キリストの福音に立つ ペテロ第二1:12−21 主の2004.12.5礼拝
「ロビンソン漂流記」というイギリス人ダニエル・デフォー(1661−1731)の小説があります。主人公ロビンソン・クルーソーは船が難破し、彼ひとりが助かり無人島に漂着します。その島で聖書を読み、「悩みの日に我を呼べ、我なんじを助けん、而してなんじは我を崇(あが)むべし」(詩篇50:15)との御言葉によって無人島で生きる力を得て、28年後にイギリスへ無事帰還します。これは小説ですが、作者は生きる為に食料や住いも必要だが、本当に人間を支えるものは、信じる者の心の中にいるキリストであり、キリストを指し示す神の御言葉であることを教えています。文豪ゲーテ(1749−1832)は、「もし獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されたなら、私は聖書を選ぶ」と言っています。インド独立の父ガンジー(1869−1948)はヒンズー教徒ですが、「私の生涯に最も深い影響を与えたのは新約聖書である」と述べています。
本日の聖書はペテロ第二1:12−21です。ペテロは、20−21節において、聖書は自分勝手に解釈をしないで、聖霊に導かれて正しく読むべきことを教えています。聖書を読んだダニエル・デフォーは小説の主人公を通してキリストの恵みを伝えています。ゲーテ、ガンジーの名を挙げましたが、その他に世界の多くの分野で活躍した人々が聖書を読んで、神より愛と力を与えられ、偉大な働きをなし遂げています。
今朝、共に御言葉に耳を傾け、特に御言葉の中心であるキリストの恵みを心に受け、聖霊によって祈り、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容 1、キリストの福音に立って行くことが信仰の中心である。1:12−15
2、キリストの福音は、実際の出来事に基づいている。1:16−18
3、キリストの福音を指し示すのは聖書である。1:19−21
資料問題 13節、「幕屋を脱ぎさる時が間近であることを知っている」、幕屋は肉体を指す。ペテロは自分の最後を主によって告げられている。ヨハネ21:18−19を見よ。16節、「主イエス・キリストの力と来臨」、主イエス・キリストの力にあふれた来臨(再臨)のこと。17節、キリストの変貌はマタイ17:1−8、マルコ9:2−8、ルカ9:29−36を見よ。20−21節には、聖書は神の霊感によるものであることが教えられている。聖書は偽教師や無知な人々のように勝手に解釈してはならない(3:16−17参照)。聖書は聖霊に導かれ、その全てが神の霊感によってよって記されたものであるので、解釈する時も聖霊の導きを求めるべきである。具体的には、第一に心を開いて、謙って、神とキリストに出会うことを願って読むことである。第二にキリスト中心に読むことである。キリストは「聖書はわたしについて証をするものである」(ヨハネ5:39)と語っている。第三に聖書を信仰と生活の唯一の基準として読むことである(聖書を正典とすること)。聖書の読み方、また聖書全般については佐藤陽二著「聖書学」、アッセンブリー教団「旧約・新約聖書概論」を参照するとよい。
1、キリストの福音に立って行くことが信仰の中心である。1:12−15
それだから、あなた方は既にこれらのことを知っており、またいま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起こさせたいのである。(12節)
ペテロは、この12−15節を通して二つのことを教えています。
第一のことは、12−13節、「真理であるキリストを信じる信仰の恵みを絶えず思い起せ」ということです。「幕屋」という言葉は肉体を指しています。「幕屋にいる間」とは「生きている間は」との意であり、ペテロは自分が生きている限りはキリストの恵みを語り続ける。それを聴いて一人ひとりが、キリストの恵みに絶えず感謝し、奮い立って信仰の道を歩んで行く事を願っています。「恵みを思い起せ」と言われていますが、私たちは毎週礼拝でメッセージを聴いています。メッセージは聖書に基づいているので、既に知っている恵みを思い起させ、また今まで気がつかなかった新しい恵みを知ることもできます。さらに進んで、キリストの恵みを思い起し、或いは新しい恵みを知ると同時に御言葉に従うという決断が大事です。何故なら御言葉に従うということが信仰の真髄だからです。例えばアブラハムは、「故郷を離れて外国へ行きなさい。あなたを大いなる国民とし、祝福する」(創世記12:1−4)という神の御言葉を信じ、現在のイラクの辺りから、イスラエルに導かれ、信仰の先祖と呼ばれています。皆さん方も、この礼拝で神の御言葉を聴いていますが、何かを決断し、主に従って行くように祈って下さい。
