同じ心、同じ思いになって コリント第一11017      主の2005.4.24礼拝

 

「無教会派」に塚本虎二18851973という伝道者がいました。東大を出て役人になりましたが、職を辞して内村鑑三18611930の下でフルタイムの伝道者になった人です。内村鑑三が主宰する集会で副牧師のような立場で奉仕していましたが、内村鑑三と行き違いがあり、彼は師と別れて疎遠になり、自分で集会を開きます。内村鑑三が病床に伏した事を聞きますが、「先生は自分を必要としていない」として、見舞いに行く気持になれなかった。しかし勇気を奮って見舞いに行くと、恩師は二時間前に亡くなったことを知り、ショックを受けます。葬儀の後に、病床で内村鑑三が「塚本はまだ来ないか、あんなに愛していた塚本と、こんなにして死ぬことはできない」と言って塚本が来るのを待っていたという事を聞かされ、彼は「先生すみませんでした」と声をあげて男泣きに泣きます。彼は「十字架のない所にキリストはいない、十字架に赦しがある。先生は十字架によって私を赦していた。それなのに、自分は愛と赦しの十字架を忘れていた」ことを、悔改めます。それから彼は生涯を賭けて、キリストの十字架と復活を宣べ伝える伝道者として生涯を全うします。

本日はコリント第一1:10−17です。この箇所には、教会員が派閥をつくり、教会が分裂状態の危機に陥っていることが記されています。パウロは、ここから4章に至るまで、分裂に対する真の解決はキリストの十字架にあることを教えています。内村鑑三と塚本虎二は行き違いを生じ、塚本は内村を恨みに思っていましたが、キリストの十字架によって、自分の間違いを正されました。パウロは、全てのクリスチャンがキリストの十字架によって同じ思い、同じ心になって伝道し、恵みに溢れた教会を形成することを願っています。主のメッセージに耳を傾け、共に祈って新しい一週間の旅路を踏み出して参りましょう

 

内 容

1、キリストが救主であり、主である。キリストを中心にして行こう。1:10−13

2、キリスがj救主であり、主であることを宣べ伝えて行こう。1:14−17

資料問題

1:10−6:20は本書の主要部分で、パウロが耳にしたコリント教会の内部分裂の事が取り扱われている。本日の箇所でパウロはコリントの信徒に一致することを訴え10節)、どこから分裂について聞いたかを示し11節)、四つの分派について述べ、そのうちの二つについて特に論じ12−17節)、この世の知恵とキリストの十字架との対比を教える18節以下の導入としている。 11節、クロエはエペソ在住の婦人で商業を営んでいた女主人であったらしい。彼女の使用人達でコリントヘ行った者があり、その中にクリスチャンがいて、コリント教会に行ったものと思われ、その様子が伝えられた。12節、アポロはアレキサンドリア人。雄弁と聖書に対する博識で知られ、パウロが去った後にコリントで伝道した(使徒18:24、19:10)14節、クリスポは以前コリントの会堂司であったが、パウロの導きにより最初に改宗した者の一人(使徒18:8)。ガイオはパウロが第3回伝道旅行でコリントに滞在した時に、宿を提供し、自宅を教会として開放していた人(ローマ16:23)16節、ステパナの家の者はアジアの初穂である16:15)。

 

1、キリストが救主であり、主である。キリストを中心にして行こう。1:10−13

さて、兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなた方に勧める。みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし(仲間割れがないようにし)、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。(10節)

パウロは、挨拶と感謝を終えて(1−9節)、ここから本題に入って行くのですが、先ずコリント教会の人々に対し、2回「兄弟たちよ1011節)と呼びかけています。パウロは、コリント教会の混乱と分裂を正し、厳しいことも言わなければならない。そこで、「兄弟たちよ」と呼びかけることによって、これから述べることは非難、審きのためではない。コリント教会の人々に、キリストの愛を知らせ、ひとり一人が信仰の道を真っ直ぐに歩むことを願って、手紙を記すのである。その愛の気持を込めて、パウロは「兄弟たちよ」と呼びかけています。さらに、「兄弟たちよ」と言う事によって、あなた方ひとり一人はキリストによって救われた者ではないか。お互い同志キリストにあって神の家族であり、兄弟姉妹ではないか。それなのに何故に争い合っているのかということを問い質しています。そして、「兄弟たちよ」と呼びかけることによって、キリストの救いを受けている兄弟姉妹として、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334)というキリストの御言葉に従うことを伝えようとしているのです。

