感謝をささげよう。テサロニケ第一5:16−18 主の2004.8.29.礼拝
家内の両親が元気であった頃、敦子と愛雄が小学生であった時、夏の終りに一泊旅行をしたことがあります。その旅館では、朝ご飯は大広間にそれぞれのグループで食べるようになっていました。私たちが席につくと、すぐ隣では5―6人の男性グループが朝ご飯を食べ始めていました。朝ご飯が運ばれ、敦子が感謝の祈りを捧げるために、「天の神様」と祈り始めた時に、隣のグループの方々が箸をとめて祈りを聴いていたようです。私たちが食べ始めると、隣も食事を続けましたが、「あー、ああやって感謝して食べるんだ。なるほど・・。」と話しているのが耳に入りました。感謝の祈りが、そのグループの方々の耳に入ったのですが、感謝は人の心に響く大切なことであるということをその時に思いました。
本日はテサロニケ第一5:16−18ですが、特に18節の感謝ということに焦点を合わせて行くことにします。今朝、皆さんの心は感謝であふれているでしょうか・・・。聖書朗読;詩篇103篇のはじめに、ダビデは、主が罪を赦して下さったこと、病を癒して下さったこと、命を救って下さったこと、生きるために必要なものを常に与えてもらっていること、主に繫がっているならば、霊も心も体も日々に恵まれ、鷲が太陽に向かって一直線に上って行くように神に近づく恵みを与えられていることを讃美しています。聖歌642(旧604)では「数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つづつー数えてみよ主の恵み」と共に歌いました。暑い八月を閉じて、間もなく九月ですが、夏の間に与えられた恵みを数え、感謝しましょう。今朝、メッセージを通して神への感謝を深め、祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容 1、神の独り子イエス・キリストによる救いに感謝しよう。
2、神に感謝し、心に恵みを受けよう。
3、神にすべてを感謝し、生きている主にすがって行こう。
資料問題 テサロニケの手紙はパウロの最初の書簡であり、テーマは主の再臨である。パウロは、この個所では個人生活の中における聖霊の働きとして、喜び、祈り、感謝をあげている。「いつも喜んでいなさい」とは「喜びを忘れずにいなさい」ということである。「絶えず祈りなさい」とは「祈りをやめてはならない」ということである。「感謝しなさい」とは万事の事柄について(善いことも悪いこともすべてを含めて)感謝する事である。なお、19―22節には教会における聖霊の働きについて述べられている。聖霊の働きについては1コリント12章4−11節に詳述されている。16―-18節は、まず一人ひとりが喜び、祈り、感謝に溢れるようにとの勧めである。この三拍子そろった人々が集っているところが教会であるので、そこには喜び、祈り、感謝が満ち溢れるようになるだろう。
1、神の独り子イエス・キリストによる救いに感謝しよう。
本日の中心聖句はテサロニケ第一5:18です、。もう一度読みます。
テサロニケ教会に手紙を書いたのは使徒パウロです。彼はシラスと共にピリピで伝道していた時に、伝道したという理由で逮捕され、ムチで叩かれ、足かせをつけられて、暗い地下牢の中に投げ込まれたことがありました。パウロとシラスはムチで叩かれ、体中から血を流したまま牢の中にいたのですが、真夜中ごろ真っ暗な牢の中で二人は祈り、讃美を歌い続けていました。すると大地震が起り、獄の戸が開いてしまいますが、パウロとシラスをはじめ囚人は誰も逃げなかったのです。この不思議な出来事を通して牢屋番とその家族一同が神の言葉を聴いて、その夜のうちに洗礼を受けて全員がクリスチャンになります(使徒16章)。それは二人のクリスチャン、パウロとシラスが不当逮捕され、ムチで叩かれるという中で、呟かず、不平を言わず、ただ神に信頼し、祈りとさんびをもって神に感謝を捧げた結果です。そのパウロが「すべての事について、感謝しなさい。」と言っているのですから、私たちはこの御言葉にしっかりと聴き従って行かねばなりません。
なぜ良いことばかりではなく、悪いことが起きても、すべての事について祈って、感謝を捧げることができるのでしょうか。それはキリストによって救われているからです。パウロは、かつては神に敵対し、キリストを信じるクリスチャンを迫害していた者です。そのパウロがキリストの一方的な憐みによって、生まれ変わってクリスチャンになるという恵みをいただきました(使徒9:1−31)。彼は自分のような者がなぜ救われたのか、自分を救うために神はどんなことをして下さったのかを知るために、アラビヤの砂漠に退いて祈り、考えたと言っています(ガラテヤ1:17参照)。彼が得た結論は、<神は愛である。人間は神の愛に背いて罪を犯している。罪をもった人間は死んで地獄に行かねばならない。そこで神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架にかけ、人間の罪の身代りにした。誰でも自分の罪を認めて悔い改め、キリストの十字架を信じ、罪を赦して下さいと祈れば、生まれ変わることが出来る>という福音の真髄です。(これについてはローマ人への手紙を見よ)
