クリスチャンの牧者、監督(保護者)であるキリスト 第一ペテロ22125 主の2004.8.1礼拝

 

始めに祈りのお願いをします。来週8日(日)夜から10日(水)まで軽井沢バイブルキャンプが開かれます。「主を讃美しよう」というテーマの下に、ボディーワーシップ、ゴスペル(ゴスペルグループ「コイノ二ヤ」6名参加)を通して思いっきり主を讃美する時間を設けてあります。マジックショー、花火大会もあります。今回は中国伝道の証があります。中国伝道の証を通して、伝道へのチャレンジを与えられ、祈りたいと願っています。日本では1935年福井二郎牧師が中国東北部熱河省承徳で同志を集めて中国伝道を始めていました。沢崎堅造は京都大学人文学部研究所の助手でしたが、中国伝道への召しを受け、19425(昭和17年、太平洋戦争開戦の翌年)承徳へ渡り中国伝道に参加します。彼は「私たちは大陸の教会の中に祈りつつ消えて行くものであります。私たちはただ主の御跡に従うのみです。主は今日もまた先立ち行きたもう。主よ、あなたは今日もまた、いよいよ淋しき所へと十字架を負って行きたもうか」と、北方に歩んで行かれる主のうしろ姿を明らかに見て、中国の奥地へと向かいます。戦争末期、妻子を先に日本へ帰らせますが、彼自身は1945年ソ連軍に捕らえられ、銃殺され、殉教したと言われています。

本日はペテロ第一22125です。ここには、キリストが私たちのために苦しみを受けたこと。私たちも苦しみを耐え忍び、キリストの御足の跡を踏み従うようにという勧めがあります。さらにキリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んだこと。キリストは私たちの魂の牧者であり、監督であるという恵みが説き明かされています。沢崎堅造は十字架の主に従って、中国伝道に命を捧げました。太平洋戦争前から戦争中にかけて中国伝道がなされていたという歴史を思いながら、今回のキャンプで中国伝道の現状を知り、祈って行きたいと願っています。

 今朝も共にメッセージに耳を傾け、私たちの牧者、監督であるキリストの素晴らしさを知り、一人ひとりがキリストに従う決断の祈りを捧げ、新しい一週間を出発して参りましょう。

内 容 ❶キリストは、私たちの罪の身代わりになって下さった救主である。22124

❷キリストは、私たちの牧者であり監督(保護者)である救主である。225

資料問題 21節は、この直前にある僕(奴隷)に対し、キリストの苦難の例を示している。即ちキリストは苦難を受ける理

由がないのに、罪人のために十字架にかかって下さった。だからキリストを手本として、その足跡に倣うことを薦めている

のである。しかし、これは単に僕(奴隷)だけではなく、一般の信徒にも適用することができる。今回のメッセージでは、

一般信徒への適用としている。22節はイザヤ539よりの引用。模範とは子どもの書画の手本。23節、イザヤ537参照。

24節、「かかる」には負うと運ぶという二つの意味があり、祭壇にささげる場合この言葉を使う(創820、レビ36

以下)。「傷」は打撲傷を意味する。25節、牧者とは「主はわたしの牧者である」(詩231)という魂の牧者の意。キリス

トは自分を「よき牧者」と言い、「よき牧者は羊のために自分の命を捨てる」(ヨハネ1018)と言われた通りに、キリ

ストは十字架に自分の命を捧げたのである。私たちは「われらはその民、その牧の羊である」(詩1003)ことを感謝しよ

う。監督は信徒の霊的状態を見守り、注意し、その成長を助ける者。守護者、保護者、導き手、指導者と訳したほうがよい。

 

❶キリストは、私たちの罪の身代りになって下さった救主である。22124

さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなた方は、癒されたのである(24節)

