「裁きでなく、ゆるしを」  ロマ3:21-26   2005.5.22

荻野倫夫・神学生

導入

ジャン・バルジャンは、小さな罪で長年投獄され、恨みを抱いて出獄してきた。そんな彼を、一人の神父が温かく家に迎え入れた。ところが神父の暖かい好意も、ジャンの凍った心を溶かすことはできなかった。ジャンは、神父を殴り、銀の食器を盗んで逃亡する。程なくしてジャンは警察に捕まり、神父のところへ連れてこられる。警察は神父に尋ねる。「こいつが銀の食器を持っていました。こいつはこれを神父さんからもらった、と言っています。」神父は言う。「そうです、この銀の食器は私が彼にあげたものです。」そしてジャンに声をかけ、「君、銀の燭台を持っていくのを忘れていたよ。」そう言って銀の燭台も持たせてあげた。警察が帰った後、神父はジャンにこのように言った。「君はもはや新しい人間だ。君はもう悪人ではなく善人だ。私は君の魂を破滅と絶望から引き出し、神に献げたんだ!」この後ジャンは劇的な変化を遂げ、人々のために尽くす一生を送った。(ユーゴー「ああ無情」より)
面白いことに、ジャン・バルジャンを善人に変えたのは、長い年月の牢獄という法による刑罰でなく、神父の無条件の許し、という行為だった。人を生かすのは裁きでなく、ゆるしである。神は私たちを裁くのでなく、ゆるしてくださっている。今日はロマ書3:21−26から神のみ言葉を聞いていこう。

I. 律法とは別に

「律法とは別に」とは「律法を行うこととは無関係に」という意味である。パウロは、神の義(後述)は、私たちが律法を行うこととは全く無関係だ、と言っている。私たちは律法を行うことから、まず開放されなければならない。多くのクリスチャンは未だに律法に生きて、惨めなクリスチャン生活を送っている。私たちが律法を行うことから解放されることは、どれだけ強調してもし過ぎることがないくらい、クリスチャンの恵みの生活を送るのに必要な要素である。今日はこの律法からの開放をまず学びたい。

A. 人を裁くことからの開放

 律法に生きている人は、人を裁く。まだクリスチャンでなければそれも分かるが、私たちは往々にして、クリスチャンになってからも、人を裁く。人を裁くクリスチャンは、未だ律法に生きているのだ。
 イエス様はこんなたとえ話をした。ある日、律法学者と取税人とが、祈るために宮に上った。律法学者は律法学者というその名のとおり、律法に熟知し、微にいり細に入り、その教えを実行していた。その自負から彼はこう祈った。「神よ、わたしはこの取税人のような人間でないことを感謝します。」(ルカ18:11)律法学者は取税人を罪人として裁き、自分は正しい、と考えていた。一方、取税人は、こう祈った「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカ18:13)取税人は律法学者の言うことが聞こえていただろう。彼だって反論できたはずだ。「そんな風に人を裁くおまえ自身が、まさに罪を犯している」だが取税人はそのようなことをしなかった。惨めに見える取税人のほうがむしろ、人を裁くことから開放されていた。イエス様はこのたとえ話を以下のようにしめくくっている。「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。」(ルカ18:14)
 人を裁く者は決して義とされない。律法からの開放とは、まず第一に、人を裁くことからの開放を意味する。

B. 自分を裁くことからの解放

 第二に律法からの開放とは、自分を裁くことからの開放を意味する。私は高校生の頃、自分は絶対に地獄へ行く、と思っていた。なぜなら私は罪人だったからだ。私はいくら努力しても、完全に罪を犯さない生活はできなかった。私にとって神とは、どんな小さな罪も見のがさない神であり、恐ろしい神だった。私は教会に行ってたし、すでに洗礼も受けていた。教会学校の手伝いも始め、周りから見たら、順調に成長しているクリスチャン・ホームの子だったろう。だが内面は地獄の恐怖におびえていた。自分のような決して罪から逃れられない者が天国へ行くとはどうしても想像できなかった。
 この中にももしかしたら、高校時代の私と似たような考えに陥っている人がいるかもしれない。これは自分を裁く、という律法の別の働きである。律法のもたらすものは、人を裁く、あるいは自分を裁く。いずれにしても裁きである。一方はその裁きが自分の外に向かい、他方は裁きが自分の内側に向かう。その方向は別だけれども、呪いをもたらすという意味では、同じである。いずれの形の律法主義も、取り除かれなければならない。