キリストは、私たちを罪から救い出して下さる救主です。罪とは、神に対する借金のようなものです。神は借金を全額払えといいます。それは100%良いことをせよということです。だが人間には100%良いことをする力がない。例えば十戒という戒めがありますが、九つを守っても、残りの一つを破れば、全部守らないのと同じであると聖書は告げています。すなわち神は100%を要求しておられるのです。人間は神の要求に応えられない。そこで、罪という借金を、死をもって支払わなければならない。死ぬということは死んで地獄に行くことです。そんな私たちのために、キリストが「私が罪の借金を支払ってあげましょう。」と言われて十字架の上に命を投げ出して死んで下ったのです。「キリストの十字架を信じます。」と祈れば、私たちの罪の借用証書は何の効力も無くなってしまいます。そのことを聖書は、「神は、私たちを責めて不利に落としいれる証書を、その規定もろとも塗り消し、これを取り除いて十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)と述べています。こんな有り難い話があるでしょうか・・・あるのです。あまりにも素晴らしいキリストの十字架の救いなので、これは神からの幸福の知らせということで福音と呼ばれています。
キリストは命をも捨てて、私たちを救って下さった救主です。命さえも惜しまずに与えて下さったキリストですから、何が起ろうとも私たちに最善のことをして下さるに違いないという信頼が生まれます。ポリュカルポス(69−155頃)という人は、ローマの神々を拝まず,皇帝を礼拝しなかったので、火あぶりの宣告を受けた。「皇帝礼拝をすれば助かる」と言われた。すると彼は「86年間キリストは一度も私を棄てずに守ってくれた」と言って信仰を貫いて殉教の死を通して天の御国に凱旋して行きました。私たちも、キリストの十字架の恵みに感謝して、もっともっと感謝の思いを深めて、何があっても教会から離れず、一生を賭けててキリストに仕えて行きますという祈りを捧げましょう。
2.、神に感謝し、心に恵みを受けよう。
「感謝しなさい」との勧めに従う事によって心に多くの恵みをいただくことが出来ます。
1、感謝の種はつきず、感謝すると喜びが湧いてくる。
昨日は上野ホームレス伝道の日でした。毎月第四土曜日のホームレス伝道が4年間続いていることを感謝します。教会の祈りの応援に感謝します。遠い所、近い所からおにぎりを届けていただき、その数622個に感謝します。それに加えてお米20キロ、沢山の石鹸、洗剤の献げものに感謝します。天気は雨の予報で、行く途中は雨、上野で集会準備をしている時も雨。ところが集会を始める時には雨がやみ、礼拝、給食奉仕、医療奉仕の間は雨がなく感謝。雨がやんだのでメッセージを出席者が落ち着いて聴くことができ、多くの方々が信仰の決心を手をあげて表し感謝。奉仕者八名、そのうち二名が子どもで一緒に奉仕に加わってもらい感謝。運転奉仕者による運転が安全に守られ感謝。昨日は中学生を家庭を開放して泊まり会をしていただき感謝。今朝は礼拝前に教会学校があり感謝。礼拝後は召天者記念会がやすらぎの里で開かれることを感謝。こうして数え出すと感謝はつきず、感謝を捧げると心から喜びが湧き上がってきます。
2、感謝は謙遜をうみだす。
何でも当たり前だと思う人は傲慢です。礼拝が行われるために、皆さんの祈りがあります。前日に掃除、生け花の奉仕がありました。何気なく当たり前に受け取っていますが週報が作成されているなど、当たり前のように思っている一つ一つの事柄の陰に多くの奉仕があることに気づき、感謝の思いをもつ人は幸いです。感謝することによって、多くの人の祈り、奉仕、手助けによって、自分は何の心配もなく礼拝を捧げることができるという謙った気持ちになります。
3、感謝は人の心に潤いを与える。
