む、ちょっとだけそこにいるという意味ではなく、ずっといつまでもいる、永住することを意味しています。「キリストを信じ受け入れることの三つの重要なポイント」を思い出して下さい。それを写します(別紙にあります)。その三番目に、キリストと永続的なつながり(関係)をもって行くこととあります。キリストを心にお迎えした時に、キリストは心のうちに入り、私たちと永遠に共にいて下さる救主になって下さいました。キリストは「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18前半)という恵みの約束をもって、私たちを決して離れず、私たちを捨てない永遠の救主です。
パウロは、「キリストの愛を知り、キリストの愛の全体を知るようにしなさい」という願いをもって、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知りなさい」、「神に満ちているものの全てをもって、あなた方が満たされるように(神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように)」と祈っています。神に満ちているものとは、神様にあるすべてのよきもので、私たちの心がいっぱいになる、恵みが溢れ出るようになるということです。神様にあるすべてのよきものはキリストによって完全に表されています。
キリストには愛が溢れています。キリストの愛は全ての人々に向けられています。余談ですが、こんな時はどうしたら良いのかなと思う時があります。先日年配の人が来ました。「お金を下さい」ということでしたが、私はその人の顔をハッキリと覚えていました。向こうも話しているうちに私のことを思い出したようで「前にも来たことがある」と言っていました。以前に来た時に、けっこう高そうな洋服を着て、タバコがポケットにあり、靴も磨り減っていないし、手は労働をしたことがないようなきれいな手でしたし、話の辻褄が合わないので、お断りした人です。今回も同じような感じでした。断ると、前回はすぐに帰ったのですが、今回は「教会は冷たいんだなー」と言って、すごむような姿勢を見せましたが、帰って行きました。お金を貸してくれという人も来ました。以前よその教会に行っていましたと言い、次の給料が入るまでお金を貸して下さいと言われたことがありますが、断りました。イエス様だったらどうしたかなと思いましたが、やはり断っただろうと思いました。時々こういう人々が来て、中には二階まで無断で上がって来る人がいるので、安全上、玄関にカギをかけています。私たち夫婦の安全のためにお祈り下さい。
話がそれましたが、イエス様の愛は、特に救いを求め、神に縋る人生を歩みたいと願う者に注がれる愛です。せっかくイエス様を信じても、何らかの事情でイエス・キリストの許から、また教会から離れてしまう人々がいます。そういう人達のことを考えると心が痛みます。私が心を痛めるよりも何倍も多くキリストは心を痛め、天において祈ってくれています。キリストの祈りは諦めずに続けられています。私もキリストの祈りに励まされて、離れている人の信仰復帰のために祈っています。私たちは時々諦めがちになります。しかし、キリストを離れ、教会を離れた方がいて、「ああ、あんなに純粋な信仰をもっていたのに」と思いながら、時々「でもやっぱりダメかな」という不信仰になったりしながら、でも祈っていて17年の後に信仰を回復し、最寄りの教会に行き、信仰生活をしている方がいます。親の反対を押し切り、洗礼を受け、恵まれていた方が、多忙などを理由にいつしか教会を離れ、長らく霊的にさ迷う生活を続けていた人が、主の憐れみによって信仰を取り戻し、最寄りの教会に信仰生活の場を見いだして喜んでいます。まだ救われていない家族や友のためにも祈り続けましょう。キリストの満ち溢れる愛によって必ず救いに導かれることを信じます。
キリストの愛が全ての人に豊かに注がれて行くように祈りましょう。祈りのお願いがあります。今月末の28日(火)から30日(木)まで、秩父・農園ホテルで開かれる関東北東教区ユースキャンプに4名が参加します。多くの他の教会のユースと友達になり、御言葉によって心を養われ、恵まれ、キリストの愛に溢れて帰って来られますようにお祈りして下さい。昨日は、教会で「子どもお楽しみ会」が開かれ、子どもたち、ユースメンバー、お手伝いの方々によって楽しい恵みの時があり、感謝でした。「すべての聖徒とともにキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解して行こう」と言われていますが、子ども達のうちに、ユース・メンバー達のうちに、青年、壮年、シニアシチズンなど全ての方々のうちにキリストの愛が満ち溢れて行くように祈って下さい。
