信仰の真髄―十字架 コリント第一21:1−5 主の2005.6.5礼拝
多くの人が愛唱する「驚くばかりの恵みなりき」(総合版196、旧版229)という聖歌があります。作詞者は英国のジョン・ニュートン(1725−1807)です。彼は若い頃に奴隷商人という忌まわしい仕事をしていましたが、キリストによって救われ、牧師になり、自分がキリストによって救われたことを「驚くばかりの恵みなりきAmazing
grace」という詩に託して感謝を言い表し、この聖歌は今でも全世界で歌い継がれています。彼は老境に達した時、「私は記憶が悪くなって何でも忘れてしまう。しかし、どうしても忘れることのできないものが二つある。一つは私が神の前に大いなる罪人であったということ。もう一つはキリストが私のために十字架にかかって罪から救って下さったということである」と言っています。
本日はコリント第一2:1−5です。この中でパウロは「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは何も知るまいと、決心した」と述べています(2節)。コリントはギリシャの都市です。ギリシャといえば哲学発祥の国ですから、哲学論議に明け暮れている人々がいる。またコリントには商業の中心地であったので、お金に敏感な人々がいて金儲けに熱中している。さらにコリントには偶像の神殿があり、3000人の女性が昼間は巫女として偶像に仕え、夜は偶像を拝みに来た人々相手に売春婦となるという非常に不道徳なことが公然と行われている。そうしたコリントの町に乗り込んで伝道するにあたって、パウロは決然として「私はイエス・キリストの十字架の恵みを伝える。十字架に救いがあり、十字架こそ全ての人の人生を新しくする神の力がある」という確信に立って伝道を展開し、聖霊の導きと助けによってコリントの教会が誕生して行きました。コリント15章には「最も大事なことはキリストの十字架と復活である」と言われています。私たちは、キリストによって救われた恵みに感謝しながら、信仰の真髄であり、信仰の中心であるキリスとの十字架の恵みのメッセージに耳を傾け、聖霊によって祈り、新しい一週間の旅路を共に出発して参りましょう。
内 容
1、十字架に人を救うまことの力がある。
2、十字架の恵みを数え、主を伝えて行こう。
資料問題
1節「兄弟たちよ」、この手紙にはこの呼びかけが多い。パウロは叱責を与えるためではなく、親愛の情をもって呼びかけている。「すぐれた言葉や知恵」、雄弁術、哲学的説明のこと。 2節「決心した」、krinein判断するの意味であって、転じて良しと決定することを意味する。 3節「私は・・・弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」、パウロはアテネで修辞学や哲学の助けを借りて福音を伝えようと試みたが、惨めな結果に終わった(使徒17:16−32)。それで、彼はコリント伝道に恐れと不安とをもっていた。コリントでの伝道が成功したのは、パウロの知恵と力によるものではなく、聖霊の知恵と力によるものであった。 4節「言葉」、小グループで個人的に話をすること。「宣教」、多数の会衆に向かって語ること。「巧みな知恵の言葉」、人を説服する、人間の理知に訴える言葉。「霊と力との証明によった」、神の霊より出ずる神の力によって伝道したとの意。
1、十字架に人を救う力がある。
2章で、パウロは自分が初めてコリントにやって来た時のことを思い出しつつ、コリント教会の人々に語り出しています。彼は先ず「兄弟よ」と呼びかけています。そう呼びかけることによって、パウロはコリント教会の人々を叱責したり、審いたりするためではなく、彼らにキリストとの愛を伝えたいという真情を表しています。パウロがコリントにやって来たのはアテネ伝道の後でした。アテネといえばギリシャ哲学の中心地です。彼は請われてアレオパゴスの評議所でメッセージを伝える機会を得て、ギリシャ哲学の助けを借りて福音を伝えましたが、あまり良い結果を得ることが出来なかったのです(使徒17章)。少し失望しながらアテネを後にして、パウロはコリントの町にやって来ましたが、ギリシャの地でどういうふうに伝道したら良いのかを考えつつ、恐れ惑いながら、不安な気持をもっていました。