主はすべてを見ておられる コリント第一4:1−5 主の2005.7.10
50年前、私が中学時代に出会ったカトリックの修道士で小野さんという方がいました。日本は戦争末期に、飛行機をアメリカの軍艦に体当たりさせる特攻隊という自爆攻撃をし、そのために多くの若い尊い命が犠牲になりました。小野さんは、特攻隊で出撃する直前に戦争が終わり、危うく死を免れました。小野さんは、死ぬはずだった命を神に捧げようと決意して修道士として生活していました。小野さんは、「いいかい。神はすべてをご覧になっている。すべてだよ。だから悪をしてはならない。最後の日に神様の審判があって、すべてが明るみに出されるよ」と繰り返し教えてくれましたが、その言葉は今でも私の心に残っています。
本日はコリント第一4:1−5です。5節に「主は暗い中に隠れていること(闇の中に隠れたこと)を明るみに出し、心の中で企てられていること(心の中のはかりごと)を、あらわにされるであろう」と記されています。コリント教会には派閥がありゴタゴタしていました。実際にゴタゴタを起こしている者の所業や、人が心の中で思っていることも含めて、主はすべてを明るみに出され、決着をつけます。パウロは、「すべてを見ておられる神の前で、私はキリストに仕えている。あなた方もゴタゴタをやめるために、キリスト第一の生活をして行くように」という事を教えています。この箇所を読みながら、修道士の小野さんが、「神はすべてをご覧になっている、隠していても、やがて神の前にすべてはは明らかになる」と教えてくれたことは、私の人生を導く尊い神の恵みであったことを感謝します。すべてを見ておられる主の前で伝道者として誠実に生きているパウロの事を知り、また私たちクリスチャンがどのようにして主に従って行くのかを教えていただき、一週間の旅路を、祈って出発いたしましょう。
内 容
1、すべてを見ておられる主の前で、忠実に生きる。4:1−4
2、すべてを見ておられる主の前で、愛をもって生きる。4:5
資料問題
1節、「このようなわけだから」、内容に即して考えると、「誰も人間を誇ってはならない」(2:31)を受けていると考えると意味が良くつながる。「仕える者ヒュペーレテース」、船底で艪を漕ぐ奴隷を表す。ローマでガレー船という大きな船があって大海を航海したが、推進力は船底でオールをこぐ奴隷であった。彼らは行く先を知らないが、船長は知っている。教会はイエス・キリストが船長で、使徒達は船の漕ぎ手のように、ひたすら主に仕える者である。「神の奥義を管理している者」とは「管理者オイコノモス」は家を整える者という意味で「家令」と訳されている(ルカ12:42)。「神の奥義」とはキリスト出現によってもたらされた十字架の福音を指す。エペソ3:2−9を読むと、奥義の管理の仕事は、隠されていたキリストの福音を啓示された使徒達が、それを異邦人に宣べ伝えることによって公開する仕事。説教による福音の分配が福音の奥義の管理である。2節、「忠実ピストス」は「信仰ピスティス」と同語根。「忠実faithful」が「信仰faith」の満ちたという形で出来ているのに似ている。「忠実である」と「真に信仰的である」ことである。5節、「先走りをして」とは「時の前に」ということ、「時」とは「主が来られる時」である。主の再臨の時に審判が行われることは、5:5、11:26、32、15:23−18、16:22を見よ。
1、すべてを見ておられる主の前で、忠実に生きる4:1−4
このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。(1−2節)
4章は、「このようなわけだから」という言葉で始まっています。これは、3章5節、「アポロもパウロもあなた方を信仰に導いた人にすぎない・・・」、3章21節、「誰も人間を誇ってはいけない・・」という言葉を受けています。パウロは「誰も人間を誇ってならない」ということを強調していますが、それはコリント教会に分裂分派があったからです。分裂分派とは、人間中心の別名です。本当の教会の頭(かしら)はキリストであり、教会はキリスト中心の群れです。それを忘れて、コリント教会の中に、人間を誇り、人間に頼り、自分達の好きな牧師を祭り上げて、自分達の気に入るような集まりを企てているグループがありました。また、パウロが、コリントへ来て多くの困難の中にあって伝道し、教会を形成した実績を無視するという、伝道者軽視の高ぶった思いを持った人々もいました。ここで