1213において、パウロはコリント教会に実際に起っていたことを指摘しています。それは教会が四つのグループに分かれて争っているという憂うべき状態です。パウロの名前を名乗るグループがありました。最初の伝道者であるパウロを重んじる人々の集まりです。だが、ウロが信仰による救いを説いたのを悪用して、信仰さえあれば行いはどうでもよいという極端な主張をする人々もいたようです。アポロの雄弁を慕っている人々がいました。ケパとはペテロの事です。ペテロはコリントに来た事はないのですが、12弟子の筆頭ということで、パウロを排斥するためにペテロを担ぎ上げる人々がいました。キリストに属する者というのは、別に問題がなさそうですが、キリストの名前を利用して、自分達が一番すぐれていると主張するグループであったようです。

ここで、改めて心に留めておきたいことは、クリスチャンとはどういう者であるかということです。

第一に、罪を認めて悔改めた者です

第二に、キリストの十字架は私の罪の身代りであることを信じて、キリストを心の中にお迎えした者です

第三に、古い自分をお葬式して、キリストの復活の命をいただいて、教会に繫がっている者です(直接教会に来られなくてホームページでメッセージを読んでいる方々がいます)

さらに言えば、救主であり主であるキリストを讃美し、常にキリスト第一に生きているのがクリスチャンです。

キリスト中心に生きるのがクリスチャンです。キリスト中心から脱線すると、人間中心、人間崇拝になります。私たちは信仰的にすぐれた人々を見て、その人たちの信仰的生き方を見習って行こうとします。それはそれで良いのですが、しかし、どんなにすぐれた人であってもキリストによって救われたから、輝いた人生を生きるようになったことを忘れてはなりません。パウロ、ペテロの手紙を読めば、「イエス・キリストが素晴らしい」ということを力説しています。私も多くのすぐれた伝道者の先生から教えを受けて来ました。102歳で天に召された当教団の創立者弓山先生は、500人以上の伝道者を直接に育てた稀にみる偉大な神の人でした。しかし、「イエス様だ。イエス様の十字架を見上げて前進じゃ」と常にイエス様が一番であることを教えてくれました。私たちにキリストを直接に伝える個人伝道を教えて下さったのは豊留先生です。日系アメリカ人として、アメリカ・コロンビア大学でキリストの研究で博士号を取得し、国際キリスト教大学の初代教授、大学チャペルの初代牧師という人間的には輝く経歴の持ち主でした。しかし、「私はキリストきちがいの豊留です」と謙虚に自己紹介され、キリストのみを見上げる事を身を持って教えてくれました。その他、多くのすぐれた先生方に導かれましたが、それらの先生方が用いられたのは、ただキリストを現したからであるということを教えられて来ました。ですから、私たちの教会は「キリストを喜び、キリストを伝えよう」ということを目標にし、ひとり一人が堅くキリストに結びついて行くことを祈り願っています。