その時に、パウロは、2節にあるように「イエス様の十字架を中心にして語ろう」という強い決心を与えられます。「決心」には判断するという意味があり、そこから転じ「良いと決定する」という意味があります。ですから2節の意味は、すぐれた言葉や知恵のように思えるギリシャの哲学や雄弁術に頼らずに、神の御霊に導かれてキリストの十字架を中心にしてメッセージを伝えて行くことが一番良いことであると判断した、ということです。彼は「この町には、わたしの民が大勢いる」という主の励ましを受けて、伝道に励み(使徒17:9−10)、その伝道は大いに祝福され、コリント教会が誕生しました。
イエス・キリストの十字架に救いがあります。なぜでしょうか・・・。それはキリストの十字架に全ての人の苦しみが集っているからです。全ての人間にとって共通なことは苦しみです。苦しみのない人は一人もいません。人は孤独で苦しんでいます。それは人間関係が破れているから、心の底から信頼し合って付き合う友がなく、人は孤独で苦しんでいます。私が2週間留守をしている間に、一人の人から40通のメールが届いていました。その人は友がいない自分の淋しさを紛らすためにメールを打ち続けているのです。人は健康の問題で苦しんでいます。体に全くどこも悪い所がないという人はいないと思います。体とは体全体を指しています。心臓が悪いとか、片頭痛であるとかいう肉体の病気があります。ストレスなどによる心の病気があります。心の不安定、また現代ほど鬱病が多い時代はないと言われています。日本では心の病気は恥ずかしいと思われています。イギリスで馬場恵ちゃんが医師になっていますが、彼女が「手を切って出血すれば、すぐに手当てをして出血をとめて傷を治療する。傷が化膿しないように薬も飲む。心が不調であれば、専門の医師にかかり、必要な薬を飲むのは当然です。これは神様が備えて下さった恵みです」と言っていました。経済問題で苦しんでいます。多くの人がふさわしい仕事がない。或いは体の不調のために仕事ができない。倒産などで仕事を失うなどしています。死の苦しみがあります。寿命が尽きて死ぬという運命を誰も避けることができません。死の彼方に何があるのか分からずにいて、クリスチャン以外の人々は死を怖れています。
どうして、孤独、病気、経済問題、死の苦しみのようなことがあるのでしょうか・・・。それは人間がまことの神から離れているためです。神は愛であり、すべての善の源であり、喜びと感謝を与え、人に希望を与える恵みの主であり、また力の源です。しかし、人は神から離れ、神に背いている罪をもっているために、様々な悪い結果を身に招いているのです。そうした人間の全ての苦しみを身に背負って、キリストはきよい神の御子であり、罪がないのに、人の罪の身代りになって十字架に死んで罪の赦しの道を開かれたのです。「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」(ヘブル9:27)とありますが、この聖書の教えに従い、キリストが私たちの罪の身代りになって、十字架上で私たちのために苦しんで、身代りになって死んで下さったのです。私たちはキリストを信じて罪を赦していただき、心の生まれ変わりを与えられ、神の子になっていることを感謝します。
ではなぜ、クリスチャンになっても苦しみがあるのでしょうか・・・。キリストは「あなた方は世にあっては悩みがある」(ヨハネ16:33)と言われました。確かに現実に生きている私たちには悩みがあります。しかし、全ての問題は十字架のキリストによって解決されています。キリストの十字架を仰ぎ見るならば、そこに苦しみの根本原因である罪の赦しがあるので、私たちクリスチャンは、罪を赦されているという心の平安があります。そしてキリストが十字架にかかって死んで終りではなく、死を打ち破って甦った勝利の主であることを信じています。クリスチャンはキリストを心に迎え、聖霊によって祈りを与えられているので、何があってもそれに対処し、打ち勝てる力を与えられて進むことが出来ます。