感謝されると、誰でもうれしくなると思います。インドで貧しい人を助けるマザーテレサの働きがあります。奉仕者が毎朝町を一回りして死にかかっている人を見つけて歩く。溝の中、駅の片隅などに垢まみれドロまみれになり、ゴミのように転がって死を待っている人がいる。そういう人をセンターに運んで行きます。まず体を洗いきよめ、清潔な衣服を着せ、ベッドに寝かせる(インドには路上で生まれ路上で死んで行く人が何十万人もいる)。今まで一度も人間らしく扱われなかった人が、はじめて人間らしい扱いを受け、「ありがとう」という感謝をもって死んで行く。その時に奉仕者は大きな恵みを受ける。感謝は相手の心に喜びと潤いをもたらします。感謝は言葉と態度で示して下さい。「ありがとうございます」の一言が人間関係に良い結果をもたらします。一つの笑顔が相手の心を溶かして行きます。
感謝は自分からして行くことが秘訣です。また感謝してくれないと言って怒ったり、嘆かないようにして下さい。キリストは10人のらい病人を癒しましたが、感謝したのはたった一人です(ルカ17:11−19)。
3、神にすべてを感謝し、生きている主にすがって行こう。
もう一度18節を読みます。
今年の夏は連日36度以上の暑さの日々でした。しかし先週ぐらいから少し涼しくなってきました。神は私たちをいつまでも暑さの中に放っておかずに、ちゃんと涼しい日々を用意して下さるのです。神に信頼して行くならば、すべては感謝に変わって行くように導かれます。パウロは「すべてのことを、呟かず疑わないでしなさい」(ピリピ4:14)と言っています。きょうの御言葉と共通していることは「すべて」ということです。自分の事になりますが、教会のほかに、教団、教区の仕事が重なったことがあります。その時に「そうだ。何事も感謝して奉仕しよう」と思ったら、気が楽になり、すべてを順調に果すことができました。
キリストは十字架にかかる時に、自分が辱めを受け、馬鹿にされ、裸にされ、衆人環視の中で両手両足に三本の釘を打ち込まれて死ぬということを知っていました。しかし「自分の前に置かれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の右に座するに至ったのである」(へブル12:3)とあるように、人の罪のために進んで十字架にかかって下さいました。それは死んで終りではなく、復活という喜びがあることを信じていたからです。事実キリストは死を滅ぼして、十字架の死後3日目に墓より甦っています。サタンはキリストを十字架によって殺したと思って喜んでいました。サタンは日曜日の復活のことを知らなかったのです。私たちも物事すべてがうまく行かないような、金曜日にキリストが十字架にかかった時のような暗い思いになることがあります。この暗い気持ちから、そのために眠れず、いつ不眠症から解放されるのだろうかと悩みます。仕事のこと、こどものこと、配偶者のこと、もつれている人間関係のこと、仕事の大変さ、自分の愛に相手が応えてくれるのだろうかという不安、クリスチャンの病気を見て信仰があるのに神はなぜ癒さないのかという攻撃を受けたり、様々なことがあります。キリストはそうしたすべての悩みを背負って十字架に上り、私たちの身代りになって下さいました。そしてすべてのことが益に変わるということのために甦って今も生きている救主です。アメリカのある牧師は「きょうは金曜日だ。だが日曜日は必ず来る。It’s Friday, but Sunday’s coming.」と説教の中で言っています。(佐藤順:御翼2001年5月号)もう一度詩篇103篇2節を思い出して下さい。「わが魂よ、主をほめよ。そのすべての恵みを心にとめよ(主のよくして下さったことを何一つ忘れるな)。」そして本日の御言葉18節を心に刻んで下さい。
まとめ
1、 神の独り子であるイエス・キリストの十字架に感謝しよう。命を棄てて救いを成し遂げて下さった主に従い続けて行くように祈りましょう。
2、 神に感謝し、恵みを受けて行きましょう。感謝は喜びを産み出し、心を謙遜にし、感謝は人の心を潤します。
3、 神に感謝しましょう。今は暗くても、復活のキリストの力によって万事は恵みに変わって行きます。生きている主にすがって祈りましょう。
*「御手の中に」を讃美し、お祈りを捧げます。
祈 り
天地の主である神さま、独り子イエス・キリストの十字架によって救われていることを感謝します。イエス・キリストが甦って生きている救主であることを感謝します。時には感謝できないような暗い状況であっても、罪を赦し、問題を解決する力をもって、イエス・キリストがすべてを恵みに変えて下さることを信じます。一人一人の祈り、願いに答を与えて下さい。この後の聖餐式を祝福して下さい。今週も真理の御霊によって祈りの中に日々を導いて下さい。我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
参考文献テサロニケ注解―黒崎、フランシスコ会、バークレー、LAB、口語新約略解。