主はすべてを見ておられる、へりくだって、祝福の器になろう。
コリント第一4:6−13 主の2005.7.17礼拝
アメリカ・リッチモンドの墓地に、和英両文で「在日50年、道ヲ伝へテ己ヲ伝ヘズ」と刻まれた宣教師ムーア・ウイリアムズ(1829−1910)の墓があります。この方は日本聖公会の宣教師ですが、平安女学院、立教学院、立教女学院を創設するという働きをしました。しかし、伝道に専念するために、学校の校長、聖公会主教という役職を辞め、京都を中心として関西方面を伝道して廻りました。日本へ来て50年ぐらい経ったある日、80歳の時に和歌山方面に電車で行くつもりでしたが、乗り換えの駅がどうしても思い出せない。その時に自分の限界を知り、すぐ荷物を整理し、誰にも告げずにアメリカに帰国してしまいます。多くの人々に感謝され、誉められ、華やかに見送られるのを好まなかったからです。彼がキリストの僕として生きたことは、「道(キリスト)を伝えて己を伝えず」という墓碑銘の言葉に集約されています。
本日はコリント第一4:6−13ですが、6節に、「しるされている定め(書かれていること)を越えない」とあります。「しるされている定め」とは聖書のことで、聖書は神が絶対であって、人間は虚しいものであると教えています。神を信じる者は、常に神を崇め、すべては神の恵みによるという、へりくだった気持になり、高ぶりません。「私は神によって生かされている」ということを弁えていれば、「しるされている定め」を越えて神をないがしろにし、他人を見下げたりすることをしません。また、パウロは、「辱められては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉(慰めの言葉)をかけている」(12−13節)と言っています。すべてを見ておられる主の前に、自分を棄てて主に仕え、人に仕え、祝福の器になろうという決意を表しています。主のメッセージに耳を傾け、祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容
1、主はすべてを見ておられる、しるされた定めを越えてはならない。4:6−7
2、主はすべてを見ておられる、へりくだって、祝福の器になろう。4;8−13
資料問題
6節、「しるされている定めを越えない」、1、「聖書に記されたところを超えないこと」(キリスト新聞社訳)。2、当時の諺の文句で、神の前に謙遜であるようにという意。3、聖書に従って歩むことで、自分達の熱心さが嵩じて、自分達を尺度にして、聖書を逸脱してはならない。そうでないと高ぶった者になってしまうであろう。7節、「もし貰っているなら、なぜ貰っていない者のように誇るのか」、すべては主からの賜物であることを忘れずに、主に感謝しよう。15:10のパウロの言葉を見よ。9節「わたしたちを死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ」、ローマでは、闘技場で死刑囚を野獣と戦わせたり囚人同士を戦わせて「見せ物」にしていたが、その最後に出る者で、この世的には最低の運命である。しかしクリスチャンとしては、キリストと同じ十字架を負うて従う最高に名誉なことである。神は御子を衆人環視の中で磔にされた。キリストに従う弟子達も全世界に見せ物とされている。それは神の定めに従う戦士の姿を表している。この定めに従わないで、高ぶり、王座にあぐらをかいているコリント教会の人々は神の思いを本当に知っていない。13節「ちり、くず」、人々のために己を棄てて仕えている弟子達の姿をさす。しかし己を棄てて人々を完全に救ったのはイエス・キリストの十字架である。キリストの十字架を多くの人が蔑んだが、しかし神はキリスとの贖いの死を通して救いの道を開かれたのである。
1、主はすべてを見ておられる、しるされた定めを越えてはならない。4:6−7
兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなた方が、わたしたちを例にとって、しるされている定めを越えないことを学び、ひとりの人を崇め、他の人を見下げて高ぶることのないためである。(6節)
4章の初めで、パウロは、「キリストの十字架を信じれば、誰でも神の子になることが出来るという福音の奥義を宣べ伝えるために、自分は忠実に神に仕えている者である」と述べています(1−2節)。さらに、パウロは、すべてを見ている主がおられる、だから先走って人を裁いてはならないことを告げています(5節)。コリント教会の中に、多くの高ぶった人がいて、自分は知恵ある者であると威張り、他の人を見下げている。ある者は王のように振舞っている。パウロは、その状況を思いながら、ひたすらへりくだって、奢り高ぶる者を諭しています。
6節に、「しるされてる定めを越えない」とあります。この言葉の意味は次の三つが考えられます。
