クリスチャンは神の僕(しもべ)として生きる ペテロ第一2:11−20 主の2004.7.25礼拝
先日NHKテレビで、世界遺産の一つ、トルコ・カパドキヤの地下都市の放送がありました。私が見たのは終りのほうで、地下の一番深い所(地下80m)にある礼拝堂の様子でした。礼拝堂は十字架の形をしていて、そこに入ることによってキリストの十字架の死を自分に重ね合わせて祈りを捧げる。そして地下の深い所から出て行くことによってキリストの復活を自分に重ね合わせるという高橋神父の解説がありました。今、読み進んでいるペテロ第一の手紙の冒頭にカパドキヤという地名が出ていますが、クリスチャンが信仰の火を消すことなく、地下都市に住んで信仰を継承して行く様子を知ることが出来ました。
本日はペテロ第一2:11−20を開いています。この手紙を読んでいる人々はクリスチャンであり、ローマ帝国による迫害の真っ只中にいます。ペテロは苦難の中にあるクリスチャンを励ますために、キリストの尊い十字架の恵みを強く訴えています(1:18−21)。クリスチャンは十字架によって救われたことを感謝し、聖霊によって迫害に耐える力を与えられ、カパドキヤでは地下都市を造って信仰を貫き通すということにつながって行ったのです。本日の個所は、この世にあってクリスチャンが「神の僕」(16節)として如何に生きるべきかを教えているところです。主のメッセージを聴き、祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容 ❶クリスチャンは、この世と妥協せず、信仰生活をする。2:11−12
❷クリスチャンは、神の僕にふさわしく行動する。2:13−20
資料問題 2:11−4:11は神の民、神の祭司であるとは何を意味するか、また、クリスチャンは日常生活において神をどのように周りの人に知らせるべきかを教えている。2;11−3:12では地上の権威(13―17節)、主人(18―23節)、夫あるいは妻(3:1−7)、兄弟としての他の信者(3:8−12)に対して、クリスチャンとしてとるべき態度についての教えがある。11節、クリスチャンのこの世に対する関係は「旅人パロイコス」でこの世の家族の一員ではない。また「寄留者パレピデモス」であってこの世に市民権がなく、国籍は天にあり、神の家族の一員である。故にこの世の生き方である肉の欲を避けて生きるのである。「旅人、寄留者」、詩篇39:12、へブル11:13参照。これはクリスチャンの身分を示すにふさわしい呼び名である。
12節「悪人呼ばわり」、ローマ帝国において、クリスチャンは、国の宗教を無視する悪人として非難され、迫害された。「おとずれの日」、神の審判の日を指す。13―17節において、皇帝、総督が権力を乱用してクリスチャンを迫害する場合は別として、ふだんはその権力は神から来たものとして認めるべきことを述べている。18節、しもべに対する教え、ペテロの時代、奴隷は自由になる望みがほとんど無かった。そのような奴隷に対して、21―25節において「苦難の僕イエス・キリスト」の模範が取り上げられている。
22―23節はイザヤ53:9,7,4,12,5,6の順序に従って引用したものである。
❶クリスチャンは、この世と妥協せず、信仰生活をする。2:11−12
愛する者たちよ。あなた方に勧める。あなた方は、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、立派な行いをしなさい。(11―12節前半)
11−12節をご覧下さい。ペテロは「愛する者よ」と呼びかけていますが、これは何か大事なことを述べようとする時によく用いられる言い方です。ペテロは11―12節を通して二つの大事なことを述べています。
