しにとっては、生きることはキリスト For to me, to live is Christ
ピリピ1:21 主の2005.1.30礼拝 

 

先週日曜日の夜遅く、私が高校時代に洗礼を受けた時から、ずっと祈って下さっている方から電話がありました。体の不調で手術を受け、今は自宅で静養しているとのことでした。詩篇46篇を読んでお祈りを捧げましたが、「祈ってもらってホッとした」と言われました。私は、いつも祈ってもらっていることを、祈りをもってお返しできたことを主に感謝しました。洗礼を受けて間もない頃、その方が「一緒にさんびしましょう」と言われ、リバイバル聖歌188番主よ、われ今日より全てを打ち棄て変わらぬ愛もて仕えまつらん。汝がため我生きん、これ我が喜び、御跡を踏みゆかん、我が主イエスと讃美しました(現総合聖歌では621番、歌詞は改訳されている)。歌い終わると、「あなたもイエス様のために生きて行きなさいよ。伝道者になりなさいよ」と、真剣に勧めてくれたことを思い出します。あれから50年経ちますが、私が神学校を経て伝道生涯に入り、支えられているのは、こうした祈り手の方がいるからであることを思い、主に感謝します。

本日はピリピ1:21わたしにとっては、生きることはキリストである」という御言葉です。個人的な事ですが、これは私を支える御言葉です。私自身は、この御言葉によって、キリストのために生きる、キリストの救いと恵みを伝えるために生きる、私の人生の全てはキリストのためでありたいということを願っています。今まで曲がりなりにもキリストを伝道する人生を歩んで来られたのは、主の憐れみであり、また皆さん一人一人の祈りと支えがあったからです。また、高校生であった私に声をかけ、献身するように勧め、50年の長きに亘って祈り続けて下さっている方の祈りの支えがあるからです。「わたしにとっては、生きることはキリストである」・・・この御言葉より、主イエス・キリストの語りかけを聴き、祈って新しい一週間を出発して行きたいと願っています。

 

内 容

1、キリストは、私たちの心に住んでおられる救主である。

2、キリストは、「あなたは、わたしに従って来なさい」(ヨハネ21:22)と招いておられる。

資料問題

本書はエペソ,コロサイ、ピレモンと共に「獄中書簡」の一つ。パウロがローマ獄中より紀元62年ごろ記したもの。テモテ後書もローマ獄中で記されているが、書かれた時期が異なるために、上記獄中書簡とは別にされている。ピリピはギリシャの北都の一都市で、ローマ帝国の殖民都市であった。パウロは第二伝道旅行中、トロアスでマケドニア人の幻を見て、パウロたち一行はヨーロッパにわたり、ピリピに導かれ、ピリピ教会がはじまった(使徒16:11−40)。ピリピ教会はパウロの伝道を最後まで支援した。ピリピ教会は恩師の入獄を聞いて、エパフロデトに贈り物を持たせて、獄中のパウロに届けた。ところがエパフロデトが病気になり、彼をピリピに送り返す時に、パウロは感謝の気持を込めてピリピ書を記した。本書は喜ぶという言葉が多く使われ、また手紙全体にパウロの明るい思いがみなぎっているので「喜びの手紙」と呼ばれている。1:21「生きているのはキリスト」・・・パウロは「キリストと共に生きる」「キリストに在りて生きる」「キリストのために苦しむ」「キリストに導かれる」などの考えを述べているが、「生きているのはキリスト」とはこれらの全てを言い表したもので、キリストとの合一を述べた言葉である(ガラテヤ2:19−21を見よ)。21節後半、獄中の死を予期しながら、パウロは天国への確信を吐露している。

 