21節以下、キリストがどんなお方であるのか、三つの点から教えていただきましょう。

第一に、21節、キリストは苦しみを体験されたお方です。日本では仏教の影響により、この世を苦の娑婆と言います。例えば人間には生きる苦労がある、老いがある、病気がある、そして死ぬという苦しみがあると言います。確かに、この世に生きる人間に苦しみがあることは事実です。キリストは「あなた方は、この世では悩みがある」(ヨハネ1633と言われました。そう言われたキリストは、人間の苦しみを全てご自分の身に体験されたお方です。私たちにはどんな苦しみがあるでしょうか・・・➀貧しさという苦しみがあります。キリストは馬小屋に生まれ、多くの弟妹を抱えて30歳まで生活の苦労を味わい、伝道生涯に入ってからは流浪の日々を送り、裸で十字架にかかって行きました。A病気の苦しみがあります。キリストは癩病人に手を差し伸べて癒し(マタイ83、熱病の女性に手を置いて祈り(マタイ815、長血に悩む女性を瞬時に癒しています(マタイ922。それはイザヤ534「キリストは、私たちの病気をその身に受けた」ということの成就でした。キリストは人の病気をご自分の身に引き受け、病気の苦しさを体験して下さったのです。B愛する者に裏切られるという苦しみがあります。この手紙の記者ペテロはキリストを「私とは無関係です」と言って3回裏切っています(マタイ2669以下。後に悔い改めて一生涯キリストに仕えて行きました)。十字架の時に弟子達は逃げ去り、わずかにヨハネと女性の弟子がキリストの最後を看取っただけです。C死の苦しみがあります。キリストは人の罪を背負って十字架にかかり死を体験されています。死んだけではなく、神から切り離されて陰府に降るという体験までされています(しかしキリストは死を滅ぼして復活された勝利の主です)

キリストは徹底して人の苦しみを体験されたお方です。ですから私たちの苦しみを理解し、苦しみに勝つ力を下さるのです。あなたの苦しみ、病気、人間関係の敗れ、死への不安などをキリストに訴え、祈って下さい。必ず答があり、祝福と癒しの恵みが与えられます。

第二に、2223、キリストは何があろうとも神に信頼していました。キリストは、「大飯ぐらい、大酒のみ、悪者どもの仲間」(マタイ1119という噂をばらまかれています。また人を救う奇蹟をすると「悪霊の力でやっているのだ」(マタイ122232参照)と非難されました。十字架の前の裁判では、多くの人がキリストについて偽証をし(マタイ265960、十字架にかかった時には、人々から「お前はそれでも救主か」という嘲りを受けています(マタイ273943。そうした時にキリストは弁解をし、或いはやり返すということをしていません。(悪霊に憑かれた盲人を癒した時、パリサイ人が「それは悪霊の力でやっている」と言った時だけは「素晴らしい御業を見ていながら、それを否定する者は聖霊に逆らう者であり、赦されることはない」と告げています)キリストはうそ偽りを言わず、こっちにも言い分があると言う弁解をせず、全てを神に任せています。私は2223のキリストに倣うことを常に祈っています。どんなにひどいことを言われても弁解しないで神に委ねる。また大勢の人に触れ回る人がいますが、それについても、沈黙を守り、祈ることにしています。私の長年の体験によれば、いろいろ言った人は、何と結局は自滅しています。神は生きています。キリストの御名によって祈り、全てを神に委ねるならば、神が決着をつけて下さいます。神が解決して下さるのですから、いろいろ気をもむこともないし、心は平安です。2223は人間関係に勝利を与える大切な御言葉ですので心に刻んで下さい。

第三に、24節、キリストは、私たちの罪の身代りになって、十字架の上で死んで下さった救主です。キリストの傷(新改訳―打ち傷)とは打撲傷のことです。キリストは、十字架にかかる前に鉄の塊のついたムチで打たれて血だるまになり、十字架にかかる時には右手、左手、両足を重ね合わせ、合計三本の釘を打ち込まれています。釘が打ち込まれた時の黒人霊歌が聖歌4002節にあります。「君も聞いていたのか、釘を打ち込む音を(Were you there when they nailed Him to the tree? ) ああ、何だか心が震える、震える、震える。君も聞いていたのか」という心に迫る歌詞です。釘を打ち込まれたのですから、傷や打ち傷と言うよりは、まさしく骨が砕ける打撲の傷であり、想像を絶する苦しみであったと思います。キリストが苦しみを忍ばれたのは、ただただ私たちに対する愛の故であり、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ2334と祈りつつ、そのきよい命を罪の身代わりとして十字架に献げて下さったのです。内村鑑三18611930は、「自分のキリスト教は十字架教(Crucifixianity内村造語)である」と述べて、キリストの十字架による身代りの死に深い感謝を表しています1921年「聖書之研究」1月号所載)