今回、イギリス、ノルウエーに行き、現地に住む日本人のために礼拝、家庭集会、個人伝道の学び、また個人伝道をする機会も与えられました。そこで思ったことは、どこに行っても、全ての方々にとって共通の問題は苦しみであり、苦しみの解決を求めているという事実でした。ある方は離婚の苦しみの中にあって必死で主に縋っている、ある方は夫の救いを願っている、ある方は孫の不登校のために悩んでいる、ある方は難病に悩んでいる・・・その苦しみを担い、解決を与えるために十字架で苦しみ、赦しと解放の道を開かれたキリストを紹介し、それぞれが新しい決断をもってキリストに心から縋り、祈りました。今イギリスは夜9時まで明るいし、ノルウエーは夜の11時になっても明るいのですが、時の立つのを忘れて、共にキリストを求めて祈り、新しい恵みの力を受けました。今朝、キリストの十字架を見上げて、あなたの代わりに全ての苦しみを担って下さったキリストに心から縋りつき、祈りましょう。そこに必ず恵みの道が開かれます。
2、十字架の恵みを数え、主を伝えて行こう。
キリストの十字架が語られる所に聖霊が豊かに働きます。4節後半に「霊と力との証明(御霊と御力との現れ)」とありますが、これは、神の霊である聖霊の力によって伝道したということです。キリストは天に帰る前に「聖霊があなた方にくだるとき、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」と言われました(使徒1:8)。パウロは聖霊によって、あらゆる機会を捉えて伝道していますが、そのことが4節前半に出ています。「わたしの言葉」とあるのは小グループにおいて個人的に語ることを指しています。「わたしの宣教」とあるのは多数の人々に語る状況を指しています。パウロはユダヤ人の会堂に入って広く人々に福音を伝えています。そして個人的に、また小グループに対して福音を伝えています。
ではキリストの伝道はどうだったのでしょうか。イエス様と3年半寝食を共にして訓錬を受けたペテロが次のように述べています。「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとく癒しながら、巡回されました」(使徒10:38)。イエス様は出かけています。人々を個人的に訪ねています。福音書でイエス様が大衆に向かって語っているのは6回、個人的に語っているのは114回です(豊留博士の研究による)。イエス様が私たちの心の扉を叩いて下さったので、私たちはキリストの十字架を個人的に信じ、キリストを心にお迎えして、救われました。パウロは、キリストに倣って出かけ、人々に語ると同時に個人的にキリストを伝えています。パウロは、クリスチャンが心にキリストを宿している恵みを「この奥義はあなた方のうちにいますキリストであり、栄光の望みである」と述べています(コロサイ1:27)。
話はそれますが、少し宣伝をします。当教団に「講壇」という牧師向けの機関誌があり、牧師たちの様々な論文が掲載され、年に一度発行されていて、通算50号に達しました。それを記念して、今までの数多くの論文の中より11名の牧師による21の論文が選ばれて、一冊に纏められて「信仰と宣教」というタイトルで特別号が出ました。その中に私の書いた「教会形成と信徒訓錬」という論文が入っています。ネームレスによる個人伝道をベースにおきながら記したものですが、その中に「キリスト狂(きちが)い・Jesus crazy」という言葉が入っています。実は編集者の先輩の先生から電話があり「渡辺君『キリスト狂い』という言葉はふさわしくないので、変えさせてもらう」という事でしたが、そのまま載せられています。これを牧師・伝道師が読むことによって、聖霊によって「キリストを喜び、キリストを伝える」という恵みが全教団に浸透して行くことになることを信じ、主に感謝しています。
話を戻して、キリストの十字架によって与えられる恵みは何でしょうか。
*キリストを心に迎えたことによって、私たちの罪は赦され、永遠の命を受け、私たちは神の子にされています(ヨハネ1;12)。
*キリストを心に迎えたことによって、聖霊が与えられ、主イエス・キリストの御名によって祈り、神様を「アバ(お父ちゃん)」と呼んで祈る恵みを受けています(ローマ8:14−16)。
*キリストを心に迎えたことによって、物事すべては恵みに変えられて行く」という信仰が与えられ、私たちは望みを失わないで生きて行く力をいただいています(ローマ8:28)。