ところで少し脇道にそれますが、このように聖書の一つを取り上げて連続してメッセージを聴いていると、聖書の箇所が、時には今の自分にはあまり関係ないような箇所に思えたり、また何かピンとこない箇所であるかのように感じることがあります。しかしメッセージを聴き続けることによって、その時にはあまりピンとこなかったことが、やがてハッキリと分ってきます。私の小さな経験ですが、高校生の頃、牧師がアイデア(理念・考え)が大事だと繰り返し説いたことがあります。私はその時は、「人間関係の問題」とか、「これからどう生きるべきか」という主題について話してくれないかなと思っていて、アイデア(理念・考え)ということがよく分らないままでした。しかし、段々にアイデア(理念・考え)が大事であることが分ってきて、高校生の頃にそのメッセージを聴いていて本当に良かったと思っています。どのように良かったのかという事ですが、人間の最大特徴は物事をいろいろに考える力があることです。考える力は、神が人間だけに下さった賜物です。いろいろ考えた事柄がまとまってアイデア(理念・考え)となる。アイデア(理念・考え)があって、それを実行するために行動が生まれる。行動があって日々の生活習慣が形成される。生活習慣が人格を養う力になり、人生が豊かになってくるということが分ってきたからです。例えば「祈れ」という御言葉を聴いて、「祈ろう」という考えが生まれる。「祈ろう」という考えがあるから、実際に祈るという行動が生まれる。祈りを続けると、心が恵まれ、何があっても、慌てない、たじろがないというキリストの下さる平安と力に包まれます。平安と力を受けて、どんなことでも神に祈って行くという人格が形成されて行きます。私の小さな体験から分るように、どんな場合でも私たちが聴いた御言葉が無駄になることはありません。聖書朗読の箇所、イザヤ55:11に、「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果す」と言われている通りです。
さらに、ペテロは14節で「幕屋を脱ぎ去る時が間近である」と自分がこの世を去る日が近いことを述べ、15節では、自分が世を去った後も、一人ひとりがキリストの福音の恵みを信じ続けることを祈り願っています。ペテロは、自分がキリストを信じて生きたように、皆もキリストに縋って、信仰をもって生きてほしいと願っています。信仰が周りの人に、自分の後に続く者達に伝わって行くようにと望んでいます。ペテロの思いを引き継いで、私たちもキリストを信じる信仰を周りの人に、また後代の人々に伝えて行くように祈り、生活することが大切であることを思います。私事になりますが、高校生の時に日曜学校の教師をするように言われ、奉仕を始めました。ある日曜学校の帰りに17号国道で、私の受持ちクラスの小学校4年生の女の子が車にはねられ、召されるという事がありました。いつもクラスの一番前で熱心に聖書の話を聴き、お祈りしていた可愛い子でした。その女の子は天国に行きましたが、キリストを信じるという姿を私に残してくれました。普通は年齢的に私たちのような年代の者が先に天国に行く、そして「私たちに続いて下さい」と言い残しておくようになります。しかし小学校4年生、10歳子どもでもキリストを信じることを人々に残して行くことができたのです。私たちも改めて、祈ってキリストの福音に固く立って行く決断を主に捧げて参りましょう。
2、キリストの福音は、実際の出来事に基づいている。1:16−18
わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。(18節)