C. 二人の夫を持つことからの解放!?

 ここでもうひとつ、パウロの説明を加えて、私たちは金輪際、律法に対して縁を切ることとしたい。
 ロマ7:1−4
一人の女がいた。彼女には夫がいた。もしこの夫が生きている間に別の男のところに行ったら、この女は姦淫の女である。だがもし夫が死ねば、この女は姦淫の女とならない。何を言っているのだろうか?
 これは男女の関係について言っているのではない。これは律法に対して死んで、キリストと共に生きる、ということの比喩である。一人の女性は、クリスチャンを指す。夫は律法を指す。他の男性はキリストである。もし律法とキリストと共に付き合うならば、それは姦淫に他ならない、と言っている。キリストと共に生きるには、律法に対して死ぬしかない。その中間はなく、律法に生きるか、キリスト共に生きるか、二つに一つである。あなたはキリストを愛しているだろうか。もしそうならば、律法と縁を切らなければならない。そうでなければキリストとのハッピー・ライフは望めない。

II. 律法と預言者とによってあかしされて

A. 律法と全く無関係で、かつ律法によって証しされている!?

 私の幼馴染のN君が昨日、私をご飯に誘った。「よお、今日夕飯食ってくか」更にN君はこんなアイデアを出した。僕の妹のRにご飯を作ってもらおう、というのである。N君は「じゃあ、Rちゃんにご飯作って、って言っといて」と私に伝言を頼んだ。その矢先、彼女は奥さんのCちゃんに「今晩何食べようか。Cちゃん、純和風で攻めてみれば」と注文をしていた。一体今晩のご飯は誰が作るのか。私の妹のRが作るのか、それとも彼の奥さんのCちゃんが作るのか。自分はすっかり困惑させられてしまった。だが、恐らくN君は両方とも本気だったのだ。
 あわよくばRが作ってくれたらそれはラッキー。それはそれで食べてみたい。だがそう言った直後に、全く矛盾することにCちゃんに料理を作るよう依頼。一応幼馴染のよしみで、Cちゃんの料理で僕をもてなそう、とも思っていたのだ。一見矛盾するが、この両方の言葉を本人はそれぞれ本気で言っている。
 パウロもここで似たようなことをやっていて、読む私たちを困惑させる。一方で神の義は「律法と全く無関係」と言い切っているのに、その直後に、「しかも律法によって証しされて」とつながる。つまり神の義はここでは律法によって証明されている、と言っている。それでは無関係ではないでないか。深い関係がある。一体神の義は律法と無関係なのか、深い関係があるのか、どっちなのか。
 だがパウロは両方とも意味があって本気で言っている。彼はこのように矛盾して聞こえる事を言わざるを得なかったのだ。あの私の幼馴染のN君のように。

B. 旧約聖書の完成者、イエス・キリスト

 パウロが律法と全く無関係、と言ったのは、誰一人律法を全うした者はいないからだったが、実は、たったひとり、律法を全うした人物がいた。彼は十字架の死に至るまで、神の御心を完全に行っており、完璧に神の律法を遂行した。それがイエス・キリストである。つまりここでパウロが「律法と預言者とによって証しされて」とは、律法の完成者であるイエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順を指して言っている。
 そこでパウロは、神の義は、誰一人律法をまっとうできない、と言う自覚から始まるのだよ、と言った矢先、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順、という人類史上空前にして絶後の、律法の完成、を紹介するに当たって、「しかも律法と預言者とによって証しされて」と付け加えているのだ。一見矛盾しているが、こうしてみてみると、なるほど筋は通っている。

C. イエス・キリストの贖い?身代り?

 パウロは24節で「キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」と説明している。だが「あがない」とはなんだろう?
 この言葉は、奴隷解放の言葉である。ローマの教会の人々は、この言葉の意味がよく分かったろう。ローマ16章を見ると、たくさんのパウロの個人的知り合いの名前のリストがある。その中で、「元奴隷」の人の名が結構あるらしい。この「元奴隷」で今は解放されている人を英語で「freeman」と呼ぶ。つまり「自由人」「解放された人」という意味である。ちなみにこのローマ書を書いた書記に当たる人物テルテオも、元奴隷のfreemanではないかと言われている。恐らくパウロよりもギリシャ語が堪能で、パウロの言葉を美しいギリシャ語で口述筆記できる人物だったのではないか、と考えられている。実際当時のローマのfreemanは私たちがイメージするようなものではなかった。ビジネスマンや医者、学者等、とても「元奴隷」などとは思えない、社会的に高い地位を占める人も少なくなかったのだ。
 奴隷から自由人になるには、ローマ市民権を買わなければならない。非常な高額を支払わなければならず、簡単に奴隷から解放される訳にはいかなかった。このローマ市民権を買って、奴隷の身分から解放されることを「あがない」と言う。「キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」とはfreemanにとって、身につまされる表現だったに違いない。高い代価を払って自分がローマ市民権を得たように、罪なき御子イエス・キリストの血の代価と言う、これ以上ない高い代価によって、私たちは買い取られた。私たちはそれゆえ、自由だ、と。