一つは、クリスチャンは旅人であり寄留者であるということです。私たちは、この地上に生まれ、今日まで生かされていますが、やがて誰もが死を迎えます。多くの人は、人間は死んで終りだと思っています。そこで出来るだけ長生きをしたいという願望を持っています。ある方々はヒンドゥー教から仏教に入った輪廻転生という考えを信じています。それは、人間は死んだ後に何かに生まれ変わるという考え方です。どうせ生まれ変わるなら、馬や牛や豚は嫌だ、例えば身分の高い金持ちに生まれ変わりたいという願望を持ちます。そのために悪い業(ごう、カルマ)を断ち切りたいと思って修行したり、お金を寄進したりします。しかし、自分の前世が何であったのかを知ることは出来ませんし、また生まれ変わって何かになれるという保証は何もありません。これは人間の空想の上に立った根拠のない考えです。
では、聖書の教えは何でしょうか。聖書は、人は死ぬ。死んで天国へ行くか地獄へ行くかのどちらかであると告げています。それは、どちらかを選べという突き放したものではなく、愛の神は全ての人が罪を悔い改めてキリストを信じ、神の子になることを強く願っておられます。神は愛の徴として、キリストを罪の身代りに十字架にかけたのです。神の不思議な選びによって、私たちは十字架を信じ神の子になりました。私たちの行く先は天国です。それで。ペテロは、クリスチャンは天国を目指して進む旅人である。またこの地上に70年か80年寄留しているが、本当の国籍は天国にある。やがて天国へ帰るのであると述べているのです。
もう一つは天国に行くにふさわしい者になるために、肉の欲を避けて、きよく生きなさいということです。避けるとは、ある事柄から自分を遠ざけることを意味しています。肉の欲とは、罪に支配されている心の状態とは、例えばガラテヤ5:19−21に「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、及びそのたぐい」とあります。そういった肉の欲から自分を遠ざけて、キリストの弟子として、きよい生き方をしなさい、という勧めです。クリスチャンはローマ皇帝を礼拝するということをしませんでした。人間が人間を拝むことは偶像礼拝になるからです。それを見て周りの人々は「クリスチャンは皇帝を拝まない」と言って、クリスチャンを悪人呼ばわりしました。間もなくお盆の季節になりますが、クリスチャンが墓に行って焼香をしないと、周りの人はとやかく言います。ペテロは、「そうした非難に負けるな。きよい生き方を通して、神の恵みを表そう」と言っています。ローマ時代は不道徳な時代で、不倫、同性愛、女性に対し男性の側からの一方的離婚などが普通でした。そうした乱れた社会の中にあって、クリスチャンがキリストの愛をもって互いに助け合って生きていました。例えば、きよい家庭生活をしている。男性優位の社会の中で、女性を大事にしている。障害のある人を受け入れる。子どもを大切にするなど弱い者を受け入れている生活を実践している。そうしたクリスチャンの姿を見て、「クリスチャンは皇帝礼拝をしないが、しかし立派な生活をしている」ということで、周りの人々の非難は止んで行きます。やがて、紀元313年ローマ帝国におけるキリスト教迫害が終り、クリスチャンは信仰の自由を獲得し、教会はローマ全体に広がって行くようになります。
ペテロは、「異邦人(キリストを信じない人)の中にあって、立派な行いをしなさい」と勧めています。小川さんという女性は若い頃に教会へ行き、キリストを信じたが、洗礼は受けていなかった。結婚することになり、信仰のことは言わず嫁いだ。結婚した家は禅宗であった。仏壇を拝むように言われ、どうしても信仰のことを隠しておけず、離婚覚悟で礼拝出席を頼んで了解を得た、1968年31歳の時に洗礼を受けた。すると夫が「自分の前で聖書を開くな。キリスト教の話をするな」と言った。二人の子どもが生まれ、夫の仕事を手伝い、礼拝に行けない日が続いた。三人目の子どもが授かったが、妊娠中毒になり、自分も死に直面し、胎児は死亡した。彼女は「神様、二人の子どもたちが成人するまで命を与えて下さい。私の人生を捧げます」と祈った。その後も礼拝に行けない日が続いたが、子ども二人に毎晩聖書の絵本を読んであげた。夫が急性膵炎(すいえん)になって入院した。その時に夫は子どもの祈りを聴いた。「神様、私はとても寂しいのです。お父さんの病気が早く治って、家に帰って来られるようにして下さい」。信仰に反対していた夫も子どもの祈りを叱ることが出来なかった。それから家で子どもが祈るようになり、小川さんはいつの間にか夫に聖書の話を聴かせるようになっていた。上の子が小学2年で教会ボーイスカートに入り、親の手伝いが必要になり、夫は教会に出入りし、子どものキャンプに行くようになり、1985年に洗礼を受けた。二人の子どもも洗礼を受けた。小川さんは今は文書伝道に励んでいる。(御翼132号より)。