ペテロは、16節で「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とをあなた方に知らせた」と言っています。これは「主イエス・キリストの力にあふれた来臨を知らせる」としたほうが意味がよく分ります。ペテロは間もなくイエス・キリストがもう一度この世にやって来るという確信をもっていました。キリストがもう一度この世に来られてクリスチャンを天国に迎え入れて下さるというのは本当です。なぜ本当なのか。ペテロは、キリストが山の上で姿が真っ白に変わり、モーセとエリヤと話をしている姿を目撃しています。その聖なる山で「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(ルカ9:29−36)という神の厳かな御声を直接に聞いています。山の上でキリストがモーセとエリヤと話していたのは、キリストの十字架のことです。ヘブル書には、キリストは十字架にかかる前に、人間の罪の身代りになって死ぬが、死後に復活と栄光を得るという喜びのために進んで十字架の恥を忍んで下さった、と記されています(ヘブル12:2参照)。キリストは十字架にかかり、三日後に復活され、今は信じる者の心の中に住んでおられます(コロサイ1:27)。ペテロは、その事実を踏まえて、キリストが力にあふれて再臨されるのは作り話ではないことを伝えています。その内容は、「私は、キリストが山の上で姿が変わり、十字架にかかられ、死後3日目に甦って今も生きている救主であり、それに立ち会った者である。キリストは甦って生きておられ、やがて私たちを迎えに来られる。私はキリストの証人である」というものです。ペテロはキリストを裏切ったという苦い体験がありますが、その罪を赦され、伝道の使命を与えられ、命を賭けて伝道の働きを進めて来ました。この手紙を通して、迫害と偽教師の攻撃にあっているクリスチャンに対し、やがてキリストが再臨され、信じる者と信じない者とを分ける時が実現することを伝えて、皆を励ましています。
私たちもキリストに出会って、聖霊に導かれてキリストを信じる信仰を与えられ、十字架によって罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を与えられ、心にキリストをお迎えしています。私たちも、この世にもう一度やって来られるキリストを待ち望みつつ生きているキリストの証人です。前にプロゴルファーの中嶋選手の信仰の証を紹介しました。中嶋選手の夫人律子さんが先に信仰をもっていたことによって、中嶋選手も救われたのです。律子さんは北九州・キリスト教主義の西南女学院高校生の時、学校主催の修養会に出席した。「一つだけ絶対にかなうと思ってお祈りしなさい」と言われたので、自己中心の祈りでない祈りを捧げようと思って「イエス様に会わせて下さい」と祈った。すると両肩に温かいぬくもりを感じた。先生が手をおいて祈ってくれているのかなと思っていた。ふと横を見ると、両肩に手をおいて立っているイエス様がおられたというのです。それが彼女の信仰の原点です。結婚し、紆余曲折を経て信仰に立ち、そのことによって夫が救われ、中嶋家だけで12人がキリストの救いに与っています。律子夫人がキリストに出会ったことは本当のことであり、それが多くの人の救いにつながっているのは素晴らしい恵みです。私たちも神の御言葉を信じています。それに加えて、時には不思議な恵みを受ける場合もあります。私も多くの重荷に疲れを感じ、「一体どうなるのだろうか」と薄暗い部屋でひっそり祈っていた時に、誰かが前にいて祈りを助けてくれているのを感じ、涙が溢れ出てきて祈りの中に疲れが癒され、新しい力を受けたことを思い出します。私の前に来て、私を励ましてくれたのはイエス様であったことを信じています。しかし、そんな体験がなくても、御言葉によって、罪が赦され、生まれ変わっているということは誰も否定できない不思議な事実であり、奇蹟であることを信じます。キリストの十字架、復活という事実に基づいて、私たちの救いも事実であることを主に感謝し、主を讃美しましょう。
3、キリストの福音を指し示すのは聖書である。1:19−21
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(20−21節)
