飛躍して行く信仰 ヨハネ15:116          主の2004.10.31礼拝

 

ある一人の青年は越後の山深い所に生まれ、育った。50年ほど前、道路は未整備で、車は絵本の中でしか見たことがないという辺鄙な場所であった。よそから人が来るのは、物売りか、富山の薬売りが廻ってくる位でした。そんな山奥に聖書を売りに来た人がいた。昔は徒歩で、聖書や信仰の文書を携えて田舎の村々や町々に入り、文書を買ってもらい、読んでもらうという形で伝道がなされていました。テレビもない、電話も通じていない(携帯電話は想像もできなかったでしょう)、ラジオの電波もなかなか届かない所ですから、本や雑誌などを買って読む人が結構いたのです。その青年は聖書を買い、読んでおるうちに聖霊に導かれて罪を悔改め、キリストを信じたが教会がないので、ずっと心の中で信じていました。彼は職を得るために都会に出て生活を始め、教会に導かれ、やがて神学校に入り、今は伝道の働きのために日々主に仕えています。

本日の聖書はヨハネ15116です。その16節に「キリストによる選び」が告げられています。ここにいる皆さん方もキリストを信じています。皆さん方は、なぜ自分クリスチャンになったのかを振り返ってみる時に、何か大きな神の力が働いてキリストを信じるようになったということに思い当たるはずです。人生の様々な出来事を通して、キリストは「わたしがあなた方を選んだのである」と告げています。私の力ではなく、不思議な選びによってキリストを信じる者になったのであるという、神中心の信仰を自覚する時に、私たちの信仰は不動のものになります。「行き詰まらない信仰」、「伸び行く信仰」、に続いて、「飛躍して行く信仰」を得るために、キリストによる選びのメッセージを聴き、共に祈って新しい一週間を出発して参りましょう。

 容1、私がキリストに結びつくー自分の側からの信仰。15111

    2、キリストが私に結びつくーキリストによる選びの信仰。151216

    3、キリストの選びは愛の選びである。1516 第一ヨハネ410

資料問題 「居(お)る」(文語訳)が41012回(原語9回)ある。「止まる」ことで、永続的に止まる状態の事。口語訳では「つながっている」「とどまっている」「いる」と三種に訳されている。パウロは「キリストにつながっている(とどまっている)」ことを、人間の頭とからだの例えを使って説明している(エペソ1222341516、コロサイ118参照)。6節は、自由意志によってキリストにとどまらない者は自ら不幸な末路を招くようになることを示している。7節は、キリストとの一致が祈りの聴き入れられる保証となっている。共観福音書では信仰が祈りの聴き入れられるための必要条件となっている(マタイ1720、マルコ1124、ルカ176)。9節「わたしの愛のうちにいなさい」。愛のうちにいる(ととまる)は新約聖書中、ここと次節だけにある。「わたしの愛のうちにいなさい」を「わたし(キリスト)を愛し続けなさい」の意にとる人と、「いつまでもわたし(キリスト)の愛のうちにいなさい、愛を受けるにふさわしい者でありなさい」との意にとる人がある。後者の意味にとるのが良い。14「友」。旧約聖書でアブラハムだけが神の友と呼ばれている(歴下207、イザヤ418)。私たちはキリストによって友と呼ばれ、十字架と復活によって、兄弟とせられ(ヨハネ2017)、神の家族の息子、娘とせられ(エペソ31415)、キリストと共に神の世継ぎとせられ(ローマ817)、更にキリストの肢体とせられている(エペソ530)16節「わたしがあなた方を選んだ」。ヨハネ第一410参照。 

 

1、私がキリストに結びつくー自分の側からの信仰。15111

「わたしにつながっていなさい(とどまりなさい)」。(3節)