 

❷キリストは、私たちの牧者であり監督(保護者)である救主である。225

あなた方は、羊のようにさ迷っていたが、今は、魂の牧者であり監督である方のもとに、立ち帰ったのである。(25節)

25節のはじめに、「あなた方は、羊のようにさ迷っていた」とあります。これは私たちのキリストを信じる前の状態を表している言葉です。羊は弱い動物で、狼に襲われたら自分で身を守ることが出来ない。ひとりで草を見つけ、水を探すことが出来ない。そこで羊は集められて群れとなり、羊飼いが群れを導きます。羊飼いは群れを緑の牧場に導き、憩いの水際に伴い、夜は羊を小屋の中に入れて、狼や、羊泥棒から守ります。群れの中にいれば安全なのですが、そこから離れて迷子になる羊も多かったようです。キリストの例え話の中に、群れから迷い出た迷子の羊の話があるのは、そうした事情を反映しています(ルカ1517参照)。私たちも羊に似たようなところがあります。人間はどんなに頑張っても一人で生きて行くことは出来ません。誰かと一緒になり、或いは支え合う仲間が必要です。

話が逸れますが、先週のメッセージの中で、礼拝後に声を掛け合いましょう。淋しい思いを抱いて帰る人がないように、こちらから声を掛けて行きましょうということをお願いしましたが、早速そのことが実行され、礼拝後の雰囲気が明るく豊かであったことを感じました。これを継続して行かれるように重ねてお願いしておきます。

話を戻して、私たちには三つの問いがあります。➀自分がどこから来て、A何のために生き、Bどこへ向かって行くのかということです。三つの問についての答を知らなければ、生きていることの意味が分からないままです。群れを離れて迷子になった弱い羊のように、死を待つだけの不安の人生です。この三つの問に対し、聖書は何と答えているのでしょうか。

➀私たちはどこから来たのか・・・「我々は神のうちに生き、動き、存在している」(使徒17:28前半)とあり、私たちは神によって命を与えられ、この世に産み出されて来ました。神が私たちの命の与え主です。

A私たちは何のために生きているのか・・・「飲むにも、食べるにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Tコリ1031とあるように、キリストを信じて神の子になり、神に従って生きるのが人生の最大の目的です。

B私たちはどこへ行くのか・・・キリストが「わたしの父の家には住いがたくさんある・・・わたしはあなた方のために場所を用意しに行く。場所の用意が出来たなら、また来て、あなた方をわたしの所に迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ1413と言われた通りに、私たちは天国に行きます。人間は死んで終りではなく、生きて来た人生の全ての涙を拭われ、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない天国に導かれ、永遠にキリストと共に生きるのです(黙示録2134

しかし、多くの人がこのことを知らずに人生をさ迷っています。それは、私たち人間の心の中に神に背く罪があるからです。キリストは「わたしはよい羊飼いである」と言われ、罪のために人生の迷子になっている私たちを救いに来られたのです。「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ、その言葉の通りに、キリストは私たちの罪の身代りとなって、十字架の上に死んで、救いの道を開いて下さったのです(ヨハネ10718参照)。ですから、キリストは私たちの人生を導く「魂の牧者ポイメーン」なのです。

さらにキリストは私たちの「魂の監督エピスコポス」と言われています。監督と訳されていますが、これは保護者、導き手のほうが適訳です。キリストは私たちの霊の成長を見守る保護者であり、私たちの信仰を導く導き手です。キリストは私たちに対し、「わたしはブドウの木、あなた方はその枝である。もし人がわたしに繋がっており、またわたしがその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ155と告げています。私たちがキリストに繋がり、教会に繋がっているならば、私たちは常に保護され、安全です。さらに、キリストに繋がり、教会に繋がっている者の祈りは聴かれると約束されています(ヨハネ157

