最も小さい者のひとりに    マタイ25:31-46    2005.5.29

荻野倫夫・神学生

映画「ブルース・オールマイティ」

この映画の中で一人のホームレスが出てくる。このホームレスがチンピラにいじめられていたとき、主人公のブルースはたまたま彼を助ける。この後、神はブルースに1週間、神の力を授ける。ブル−スは神となった一週間を通して、妻の愛を取り戻すことに成功する。映画の最後、明らかになることは、実はこのホームレスは神だった、ということだ。つまりこの映画の言っていることは、ブルースはホームレスを助けたとき、実は神を助けていた。ブルース自身はそのことを知らなかったし、意識していなかった。しかし神様の方では、ブルースがこのホームレスにしたことは、神にしたことだ、と認識していた。そこで神はブルースに、神の力を1週間与えるという特権に預からせ、その経験を通して、奥さんとの仲を修復してあげた。
この「最も小さな者にした親切は、実は神様に親切をしたことになる」という物語の屋台骨は、今日の聖句が出所になっている。イエス様はこのように言っている。「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)
今日この箇所を選んだのは、先週学んだ無条件の信仰による救い、ということと、対極的に見えることもあり、聖書全体のバランスを取るという意味で、学んでおくことが必要だからだ。

I. 聖句箇所の説明

A. 喩え話ではない

 まず最初に確認しておきたいのは、このお話は喩え話ではない、ということだ。皆さんは「放蕩息子」のお話を知っているだろう。この話は現実に起きたことだろうか?恐らくそうではない。神の愛を見事に表現している、という意味ではリアルな話だが、あくまで喩え話。ゆえに現実に起こったことではない。イエス様が創作意欲に燃えて、神様の愛を表すお話を作ったのだ。
 ところが今日読んだ聖句は、未来に実際に起こる出来事として、イエス様が語ったものである。この話は喩え話ではない。だから私たちはイエス様が再臨されたなら起こる出来事として、受け取る必要がある。

 この聖句は、3つに分けられる。
31-34節 場面設定
35-40節 義人の行いと報い
41-46節 不義の人の行いと報い

B. 場面設定(31-34節)

 「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき」(マタイ25:31)
人の子とはキリスト。キリストは地上にいたとき、「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザ53:2)キリストはその1回目の降臨は、その栄光を隠し、完全に人として暮らされた。そればかりか奴隷に姿を取った、とピリピ書にはある。そのような弱弱しい姿だったので、人々は彼を十字架につけて殺すことができた。しかしキリストが栄光の中に再びこの地上に帰ってくるとき、彼は全能の神として来る。一度目の来臨では、人々が彼を裁いて十字架につけた。だが二度目の来臨、再臨では、キリストが人々を裁くのだ。 
 私がフィリピンで月に1度メッセージをしていた教会で、新年に当たり、牧師がこんな質問をした。「もし今年キリストが再臨されるとしたら、皆さんはどうしますか?」この質問は大変良い質問であると思う。もし今年キリストが再臨されるとしたら、あと地上での時間は1年しか残っていない。もはや悠長なことは言ってられない。残りの1年間で、何をやったらいいだろう?これだけは、やり残していくわけにはいかない、という大事なことは私にとってなんだろう?そう考え、やらねばならない大事なことに、真剣に取りくむことができる。
もしキリストが今年来られたとしたら、このお話のことが実際に起こる。キリストは天国の栄光のうちに、裁きの位に座る。全ての人々は彼の前に集められ、裁きが行われるのだ。
キリスト教の歴史において、良い教会とは、いつもキリストの再臨は間もなくだ、と考えている教会だった。それはよく理解できることだろう。キリストの再臨がもう間もなくだと考えれば、クリスチャンとしてのあり方がより真剣になる。上品な言い方をすれば「襟を正す」ことになる。もう少し体育会系な表現をすれば、「気合が入る」。熊谷福音キリスト教会は良い教会?ならば、キリストの再臨はまもなくだ、との認識を持つ必要がある。
ただし行き過ぎると、良い教会から一挙に危ない教会になるので注意。キリスト教の歴史において、危ない教会は、再臨の日にちを指定する教会。日にちを指定すると、一挙に悪い教会になるので注意。
今日の聖句から祝福を受ける秘訣は「もしキリストが今日、来られたなら」と思いつつ、この聖句を読むこと。