1、キリストは、私たちの心に住んでおられる救主である。

パウロは獄中で、ピリピ教会のことを思いながら手紙を記しています。紀元50年頃、マケドニア人の幻を見て、パウロ達一行はトロアスから海を越えてマケドニア(ギリシャ)のピリピに行きます。そこで、ルデヤという女性がキリストを信じ、教会が始まりました。ところが無実の罪でパウロとシラスは獄に投げ込まれますが、二人は獄中で主に祈りと讃美をささげところ、大地震が起ります。この不思議な出来事をとおして牢屋番の一家が救われるという恵みが現されました(使徒1611−40)。それ以来、ピリピの教会はパウロの世界伝道を支え続けてきました。晩年、迫害によって獄中にいるパウロのために、励ましと慰めの贈り物を携えて、教会代表のエパフロデトが遠いローマにまでパウロを訪問しています(ピリピからローマまで直線距離で1000キロ以上)。パウロは、ピリピ教会の祈りと献げものについて、感謝と喜びの気持を表しつつ手紙を書いています。そして、ピリピ教会の人々が霊的に恵まれ、成長するためにという祈りと願いとを込め、キリストの恵みの素晴らしさを記しています。

キリストの恵みの最大のものは十字架による救いです。キリストだけが命を捧げて私たちを救って下さった救主です。この手紙の2:6−11に、キリストが天の栄光の位を棄て、人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって人の罪の身代りになり、救いの道が開かれた。キリストは死を打ち破って復活された主であると明確に記されています。この喜びの音信(おとずれ)が福音です。世の中には数多(あまた)の宗教と言われるものがあり、人が幸せになるということを謳い文句にしています。例えば幸せになるために煩悩を棄てるように修行する、念仏を唱える、多くの人を自分の宗教に勧誘する、多額のお布施を捧げる、教祖の墓参りをする、などいろいろな方法を説きます。

聖書は「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)と告げます。人間がどんなに頑張っても限界がある、それは人間が命の源である天地万物を創造された神に背いているからである。それが罪です。罪がある限り、人間は幸せにはなれません。何故なら神は愛であり、きよいお方であるが、その神様から離れているので、人間には善いことをする力がないからです。罪をもったままでいるならば、たった70年か80年の人生を生きた後に、永遠の滅びである地獄に行かなければならない。それは「罪の報酬は永遠の死」というのが神の定めだからです(ローマ6:23)。この厳しい神の定めに対し、罪のない清いキリストが「わたしが人間の罪の身代りになって死にましょう」と、進んで十字架に上って死んで下さった。自分の罪を認め,悔い改めてキリストの十字架を信じる時に罪が赦され、永遠の命が与えられて私たちは生まれ変わり、心に喜びが湧き上がってくる。これが真の幸せです。

本日は聖餐式を行います。聖餐式は十字架を表しています。先ずパンが裂かれます。キリストは十字架の上にご自分を捧げて、両手両足に釘を打ち込まれ、イバラの冠をかぶせられ、脇腹に槍を刺され、文字通り身を裂かれて、私たちの罪のために死んで下さったのです。次に、杯に赤いブドウジュースが注がれますが、キリストが私たちの罪を清めるために血を流して死んで下さったことを表しています。まことに「彼(キリスト)は我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼(キリスト)は自ら懲らしめを受けて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々は癒されたのだ」(イザヤ53:5)ということが、キリストの十字架によって表された恵みです。

キリストは言われます、「あなたの心の扉を開けて下さい。開ければ私はあなたの心の中に入り、いつまでもあなたの心の中に住み、中から内からあなたを助け、導きます」(黙示録3:20)。世の宗教は特別な山に登って、そこで神々に会える(例えば富士山が神)。特別な聖地に一生に一度は行かなければならない(例えばイスラム教メッカ)、特別な河に入って身を清めなければならない(例えばヒンズー教ガンジス河)と言います。キリストは違います。キリストは私たちに限りなく近づいて来られる救主です。キリストは、既に汚れた私たちの罪の心を清めるために十字架にかかって下さいました。死んで終りではなく、死を打ち滅ぼして甦り、永遠に生きているまことの救主です。近づいて来られたキリストを心に迎えることが信仰の始まりです。そして心に迎えたキリストに一生縋って行くことが信仰です。