私たちの主はキリスト、教会の頭(かしら)はキリストであり、私たちはキリストに堅く結びついています。先日、新しいローマ法王が選出されました。テレビのニュースで新法王の出身地ドイツの村が紹介されていましたが、パッと画面にマルティン・ルッター14831546の顔が出てきました。16世紀、ドイツは宗教改革発祥の地であり、カトリックからプロテスタントが分かれて行ったことが短く紹介されていました。何故分かれたのかと言えば、法王が、人は死んだら大部分の人は天国でも地獄でもない煉獄に行くという聖書にない事を教えたからです。あなたの親や兄弟が煉獄で苦しんでいる。煉獄を出て天国に行くために、免罪符というものを買えばよいと教えられて、人々はお金を差し出しました。そのお金を建設資金にして、法王は壮麗な建物を建てていました。ルッターは聖書を読んで、人はキリストの十字架を信じれば誰でも救われ、天国に行ける。それは信仰による救いで、お金はいらない(ローマ328。煉獄という教えは聖書にないことを明らかにしたため法王から迫害を受け、信仰の自由を求めてカトリック教会から離れ、私たちが属しているキリスト中心、聖書中心のプロテスタント教会が始まりました。もう一度言います、キリストが私たちの救主であり、主であり、教会の頭(かしら)です。このキリストにしっかり繫がって、信仰の道を祈って前進しましょう。

 

2、キリストが救主であり、主であることを宣べ伝えて行こう。1;14−17

いったい、キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それはキリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。(17節)

14−17節において、パウロは自分の使命について述べています。彼は、「私にとっての第一使命は、キリストの福音を伝道することである。信じた人に洗礼を授けるが、しかし私は地の果てまでも伝道したい。これを最優先にして行きたい」ということを述べています。

なぜ、パウロはわざわざこの事を述べているのでしょうか・・・。それは13節後半「パウロの名によってバプテスマを受ける」とあります。「私はパウロ先生から洗礼を受けた」ということを自慢し、「だから私はパウロ先生に従う」という名目で派閥をつくる人々が出てはいけない。それで、自分は僅かな人々にしか洗礼を授けていないという事を、皆に知らせています。洗礼の事ですが、「キリストを信じて、父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、キリストに結びつき、教会員となって信仰の道を歩む」ことが大切なことです。洗礼を受けてキリストに結びつきます。キリストを信じた者は、キリストにつく者、キリストに忠誠を誓って生きる者という事でクリスチャン、またはキリスト者と呼ばれています。キリストにつくという事を忘れると、パウロにつく、アポロにつくという人間に結びつく派閥が生まれることになります。何にも勝ってキリストに結びつくことが信仰の基本であり急所です。そして、教会に繫がり、神が立てた教会の牧師を通して、神の御言葉をもって信仰を養われて行きます。

ここで少し教会について述べておきます。教会では常に聖書が紐とかれ、聖書の御言葉によるメッセージが語られ、伝えられて行きます。教会に集まる者は、神の御言葉を聞きっぱなしにしないで、御言葉を自分の身に当てはめ、祈ってキリストに従う決断をして、信仰生活を持続して行きます。牧師には神の御言葉を語り伝える使命が与えられています。もし「あの教会に行くと政治が語られ、経済が論じられ、グルメの話がされて面白い。だが肝心のキリストの話がされない」ということであれば、それは教会ではありません。

皆さんに祈ってもらいたいことは、「熊谷福音キリスト教会では、先ず神の御言葉が純粋に説き明かされる、キリストの恵みが多く語られる、聖霊が豊かに働いていて心が恵まれる、祈りに力が入る、お互いの交わりがキリスト中心であたたかい。この素晴らしい恵みを下さったイエス・キリストを伝道して行こう」ということが、常に実践され、教会が霊的に力強く成長して行く事です。

どうぞ、御言葉に仕える牧師夫婦のために祈って下さい。

宣伝をします。6月初めまで、伝道インターン生として荻野倫夫神学生が奉仕しています。水曜日の朝と夜の集会メッセージをしていますが、よく御言葉を学んで説き明かしてくれるので、分かり易い内容で恵まれます。水曜日、金曜日の早天祈祷会のメッセージもしています。その他睦子と共に求道者のための聖書の学び、訪問、教会実務などで一生懸命に奉仕をしています。

改めて皆さんに訴える事は、水曜日の祈り会に出て、御言葉を学び、また祈りをささげて下さい。忙しい、遠い、なかなか時間がとれないなどと言わないで、まず「日曜礼拝と共に水曜祈り会に出席できるように」と祈って下さい。必ず出席できるようになり、信仰が飛躍的に成長して行きます。

