すべてが終わったJesus said、“It is finished.”―救いの成就 ヨハネ19:30  主の2005.3.20受難週礼拝

 

日本では、辞世の句と言って、死ぬ間際に自分の人生を振り返り、家族、友人に向けて、死に臨む気持を歌に託して伝えるという習慣があります。今から約300年前の元禄14314日午前十時頃、浅野内匠守は江戸城松の廊下で、吉良上野介に斬りかかり、その日の夕方に切腹を命じられます。彼は、「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとせん」という辞世の句を残し、それが大石藏之助などの家臣に伝えられ、有名な忠臣蔵が始まって行きます。私が小学校時代に習い、いまだに覚えているのは、江戸時代の俳人一茶の、「盥(たらい)から盥(たらい)に移るチンプンカン」という辞世の句です。昔は赤ちゃんが生まれると盥で産湯をつかいました。死ぬと盥に水を汲んで死体を清めるということをしました。生まれた時、死ぬ時、同じように盥で体を洗うということを皮肉っぽく言っているように受け取れます。

本日の聖書はヨハネ1930すべてが終わった(完了したという御言葉です。キリストは辞世の句ではなく、十字架の上で七つの御言葉を残しています。本日の御言葉は六番目の御言葉で、キリストはこの後に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ2346)と言われ、息を引き取って行かれました。十字架というのは、漢字の十という形の木に、両手を左右に伸ばして横棒に釘付けにし、足は縦棒のほうに釘付けにします。釘を打ち込まれた痛みと共に両手両足から血が流れて、徐々に弱って死んで行くというローマ人が考えた残酷な死刑の方法です。大抵の囚人が痛みと喉の渇きによって狂ったようになって死んで行くと言われています。キリストは、朝の九時から昼の三時まで十字架の上で苦しみに耐えながら、最初に、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ2334)と祈り、最後には「すべてが終わった、即ち人間の救いに関する全ての事完了した」と言われ、「わたしの霊を神様に委ねます」と祈りながら息を引き取り、墓に葬られ、次の復活に向かって行かれたのです。

今週はキリストが金曜日に十字架にかかり、死んで、墓に葬られた受難の週です。来週の輝かしいイースター(復活祭)の前に、キリストの十字架によって与えられた恵みについてメッセージを聴き、祈って受難週の日々を前進し、来週のイースターに備えて参りましょう。

 

内  容

1、キリストは、罪人のために自ら進んで十字架にかかり、救いを与えて下さった救主である。

2、キリストは、十字架によって罪人を神の子にして下さり、人生を導いて下さる救主である。

資料問題

キリストは十字架の上で七つの御言葉を語っている。以下に文語訳で記す。1、「父よ彼らを赦し給え。その為す所を知らざればなり」(ルカ2334)  2、「われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と偕にパラダイスに在るべし」(ルカ2343)  3、「をんなよ、視よ、なんじの子なり」「視よ、なんじの母なり」(ヨハネ1926,27)  4、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ2746、マルコ1534、詩篇221)  5、「われ渇く」(ヨハネ1928)  6、「事おわりぬ(すべてが終わった)」(ヨハネ1930)  7、「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」(ルカ2346、詩篇315)。 「首をたれて息を引き取られた」、首をたれてはマタイ820枕すると同じ。「息を引き取られた」は「霊を渡された」と訳すのが良い。

 

1、キリストは、罪人のために自ら進んで十字架にかかり、救いを与えて下さった救主である。

新約聖書には四つの福音書があり、キリストの一生について記されています。どの福音書も全体の約三分の一を、キリストの地上最後の一週間について、特に十字架と復活に焦点をあてて記しています。キリストがこの世に来られた目的は十字架にかかり、命を献げるためであったからです。キリストが十字架にかかって命を献げて下さったのは、私たち人間の罪の身代わりになるためでした

