クリスマスー愛の救主イエス・キリストー ヨハネ第一3:16−19 主の2004.12.19礼拝
アドベント第四週に入り、24日がクリスマスイブ、25日にクリスマスをお祝いします。私たちは、皆さんが日曜日の朝が一番集まりやすいうことで、今朝クリスマス礼拝を捧げています。午後2時から教会学校クリスマス、23日行田市商工センターでクリスマスの集い(祝会)をします。25日は上野に出かけホームレス伝道クリスマスで奉仕をします。
クリスマスの日、キリストは、人を罪から救い出し、永遠の命を与える救主として、この世に誕生されました。この後に洗礼式があります。洗礼式は、神と人の前に信仰を公にし、教会の一員となって一生の間キリストに従って行くための尊い式です。クリスマスの日にふさわしい恵みと喜びに満ちあふれる洗礼式となるように祈って下さい。
クリスマスの季節、どこに行っても表面的にはクリスマスの雰囲気です。クリスマスの飾りが至る所にあり、クリスマスソングが流れています。ケンタッキーフライドチキンの店や鳥屋さんには、「クリスマスにチキンを食べましょう。予約受付中」というポスターが張り出されています。夜になるとサンタクロースや樅の木をかたどったデコレーションを豆電球で輝かせる家があちこちに増えています。アメリカはクリスマスの季節になると、何色もの豆電球で家を飾ります。アメリカのある町で、その付近で最も貧しい飾り付けの家に「A Happy Birthday to Jesus.I welcome you!イエス様お誕生日おめでとうございます。イエス様を歓迎します」と書かれていました。他の家には「Love came down at Christmas.クリスマスに愛がやってきた」という文字が飾られていました。
本日はクリスマスに際し、ヨハネ第一3:16−19を開きました。この箇所に愛という言葉が四回出ています。私たちに愛を現されたのはイエス・キリストです。クリスマスの飾り付けに加えてある「イエス様を歓迎します」という言葉によって、イエス様の愛に満たされている家族の様子を思い浮かべることができます。また「クリスマスに愛がやってきた」と言い表すことによって、その家の人は、イエス様が愛の救主であることを人々に証しています。今朝、イエス様の愛を心にいっぱい受けて、私たちも心からクリスマスを祝い、祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容 1、キリストは「愛を受けなさい」と呼びかけて下さる救主である。
2、キリストは「愛を現しなさい」と命じられる救主である。
資料問題 ヨハネはヨハネ福音書、ヨハネ書簡3通、黙示録を記した使徒。キリストによって愛された使徒(ヨハネ福音書13:23,21:7参照)として知られている。ヨハネ書簡は紀元90年ごろ、グノーシス主義(霊肉二元論、物質を悪と考え、キリストの受肉を否定する)に対するものとして記されている。キリストの受肉を否定し、キリスト仮現論を唱える彼らに対し、ヨハネ第一4:1−3の記述は重要である。(ヨハネ福音書1:14を見よ)この書簡に「神は愛なり」という有名な聖句が伝えられている。3:16はヨハネ福音書3:16と並ぶ大切は聖句である(章や節は後代のものであるが、たまたま両方が3:16と一致しているので覚えやすい)。
1、キリストは「愛を受けなさい」と呼びかけて下さる救主である。
主は、わたしたちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。(16節)
聖書は全部で66冊の書物が一つに合わさっています。内容を大きく分ければ、キリストが生まれる以前の事を記した旧約聖書が39冊929章、キリストが生まれた後の事を記した新約聖書が27冊260章あります。旧約39、新両27ですので、三九27で旧新両約合わせれば聖書の数は66冊ということになります。この聖書の中心は何でしょうか。聖書を読む目的は何でしょうか・・・。聖書の中心また聖書を読む目的は、聖書の中にある一筋の赤い線を見つけることです。私が神学校に入った時、最初の「聖書概論」という学びの中で、「皆さんの聖書には赤い一本の線が、創世記から黙示録まで全ページに記されています」と言われたのを思い出します。赤い線とはキリストが十字架で流された血のことで、救いをあらわしています。本当に赤い線があるわけではないのですが、一筋の赤い線が聖書を貫いているという例えによって、聖書の中心主題がイエス・キリストであることを伝えています。ですから聖書を読む目的はキリストを知り、キリストを信じて救いを受けることにあるということが分ります。
16節「主は、私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った」とあります。
「主」とはイエス・キリストです(新改訳はキリストと訳している)。「私たちのために」とは私たち一人一人を指しています。「命を捨てた」とはキリストが十字架の上で私たち人間の罪の身代りになって死んだことを意味しています。「愛ということを知った」とは自分の命を投げ出して下さったキリストの愛を、十字架によって知った。理論でも方法論でもなく、キリストは命を捧げるという事実を十字架によって示し、それを見て私たちには愛ということが理屈ぬきによく分ったということです。「主は(キリスト)私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った」という聖句の中に、キリストと私たちの関わりが明らかに示されています。キリストは、私たちを罪から救うために来られた救主です。私たちはキリストを信じることによって罪から救われ、永遠の命を受けることができます。
「主は、私たちのために命を捨てて下さった」という聖句には何の条件も理由もついていません。キリスト自らが「わたしが人間を罪から救うために、人間の罪の身代りになって死んで神の罰を受けます」という愛を十字架によって現して下さったのです。この聖句はキリストが死んで下さったことを強調していますが。キリストは私たちの罪のために命を捧げて終わりになってしまったのではありません。死んで三日後に、死を打ち破って甦り、今も生きている救主です。世界のあらゆる宗教の教祖は墓をもっています。あるいは仏教のように教祖の骨を大事にする宗教もあります。キリストの墓の跡はありますが、その中は空っぽです。クリスチャンがキリストの墓参りに行く、命日に記念会をするということはありません。キリストは私たちを救うために十字架に一度は死にましたが、甦って生きている救主ですから、墓は必要ないのです。
この生きているキリストに縋れば、私たちの人生は恵みに変わります。Sさんは高校時代に教会に行ったことがありました。しかし大学卒業、就職して教会を離れてしまった。キリストなしでも人生は好調であるようにみえた。ところが突然、脳腫瘍の病気に見舞われ、なんとか治ったが、仕事はリストラになり、50代半ばでお先真っ暗になってしまった。慣れないビルの管理人として働くようになった。ある日ふと見つけた教会に40年ぶりに入ってみた。礼拝で「主は私たち人間の罪を救うために、十字架にかかって下さった救主である」というメッセージを聴いた。しかも「キリストはは甦って生きている」ことを知らされた。長くキリストから離れていたにも関わらず、Sさんはキリストから「わたしは、あなたを愛している」という恵みを受けて、人生を新しく歩んで行く希望を与えられたのです。
クリスマスに際し、皆さんはキリストの愛を受けていますか。「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った」というキリストの愛を受けていますか・・・。人は愛がなくては生きて行けません。多くの人が孤独に悩み、例えばメールで友達を求めています。キリストは「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と約束し、「わたしは世の終りまであなた方と共にいる」(マタイ28:20)と言われ、私たちの心の中に住んで、私たちを導いて下さいます。キリストは命を捨ててまで私たちを愛して下さる救主です。キリストは「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9)と言われます。キリストの愛を受けてクリスマスをお祝い致しましょう。
2、キリストは「愛を現しなさい」と命じられる救主である。
主はわたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。(16節)