*キリストを心に迎えたことによって、聖霊の賜物をいただいています(12章に入った時に聖霊の賜物について詳しく学びます)。
*キリストを迎えたことによって、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」という品性の実を結ぶ者になっています(ガラテヤ5:22−23)。
そして、何よりも素晴らしいことは、キリストを伝道するという恵みをいただいていることです。信仰が恵まれる最大の秘訣は何でしょうか。祈りが聴かれることでしょうか。万事がうまく行くことでしょうか。経済が祝福されることでしょうか。ある方々のように伴侶に恵まれることでしょうか。癒されることでしょうか・・・それら一つ一つが大いなる祝福です。しかし、それらにいや増して素晴らしい恵み、信仰が恵まれる秘訣はキリストを伝えることです。今回、イギリス・ノルウエーで三組の日本で伝道していた宣教師に出会いました。一人はイギリス人メティカフ師で日本で38年間伝道し、イギリスに戻ってからもロンドン日本人教会を助けて奉仕して83歳です。オスロでは、いわきで戦後間もなくから約50年にわたって奉仕されたノルウエー人夫妻の先生、さらに1歳3か月の赤ちゃんと共に日本に宣教に行く若いノルエー人夫妻(奥さんは日本人)です。遠い外国の地から日本に重荷をもつ外国人の祈りと献身に心を打たれました。イギリスでは馬場さん夫妻が家を開放して、日本人家庭集会を行っています。ノルエーのスタバンゲルから、さらに車で30分ほどのブリーネと言う所で、森さん夫妻が家庭を開放し、集会を開いています。そこには主の恵みを求めて、ある方は島からフエリーに乗り、車を走らせ集会に来ていますが、日帰りは無理なので、仕事を休んで出席し、その家に泊めてもらっています。オスロではノルエー人のアンデルさんが家庭を開放して集会をしています。日本人の奥さんが昨年突然に召されたのですが、悲しみを乗り越えて一生懸命に日本人伝道をしています。私たちが行った時には4時から礼拝を捧げ、その日は午後6時から日本人を招いて集まりを開きました。ノルウエー人のアンデルさんが日本の蕎麦を打って日本人をもてなし、20名のノンクリスチャンの方々が集っていました。そこで新しい方々にコンンタクトをとり、聖書の学びを個人的にする切っ掛けをつかんでいるとのことでした。そこでも私はメッセージを伝えました。と同時に交わりの中で個人的に語りあうことができて幸いでした。馬場さん夫妻、森夫妻、アンデルさんともキリストを伝える喜び溢れていて、「キリスト狂(きちが)い」を文字どおりに実践している姿を見せてもらい、感謝でした。遠い外国の地で、日本人伝道がクリスチャンの祈りと家庭開放(祈りの家、家の教会)という形で日々に進められていることを憶えてお祈り下さい。
まとめ
もう一度、2節を読みます。
1、イエス様の十字架に人を救い、人生を新たにする救いの力があります。私たちの全ての苦しみを担い、罪の赦しのために十字架に犠牲となって下さったイエス様にもっと縋り、もっと祈って行きましょう。
2、イエス様の十字架を通して受けた恵みに感謝しましょう。この素晴らしいイエス様の恵みを伝道して行くために聖霊の力を求めて祈りましょう。今週誰かに声をかけ、電話をし、メールをし、手紙を書く、伝道新聞を手渡す、教会ホームページを紹介する、訪問するなどのことを通してイエス様の恵みを伝えましょう。またイギリス・ノルウエーで継続されている日本人伝道のために祈って行きましょう。
祈 り
天地の主である神様、神の聖霊によって救主イエス様の十字架に救いがあることを信じることが出来て感謝します。私たちは十字架こそが人を救い、また人生を新しくする力の源であることを信じ、イエス様に縋って信仰の道を歩んで行きます。どうか私たちの生活を恵み深い御霊によって、キリストに従う祝福の人生として導いて下さい。主よ、重荷のある方々に恵みを注ぎ、勝利を与えて下さい。病気の方々を速やかに癒して下さい。この6月にもイエス様を信じる人が起こされ、教会に加わって行くようにして下さい。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献コリント注解―黒崎、フランシスコ会、モリス、文語略注、佐藤、榊原、西川。「柳生直行訳新約聖書」