「羊を右に、山羊を左におくであろう」33節
 主は義人を不義の人をはっきりと分けられる。羊は義人を表す。山羊は不議の人を表す。義人は右に、不義の人は左に分けられる。中間は?中間はない。両者の区別は明確である。一方は神の永遠の祝福に入れられ、他方は悪魔と共にある永遠の呪いへと入れられる。

C.35-40節 義人の行いと報い

 義人は何をしただろうか?人が飢えていたとき食べ物をやり、乾いていたときに飲ませた等々。王であるキリストは、その行いをご自分への行為そのもの、と受け取った。キリストは最も小さい者を自分自身と見ている。キリストは義人を祝福し、世界の創造以前から用意されていた、王国を彼らに継がせる。

D.41-46節 不義の人の行いと報い

 不義の人は何をしただろうか?むしろしなかった。人が飢えていたとき食べ物をやらず、乾いていたときに飲ませなかった等々。王であるキリストは、その行いの欠けをご自分が困っているときにしなかったこと、と受け取った。キリストは最も小さい者を自分自身と見ている。キリストは不義の人に、悪魔のために準備されていた永遠の呪いを報いる。


II. 問題の所在

いくつかの解かなければならない問題がある。

A. 「すべての国民」(32節)とは誰?

 「すべての国民」とは誰か?ただ漠然と読めば、文字通り全世界の国の人、という意味になりそうである。だが原語的には、異邦人とか、ユダヤ人以外を指す言葉として使われている言葉である。そこでさまざまな憶測がなされている。これはユダヤ人以外の人々を指しているのだろうか?それともキリスト信者以外を指しているのだろうか?あるいは本当にクリスチャンもそうでない人も、すべての人を指しているのだろうか?
 私の個人的な確信はあるが、正直、それは余り多くの学者から指示はされていない意見。講壇から、あまり少数意見を述べるのはよろしくない、と思われるので、私の意見は控えたい。ゆえにここではこのように考えよう。 
 義人と不義な人。一体どちら側をクリスチャンは真似るべきだろうか?義人と呼ばれる人の行いを真似るべきである。クリスチャンは神の私たちに対する哀れみを知っている。だとしたら、私たちは他の人に哀れみ深くなるべきだろうか、それとも哀れまなくて良いだろうか。哀れみ深くなるべきである。キリストはこの地上におられたとき、最も小さい人々に哀れみ深かった。クリスチャンとはキリストきちがい、キリストに夢中な者。ならば、私たちもキリストのように、最も小さい者に哀れみ深くなるべきだ。だから、クリスチャンは義人と呼ばれる人たちの行為を行うべきなのは明白だ。

B. 信仰による救い? 

 私たちはもうひとつの問題を解決しなければならない。使徒パウロによれば、人は律法によってでなく、信仰によって義とされる。「すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3:27−8)しかし今日の聖句を見ると、この「信仰による義」が心もとなくなる。もしこの聖句がクリスチャンを含むすべての人に語られているなら、行いによって救われるかのように見える。どうやってこの問題を解決したら良いだろうか?
 聖書はこのように一見対立するように見える教えもいくつか含まれている。だから私たちは聖書一箇所だけを見るよりも、聖書の全体を読むべきである。そのことによって、バランスの取れた信仰を持つことができる。今日この聖句を取り上げたのも、そのことをデモンストレーションしたくて取り上げた。先週の律法から離れた、信仰による義、という教えに最も強力に対抗しているように見える箇所だからだ。
 はっきりさせよう。救いはただ信仰からのみくる。これはキリスト教の原理であり、決して変わることはない。そのことは聖書上で、明らかである。ローマ書やガラテヤ書で時間をかけてゆっくりパウロが説明している。またイエス様の教えからも、そのことは明らかである。例えば、十字架上で、イエス様は強盗、殺人等の重い罪で死んでいこうとする者に、このように語った。「よく言っておくが、あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいるであろう。」(ルカ23:43)この犯罪人は、良い業を行うことができただろうか?それは無理。彼は十字架に貼り付けになったままあと数時間あるいは数十分で死んでいこうとしている。彼はもはや決して良い業を行うことはできなかった。にもかかわらず、イエス様は彼に天国を約束した。この犯罪人は「イエスよ、わたしを思い出してください」と呼びかけただけである。私たちは救いなただ信仰から来ることがわかる。一切の良いわざなしに、この犯罪人は救われ、今彼は天国でイエス様共にいることを私たちは確信できる。