あなたにお尋ねします。「きょう、今、キリストはどこにおられますか?」。クリスチャンであれば、「主は心の中におられるインマヌエルの主です」と答えるでしょう。ところが、私たちは時々キリストが心の中におられるのに、怖れたり心配したりする場合があります。生きている限りは様々な心配事、問題、人間関係のもつれ、病気、経済問題、孤独、先行き不安な気持に襲われます。そんな時、「イエス様、私を助けて下さい。聖霊の力をもって導いて下さい」と叫びましょう。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」(詩篇50:15)との約束を信じて、「イエス様」と呼んで下さい「わたしは決してあなたを離れず、あなたを棄てない」(ヘブル13:5後半)と言われる、生きているキリストがあなたを助け導いて下さいます。

ある婦人が続けて愛児を二人失った。悲しみと絶望の中にあった時に、ふと「イエス様」という名前が心に浮かんだ。なぜ浮かんだのか分りませんが、小さい時にイエス様の話を聴いたのかも知れません。イエス様のいる所は教会だ。日曜日4キロの道を歩いて電車に飛び乗り、駅からまた歩いて夢中で教会を捜し歩いて、教会の門をくぐった。ちょうど日曜学校の時間で、会堂でユースのクラスをしていた。会堂のベンチに座った途端、何か強い光に打たれたようになって、罪を悔改め、イエス・キリストを救主として信じた。すると今までの悲しみ、不安が拭われ、「イエス様が私と共にいて下さる」と思うと、嬉しくて嬉しくてたまらず、宙を飛ぶようにして家に帰った。やがてご主人も救われました。恵みによって新しい子どもを授かった。「イエス様が共にいて下さる。何があっても大丈夫だ」という喜びにあふれながら、もう60年の信仰生活を送っています。イエス・キリストは生きておられます。イエス・キリストは愛の主です。涙にくれる一人の婦人を救い出し、この婦人がイエス様を心に迎えたことによって、ご主人が救われ、また多くの方が福音に接し、新しい人生に入って行きました。

私たちも主によって救われ、今日まで守られています。皆さんの心の中に、キリストはおられます。キリストに縋り、キリストに頼って行きましょう。もっともっと喜びに満たして下さいと祈りましょう。私の心配事を恵みに変えて下さいと祈りましょう。病気を癒し、問題を解決して下さることを信じて祈りましょう。イエス・キリストの恵みを分かち合う信仰の友を与えて下さいと祈りましょう。「わたしにとっては、生きることはキリスト」であることを大いに感謝しましょう。

 

2、キリストは、「あなたはわたしに従って来なさい」(ヨハネ21:22と招いておられる。

迎えた2005年も1月が終わろうとしています。ここで改めて、「主に従って行こう」ということを決断して祈るようにお勧めします。キリストの命令は非常にシンプルです。最初の弟子であるペテロたちに、「我に従え」(マタイ4:19)と言われています。ペテロはそのつもりで従っていましたが、ある時ふと隣にいるヨハネが気になって、主に「この人はどうなりますか」と尋ねたことがあります。キリストの答は、「あれこれ人のことを気にしてはいけない。あなたはわたしに従って来なさい」というものでした(ヨハネ21:20−22)。礼拝に来て周りを見渡せば100人からの人がいます。つい私たちは、「あの人はどうなるのかなー」とか「あの人だいじょうぶだろうか」とか「もう少しあの人はしっかりしたほうがよい」とか余計なことを考えがちです。キリストは、人のことをあれこれ詮索するのをやめて、「あなたはわたしに従って来なさい」と命じています。この御言葉に従って行くために、大事なことを幾つか述べることにします。

第一に、主に従って行くのは私自身であるということです。他の誰でもない、この私自身が従って行くということです。私自身のことになりますが、私はメッセージを語りながら、これら一つ一つの主の教えは自分への語りかけであると信じています。私の祈りは「私はイエス様に従います」という決断です。

第二に、きょうという日に、新たな思いで主に従って行くことです。本当の意味で主に頼り、従うということは、毎日まるでそれまで従うことについて何もしてこなかったかのように、やり直す必要があります。信仰は一日一日の積み重ねです。昨日従えたことは感謝です。だからと言って今日も大丈夫だということにはなりません。信仰はいつも現在です。きょうという日に聖書を開いて読んで下さい。そして、「きょう主に頼り、主に従う力を下さい」と祈って一日を始めることが大切です。時々もとクリスチャンに会うことがあります。もとクリは「私も熱心に祈りましたよ。教会に行きました。燃えていましたよ」という話をします。では現在どうしているのかと言えば、聖書を読まない、祈らない、教会に行かない、ということで恵まれない生活を送っています。きょうという日に主に従うことが祝福です。