キリストを信じない者の心は罪に支配されています。「彼ら(神を信じない者)の心は真っ暗であり、神を知らないため、心は頑(かたく)なで、本当の命を持っていない。また恥知らずになり、性的欲望に身を任せ、あらゆる不潔な行いを欲しいままにしている」という罪の心です。それは「生まれながらの利己的な性質丸出しの生活をしており、ほかの人たちと同様、神の怒りを受けなければならない怒りの子であった」という状態です(エペソ51819,23現代訳)。キリストを信じない者は罪に支配され、怒りの子であり、否定的な、後ろ向きな考えに支配され、心には苛立ちがあるという不安定な状態の中にいます。

例えば、キリストを信じない者は劣等感に苛(さいな)まれています。キリストを見ないで、人間を見る時に、それは常に比較の世界です。人が皆、立派に見えて「自分は駄目だ」と否定的な気持になり、落胆し、劣等感を持ってしまいます。また、キリストを信じない者は罪責感(罪悪感)に責められています。「あんな事を言わなければよかった」という後悔があります。「この事だけは人に知られたくない」と隠している悪事があります。そうした事から、キリストを信じない者は、心に安定がなく、イライラとした怒りの感情に支配されて、人に当り散らすことになります。ささいなことを言われただけで、すぐに腹がたってしまいます。キレルと言いますが、自分自身をコントロール出来なくなってしまう事があります。電車の中で肩が触れたという小さなことで怒りを爆発させ、人を殺して一生を台無しにしてしまうような事件が報じられています。

罪に支配され、滅びに向かって行く人間を救うために、キリストは「私が人間の罪の身代りになります。罪の罰である死を引き受けて十字架で死んでお詫びをします」と決断され、1917イエスは自ら十字架を背負って、されこうべ(ゴルゴタ)という場所に出て行かれた」のです。私たちを愛しておられるキリストは、私たちの受けるべき罪の罰をご自分の身に受け、「救いのわざのすべては終わった(完了した)」と宣言され、十字架の上に命を献げて下さったのです。

キリストの十字架を信じると、どうなるのでしょうか。

キリストの十字架を信じると、救われます。救われるとは、キリストの十字架によって罪を赦され、神様と正しい関係に戻り、神様を「アバ(お父ちゃん)」(ロマ815)と呼ぶ神の子になったということです。

キリストの十字架を信じると、神様を中心にして生きるという目標が与えられます。自分中心ではなく、神様を愛し、また周りの人々を愛するという人生に変わって行きます。

キリストの十字架を信じると、生きる力が心の内より湧き上がってきます。神様が命の源です。キリストによって神の子になった者に対して、命の力が注がれます。

カレンダーでおなじみの星野富弘さんを多くの方が知っている事と思います。星野さんは中学校の体育教師になって2か月目、生徒を指導中に、空中転回に失敗し床に激突。気がついたら病院のベッドにいた。頸髄損傷で首から下は麻痺し全く動かない体になってしまった。絶望の日々の中で聖書を読み、「すべて重荷を負う苦労している者はわたしの許に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ1128)という御言葉に接し、高校時代この御言葉を見たことを思い出します。農作業の手伝いで裏山の道を登って行くと、小さな墓地があり、真っ白な十字架が建てられ、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」と記されていた。それを思い出し、自分が健康で何も知らないでいた頃から、キリストは教会のない山の中に、既に十字架の恵みを備えていたのだということを知ります。この墓標は神部亮(まこと)さん・あいさん夫妻が立てたものです。次男の聖(さとし)ちゃんがダウン症で、しかも心臓に穴が開いて生まれた。直らないと宣告されたが、母親のあいさんは「神様、どうしてですか、なんとかならないのですか」と子どもの枕元で毎晩祈った。196243日、聖ちゃんは8か月の短い生涯を終えて、天に召されます。あいさんは「納棺の時に一緒に入りたいと思った」そうです。4か月後、墓に白い十字架を立て、息子は一番よい所に行ったのだという思いから「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」というイエス様の御言葉を記した。その8年後に星野さんは事故に遭い、聖書を読み、高校生の時に見た白い十字架を思い起し、洗礼を受け、筆を口にくわえて絵を描くようになります。「愛、深き淵より」という自伝を出版しますが、その本を神部さん夫妻が読んで、次男の墓に立てた白い十字架が、星野さんの救いの切っ掛けになった事を知り、星野さんと会います。息子が天に召されて20年後に「自分達が息子の病気で悩み、苦しんだ事が無意味ではなく、息子の短い生涯にも大切な意味があった」ことを知り、神様に感謝します。