 ある学者たちがこの「国々」をクリスチャン以外、と考えたのもうなづける。もし子のお話がクリスチャンにも語られているとなると、信仰による救いと矛盾するからだ。そうなると、今日の聖句は何を語るか?
 例えクリスチャンは信仰によってのみ救われるとしても、今日の聖句はクリスチャンにとって必要な聖句である。もし私たちが無条件に、ただ贈り物として、恵みとして救いをいただいたのなら、目の前にいる、困っている人、苦しんでいる人に、良くしてあげない理由があるだろうか?この聖句は信仰による救いと矛盾するものではない。むしろこの聖句は、信仰による救いの、自然な結果、実りである。もし神が私たちが神の恵みの救いに預かっているなら、どうして最も小さい人の、小さな必要に答えないで済むだろうか?「すると信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)
 まとめとして、もし私たちがアブラハムのように、神を信じ、神はキリストの十字架によってわたしたちの罪を許してくださったと信じるなら、私たちは救われている。だがキリストが再臨されるまで、まだ時間がある。その間、私たちは神がどんなに私たちのことを哀れんでくださったか、証することができる。この貴重な時間を、有効に用いようではないか。私たちはただで受けたのだから、私たちもただで与えようではないか。

III. フィリピンの証し

 最後に私のフィリピンでの証で閉じたいと思う。
 フィリピンで学んで2年が経過した。フィリピンに行く前、よく言われたことは、泥棒に気をつけろ、ということ。私は外国人であり、特に日本人。フィリピンに足を一歩踏み入れたそのときから、泥棒は私を狙っている。そこで母は私に特別の財布を持たせてくれた。それは服の中に入れて、お腹に巻いておく形の財布。ポケット、バッグ等だと、プロには簡単にすられてしまう。確かにこの財布はお金を守るのに最適だった。だがお金を支払うのには不都合だった。空港でお金を払うとき、いつも自分の服をめくり、お腹を見せながらお金を払っていた。
 またこんな話も聞いた。ある日本人が、物乞いの子供を哀れに思って、お金を上げた。するとどこからともなく、わんさかと子供たちが集まってきて、あっという間に、財布の中身はすっからかんになってしまった。恐ろしい話である。確かに子供たちはかわいそうではあるが、隙を見せてはいけない。私だってお金の余裕があるわけではない。よほど心して、お金を守らないといけない、そう硬く決意してフィリピンへ行ったのを覚えている。
 さらにこんな話も聞いた。フィリピンには多くの物乞いの人がいる。そのうちの一部は、本物の物乞いである。だが一部はプロで、ちゃんと住むところもあるが、物乞いのふりをして、お金を集める人たちである。私は個人的に騙されたくない。騙されてお金を取られるなんてまっぴらである。
 そんな風にして、決してお金をあげるまい、と決意していた。