私たちは、この世にあって旅人であり寄留者ですが、キリストを信じる生き方を貫いて行けば、そこに大いなる祝福が与えられることを信じます。キリストに縋って、キリストを表す生活をして行くように、主に祈って行きましょう。
❷クリスチャンは、神の僕(しもべ)にふさわしく行動する。2:13−20
自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を畏れ、王を尊びなさい。(16―17節)
13節以下に、クリスチャンがこの世にあってどう生きるかが説かれています。この手紙を読んでいる人達は信仰の迫害を受けています。ペテロは「断固として戦え」という勧めをしないで、むしろ逆に、「この世の法律を遵守するように」と勧めています。
16―17節には「キリストを信じて、あなた方は自由な者となっている。その自由を用いて、神の僕として、クリスチャンらしく生活しなさい」という勧めがなされています。
ペテロは、この世の制度を認めています。何故なら、世界を治めているのは神さまであり、神の許しの下に、人間が暮らして行くために国家、社会という制度があるということを知っているからです。国家、社会では、お互いが暮らして行くためにルール(決まりごと)を作って、それを守ることによって秩序が保たれ、各自の暮らしが成り立って行くようになっています。実際には、王という制度、或いは民主主義などの社会の形があります。様々な国の形があり、その中でお互いに社会秩序を守るために法律を作り、それを執行する人がいます。
18節に僕とあるのは奴隷のことですが、ここでは奴隷制度を論じるのではなく、そうした制度の中で、クリスチャンとして如何に生きるかということを教えています。ペテロと並ぶ初代教会を導いた使徒パウロも同じように考えていました。例えば「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられているからである」(ローマ13:1)と述べています。
ペテロとパウロの考えを導いたのは聖霊です、何故なら、聖霊はいつも神の深い思いを極める働きをしているからです(TコリU:10参照)。ペテロもパウロも、間もなくキリストの再臨があるという切迫感を持っていました。ペテロはキリストの再臨の近いことを意識し、「万物の終りが近づいている(Tペテロ4:7)。主の人は盗人のようにやって来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものも、焼き尽くされるであろう(Uペテロ3:10)。」と述べています。パウロは、自分が伝道のために世界を廻りきらないうちに再臨が来ると考え、一生懸命に伝道していました(ローマ13:11−14、Tコリ6:29−31、ピリピ4:5参照)。ペテロもパウロも、キリストの再臨が近いうちにあって、この世の制度は全てが過ぎ去り、変わって行くことを信じていました。そこで、目下の急務は伝道することであり、伝道をするために、この世の制度の中で生きるようにと教えているのです。しかし、もしこの世の権力がキリストに敵対し、クリスチャンに信仰を捨てるように強制するならば、クリスチャンは反対します。日本における例では神社参拝の拒否があります。戦争中に多くのクリスチャンが神社参拝を強要されましたが、神以外のものを礼拝することは出来ないということで、神社参拝を断り、迫害を受けています。(キリストに敵対する指導者、国家は神の力により滅び去っています。近代の例ではナチス、共産主義国家ソ連邦)。ペテロは、そうした信教の自由を圧迫する緊急時以外であれば、この世の法律に従って生きるようにと言っているのです。16―17節には、どのようにして生きるのかが示されています。17節から四つのことを見てみます。
