キリストの教会は聖霊の宮である コリント第一3:16−23 主の2005.7.3礼拝
イギリスの、そんなに大きくない町に、高い塔を持つ石造りの教会堂が聳え立っているのを見ました。会堂の周りに庭があり、その一角は墓地になっていて、全体が静寂な感じてした。ノルウエーでは町の一角に大きな教会堂があり、やはり石造りの建物でした。歴史的に長い年月を経ている会堂に入ると、何となく宗教的な雰囲気が満ちているように感じられます。そこに座して、この世の様々な事柄から暫し解放され、心を静める時に、何となく聖なる気持になります。日本では教会の歴史が浅いので、何百年も経った会堂はありませんが、大きな会堂を持っている教会はあります。仏教には長い歴史を経た寺院があり、神道では大きな木々に囲まれた神社があります。仏教も神社も異教の施設ですが、そこにいると何となく厳かな気分になります。
本日はコリント第一3:16−23です。16節に「あなた方は神の宮である」という呼びかけがあります。歴史を経た荘厳な建物や、あるいは緑に包まれた施設で宗教的雰囲気に浸ることができますが、よく考えてみますと、それは単なる建物や場所であって、聖書でいう神の宮ではありません。使徒パウロは、キリストを信じる者が集められ、教会を形成している、それが神の宮であると告げています。すなわちキリストを信じる者の群れが神の宮であると言われています。今ここで熊谷の群れが礼拝をささげていますが、主は「あなた方は神の宮である。神の聖霊が宿っている」と言っておられます。神の宮である教会の一員であることを感謝し、メッセージを聴き、祈って、一週間の旅路を共に出発して参りましょう。
内容
1、クリスチャンの集まりが教会であり、教会は神の宮である。3:16−17
資料問題
16節「あなた方は神の宮である」、神の宮は単数である、あなた方は複数であるのは教会のことを言っているからである。「神の宮」、コリントの教会を9節では「神の建物」と言っている。ここでは神の霊が宿っているという意味で「神の宮(住い)」と言われている。「神の宮(ナオス)」は神殿の全体ではなく、神の住まいである本殿(列王上6:19)で、「至聖所」(出エジプト26:34)を表している。「至聖所」は契約の箱の上で羽を広げる二人の天使(ケルビム)の間に座して、神が臨在している所である(出25:22,26:33−34)。ここでは「神の宮」はコリントのような一つの地域にある教会を意味し、6:19では個々のクリスチャンを指している。エペソ2:29では全教会を意味している。
19節の引用文はヨブ5:13からのもの。20節の引用文は詩篇94:11ギリシャ語訳からのもの。23節、「そして、あなた方はキリストのもの、キリストは神のものである」、「キリストは神のものである」という言い方は11:3、15:28にもある。父と御子は本質的に同じである。ここではキリストが救いを成し遂げるために人間となって神に従ったということを意味している。「あなた方はキリストのもの」とは「あなた方はキリストだけのもの」という意味である。「クリスチャン」とはキリストのものであり、神と神の御子キリスト以外のものには帰属しない。クリスチャンは神とキリスト以外のいっさいのものから自由である自主の者である。
1、クリスチャンの集まりが教会であり、教会は神の宮である。3:16−17
あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。(16節)
先週は、「私たちの信仰の土台はイエス・キリストである」(11節)というメッセージを聴きました。キリストが土台であるということを受けて、本日の箇所では、「あなたがたは神の宮である」というメッセージが告げられています。神の宮という事ですが、世界には壮大な建物の教会があります。イギリスのウエストミンスター教会、パリのノートルダム教会、ローマの聖ペテロ教会などは有名です(これらは日本では寺院と訳されている)。日本でも大きな会堂を持っている所があります。そうした建物の中に入ると、パイプオルガンが鳴り響き、聖歌隊が歌い、そこにいるだけで、これが神の宮であるかのように思われます。しかし、使徒パウロは、真の神の宮は建物や場所ではないと言っています。彼はコリント教会の人々に「あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と告げています。その意味は、「キリストを信じる者の群れである教会が神の宮であり、そこに神の聖霊が臨在している、そのことをあなた方は忘れてはならない」という事です。ここで言われている神の宮とは、至聖所を指しています。昔、イスラエルの神殿の一番奥に、分厚いカーテンで仕切られた至聖所と呼ばれる部屋があり、神の契約の箱が安置され、そこに神が臨在していました。至聖所は、罪の赦しを祈るために、大祭司が一年に一度だけ入ることができた最も神聖な所でした。コリント教会はゴタゴタが絶えない状況でした。それを知りながら、パウロは、「あなた方には足りない点や、仲間割れがある、だが、あなた方がキリストを信じる群れであるとするならば、どんなに不完全であっても、あなた方は神の宮であり、神の聖霊が宿っている」と言っています。ですから、17節、「あなた方は、聖霊が宿る神の宮を破壊してはならない」という注意があります。アポロ派、ケパ派、パウロ派という派閥をやめ、聖霊によって一致を保ち、キリストの救いを世に向かって宣べ伝えて行くのが教会です。また、ひとり一人が神の宮を形づくっている者として、清くなって行くことが求められています。それを忘れて教会の一致を破壊する者がいれば、主はその人を滅ぼすと警告されています。