 このように、私としては物乞いにお金をあげない、十分な理由があった。私は十分なお金を持っていないし、泥棒に気をつけなければならない。騙されたくない、等々。
 しかし。しかしである。私は今日の聖句を知っていた。例え十分なお金をあげない理由があっても、クリスチャンとして、神学生として、この聖句と全く矛盾することを、行い続けることは、果たして正しいだろうか。
 初めの一年は、一切お金をあげずに過ぎた。実際、私は物乞いが怖かった。しかし2年目。既に今日の聖句は、街中に出かけるたびに、私にとって重荷のようのしかかってくる聖句だった。私は物乞いの人たちは攻撃的で、隙を見せると根こそぎやられる、そういうイメージでいた。だが私が見る限り決してそんなことはない。どうやら、根こそぎやられずに、ちょっとだけ、お金をあげることは可能であった。また物乞いのうちにある人たちは、私を騙しているだろう。だがそれが何だというのだろう?彼らが貧しい生活をしていることには変わりはない。(ウィスキ−の宣伝)野の花空の鳥の必要に答えてくださる神は、私の必要に答えてくださっている。どうして、私が、物乞いの人たちを無視し続けて良いだろうか?
 私にとって問題は、もはやこのようになった。私が例えお金を十分持っていなくても、また例え騙す人がいても、自分がこの聖句を無視し続けるのは果たして妥当だろうか、と。この聖句の良いところは、お金の有り余っている人だけができるようなことでなく、誰でもできるような、小さな親切であること。そんな親切にイエスは価値を見出してくださる、というのだ。イエスはそのたった一つの小さな行動さえ、忘れはしない、というのだ。しかもこの最も小さな一人ひとりは、主ご自身だ、と断言なさっている。私が引き続き、主を、無視し続けるのは、果たして良いことだろうか?
 このように考えた結果、2年目から、町に出かけるときは、硬貨を何枚か用意して出かけることにしている。それは物乞いの人たちへの予算である。町に出かける、イコール、私は主に、小さな親切をする必要がある。そのための準備をしていく。それで1日1回だけ、小さな金額だが、物乞いの人に会うと、お金をあげるようになった。決して大きな金額ではない。だが彼らが主ご自身だと思うと、また私自身さえ覚えていないような、その小さな行動が、主によって覚えられているかと思うと、お金をあげるのが楽しみである。まだあげる、ということについて、私は未熟である。だが神が私の町の中でのこの奉仕のプロにさせてくださることを祈っている。

まとめ

 この世でもっともキリストに似ていると言われている女性マザー・テレサ。彼女は貧しい人の中の最も貧しい人に仕えるため、インドのカルカッタへ赴き、間もなく死んで行こうとする人を家に連れ帰り、死の数時間までの間、愛を注いでお世話をした。自分を物以下のように思っていた、この最も貧しい人々は、自分がマザーによって、神のような最高のもてなしを受けたことに感激しながら、息を引き取っていく、という。
 言うまでもなくこのマザーの行為の屋台骨にはこの聖句がある。彼女はこう言う。「私は貧しい人の中のイエスを愛し、イエスの中で貧しい人を愛します。」
 「最も小さい者、この人はキリストご自身なんだ」この確信の深さこそが、その人をキリストに似た者にする。
 キリストに救われた者だけが、この信仰を持つことができる。私たちは良いわざによって救われるわけではないが、救いは最高の良いわざへと私たちを向かわせるだろう。
 皆さんの周りにあなたの助けを必要とする、最も貧しい人がいるだろうか?必ずいると思う。昨日のホームレス伝道もそういった働きの一環だ。単に「良いことをした」との自己満足ではなく、あのホームレスの方々は主ご自身なのだ、との認識を持ったならば、私たちの奉仕は全く変わったものになるのではないか。
 最も小さい者は、物乞いの人とかホームレスばかりではない。私たちの日々の生活の中で、接する人たちの中に、きっといる。
マザーは日本に来日時、このような意味のことを言った。日本は物質的な貧しさはほとんどないかもしれません。でも心の貧しさは深刻です、と。私たちの周りには、物質的なものもだが、心の必要を覚えている人たちがいる。その方たちは、私たちが話しかけ、何かをしてあげることができるよう、神様が備えてくださった。私たちは彼らへの小さな小さな親切を通して、主に貸すことができる。
マザーはこうも言っている。「私たちがどれだけ大きなことをしたかは問題ではありません。小さなことでいい。問題は私たちはどれだけ心をこめてそれをしたか、です。」私たちは相手を主ご自身だと思って、心をこめて小さな親切を、させていただこうではないか。