キリストは、十字架の上で私たちの罪の身代りになって下さり、さ迷っていた私たちの魂の牧者となり監督(保護者)となって下さった救主です。キリトの救いを受けて、魂の牧者であり監督(保護者)のもとに立ち帰った方の証をして閉じることにします。

「私の父、山田平吉は人生の最後にイエス様の救いに与りました。母が50年以上前に救われてから、長い年月でしたが、神様のあわれみによって、父が天国に行くことができた恵みを心から感謝します。20025月に母の入院がきっかけで、父も体調を崩し、入退院を繰り返すことになり、次第に衰弱して行きました。「生きるのもたいへんだなあー」と何度かつぶやいたこともありました。いよいよの時であることを本人も自覚したのでしょう。神学生の時から父のために祈って下さっている熊谷福音キリスト教会の渡辺先生と奥様の来訪をとても喜び、イエス様の十字架と復活、天国のお話を一生懸命に聴きました。信仰告白の時、小さい声ではありましたが、振り絞るような声で渡辺先生のあとについて祈りました。祈り終えた父の目に涙が光っていました。『おじいちゃん、よかったね。これで安心して天国に行けるね』と私も感激で胸がいっぱいでした。『よくなったら教会に行きますから』と父は嬉しそうに渡辺先生夫妻に伝えていました。その後、三回目の入院で昏睡状態の日々となりましたが、私の心は喜びで満たされ、毎日見舞う父の耳元で讃美をしました。そんなある日、夫が『<罪咎(つみとが)を赦され(聖歌232を歌ってあげたら』と言うので、罪咎(つみとが)を赦され、神の子となりたる、わが魂の喜び、比べうるものなしと讃美するとどうでしょう。父は口を大きく開いて、まるで讃美しているかのように首を左右に振り始めたのです。私が歌い終わると、父の首振りも止まり、また昏睡状態に戻るのです。この目を見張るような光景に、父が救いに与っていることを間違いなく確信できました。このことを夫に話すと「本当か・確かめてみたい」とのこと。さっそく病院に行き、讃美しますと、夫も父の反応に、まさしくこれは聖霊のお取り扱いだと主を崇めました。このような不思議な体験が一週間続いたでしょうか。2002123日の朝、父は静かに息を引き取りました。享年86歳でした。母も私もとても平安でした。父のキリスト教の葬儀は、弔問して下さった大勢の方々には思いがけないことのようでしたが、父がクリスチャンになったことを公に証し、イエス様の福音を伝える良い機会になったことは本当に幸いでした」(宮崎実穂(山田平吉さんの娘):志村キリスト教会50周年記念誌より)。 山田さんは、さ迷っていた人生から、魂の牧者であり監督(保護者)であるキリストの救いを受け、昏睡状態の中にあっても霊は目覚めていて、キリスとの救いを讃美し、天国へ帰って行ったのです。私たちも、魂の牧者であり保護者であるキリスとの救いに与っていることを感謝しましょう。

まとめ

24節、キリストは、私たちの罪の身代りになって下さった救主です。一言も弁解せずに、黙々として私たちの罪を背負って十字架にかかって下さったキリスとの救いを感謝しましょう。

25節、キリストは、人生をさ迷っていた私たちを導く牧者であり監督(保護者)です。キリストの救いを讃美しましょう。

聖歌総合版198番「イエスは神であるのに」を歌い、祈りを捧げます。

祈 り 天地の主である神様、救主イエス・キリストの十字架により救われていることを感謝します。ご自分のことを主張せず、黙々として十字架に上り、私たちの身代りになって下さったイエス様の愛に感謝します。私たちは魂の牧者であり、保護者であるイエス様によって毎日を導かれていることを感謝します。今週も聖霊によって祈りを与えられ、イエス・キリストに従い、神の子としての道を歩むように導いて下さい。八月にもキリストを信じる者が起こされるように伝道の力を与えて下さい。来週の軽井沢キャンプを祝福して下さい。私たちの魂の牧者、保護者であるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ペテロ注解黒崎、バークレー、フランシスコ会、LBA, 口語略解。「牧師さんになったお坊さんの話・松岡広和・ことば社」「内村鑑三の根本問題・山本泰次郎・教文館」「荒野をゆく・熱河会編・未来社」「沢崎堅造の信仰と生涯・未来社」