1、聖書に記されたところを越えないこと。
2、当時の諺で、神の前に謙遜であるようにという意味である。
3、聖書に従って歩むこと。自分を基準にしないで、聖書を基準にすること(1、と同じような意)。
パウロは、以上の三つのことを考えながら、聖書に記されたところを越えない、聖書に従って歩むということを教えているようです。聖書に、しるされている定めを越えて失敗した人の例があります。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した預言者で、「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人に勝っていた」(民数記12:3)と言われた人物です。モーセは主に従い、イスラエル200万の民を導いて砂漠を旅していました。ところがコラ、ダタン、アビラム、オンが徒党を組み、250人の人を引き連れて、モーセを落とし入れようとします。モーセは地にひれ伏して神に祈り、「明日、主の前に出よう。あなた方は分を越えている。あなた方は神の幕屋に仕えるという恵みを受けている。それを越えて、アロンのような祭司の務めを要求するのか」と言います。モーセはイスラエルの人々を呼び集め、モーセとアロンは火皿をもち、モーセに反抗する者達も火皿をもって、おのおの火皿に火をつけます。その時に主の栄光が現れ、驚くべきことに、地面が裂けて、反抗する者達とその家族を呑み込んでしまいます。コラに扇動されて従った250人の者は主の火によって焼き尽くされてしまったと記されています(民数記16章)。
6節後半で、「高ぶるな」との警告があります。コリント教会の中には派閥をつくっている人々がいました。彼らは、パウロ、アポロ、ケパというように、自分達の教師を祭り上げ、他のグループをけなし、見下げていたのです。それに対し、パウロは「私も、アポロも自分達の分を尽くして主に仕えている。それぞれの特性を生かし合って奉仕している。他の人を見下げて、高ぶるようなことはしていない。そのために『しるされている定めを越えない』ことを守っている」と言っています。「高ぶる」という言葉ですが、これこそがコリント教会にあった大きな罪です。「高ぶる」という言葉は新約聖書ではコロサイ2:18にありますが、あとは全部コリントの手紙の中にあり、6回出ています(4:6,18,19 ,5:2, 8:1, 13:40)。この言葉は「でっかくなる」ということで、自分が神であるかのように、でかい態度をとって、他人をけなし、審く事を意味しています。自分がでっかくなるとは、具体的に次のように言えます。
1、「私は絶対に悪くない。私以外のすべての人は悪い人間である」という態度です。いつも自分を正当化する自己中心の人です。結局は誰からも信頼されず、愛されないという淋しい報いを受けます
2、審(さば)けば、それは自分にも返ってきます。イエス様は「あなた方が審(さば)くその審きで、自分も審かれ、あなた方の量るその秤(はかり)で、自分にも量り与えられるであろう」(マタイ7:2)と言われました。審(さば)きは主がなされますので、私たちは主に委ねることが大切です。
3、私たちは悪口には、すぐに乗ってしまいます。しかし誉める時に、人のことを素直に誉められないという傾向があります。忘れないで下さい、悪口で一緒になった仲間は、やがて必ず仲間割れをします。悪口に、ゴシップに乗らないで下さい。イエス様の御言葉を心に留めましょう。「あなた方に言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の語った言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」(マタ12:36−37)。
「高ぶる者」の特徴は感謝がないことです。「あなたの持っているもので、貰っていないものがあるか」と言われています(7節)。命は神様が下さいました。命を維持する空気、太陽、水、緑などすべては無代価で与えられています。イエス様の十字架によって、ただ信じるだけで神の家族になっています。恵みを数えて感謝しましょう。感謝がないとツブヤキと愚痴が出てきます。感謝する時に讃美が出てきます。人に感謝し、ねぎらう優しい言葉が出てきます。詩篇37篇の後半を読みましたが、神を忘れ、威張って勝ち誇っている人々がレバノンの香粕のように(生い茂る野生の木のように)聳え立っていたが、いなくなってしまった。だが、主の御言葉に従う者には祝福があることが歌われていました。主の恵みを数え、感謝をささげましょう。パウロは「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである(神の恵みによって、今のわたしになりました)」と感謝告白しています(15:10)。主に感謝し、聖歌642(604)「望みも消えゆくまでに」を讃美しましょう。
