クリスチャンの生き方―妻として、夫として、皆と共に― 第一ペテロ3:1―12
主の2004.8.8礼拝
先週の新聞にアメリカにおける同性婚の実情が報じられていました。「アメリカの2000年人口統計では、結婚せずに共同生活を送る五百五十万組の十組に一組は同性カップルとしている。男性カップルが三十万世帯、女性カップルが二十九万世帯で、実態はなお多そうだ。パートナー登録による同性同士の事実婚は1989年にデンマークが認めて以来、ノルウエー、スウェーデン、フランス、ドイツ、スイスなどヨーロッパ約二十か国が容認している」(読売新聞8月5日)。日本では、法律で結婚は「男女間」の制度と定められています。聖書は結婚について、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2:24)と教えています。即ち結婚は男性と女性によるものであることが明白に述べられています。主イエス・キリストも創世記の御言葉を引用して、男性と女性による結婚の尊さについて教えておられます(マタイ19:5、マルコ10:7)。
本日はペテロ第一3:1−12です。この個所には、❶妻に対する教え(1−6節)、❷夫に対する教え(7節)、❸そして全てのクリスチャンに対する教え(8−12節)が述べられています。妻(女性)、夫(男性)とあるように、結婚は男女間のことであることが教えられています。世の中の同性結婚などに惑わされることなく、聖書に従い、家庭における妻、夫について、またクリスチャン全般に対する教えを聴いて、共に祈りましょう。聖霊によって祈りに満ちる恵みの一週間であるように祈りましょう。また本日8日(日)夕―10日(火)まで開催される軽井沢バイブルキャンプのためにお祈り下さい。
内 容 ❶妻に対する教え。3:1−6
❷夫に対する教え。3:7
❸クリスチャン全体に対する教え。3:8−12
資料問題 1節「仕えなさいフポタッソー」(英語subordinate)は下位の者が上位の者の下に立って秩序を守る
という意味があるので「服従」の訳がよい(新改訳―服従、新共同訳―従う)。1−2節、夫が未信者であって、
妻が信仰をもった場合について述べている。ペテロは夫のもとを去れとは言っていない。パウロも同じであ
る(Tコリ7:13−16)。ペテロは、夫が妻を追い出さない限り、未信者の夫のもとに留まっていなさいと勧め、
良き妻であることによって夫が救われると教えている。6節、70人訳の創世記18:12でサラが自分の夫ア
ブラハムを指して用いたヘブライ語が「主」と訳されている。10−12節、70人訳詩篇34:13−17(口語34:
12−16)。8−12節は愛と義と清さと平和に満ちているクリスチャンの生活の縮図である。クリスチャンは主
を仰ぎ見る。その目は主の御顔に注がれ、その耳は主の御言葉を聴き、主に守られていることを感謝する。
❶妻に対する教え。3:1−6
同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい(服従しなさい)。そうすれば、たとい御言葉に従わない夫であっても、妻のうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救いに入れられるようになるであろう」(1−2節)
1−6節に妻に対する教え、7節に夫に対する教えがあります。比べてみると、妻に対する教えのほうが3倍以上も多く記されています。ペテロの手紙が記された当時の婦人の地位は非常に低く、例えば夫に一方的に離婚されても文句を言えないような男性優位の社界でした。男性中心の社会で、キリストを信じて信仰を貫き通すためには大きな戦いがあります。それで妻に対する教えが丁寧に記されているのです。今日の日本では、家で最初に妻がクリスチャンとなるケースが多くあります。間もなくお盆ですが、多くの人が墓に行き線香を上げます。クリスチャンの妻は墓参りに参加しますが、焼香には死者を拝むという意味があるので、焼香をしなくなり。そのことで信仰の戦いがあります。そうした日常のことを考えると、未信者の夫と暮らしつつ信仰を守るという戦いは、ペテロの時代も、現代も状況はよく似ています。
ペテロは、未信者の夫と暮らす妻に対して、1―2節で、「夫に仕えなさい(服従しなさい)」と教えています。これは、信仰の面では妥協できないが、それ以外では夫を立てる、ということです。「うやうやしく清い無言の行い」というのは、夫にガミガミ言わない、或いは信仰を強制しない、また「何で信仰を持たないのか」と心の中でつぶやいたり、審いたりせずに、夫のために祈りをもって仕えなさい(従いなさい)ということです。
3―6節では、外側を飾ることよりも、内面を飾るということを強調しています。4節で言わんとしていることは、「あなたの霊が恵まれ、優しさや、しっとりした思いやりの心が言葉と行いの中に滲み出るようになりなさい」という勧めです。6節には「サラがアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ」ように、あなた方も夫を大切にしなさい、と言われています。ペテロはこの個所で、内面を飾ることの重要性を訴えています。内面(内側)を重視すると言いますと、では内面がよければ、外面(外側)はどうでもよいのかという質問が必ずあります。私個人は外側がどうでもよいというのには賛成しかねます。身だしなみを整えるということは人によい印象を与えます。それはそれとして、ここで大事なことは、外側にばかり気を取られ過ぎて、そのために多くのお金を費やし、身を飾るために多くの時間を取られ過ぎないようにと言う事です。聖書を読む時間よりもファッシヨン雑誌を読む時間のほうが長い、またお祈りする時間よりも鏡の前にいる時間のほうが長いというようなことにならないようにという呼びかけです。