なお、私たち夫婦は5月20日から6月2日までイギリス・ノルウエーに伝道に行きます。イギリスの馬場さんご夫婦がいろいろとお世話して下さいます。まず5月22日ロンドンの日本人教会(盛永牧師夫妻)で礼拝メッセージをします。5月28日ノルウエー・スタバンゲルの集会、29日オスローで礼拝メッセージをします。その他、家庭集会、個人伝道研修会などがあり、私たち夫婦で奉仕をします。ノルウエーには馬場さん夫妻(愛実ちゃんも同行)が仕事を休んで一緒に行ってくれます。経済的な事ですが、私たちは飛行機代、現地での必要経費を負担します。イギリスでは馬場さん夫妻の家に泊めてもらいますが、馬場さんの捧げもの、また仕事を休んで伝道に同行するという愛の奉仕があります。ヨーロッパにいる日本人クリスチャンにキリストの愛と恵みをたっぷり伝える、恵まれた伝道旅行となりますように、私たちのために、馬場さん夫妻のために祈って下さい。留守の教会は荻野倫夫神学生が担当し、守ってくれます。倫夫神学生のために、また荻野さん一家のために祈って下さい。愛雄・稚佳子夫婦も、留守を守りますのでお祈り下さい。

本題に戻ります。14−17節を通して、パウロは「コリントでは自分は福音を宣べ伝えるのに忙しく、他のことをする暇がなかったことを喜んでいる。信じた者に洗礼を授けることは大事な事である。だがその働きは他の人に委ねて。私は伝道に専念した。それが結果的には『パウロから洗礼を受けた』と言って、自分を利用する人が少なくてすんだ」ということを言っているのです。パウロが何よりも優先して伝えたのはキリストの十字架の福音でした。17節後半を読みます。「キリストの十字架が無力になってしまわないためである」。人々が人間的なことで争いあって、キリストの十字架が伝えられなかったら、全てが空しくなります。キリストの十字架にのみ救いがあります。それを空しくさせるような愚かな争いをやめなければ、教会は力を失い、救いの恵みが分からなくなってしまいます。私たちも、キリストの十字架がボヤケないように、常にキリスト中心で進んで行きましょう。

 

最後にまとめます

第一に、10−13節を通して、キリストが唯一の救主であり、主である。何をするにもキリスト中心で行こうということを知らされました。「私は何をするにも、人間中心ではなく、キリスト中心で行こう」ということを、祈って決断しましょう。

第二に、14−17節を通して、キリストが救主であり、主であることを宣べ伝えて行こうということを知らされました。教会で常に神の御言葉が語られ、祈りがささげられ、お互いの交わりがキリスト中心になされ、キリストを伝道して行く群れであるように、その一員として「主に従って行きます」という祈りをささげ、「私を用いて下さい」と祈りましょう。

 

祈 り

天地の主である神様、コリントの手紙を通してキリストを中心にして行くことを教えていただきました。どんなに素晴らしい人がいたとしても、その命は限られ、全能ではありません。しかし、イエス様はきのうも、きょうも、いつまでも変わることのない永遠の救主です。イエス様だけが十字架に命を捧げて、私たちの罪の身代りになって下さった愛の主です。私たちが考え、行動し、仕事をし、学ぶ時に、聖霊の助けによってお祈りしながら、イエス様の御心に従って行けるように導いて下さい。病気の方々に平安と癒しを与えて下さい。信仰の戦いの中にある方々を支えて下さい。仕事を求めている方々にふさわしい仕事を備えて下さい。仕事をしている方々がそれぞれの仕事を充分にして、よき結果を得ることが出来るように助けて下さい。キリストにあって、同じ心、同じ思いをもって、互いに祈り合い、赦し合い、助け合い、キリストが言われたように互いに愛し合って行くように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献コリント書注解―バークレー、フランシスコ会、榊原、黒崎、佐藤順、竹森。LAB。 「平明訳コリント書」、「塚本訳コリント第一」、「キリスト教の事典・三省堂」、「死に勝つ・塚本虎二・聖書知識社