2、主はすべてを見ておられる、へりくだって、祝福の器になろう。4:8−13
わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうして私たちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。・・はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しいことば(慰めの言葉)をかけている。(9節、12−13節)
パウロは、コリント教会の高ぶる者に対して、8−13節のことを語っています。9節に「死刑囚」という言葉があります。ローマ時代、皇帝は死刑囚同士に剣をもって戦わせ、また獣と戦わせ、それを市民に見物させていました。パウロは私たちは神に仕えているが、死刑囚のように命を削って主に仕えている。だがコリント教会の高ぶった人々は、まるで死刑囚が皆のさらし者になっているような態度をもって、パウロたちに接している。しかし、パウロは、神に仕える私たちは、13節にあるように「辱められては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉をかけている」という態度を貫いている、と言っています。恩を仇で返すようなコリント教会の高ぶった、でかい態度をとる者に対して、彼が徹底して仕えることが出来たのはイエス様の模範があったからです。私が思いだす御言葉はペテロ第一2:21―25です。ここは開いて読んでみます。
キリストも、あなた方のために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
罵(ののし)られても、罵(ののし)り返さず、苦しめられても、脅かすことをせず、
正しいさばきをする方に一切を委ねておられた。
さらにわたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われ
た。その傷によって、あなた方は癒されたのである。
あなた方は、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督である方のもとに、立ち帰ったので
ある。(ペテロ第一1:21−25)
キリストの一生を辿ってみると、キリストはひたすら人の益になることを考えて行動されています。
*キリストは悪霊に憑(つ)かれ、社会からのけ者にされて、ひとり淋しく墓場で暮らす男の人を助けるためガリラヤ湖を渡って助けに出かけています。悪霊を追い出し、その男の人が社会復帰して暮らせるようにして下さいました(マルコ4:35−5:21)。
*誰からも相手にされない罪人、取税人が集ってくると、彼らに優しく神の愛を教えています(ルカ15:1)。
*人生に疲れている全ての人に対し「わたしの許に重荷を下ろしなさい」(マタイ11:28)と愛の招きをもって導き、心の平安、生活の祝福、健康の恵みを与えて下さる救主です。7月31日夕―8月2日(火)まで軽井沢バイブルキャンプが開かれます。今年はマタイ11:28から「魂の休息を求めて」というテーマです。軽井沢で夏のキャンプをするには1年前から申し込んで、日程を確保するという困難なところから準備が始まります。クリスチャン施設であること、軽井沢であんなに安く宿泊できる所はありません。そういう所でキャンプが今年も行われることを感謝し、主の祝福を祈って下さい。
*キリストはすべての人を救うために十字架の上に命を捧げて下さった愛の救主です。パウロは、自分たちは死刑囚のように引き出され、見せ物にされていると言っています。しかし、本当に死刑囚になって、辱めを受けて、文字通り命を捧げて下さったのはイエス様です。キリストの十字架の苦しみは朝の9時-から昼の3時まで続きました。両手両足に打ち込まれた釘のために、血を流しながら意識を失って行く苦しみを味わい、焼け付くよな喉の渇きに耐えながら、多くの人々の嘲りを受けながら、見せ物のようになって死んで下さったのはイエス様です。