ここで、ぜひ皆さんに祈ってもらいたいことは、家族の救いのために、また配偶者の救いのために祈るということです。聖書には「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)という祝福の約束があります。妻(女性)が先に救われて、後から夫(男性)が救われて礼拝に見えている方は、名前を出して申し訳ありませんが、荻野さん、中島さん、大谷さん、山中さん、大武さん、永山さんなどがいます。配偶者のために祈っている方々は、今度は自分の所に救いの恵みが与えられることを信じて祈りましょう。(もちろん男性が先に救われて、女性が救われたという例もあります)
しかしながら、様々な事情で結婚を解消している(離婚)方々もいます。それは非常に大きな心の痛みであることを思います。また諸種の事情によって結婚に至っていな方々もいます。そうした立場にいる方々のために、私は三つのことを祈っています。第一の祈りは、私たちはキリストを信じる神の家族であることを思い、人生において大きな痛みを体験した方が、また一人でいる方が、キリストによって支えられて行くようにという祈りです。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(へブル13:5後半)という恵みの主イエス・キリストが、一人一人を支え下さることを信じています。第二の祈りは、キリストによって新しい祝福の道が開かれることです。「わたしの生きている限りは、必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう」(詩23:6)というのが私たちの信仰です。主が豊かな祝福をもって、新しい祝福の門を開いて下さるのを楽しみにしながら、信仰の道を歩み続けるように祈り続けています。第三の祈りは、キリストの愛によって自分が慰め、癒されていることを感謝し、キリストの慰めを他の人に分かち与える器になるようにということです。「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」(Uコリ1:4)という恵みを実践するようにということを祈っています。
❷夫に対する教え。3:7
夫たる者よ。あなた方も同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共々に受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなた方の祈りが妨げられないためである。(7節)
この御言葉を読んで、「これは違います。うちの母ちゃんは強いのです」と言われた方がいます。「昔は妻が夫に合わせ、今は妻に夫が合わせる」ということを読んだことがありますが、強い弱いということはまたの機会に論じることにして、7節より、聖書の告げる夫のあるべき姿について教えを受けて行きます。
第一は、夫は妻に対して、自分よりも弱い器であることを認めて(わきまえて)、思いやりの心を持つべきです。サマーセット・モーム(イギリスの作家)の母親は大変美しい女性でしたが、父親は風采のあがらない人でした。ある人が母親に「どうしてこんな醜い小男と結婚し、今までずっと忠実に仕えているのですか」と聞いた。彼女は「それは、彼が一度も私の心を傷つけたことがないからです」と答えたということです(バークレー、ペテロ注解p295)。男性の方々に心してもらいたいことは、女性を褒め、女性に感謝するることを実践してもらいたいということです。私は、日本で牧会している者として、女性(奥さんは別ですが)も男性も呼び捨てにしないで名前を呼ぶことが大切であることを意識しています(外国では、国によって相手の性別、年齢に関係なく名前を呼ぶことが親しさを表すという文化があります。それは適宜に合わせて行く必要があります)。また女性に対し、決して口にしてはならないことは痩せた、太った、色が黒い、白いのような容姿に関することです。
第二は、妻と共に住み、夫も妻も霊が恵まれるように求めて行くべきです。夫婦として、何でも一緒に行動することが大事ですが、特に霊的な恵みを共に求めて行くことが最も大切です。礼拝に、祈り会に、ファミリーに共に出席することが大事です。ペテロは「女性を尊び(尊敬)なさい」と言っています。イスラム教は男性中心です。ユダヤ教もそうです。キリストを信じる私たちは「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなた方は皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ3:28)という御言葉のとおりに生きています。男でも女でも、キリストを信じて神の子になり、教会の一員になり、キリストの体の一部として奉仕に加わっています。男尊女卑の激しかった時代に、「妻(女性)を尊敬せよ」という教えは多くの男性にショックを与えたと思います。しかし、これこそ神を信じて生きる男性のあるべき姿です。
第三に、妻との間に問題を生じれば、霊的にマイナスになります。妻のため息は、夫の祈りを妨げます。祈らなければ神の御心が分からず、心が不安になり、気持ちがイライラしてきます。1節に妻は夫に服従するようにという勧めがありましたが、それは一方的なものではなく、夫が妻を敬うということが前提になっています。ですから夫も妻も、男も女も、主の前には同じ立場であり、同じ主を見上げて信仰生活をする者であるということを、よくわきまえておくことが大切なのです。
❸クリスチャン全体に対する教え。3:8−12
あなた方が召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。(9節後半)