キリストの教会に忍び寄る危険な傾向が二つあるということを心に留めて下さい。
第一の危険は、特定の伝道者を極端に祭り上げ、神様扱いするという傾向です。アメリカにビリー・グラハムという伝道者がいます。野球場を借りて集会をすると、メッセージを聴くために。一回に何万という人々が集まります。しかし、その集会名は「ビリー・グラハム大会」で、救主イエス・キリストの名前が前面に出なかったことは残念でした。最近のキリスト教のある新聞に6つの集会広告がありましたが、キリストの名を冠したものはゼロでした。もちろん、どの集会もキリストを伝える集会なのですが、しかし、キリストの名前を明確に出していないことは考え直すべきです。
第二の危険は、伝道者を敬わないで軽んじるという傾向です。伝道者である牧師のために祈って下さい。牧師を批判し、足りないところをあげつらっても、恵まれません。私は足りない者ですが、皆さんの祈りと愛の支えの中に、牧師として歩ませてもらっていることを感謝します。さらに祈って下さるように、改めてお願いをします。
パウロは、「自分はキリストに仕える者である」と言っています。「仕える者」とは船底でオールを漕ぐ者です。ローマにガレー船という大きな船があり、船底で奴隷達が足を鎖に繫がれて、長いオールを漕いで船が進むようになっていました。船の行く先を知っているのは船長です。船長の望む方向に進むために奴隷達はひたすらオールを漕ぎます。教会はキリストが船長であり、使徒達は船の漕ぎ手のように仕える者であるということを表しています。
さらに、「神の奥義を管理している者である」と言っています。「奥義」とは、旧約時代には隠されていた神の救いの計画のことで、キリストの十字架の救いを表しています。「管理者」とは家令、日本流に言えば番頭さんです。番頭さんは主人の命令のままに働きます。番頭さんに必要なのは「忠実」であることです。主人である神様に導かれて、使徒達は忠実な番頭さんとしてキリストの十字架の救いを宣べ伝えるという働きをしています。
パウロは、イエス・キリストを伝道するという自分の働きを一生懸命にやっています。ところが、コリント教会の中に、パウロのことを悪く言う恩知らずな人々がいました。コリント第二10−12章に、パウロに対する悪口が記されていますが、本当にひどい事を言っています(先週末の新約聖書日課でした)。しかし、3−4節で、パウロは「自分には、何らやましいことはない、わたしを裁くのは主だけである。悪口、陰口の類は根も葉もないことである。私はキリストに仕え、忠実に生きている。すべてを見ておられる主の前において恥じる事がない」という思いを言い表しています。私たちの救主イエス様も、「大飯喰(おおめしぐ)らい、大酒のみ、罪人の仲間だ」(マタイ11:19)と根も葉もないデマを飛ばされ、「悪霊のかしらベルゼブルと結びついている」(マタイ12:24)というひどいことを言われました。裁判の席では、罪がないのに顔にツバキをかけられ、ゲンコツで打たれ、ビンタされ(マタイ26:67)、ムチで打たれ(マルコ15:15)ています。しかし、何を言われ、どんなひどい目に会おうとも、イエス様は、人の罪の身代りになって死ぬという使命を忠実に果すために、十字架にかかって下さった愛の救主です。パウロは、十字架のイエス様を思いながら、「私は神の奥義の管理者として忠実に、イエス様の十字架と復活を伝道している。それは主がご存知である」と言い表しています。
私の小さな体験ですが、10代の終りの頃、元旦礼拝で聴いた、使徒パウロの「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしは、キリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ1:10)という御言葉がずっと心に残っています。その御言葉を聴いた時に、これが私の生きる基準であると思い、何があろうとも主に喜ばれる道を進もうと決意して祈ったことを思い出します。具体的には、神の御言葉である聖書の教えに従おうと思い、祈り、聖書を読む、集会出席、奉仕と伝道に励む、献金を、特に十分の一献金をするなどの事を通して、信仰の歩みを続けて来ることが出来て、しかも伝道という尊い働きに携わるようにされたことを感謝しています。皆さん方の人生も、すべてを見ておられる主が守っていて下さいます。忠実にということを忘れずに、イエス様が一番という生活であるように、主の助けを求めて祈って行きましょう。