410節の中で、キリストは12「わたしにつながっていなさい」という勧めをしています。口語訳では「つながる」「とどまる」「いる」と訳され、新改訳聖書では「とどまる」と訳されています。ブドウの枝がブドウの幹にしっかり繫がっていれば、幹から送られる養分によって、豊かな実りを与えられます。ブドウの枝が幹に繫がっているように、私たちもキリストに固く結びついているならば、信仰が恵まれ、また祈りが聴かれて行くことが約束されています(7節)。この箇所では、「キリストにつながっていなさい(とどまっていなさい)という事が強調されています。キリストは私たちの熱心さを求めているかのように語っていますが、私たちはその勧めに従って行きたいという思いを持っています。

信仰初期の頃は自分で信仰を得たという思いが強くあります。私たちは熊谷福音キリスト教会の礼拝に集っています。初めのうちは、自分で選んで熊谷福音キリスト教会に来たという意識があります。最初は、神がこの教会に導いて下さったというところまでは考えていませんが、最初はそれでよいのです。私は高校二年の6月、クラスメートにクリスチャンがいて、その紹介で何人かで礼拝に行きました。しばらくして気がついたら、私が残り、洗礼を受けて信仰生活が始まり、今日まで信仰の道を歩ませてもらっています。最初の頃は、自分が教会に行きたいと思って、友達に紹介されて、自分の意志で教会の門を潜ったと思っていました。一緒に礼拝に出た仲間達は受験とか、部活とかで、だんだんに教会から遠のいてしまった。私も部活などがあったが、とにかく教会出席を継続しようと努めた。だから自分の選択で、教会へ来ているという感じでした。そう考えるのは当然であると思います。この時に大切なのがキリストへの決断です。内原忠雄全集を読んでいましたら、彼が学生の時はじめて内村鑑三主宰の礼拝に出席した。帰りがけ、内村先生が「この次も来なさい」と声をかけてくれた。彼の心に「この次も出席しよう。その次も、そしてずっと出席しよう」という思いが与えられた。こうして矢内原忠雄はその日を起点にして一生キリストを信じる信仰の道を貫いて行きます。こうした証を聴きますと、「キリストについて行きます」という決断がいかに大切であるかを知ることができます。私の場合は決断という言葉を知りませんでしたが、主の憐れみによって、「休まないで教会に行こう」という気持を与えられ、その思いを聖霊の助けによって継続できた事を感謝しています。

この410を通して、キリストは「わたしにつながれ、とどまれ。」ということを繰り返しています。その中の5節終りから6を読んでみます、「わたしから離れてはあなた方は何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ棄てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。とても厳粛な御言葉です。これは外の誰でもない、自分への語りかけであると信じ、キリストに固く結びついて行きたいということを、私は心を新たにして祈りたいと思います。皆さんも「私はキリストにしっかりとつながって行こう。キリストのうちにとどまって行こう」という祈りを捧げて下さい、祈りを通して、信仰の恵みが心いっぱいに溢れてきます。

 

2、キリストが私に結びつくーキリストによる選びの信仰。151216

「わたしはあなた方を友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである。あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのである」。(15節後半―16節前半)

信仰が進んで来ますと、だんだんと自分が信仰を持ったのは神の選びによるということに目が開かれてきます。そして信仰を導き、成長させるために聖書が全ての土台である事を知るようになります。礼拝で讃美を歌う、祈りをささげる、献金をする、本日はキリストの十字架を記念し感謝する聖餐式がある、そして礼拝の中で聖書のメッセージを聴いて心を養われています。礼拝のメッセージですが、それは全部聖書に基づいています。キリストがこの世におられた時の聖書は旧約聖書だけです。旧約聖書に書いてある通りにキリストが救主としてこの世に来られた、十字架と復活によって救いを成し遂げた、キリストは天に帰り、キリストの直弟子である使徒達を中心にして伝道がなされ、各地に教会が誕生して行った。教会では旧約聖書と共にキリストの御言葉が教えの基になっていたので、人々は何かあると使徒達からキリストの教えを聴いて、それに基づいて信仰に励み、教会が形成されて行った。やがて使徒達の手紙などが教会によって纏められて現在の新約聖書となり、旧約聖書、新約聖書が一冊の聖書となった。この聖書が私たちの信仰の基準となり、生活の規範になっています。最初の頃は、自分で信仰の道を決断して進んで行きます。そのために教会生活をして行くのですが、毎週メッセージを聴き、自分でも聖書を読み進んで行くうちに、自分の考えではなく、聖書を通して神の考えに従って人生を歩むように変えられて行きます。自分の考えが神中心の考えになり、キリストの選びということ実感するようになります。