教会が神の聖霊に導かれて行くために三つのことを心に留めて行きましょう。
第一に、聖霊に導かれて、キリストを一番にして行くことです。私たちの心に住み、また教会に臨在している神の聖霊はキリストについて証をし(ヨハネ15:26)、キリストの栄光を表し(同16:14)、キリストがもっているあらゆる恵みを表します(同16:15)。聖霊が臨む時、私たちは力を受けてキリストの証人になります(使徒1:8)。今、神学校関東分校で「説教学」を教えています。いろいろ参考書を読むのですが、1959年に発行された「ペンテコステの説教Pentecostal
Preaching」という本に弓山先生の序文が記されていました。・・・「思いを遠くペンテコステの日に馳せて、群集の前に立つペテロの姿を想像する。聖霊に満たされ、聖霊に感動させられたペテロの大説教が聞こえるように思う。ペテロの説教の主題はイエス・キリストであった。ペテロは聖書を神の言葉、聖霊の剣として語った。ペテロの語る聖書の言葉に聖霊が働いて、聴き手の心が刺された。そこに真実な悔改めがあり、信仰があって、人々は救われた。」・・・。先生が召されて3年ですが、それを読んだ時に、耳元で先生が「君も聖霊に導かれて、もっともっとイエス様を人々に伝えて行きなさい」と言われたように感じました。
第二に、聖霊に導かれて、清くなることを求めて行くことです。テサロニケ第一4:1−8を読みます。聖霊が宿っている体を大切に保って行くのは当然のことです。タバコは健康に害があるという表示がされています。酒も体に害を与え、昔から「酒はきちがい水」と言われ、交通事故の原因になり、酔った勢いで多くのトラブルが引き起こされています。ノルウエーで夕方スーパーマーケットに行くと、ある一角にシートがかけられていました。そこはアルコール類が置いてある所なのですが、夕方5時過ぎにはアルコール類を販売してはならないという法律があって、人目につかぬようにしてあったのです。そうしてアルコールを規制していることが分かりました。最近は麻薬が若者に入り込んでいます。フリーセックスということでエイズが非常な勢いで増えているということも報じられています(セックスの問題は、5章から7章にかけて具体的な教えがあるので、その時に取り上げます)。タバコ、酒、麻薬、読み物、テレビ、映画、音楽、性的なことなど、「イエス様がそこにいたらどうするだろうか」ということを心に留め、「神の聖霊を悲しませる」(エペソ4:30)事がないように祈って行きましょう。
第三に、聖霊に導かれて、祈って行くことです。押入れを整理していたら、枝折が出てきました。1982年献堂式の時のもので、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11:17)との御言葉がガリ版刷りで記されています。1980年土地を買うために全てのお金を使い果たしました。2年後に献金、約束献金を基にして、クリスチャン大工高田建設の高田さんによって、また当時のメンバーの汗と涙の勤労奉仕で、8か月をかけて会堂が建てられ、弓山先生を迎えて献堂式をしました。お祝いに来て下さった方々に、記念品としてこの枝折1枚しか差し上げられなかったのですが、思い出のこもる品です。キリストが宮清めをされた時に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と宣言されたのですが、熊谷の教会も聖霊に満ち溢れる祈りの家となるようにという願いの中に、ここまで導かれていることを感謝します。今、狭くなった会堂のために、駐車場のために祈りが積み重ねられていますが、主の素晴らしい答があることを信じます。物理的に場所が広くなると同時に、教会が聖霊に満ち溢れる祈りの家として、暗い時代にあって、キリストの恵みの光を照らし、キリストの十字架と復活を伝道して行くように祈り続けて前進いたしましょう。
2、クリスチャンは、教会生活に励む者である。3:18−23
パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなた方のものである。そして、あなた方はキリストのもの、キリストは神のものである。(22−23節)