III. 神の義

 神の義という言葉が21−26節の間に4回繰り返されている。この神の義という言葉の意味を誤解したら、この説全体を誤解することになる。神の義とは何か。

A.神の義は罪人を義とする

 パウロにとって神の義とは、"不信心な者"(口語訳)"不敬虔なもの"(新改訳)(ロマ4:4)を義とするものである。別の言葉で言えば"罪人"を義とするのである。
 ジャン・バルジャンに対し、神父は大胆にも、君はもはや善人だ、と言った。この時点でジャン・バルジャンは悪党のままだった。だが神父はジャン・バルジャンを善人であると宣言してしまったのだ。神の義もちょうどこの神父の宣言に似ている。不信人な者、罪人を義であると宣言してしまうのが、神の義である。
 あなたが罪人である、ということは、あなた以上に神が良く知っている。その神があなたの罪は許されている、救われていると言っている。神があなたは救われている、と言ったものを、救われていない、などといってはいけない。神がそうされたのだ。だれがそれに逆らえよう。

B.神の義は罪人を、無償で、恵みにより義とする

 23節でパウロは「すべての人は罪を犯したため…」と言っている。この言葉の後、どんな言葉が続くと思うだろうか。「すべての人は罪を犯したため…神に断罪されている。」とつながるなら分かる。だがパウロはここでまったく逆のことを言っている。「すべての人は罪を犯したため…価なしに、神の恵みにより、義とされる。」神の義とは罪人を裁くものではない。むしろ、罪人なので、その功績のゆえにではなく、価なしに、神の恵みによって、義とするのである。
 子はなぜ親に愛されるか。理由はない。強いて言うなら、自分の子供だから、親は無償で愛する。私たちが神の愛を獲得するためにできることはない。強いて言うなら、「子供」になること。父なる神の子供になること、それが私たちのできること。だから私たちは今日も主の祈りで「天にまします我らの父よ」と祈ったのだ。神はただあなたが彼の子であるゆえに、愛す。それは無償の愛であり、私たちが何ができてもできなかったとしても、神はあなたを愛す。
 世間でも「手のかかるほど可愛い」という。このことは父なる神の家族にも妥当するようだ。放蕩息子のような、手のかかる子を、父は無償の愛で愛し、ゆるす。

C.神の義はすべて信じる者を義とする。

 ロマ書4章には、信仰の模範としてアブラハムが出てくる。「アブラハムは神を信じた」と言う意味の言葉が18−20回も出てくる。アブラハムは神を信じ、信じぬいた者の代表である。神の義は信じる者に与えられる。
 アブラハムは「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(ロマ4:17)。アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ロマ4:18)「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(ロマ4:21)
 私たちの罪は許されている。神はその約束されたことを成就される方だからである。ご自分の罪を良く知る皆さんにはそれが信じられないかもしれない。だがアブラハムのように、「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」る。もしそうするならば、「私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかた(すなわち神)を信じるわたしたちも義と認められる。」(ロマ4:24)
 良い夫とは、義務を遂行する夫だろうか。仕事に打ち込む、夜は早く帰宅する、家の手伝いもする等々。むしろ妻のことを心から信頼する夫が、良い夫なのではないか。大げさな表現で言えば、たとえ世界中に逆らっても、自分は妻を信じる。そういえる人が、最も良い夫なのではないか。信じることは義務遂行を超える。私たちも義務を遂行しようとするよりも、たとえ誰が信じなくとも、私は神を信じる、との神への信仰に生きよう。

まとめ

「こういうわけで、今や」キリストにある者に呪いはない。たとえ信仰を持っていても、今まで数多くの失敗をしてきたし、これからも失敗するでしょう。そんなことは皆さんよりも神様の方がよほど良くご存知である。それを承知で、神ご自身が、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ロマ8:1)と言っている。
 もうあなたの過去の罪や、またこれから犯す罪によって、自分の救いが確かでないかも、などと思うのはやめよう。神様は「ああまだこの人はあの日、あのときに犯した罪についての告白と悔い改めがまだだから、まだちょっと天国には入れないな」などとは決して言わない。神様がおっしゃるのは「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定まられることはない」ということ。不可能を可能にする神に信頼しよう。
 だから私たちは先へ進もう。もう「うじうじ」と人の罪や、自分の罪を数えるのをやめて、新たなる信仰のステップへ進んでいこう。天国はゴールでなく、出発。皆さんの名は永遠の命の書に記されたのを出発として、原点として、そこから先へ進んでいく。