パウロ自身は、始めからイエス様を信じていた訳ではありません。イエス様を信じる前、彼のうちには大きな誇りがありました。自分はユダヤ人である、その中でもパリサイ派に属するエリートである、ガマリエルの門下で律法を学んだ秀才であった、ギリシャ語ができた、何よりも律法を守る点では誰にもひけをとらないと言うだけの自信がある、というのが彼の思いでした(ピリピ3:4−8)。しかし、彼の心の中には「したいと思う良い事はできない。逆に、したくないと思う悪いことをしてしまう」(ローマ7:14−24)という罪がありました。その罪に打ち勝つために、彼は律法を厳しく守ったと言えます。しかし律法を行うことによっては罪の赦しを得られませんでした。最終的に彼は罪を告白して、キリストの十字架を信じるという恵みによって、罪を赦され、罪から解放され、生まれ変わることが出来たのです。そのことを、パウロは、「信仰による義人は生きる」という言葉で表現し、それがローマ1:17に記されています(ハバクク2:4参照)。パウロの時代から1500年後に、ドイツで宗教改革の運動を進めたルッターがいます。彼は、ローマ・カトリック教会の司祭になっていましたが、自分の罪のために苦しんでいました。ある時はローマの教会前で、石の階段をひざで上って行く苦行によって救いを得ようとしますが、ひざが破れて血が吹き出て、痛みが残るだけで救いは与えられませんでした。その後、彼はローマ1:17を読んで、「イエス様の十字架を信じれば、その信仰によって救われる」ということを見出し、キリストを心に信じて罪の赦しを受け、はじめて心の平安を得るという体験をします。その頃、ローマ教会は「お金を出せば天国に行ける」という間違った教えを説いていたので(免罪符)、彼は「イエス様の十字架を信じれば、誰でも救われる。お金では救いは得られない、救いはイエス様が与えて下さる恵みである」という聖書の真理を説き、宗教改革の運動が進んで行ったのです。
話は変わりますが、日本のクリスチャンは総人口の約1%です。教会は7700ほどです。小さい勢力です。パウロがイエス様を伝えていた時代もクリスチャンは少なかったと思います。ローマ皇帝を礼拝するという時代の中にあって、唯一の神様を礼拝するクリスチャンは迫害され、仕事を得ることが困難でした。そういう中にあって、クリスチャンは信仰を貫いて生きていました。パウロは、コリント教会の人々に、つまらぬ派閥争いをやめ、高ぶりを棄て、イエス様の模範に倣って、私がキリストに従って生きているように(17節参照)、謙って生きて行こうということを訴えています。日本の私たちクリスチャンも、救われたことを感謝し、神様を礼拝する生活を貫き、イエス様の愛を受けて、「辱められても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている」(12−13節)という恵みに溢れて、キリストを表して生きて行くように祈って行くことが求められています。そういう証しの生活が、伝道の扉を開く有力な力になります。
キリストを表して生きるということですが、ずっと以前に「ジョニー」というビデオを見ました。ジョニーという高校を卒業した若い女性が、水泳の飛び込みで、首の骨を折り、肢体麻痺になり、車椅子の人生になってしまいます。彼女は信仰を持っていたのですが、それは自分の願いをかなえるご利益的な信仰でした。苦しい車椅子生活の中で、彼女は真心から神を信じ、生きる力を得て、絵筆を口にくわえて絵を描き、講演活動をし、映画で自分のことを証し、自分の存在そのものによって、主を表す者に変えられ、用いられて行きます。この礼拝に、明日の教会を担う若い方々が多くいることを感謝します。日本の教育は進化論によってコントロールされています。そうした中にあって、まことの神によって命を与えられ、イエス様を信じて神の子にされ、永遠の命を与えられていることは幸いです。ここには、小学生の時に、或いは中学生の時に、私のように高校生の時に、或いは大学生、専門校生という若い時期にイエス様を信じ、恵みの道を歩き続けている方々がいます。イエス様を信じて、人のために祈り、人を祝福する素晴らしい人生を歩んで、守られてきています。或いは青年時代に、壮年になってから、また人生の夕暮れ時に信仰を得た方々もいます。こんなに様々な年齢層の方々が救われていることを感謝します。イエス様の救いに感謝し、人を祝福し、優しい言葉、慰めの言葉をかけ、イエス様の愛を示して行くように祈りましょう。
まとめ
1、6−7節、主はすべてを見ておられます。与えられた恵みに感謝し、高ぶって、しるされた定めを越えないようにして、聖書の御言葉に従って行きましょう。
2、9節、12―13節、主はすべてを見ておられます。へりくだって、祝福の器にならせていただくように祈りましょう。
*課題、導き、助け、病気、家族のこと、仕事、経済的問題、将来のことなど祈りを必要とする方々は恵みの座で祈りましょう。
祈 り 天地の主である神様、イエス様の十字架で救われていることを感謝します。私たちの高ぶりを砕き、主の恵みを数え、感謝を捧げるように導いて下さい。どんな時でも人を祝福し、優しい慰めの言葉をかけることができるように導いて下さい。今週も主の十字架を見上げて、聖霊によって祈り、喜びの日々を前進させて下さい。私たちを愛し、守って下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献コリント注解―竹森、佐藤、西川、榊原、黒崎、文語略解、フランシスコ会、山谷、LAB、モリス。