第三に、主に従う者は、信じる者の群れである教会に属して信仰を継続して行きます。キリストを信じる者の群れから離れたら自滅です。キリストは「わたしはブドウの木、あなた方はその枝である。わたしにつながっていなさい。つながっていないものは、幹から切り離された枝が枯れて行くように、わたしから離れたら、あなた方は霊的に自滅し、死んで行き、火に焼かれてしまう。わたしの愛のうちにいなさい(ヨハネ15;1−11)と言われました。ユダは信じる者の群れから離れて、キリストを敵に売り、挙句の果てに首を吊りその体は地面にまっ逆さまに落ちて、はらわたが流れ出て死んでしまっています。デマスという弟子は、群れから離れて行き、この世の楽しみの中に入り込んで信仰を失ってしまっています。キリストを信じる者の群れである教会から離れて行くならば、碌なことはありません。

最後に勧めます。聖霊によって祈り、今まで以上に、キリストにしっかり結びつき、教会に結びつき、信仰の毎日を前進するように祈りましょう。「わたしにとっては、生きることはキリスト」ということを念頭において、私たちの教会が、キリストを喜び、キリストを伝える教会」として進んで行くように祈って下さい。

キリストを喜ぶというのは、どんな意味でしょうか。ふつう一般の価値観は、例えば卒業式で歌われる「身を立て名をあげ、やよ励め」というものに支配されています。私たちは、自分がエリートになり、経済的に満たされることが人生の最大の目的であるように教育されてきました。キリストを喜ぶのではなく、自分に喜びがくるように、自分が尊ばれるように、自分が楽をして生きる者になることが当然と思われていました。ところが、キリストを喜ぶということは、キリストが喜ぶような生き方をしなさい、キリストを心から讃美し、キリストに仕えて生きなさいということです。キリストはいつも他人の事を考え、特に弱い人、病気の人、障害ある人に助けの手を伸べています。私たちもキリストに倣って、他の人のために祈り、時と財を捧げて、例えばホームレス伝道など多くの人を助けることが出来るように用いて下さいと祈りましょう。

キリストは、人が罪に苦しんでいることを解決するために、十字架にご自分の尊い命を捧げて下さったのです。このキリストが尊ばれる教会、すなわち十字架の恵みが常に賛美され、キリストの十字架による救いが常に伝道されて行く教会として前進せよ、というのが主の御心であることを信じます。

 

まとめ ピリピ1:21をもう一度読みます。短い御言葉です。ぜひ暗誦して下さい。

1、キリストは、私たちの心におられますJ。これは信仰の奥義です(コロサイ1:27)。キリストは常に私たちと共にいて下さいます。遠く離れた神ではなく、私たちに近づき、私たちの心の中に入って下さる救主です。キリストは私たちの心の中より内より、私たちを導き、守り、支えて下さっています。キリストに縋る思いを強め、どんな時でも「イエス様」という祈りをもって、信仰の道を今週も進んで行きましょう。

2、キリストは、「あなたは、わたしに従って来なさい」と招いておられます。何があろうとも、イエス様に従って行きます。教会にしっかり結びついて行きます。「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として前進するために、聖霊の導きを求めて祈りましょう。

祈 り

天地の主である神様、救主イエス・キリストによって救いの道を開いて下さったことを感謝します。十字架に命を捧げ、その三日後に復活された、生けるキリストが私たちの心のうちにおられることを感謝します。「わたしにとっては、生きることはキリスト」という御言葉のとおりに、キリストに縋り、キリストを讃美し、キリストの御名によって祈りつつ、日々を喜びの中に前進できるように、神の御霊によって導いて下さい。「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として私たちの教会の歩みを祝福し、救われる者を増し加えて下さい。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ピリピ注解黒崎、フランシスコ会、LAB、「ルイス・目覚めている精神の輝き」「迷ったときの聖書活用術・小形著」