今、述べた事から考えてみますと、真の教会の徴は常に聖書が説かれている所です。また聖書の中心であるキリストの恵みが常に説かれている所です。聖書が説かれ、キリストの恵みが説かれている教会であるならば、交わりが温かいという恵みを与えられます。熊谷に来る多くの方々が「温かい教会」と言ってくれますが、それは皆さんがキリストにあって恵まれ、讃美の中に主をほめたたえ、主の御名によって祈り、新しい方々を積極的に迎え入れているからです。これからも、聖書を通してキリストの恵みを慕い求め、キリスト中心の温かい教会であるように、祈って下さるようにお願いをします。

キリストによって選ばれている事を感謝し、教会の集まりを最優先して出席する、そして聖書を信仰と生活の基準にして行く時に大切なことを教えられます。15節後半にキリストは「わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである」と言われていますが、キリストは大事なことを教えて下さっています。

第一は、キリストを伝道することが教会の使命であり、また私たちの使命であるという事です。先日礼拝が10名位の昔の写真を見ました。それがいつの間にかここまで成長している。これは「キリストを喜び、キリストを伝える」ということを念頭に置きながら、自分達に与えられたキリストの救いの恵みを、心から心へ伝え続けているのですが、それが現在の恵みにつながっている事を確信します。キリストは復活された時に弟子達に対し、「父がわたしを遣わされたように、わたしもまたあなた方を遣わす」と言われ、そのために「聖霊を受けよ」と命じています(ヨハネ201923。キリスト昇天後の約10日後のペンテコステの日に、聖霊が120名ほどの弟子達に注がれ、聖霊の力を受けたペテロがキリストの十字架と復活の福音を説き、3000名の人々が悔改めて洗礼を受け、最初の教会がエレサレムに誕生しました(使徒2章)。それ以来、約2000年間にわたって教会は伝道の働きを進めて来ました。今から30数年前に、アメリカからクラー宣教師一家が熊谷に来て伝道を始めた事によって、私たちの教会の基礎が据えられました。私たちの教会も、主から託されている伝道の使命に忠実であるように祈って下さい。

第二は、自分のことが分かってきます。イラクで24歳の日本人青年が武装ゲリラに拉致され、殺害されたらしいといニュースを聞きました。何故その人が戦争状態の危険地域に入ったのかは分かりませんが、旅に出る前に「自分探しの旅に出る」と言っていたという事です。最近は自分自身を見つめ直し、生きる意味を知りたい。それまでは定職につかずにいるという若者が増えているそうです。自分探しの旅にでるまでもなく、自分のことはガラテヤ115を開けば分かります。神の選びの中に、許しの中に私たちは生かされているのです。これが私たちの人生の根拠です。ここに自分の人生の原点があります。アウグスティヌスは「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじなからである」と告白しています(告白第1章・服部訳・岩波文庫)

第三に、自分はキリストのために身を献げて生きようと思うようになる、それが献身です。私のように伝道者として生きるという狭い意味での献身があります。また広い意味での献身があります。例えば、日曜日全体で、実に沢山の奉仕がありますが、例えば、教会学校の先生達は毎週朝早くから子どもたちのために仕えている。礼拝の始まる前に、駐車のために早く来て外で奉仕している人がいる。パッと皆が歌えるようにOHPの奉仕がある。それぞれの奉仕者が、祈りながら、気分が良くても悪くても奉仕を継続しています。自分に向かないような事であっても、主のためにして行くと心が恵まれてくるのです。そのように自分を献げてキリストに仕えて行くことが献身であり、それは主の祝福を受けます。パウロは「キリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである」(ローマ1418)と言っています。最近キリストを信じた方が、「仕事をしていても、今までとは違う。仕事をしていても心が明るい。それが先方に伝わって、よい反応がある」と言っていました。キリストを信じ、キリストを第一にして行く時に全てが恵みに変わって行きます。