2、すべてを見ておられる主の前で、愛をもって生きる。4:5
だから、主が来られるまでは、何事についても、先走りをして裁いてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるであろう(賞賛が届くー新改訳)。(5節)
5節、「人を裁いてはいけない」と言われています。ずいぶん前のことですが、ある方を訪問し、部屋に通されると「人を裁くな。自分が裁かれないためである」(マタ7:1)という御言葉が壁に貼ってありました。その方はノンクリスチャンでしたが、何かの時にその御言葉を知り、それを書き写し、毎日見ながら、他人を裁きやすい自分の心を抑えているということでした。
「裁く」という事ですが、国家には法律というルールがあって、それを破ったら裁きがあります。私はだいぶ以前に、右折禁止の標識を見落として右に曲がると、お巡りさんがニコニコしながら手を振っているので、停まりましたら「交通違反です」と宣告されました。「右折禁止の看板なんかなかった」と言いましたら、「あります」というので、よく見ると、ちょっと見えにくいところに標識が立っていました。「免許証は?お仕事は?」。「仕事を言うんですか」「はい、参考のために・・」、「牧師です」と答えると「うーん、牧師さんですか」と顔をまじまじと見られてしまいました。そして反則金を支払う結果になりました。このように、社会的なルールを破れば、社会から裁きを受けます。
ところで、きょうの箇所で言われていることは、クリスチャンとして、教会生活をする者としての心構えについてのことです。パウロは様々な悪口を言われましたが、4節で「わたしを裁く方は、主である」と言っています。パウロは、何かを言われて、いきり立ってやり返すことをせずに、「主はすべてを見ておられ、すべてをご存知である」ということを確信していました。この5節では「主が来られる」ということを述べています。イエス・キリストは十字架に命を捧げ、三日後に復活され、40日の間、地上にいて弟子達に神の国について教え、エルサレム・オリーブ山から天に帰って行かれました。キリストはなぜ天に帰って行かれたのでしょうか。三つのことを申し上げます。
第一に、私たちのために、天国に場所を備えに行かれました。(ヨハネ14:1−4) キリストは信じる者が永遠に住む場所を天国に用意をされています。
第二に、私たちに、聖霊をおくるために天国に行かれました。(ヨハネ16:7−15) キリストがパレスチナの一角を人として歩んでいた時には、その時代、その地域の人だけがキリストに会うことが出来ました。しかし、今は聖霊をおくって下さり、時代、地域を越えて、信じる者ひとりひとりの心の中に聖霊は宿り、キリストの恵みを鮮やかに知ることができます。
第三に、キリストはもう一度この地上にやって来ます(再臨といいます)。それが何時であるかは分かりませんが、キリストが言われた世の終りの預言に照らし合わせると、再臨は近づいているようです。世の終りの特徴は、「偽キリストの出現、戦争、民族と民族との争い、国と国との争い、飢饉、地震、クリスチャンへの迫害、信仰に躓く人があり、偽預言者が現れ、不法がはびこり、愛の冷える時代になります。。そして、「全世界にキリスとの福音が伝道された時に」、キリストの再臨が実現します(マタイ24章)。その時に、すべての人が主の前に呼ばれて、裁きを受けます。
パウロは、「主がこられる(再臨される)」ことを告げ、その前に「先走って、人を裁いてはいけない」ということを注意しています。恐らく、まったく人のことが気にならずに、人を批判せずに生きて行くことは難しいことです。しかし、私たちには祈りがあります。気になることを、ただ批判したりするのではなく、陰にあって祈ることができます。先走って裁かないということを心に留めて下さい。しばしば人のことを言う時に、相手の事情も知らないままに、間違った判断をしてしまう場合があります。自分の感情を怒りに任せると、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉のとおりに、相手をボロクソに言ってしまうという危険性があります。人の悪口を言った時の気分、人を批判した時の心の状態を振り返ってみると、まったく恵まれない、後味の悪いものだけが残ったということを思い出すでしょう。