キリストの十字架に救いがあり、人生を新しくする力があります。十字架の救主イエス・キリストに感謝しましょう。主の救いを讃えましょう。十字架に縋って、信仰の道を歩んで行きましょう。

 

2、キリストは、十字架によって罪人を神の子にして下さり、人生を導いて下さる救主である。

キリストの十字架に救いがあります。キリストの十字架を見上げ、悔改めて、祈って「イエス様、どうぞ私の心の中に入って下さい」と、心の扉を開いてキリストを心にお迎えすることによって、罪が赦され、私たちは神の子になる恵みを即座に与えられます。

明治から昭和のはじめにかけて内村鑑三(18611930)というクリスチャンがいました。彼は十代でキリストを信じ、学びを終えて仕事につき、結婚をし、希望をもって人生を歩み始めました。ところが結婚生活がうまく行かず離婚に至ります。彼は心の傷を癒し、また再出発のためにアメリカに留学します。彼は、「自分は本当に神を信じているのだろうか。信じているのに、自分の中には罪があって、心が苦しい」と悩みます。その時にアマスト大学学長シーリーが言います、「内村くん、君は子どものように、植木鉢の木を引き抜いて根ばかり調べている。なぜ神と日光とに委ねて、安んじて君の成長を待たないのか。内を見ず、外を見なさい。自分を見ず、十字架上のキリストを仰ぎなさい」。この一言によって、内村鑑三はキリストの十字架のもとに身をなげて、キリストを仰いで罪の身のままに、汚れたままに、義とされ、清められるに至ったのです。彼は日記にこう記しています、「わが生涯におけるきわめて重大な日。キリストの罪の赦しの力が、今日ほどはっきりと啓示されたことはなかった。今日までわが心を悩ませていたあらゆる疑問の解決は、神の子の十字架の上にある。キリストはわが負債をことごとく支払いたもうて、われを、始祖の堕落以前の清浄と純愛に連れ戻したもう。今やわれは神の子であり、わが義務はイエスを信ずることである。彼のゆえに、神はわが望むものをすべて与えたもうであろう。神はわれを神の栄光のために用いて、ついに天国においてわれを救いたもうであろう」(1886年(明治19年)3月8日、26歳の時)。

キリストを心に信じ受け入れるとは、キリストに自分を任せるという決断をすることです。内村鑑三は、罪のままに、疑問をもつままに、しかしキリストに自分の身をなげるという決断をしたことによって、十字架の赦しを体験しました。キリストのもとに身をなげるとは、キリストに自分の身を任せて行こう、何があってもキリストに縋って行こうという決断を表しています。私事になりますが、私にも決断の時がありました。高校生の時に罪を示された。その時に小さな御言葉のカードがあり、その一枚を取ってみると「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ1010)と記されていた。それを読んで、まず自分の思いだす限りの罪を口に出して告白し、キリストの赦しを求めて小さな祈りを捧げました。キリストの十字架の意味などは充分に理解してはいませんでしたが、洗礼を受けたことは本当に大きな喜びでした。しばらくして洗礼を受け、教会生活をしている中で、キリストが十字架で血を流して死んだことによって救いの道が開かれたことをハッキリと知り、また祈りを教えられ、奉仕に加わり、自分の信仰が成長して行ったことを思い起し、主に感謝あるのみです。