➀「全ての人を敬え」・・・ペテロの時代、ローマ帝国には6千万人の奴隷がいて、奴隷は物として扱われていたのです。そうした社会状況の中にあって、奴隷も含めて全ての人を敬えという教えは、神の愛を伝える革命的な教えでした。
➁「兄弟を愛せよ」・・・教会の特徴はキリストの家族であり、キリストの愛が全体に溢れているということです。私の信仰の先輩が「あたたかい教会をつくってちょうだい」と言いました。あたたかい教会を形成するには、礼拝の中で挨拶がありますが、それ以外に礼拝後にも声をかけることです。私は教会の玄関で挨拶をしますが、万遍なく全ての人に声をかけることは不可能です。皆さんが相手の名前を呼んで、愛を表して下さるようにお願いします。
➂「神を畏れよ」・・・神を尊敬することです。私たちの罪の身代りに、神は独り子であるキリストを十字架にかけて殺したのです。この神さまを見上げ、礼拝を捧げることが神を畏れ敬うことになります。
C「王を尊べ」・・・クリスチャンを迫害しているネロ皇帝のために祈れという驚くべき命令です。クリスチャンは迫害をもたらす歴代のローマ皇帝のために祈り、長い間の祈りが聴かれ、313年信教の自由が与えられ、やがてキリスト教はローマの国教になります。
16節に「神の僕にふさわしく行動しなさい」と言われています(新改訳・・「自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」とあり直訳すぎる)。私たちは神の僕として生きるように努めていますが、キリストは、この世に生きている限り艱難があると言われました。確かに人生に艱難は尽きない。だが何事が起ころうとも、キリストによって救われた心の自由をもって、全ての人を敬い、教会において家族の交わりを続け、神を愛し、畏れ敬う心をもって礼拝し、上に立つ者のために祈るという神の僕にふさわしく行動し、生きて行くのがクリスチャンです。神は、私たちがキリストの僕として生きるように助け、導いて下さいます。そのために神を第一として、自分の信仰は妥協しないで守って行くという決断が大切です。
「神の僕にふさわしく行動せよ」・・・島村牧師が前橋で伝道している時に、二階堂初枝という14歳の少女が導かれ、信仰をもった。ところが急性肺炎になり、高熱が一週間も続いた。母親は天理教の信者で、祈祷師に頼んで「病気が治る」というお札を娘の頭の上の天井に貼ろうとした。娘は言った、「お母さんの気がすむなら、そうしてもよいです。しかし私のためにお札を貼るのでしたら、私にはお札はいりません。イエス様が一緒にいて下さるのですから、私は天国に参ります。どうかお母さんもイエス様を信じて下さい。どうか仲良くして下さい」と言って、しばらくして、本当にきよく静かに天に召されて行った。母は悲しみの中に、娘の平安な姿を見て感動し、やがてキリストを信じ、翌年には洗礼を受け、忠実な教会員になった。父親もやがて洗礼を受けた。二階堂初枝さんは14歳でしたが、「神の僕にふさわしく」生きたことによって、両親が救われたのです。神の僕としてふさわしく行動できるように、キリストの助けを求め、聖霊によって祈りを与えられて、今週の日々を歩んで行くように祈りましょう。
まとめ
❶11―12節前半。私たちは旅人であり寄留者であることを自覚しながら、肉の欲を避けて、本当の故郷である天国を目指して進んで行くように祈りを新たにして行きましょう。
❷16―17節。神の僕にふさわしく行動し、生活して行くように祈りましょう。➀全ての人を敬うように、➁兄弟姉妹の愛を深めるように、そのために声を掛け合って下さい。➂神を畏れ敬い、礼拝を重んじ、C上に立つ者が正しい政治をすることが出来るように祈りましょう。
祈り 父なる神さま。キリストの十字架の恵みによって神の子にされたことを感謝します。この世の旅路を終えて天の故郷に行くことを信じて、信仰の道を真っ直ぐに進ませて下さい。神の僕にふさわしい行動出来るように、聖霊よ、私たちを導いて下さい。病の方を癒し、戦いの中にある方に勝利を与えて下さい。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献ペテロ注解−黒崎、フランシスコ会、バークレー、LAB、口語略解。「日毎の糧としての逸話365・高野勝夫編著」