聖霊の与えて下さる九つの品性の実の中に「自制」があります(ガラテヤ5:21−23)。批判、悪口が出そうになったら、「主よ」と祈りながら、悪いものを腹に飲み込んで、しまって下さい。詩篇37篇を読みました。その中に「「あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」という聖句がありました(37:6)。パウロは、「主はすべてを明るみに出す」と言っています。もし、私たちの心が明るく恵まれていれば、私たちの正しいことが真昼のように明らかにされ、主からの誉れを受けることが出来ます。
よく言われることですが、裁きは神のなさることです(ローマ12:19参照)。それを忘れて「先走りをして裁く」ということは禁じられています。すべてを見ておられる主の前で、人の悪口、批判などを口に出すという愚かなことをしてはいけないと告げられていることを、心に留めて下さい。神様にすべてを任せる時に、苦々しい、刺々しい心、妬みから解放されます。人の目や言葉に左右されることがなくなります。話が少し逸れますが、人からいろいろ言われるという事ですが、私の事になりますが、この教会は豊留先生との出会いを通して、聖書の示すイエス様の伝道に倣い、個人伝道を中心にして進んできました。「個人伝道だけで大丈夫か。伝道集会をしたらどうか。教会成長論を取り入れたらどうか。韓国へ行って学んだらどうか。カナダ、アメリカのリバイバルを見学に行ったらよい」など種々の事を言われました。しかし、私はキリストに仕える者であり、その役割は神の奥義であるキリスとの十字架の救いを忠実に伝えることであるということを信じ、今日まで皆さんと祈りながら、そして皆さんに助けられて伝道の働きを進めて来ることが出来ました。人の言葉ではなく、聖書の示す真理に従って行けば、それが一番よいことなのです。
「先走って裁かない」という事ですが、再び内村鑑三日記1926年(昭和元年)9月26日の内容を紹介します。「今や社会において不思議なる事件が起りつつある。35年前に自分を不敬漢とののしりて社会に訴えし、帝大名誉教授、貴族院議員、文学博士井上哲次郎氏が,不敬漢として一部の人より攻撃せられ、社会の問題となりつつある。・・・35年前に、誰が、井上哲次郎氏が不敬漢として日本の社会より攻撃せらるる時が到来すると思うただろうか。・・・同氏に対し同情に堪えない」という内容です。内村鑑三は、井上氏より、天皇を崇拝しないとかキリスト教は日本の国に合わないとかいろいろ難癖をつけられ、攻撃され、職を失ったりするなど大変な目に会いました。その事件があってから、35年後に井上氏自身が、人々から不敬漢として攻撃を受けているのを聞いて、内村鑑三は「同情に堪えない」という感想を述べています。こうした事実を知る時に、神は生きておられるということを信じることができます。そして、神が裁きをして下さるお方であることが分かります。ですから、すべてを見ておられる主の前に、愛をもって人に仕え、愛をもって耐え忍び、愛をもって祈りの中に神にすべてを委ねることを、私たちも祈って行きましょう。
まとめ
1、1−2節、すべてを見ておられる主を信じて、祈り、御言葉に従い、集会を大切にし、奉仕と伝道に加わり、献金を捧げ、主に忠実に従い、仕えて行きましょう。
2、5節、すべてを見ておられる主を見上げて、裁き心から解放され、人のために祈り、愛をもって支えて行く者であるように祈りましょう。
*お祈りを捧げます。御言葉によって教えられたことに、決断をもって従うように祈りましょう。また様々な祈りや願いを主イエス・キリストの御名によって祈りましょう。恵みの座でも祈りましょう。
祈 り 天地の主である神様、神の御子であるイエス・キリストの十字架の救いという奥義を信じて救われ、神の子にされていることを感謝します。すべてを見ておられる主を信じ、忠実に信仰生活を続けさせて下さい。裁く心を棄てて、愛をもって生きることが出来るように、聖霊の助けによって前進させて下さい。それぞれのファミリーを祝福して下さい。病気の方に癒しを、助けを求める者に勝利を与えて下さい。私たちに愛を下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献コリント注解―山谷、榊原、西川、佐藤、フランシスコ会、バークレー、黒崎、竹森。「内村鑑三日記書簡全集3」