19節は、旧約聖書の預言のように、キリストが来られ、十字架、復活、昇天によって既に私たちの救いが成就している。天に帰られたキリストは再臨され、私たちを素晴らしい天国に導いて下さる。だから迫害があり、偽教師がはびこる暗い世の中にあっても、私たちは神の御言葉という灯火に心を照らされて、迷うことなく信仰の道を歩んで行こうという勧めがなされています。20−21節では偽教師が自分に都合の良いように御言葉を勝手に解釈している。それに誤魔化されずに、聖霊に導かれて聖書を正しく読んで行こうという勧めがなされています。聖書を聖霊に導かれて読むとはどういうことでしょうか。
1、聖書全体を読むことです。創世記から黙示録まで万遍なく読むことです。偽教師、異端の教えは、聖書の一部分だけを強調して、前後関係を無視して、自分に都合のよいように解釈しています。
2、心を開いて、謙って、キリスト中心に読むことです。キリストは「あなた方は、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われました。キリストに救いがあり、永遠の命があります。聖霊の助けを求めて聖書を読めば、聖霊はキリストに私たちを導きます。キリスト中心に読むということはキリストを信じることです。キリストを眺めているだけでは救いはありません。芥川龍之介(1892−1918)の「西方の人」を読むと、彼がキリストに憧れている事が分ります。しかし、彼はキリストを自分の中に迎えずに、枕許に新約聖書をおいたまま自殺に至っています。
3、聖書が信仰と生活の唯一の基準であることを信じて、聖書に従って生きるように祈ることです。今の世界はあらゆる価値が疑われ、今まで守られてきた正しいものでさえも棄てられようとしています。キリスト教会の中にさえ同性愛教会があり、キリストの復活は科学的でないから説かないという教会もあります。キリストは、「天地は過ぎゆかん、されど我がことばは過ぎゆくことなし」(マタイ24:35)と言われました。キリストは生きておられます。キリストを指し示している聖書は永遠に廃ることがないのです。
ところで、あなたは今までに何回聖書を通読しましたか。教会聖書日課に従って、1日に旧約聖書1章、新約聖書を1章読むと次のようになります。およそ2年半で旧約聖書を1回通読できる。新約聖書を3回半通読できることになります。このペースで行くと10年間で旧約聖書を4回、新約聖書を14回以上通読できます。10年たてば、立派な聖書博士になれます。聖書を読んで読んで、聖書に詳しくなって下さい。私も時々電話などで「何とかという聖句はどこにありますか」と聞かれるので、一生懸命に聖書を読んで、まごつかないようにしています。
まとめ
1、12−15節のうち、12節を読みます。キリストの恵みを思い起し、感謝し、讃美し、キリストの福音の恵みに立って行くことが信仰の中心です。
2、16−18節のうち、18節を読みます。キリストの十字架、復活は本当に起きたことです。キリストの力あふれる再臨もやがて実現することでしょう。私たちもキリストを信じて救われているという恵みの事実を与えられています。主の不思議な救いに感謝を捧げましょう。
3、19−21節のうち、20−21節を読みます。聖霊に導かれて聖書を読み続けましょう。特にキリストを見出すように、キリストの恵みを発見しながら聖書を読み進んで行きましょう。
祈 り
天地の主である神様、救主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを喜び迎えるために祈りをもって備えさせて下さい。キリストの恵みを思い起し、絶えず感謝と讃美とを捧げるように導いて下さい。23日クリスマス祝会に家族や友人が導かれ、聖霊によってキリストの救いに与る機会となるようにして下さい。病気の人に平安と癒しを、戦い、困難の中にある人に勝利の導きを速やかに与えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献ペテロ注解―フランシスコ会、文語新約略注、LAB, 黒崎、バークレー、口語略解、米田。
「聖書学・佐藤陽二・聖文舎」「旧約聖書概論、新約聖書概論・福音出版社」「世界名作事典・平凡社」