キリストを信じるクリスチャン生活の基本は決断の連続であることを心に留めて下さい。キリストは天の栄光の位を棄てて、人間となって地上に下ろうという決断をされた。公の伝道生涯に入り、まずユダヤ全土に神の国の教えを伝えようと決断され、3年半の間、伝道に専念しています。最後にゲッセマネの園で祈り、父なる神の御心に従い、人間の罪の身代りになって十字架で死ぬという決断をされた。敵の中に身を投じ、逮捕、裁判を通して十字架につくという決断をされ、実際に十字架にかかって下さったお方がキリストです。次から次へと決断しながら進んで行かれたキリストに倣って、私たちもキリストの弟子として従って行こうという決断をもって祈って下さい。「いきいきとしたクリスチャンライフ」の表を画面に写します。(最後のページの図をご覧下さい

皆さんは、今、この図のどのへんにいるでしょうか・・・。よく図をご覧になって、きょう、新しい決断をもって、また一歩前進するように祈って行きましょう。繰り返しますが、クリスチャン生活は決断の連続であり、キリストに従い続けることが大切です。そのために聖霊に頼って、毎日お祈りすることが大切です。今週はキリストの十字架の週で受難週です。キリストの十字架の救いに感謝して、祈って下さい。またキリストの十字架の恵みを日々に讃美して行きましょう。

キリストにのみ救いがあり、キリストだけが罪を赦し、キリストによって人生が新しくなります2週間前、ここから50キロ離れた所に住む青年から「ホームページを見た。相談に乗って下さい」との電話があり、次の日に教会に来てくれました。個人的にキリストを伝える恵みが与えられ、継続してキリストを求める決心をされ、先週も教会に来てイエス様のことを学びました。1週間前には女性の方から電話があり、翌日教会に来て、キリストの救いを個人的に受け入れ、これからも継続してイエス様について学んで行く事になっています。今週はキリストを伝えに大宮に出かけて行きます。世の中には重荷を抱えている人々が沢山います。星野富弘さんは「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」と招かれるキリストによって救われました。今、紹介したひとりの青年はキリストを求める人生へと踏み出し、ひとりの女性は魂が救われ、お祈りできるようになっています。こうした伝道の機会を神様が与えて下さったのは、主が「世の中には苦しんでいる人がいる。その解決策はキリストの十字架ある。もっと伝道しなさい」ということを教えて下さっているのだと信じます。

 

まとめ・・・「すべてが終わった(完了した)」と言われ、救いの道を開いて下さった主に感謝します。

1、キリストは、罪人である人間を救うために、自ら進んで十字架に命を献げ、私たちのために救いの道を開いて下さった救主です。十字架による救いに感謝をささげ、イースターに向かいましょう。

2、キリストにより神の子にさせてもらったことを感謝し、キリストから目を離さないで、「いきいきとしたクリスチャンライフ」を前進して行くように祈りましょう。

キリストの十字架にすべての恵みがあることを信じて祈りましょう。神様が健康のこと、経済のこと、家族のこと、仕事のこと、人間関係などのあらゆる祈りに答えて下さることを信じ、イエス・キリストの御名前によって祈りましょう。恵みの座に出て祈りましょう。

祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストを私たちの救いのために遣わして下さったことを感謝します。私たちの罪と病のために、十字架で苦しみを忍ばれ、「すべてが終わった」と言われ、救いを成し遂げて下さったイエス様に感謝します。受難週の日々を祈り深く過ごし、来週のイースターを喜び迎えることができますように導いて下さい。今週の土曜日は上野公園ホームレス伝道があります。おにぎりなどの献げ物が豊かにささげられ、私のメッセージを祝福し、音楽奉仕を祝福し、給食活動の奉仕を祝福して下さい。病気の方を癒し、戦いの中にある方に勝利を与えて下さい。十字架によって救いを成就されたイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解―黒崎幸吉、フランシスコ会、米田豊、バークレー、榊原康夫、LBA. 「内村鑑三の根本問題・山本泰次郎・教文館」 星野富弘―「愛、深き淵より」「Journey of the wind」−立風書房、「鈴の鳴る道」「速さの違う時計」−偕成社