3、私たちはキリストの教会につながり恵みを受ける。3:20−21
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求め、また思うところのいっさいをはるかに越えて叶えて下さることができる方に(豊かに施すことのできる方に)、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなく(とこしえまで)あるように、アァメン。〈20−21節〉
この聖句は、同志社大学を設立したクリスチャン教育家新島譲(1843−90)の愛誦聖句でした。私の信仰の先輩は「思うところのいっさいをはるかに越えて叶えて下さることができる方に」という所を「すべて思う所よりも甚(いた)く勝る事をなし得る者に」という文語訳で唱えては神への信仰を奮い立たせていました。
この聖句の中に、「教会により、キリスト・イエスによって」という言葉が挿入されています。私はこの聖句から、主の祝福を受けるために、キリスト中心、教会中心に信仰生活をして行くことの大切さを教えられています。
アメリカに元スーパーモデルのキャシー・アイルランドという方がいます。この方は年間売り上げ10億ドル(1000億円)の会社の最高経営責任者です。彼女は18歳でクリスチャンになり、仕事はモデルであした。ある時、撮影中にシャツを脱ぐように言われた。多くのモデルがそうして成功していると言われたが、カメラマンを押しのけ、その場を立ち去った。25歳で外科医と結婚します。夫は帰ってくると、手術を通して人を助けることができたことを話す、自分はモデルとして、きょうはどんなポーズをしたことぐらいしか話せないで虚しかった。彼女はアンハイザー・ブッシュ・ビール醸造社のバドワイザ−というブランド名で全米ビールシエア10%の会社のモデルを契約更新時にやめる。アルコールがどれほど多くの家族を不幸にしているかを思い、他に収入の道はないが信仰をもってやめた。すると6週間後に、ある有名なソックスメーカーからデザインの依頼がきた。彼女の素材を選び、履き心地を重視したソックスはキャシー・アイルランド・ブランドして知られるようになり、年間一億足の売り上げがあるということです。信仰を第一とすることによって、また誘惑を退けたことによって、常にキリスト中心、教会中心に生活したことによって、自分が求め、また思うところのいっさいをはるかに越えた祝福を受け、多くの人々にキリストの恵みを証ししています。
まとめ
1、14−15節、私たちはあらゆるものの源である父なる神に祈ります。漠然とした何か実体のないものではなく、天地を創造し、私たちに命を与え、生かし、支えて下さる神に祈ります。祈りは神に届きます。神に向って祈りましょう。
2、17節、キリストを心に迎えるならば、キリストはいつまでも私たちの心の中に住み続けて下さいます。キリストの愛を受けて、キリストに縋りましょう。今キリストから離れている人のためにも祈って行きましょう。家族、友にキリストの愛が注がれていることを信じて、救いのために祈りましょう。
3、20−21節、教会につながり、キリスト中心に信仰生活を続けて行けば、私たちが求めまた思うところのいっさいをはるかに越えた恵みを与えられます。今のあなたの問題も、病気のことも祈りましょう。素晴らしいキリストの答が与えられます。祈りましょう。
祈 り 天地の主である神様、主によって私たちが求め、また思うところのいっさいをはるかに越えて、すべてが叶えられることを信じ、聖霊の助けの下に、キリスト中心、教会中心に私たちの信仰を導いて下さい。3月の月、今月もキリストを信じる方々を与えて下さい。年度末であり、移動移転、卒業、進学などの変わり目の時ですが、ひとり一人を豊かに守り、導いて下さい。私たちのうちに住んでいて下さる救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アァメン。
参考文献エペソ注解―黒崎、バークレー、山谷、文語略解、LAB,
竹森。「御翼・佐藤順」、「信仰の発見・水曜社」