 

3、キリストの選びは愛の選びである。1516、ヨハネ第一410

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物(宥めの供え物)として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。(1ヨハネ410

人間中心の信仰から、神中心の信仰に成長して行くのですが、その根底に神の愛があります。愛の基本はキリストの十字架にあります。キリスト信仰の素晴らしい点は、冷たい論理をもて遊ぶような信仰ではない事です。私たちの信仰は、キリストが十字架の上に、ご自分の身を裂き、きよい血潮を流し、最後の最後まで「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ2334という熱い祈りをもって、私たちのために救いの道を開いて下さったものです。十字架を仰げば、私のために死んで下さったキリストの熱い愛が心に迫ってくる。このキリストによって選ばれているのだと思うと、キリストのために何かをしたいというキリスト中心の信仰に飛躍して行くのです。キリストの十字架の愛に応えて生きるという事、それが献身です。

日本の教会は7000ほどあり、都会に集中していますが、けっこう田舎といわれるような所にも教会があります。それは、昔アメリカ、ヨーロッパから宣教師がやって来て伝道してくれたというのが殆どです。しかも婦人伝道師の働きが大きいのです。戦争直後、信州の町にアメリカの婦人宣教師が立ち寄った。相当な田舎でしたが、婦人宣教師は住み込んで伝道することを決意した。便利な文明国から日本の田舎に住み暮らすということは大変なことでした。トイレ一つを考えても、水洗式から汲み取りという変化ですからカルチャーショックも大きかったと思います。そこに住み込み、まずバイブルクラスをはじめた。あそこへ行けば英語が習えるということになって大勢の人が出席した。その中に、その田舎町よりさらに奥深い所に住む青年が出席し、聖書を学んでいるうちに救われ、献身して牧師になり、良き働きをしています。婦人宣教師は、キリストの十字架の恵みを思うと、いても立ってもいられなくなり、戦争で荒廃している日本にやって来て、しかも田舎に導かれ、そこから牧師になる人が起こされ、さらにその牧師を通して多くの献身者が起され、神の働きは拡大して行っています。キリストの十字架を仰ぐ時に、このような素晴らしい信仰の飛躍が与えられ、多くの豊かな実を結ぶようになって行くのです。

まとめ

13節、信仰はまずキリストに結びつく事です。そのために決断する信仰が大切です。

215節後半―16節前半、キリストのほうから私たちに結びついておられる。キリストが私たちを選んで下さったのです。主の選びを感謝し、キリストの救いを伝道して行く使命があります。神によって選ばれ、キリストを信じていることを感謝し、キリストに仕えて行きましょう。

3、第一ヨハネ410、私たちはキリストの愛によって選ばれている。愛の表れである十字架を見上げ、主のため仕えて喜びを受けて行きましょう。

キリストの十字架を思いつつ、聖歌111番(旧157番)「我、いのちを汝(なれ)に与え」を歌い、祈りを捧げ、聖餐式を執り行います。

祈 り

天地の主である神様、測り知れない愛によって、キリストを信じる恵みを与えられて生まれ変わることが出来ました。キリストの十字架によって罪が赦されていることを感謝します。キリストの十字架を仰ぎ見て感謝し、キリストのために何でもできることをして仕えて参ります。これから聖餐式が行われます。「主よ、私のために十字架の上に命を捧げて下さったことを感謝します」という祈りの中にパンとブドウの杯を受けて行くように導いて下さい。午後2時からの上村・中嶋兄姉の結婚式を主の臨在の中に、聖霊に導かれて恵み溢れる式にして下さい。私たち1人一人を愛のうちに選んで下さった救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、LAB,バークレー、口語略解。「矢内原忠雄全集・岩波書店」