神の前に生きるー争いの解決と魂の救い コリント第一6111      主の2005.8.14礼拝

 

あるビルに入った時に、「この床は滑りやすい箇所がありますので、ご注意下さい」という掲示がありました。それはビルに出入りする人への親切心からの注意書きではなく、誰かが誤って滑って、怪我をしたとしても「ちゃんと注意してありましたよ」という弁明のために掲げられているものです。その注意書きがないと、転んだ人がビルの持ち主を訴えるかも知れないからです。現代は何かがあると、すぐ訴えるということをします。アメリカは訴訟社会と言われています。ある娘さんがパーマをかけたが、注文したとおりの螺旋状の形にならなかったので、パーマ屋を訴えた親子が勝訴、店は料金を返したとのことです(御翼より)。譲ることをせず権利ばかりを主張すれば、こうした事が次から次へと起きてきます。

本日の聖書はコリント第一6111です。この箇所に、「小さい事件」(2節)、「この世の事件」(3,4節)とありますが、教会内で些細なことで争い合い、それを裁判所に訴え出ている人たちに対する教えがあります。争いの内容は分りませんが、争い合っている者達に対し、パウロは、「クリスチャン同士が争いあっていること自体が良くない事である。それは教会に一致が欠けているからである。クリスチャンがお互い同士の争い事から解放されよう。私たち一人一人がキリストによる魂の救いに感謝して行こう」ということを告げています。今朝、主のメッセージを聴き、共に祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

 

内 容

1、教会内で争いをすることは敗北である、イエス様の恵みによって勝利しよう。618

2、古い人生を、新しい人生に変えて下さったイエス様の恵みに感謝して行こう。6911

 

資料問題

ここでは、クリスチャン同士の裁判について言われているが、クリスチャンは裁判をしてはならないということではない。この手紙を書いたパウロ自身が、ユダヤ人達の訴えにより不当な拘束を受けた時に、ローマ市民権を行使して皇帝カイザルに上訴している(使徒251012)。この箇所では、コリント教会の一部の者達が、相手に報復をするために一般の裁判所に訴え出ていることを問題にしているのである。5節「知者」、コリント教会のある者達は知恵ある者として思い上がっていたが、パウロの「あなた方に知者だと言っているが、互いのいざこざを裁いてくれ『知者』が仲間の中にいないのは何故か」という言葉は、彼らに対する強烈な皮肉であった。

910、当時のコリントの道徳的に下劣な罪。パウロはローマ12232で、異教徒の罪に対して鋭く厳しく論じているが、それが記されたのはこのコリントに於いてである。11節、主イエス・キリスト(子なる神)、私たちの神(父なる神)、神の霊(聖霊)という三位一体の神が記されている。

 

1、教会内で争いをすることは敗北である、イエス様の恵みによって勝利しよう。6:1−8

そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなた方の敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。(7節)

コリント教会の中には、いろいろな争い事や、揉め事がありました。その揉め事が段々大きくなって、遂に裁判沙汰になってしまっています。事件の内容は分りませんが、パウロは「きわめて小さい事件」(2節)「この世の事件」(3,4節)と言っています。もしかしたら、教会員同士の金銭上のトラブル、或いは物の貸し借りの問題であったかも知れないと言われています。

この箇所から少し離れますが、私が神学生の時に、英語クラス担当の宣教師の奥さんが、「あなた方は伝道者となる人である。純粋に伝道して行くために、大事なことを教える」と話してくれたことを思い出します。「欲しいものがあったら、主に祈りなさい。どうしても必要なもので、すぐ手に入れたいと思っても、お金がない場合には、お金がたまるまで待ちなさい。決しって借りてまで買うことをしないように。お金の貸し借りでよく問題が起きる。あなた方は、借りない、貸さない、そして保証しないようにしなさい」という内容で、伝道に専念するために大切な原則を教えて下さいました。神学校を卒業し、結婚し、開拓伝道を始め、一軒の小さな家を借りました。6畳、3畳の家で、集会の日は、狭い風呂場に部屋の荷物を押し込んで、その部屋が集会場になり、集会が終わると掃除をして寝室になり、居間になりました。あまりにも狭くて、具合が悪い時に休む所がないので、大家さんの許可を得て、僅かな空き地に2.5畳ほどの部屋を作りましたが、15万円かかりました。皆で献金をして10万円あり、不足の5万円を私の兄に借りました。未信者の兄でしたが、「教会のためなら利息なし、期限なし」ということで快く貸してくれました。今から約35年前で、教会の経常収入が月2万円程で、家賃が1万円、残りで伝道費を出し、牧師生活費を出すという状況でした(当時親子3人、じきに4人になった)。しかし、10か月で5万円を返すことができました。早い返済だったので、兄が驚いていましたが、私は借金の重荷を下ろしてホッとしたことを憶えています。現代の社会の中で、私たちは事業のため、土地家屋のためにローンという制度を利用する場合があります。主によって健康を守られ、仕事が祝福されて行くように祈りながら、しっかり返済をして行くことが大切です。お祈りをお願いしたいことは、深谷、諏訪の伝道所が土地家屋を取得するために、教団が保証人になって銀行からお金を借り入れ、15年ローンで毎月返済をしています。月々の返済のために、また多くの方々が救われて、主イエス様を中心にして、霊的、財政的に良き教会を形成して行くようにお祈り下さい。松江伝道所は日曜日ごとに市の会館を借りて礼拝をしていますので、良き場所が見つかるようにお祈り下さい。

本題に戻ります。パウロが問題にしているのは、コリント教会の人々が、自分達の中で解決できる問題を、この世の法廷に持ち出したという事です。67を読んでみると、「なぜ不義を受けないのか」、「むしろだまされていないのか」と言われているので、金銭上のトラブル、或いは名誉毀損のようなことであったのかも知れません。イエス様は、クリスチャンは、不利や損害を忍ぶべきであることを教えているように思います(マタイ43842。もちろん事と次第によっては訴訟手段に訴えることもあります(パウロはローマ皇帝に上訴している。使徒251012。統一協会が嘘八百を並べて教会を中傷し、また牧師、クリスチャン教授を訴えるという事件が三つあり、それを受けて裁判が行われ、いずれもクリスチャン側が最終的に最高裁判所での勝訴が確定し、6月30日関係者が集り、感謝会をしました(キリスト新聞8月6日号)

この箇所では、教会で解決できる事柄を、わざわざ一般の法廷に訴え出た事が指摘されています。パウロは、クリスチャンは御使いを裁く権威さえも与えられているのだから3節)、あなた方の「小さな事件」、「この世の事件」などは、当然裁くことが出来るはずである、と言っています。

ここで、お互いの間のトラブルを避けるために、聖書の方法を知っておきましょう。私の意見ではなく、聖書の教えを読みます。エペソ42532です

エペソの手紙から教えられる事は、赦すことこそが問題解決のカギであるという事です。赦すということと同時に、無用な争いを避けることは祝福を生み出します。私が学びに行ったカリフォル二ア神学大学院は、高田の馬場に近い牛込キリスト教会の中に教室があります。その会堂を建てるにあたってローンを組み、教会では毎月銀行に支払をしていました。ある時に銀行が利子の計算を間違えていたことが見つかり、50万円以上余分に支払をしていることが分った。銀行は担当者を処分したくなかったので、銀行側に誤りはなかったことにして欲しい。その代わり、残り25年のローンを事業ローンよりも金利の安い住宅ローンの利率にしてくれた。その結果、全部の支払が終わるまでに、1000万円を教会が支払を減額してもらうことになったということです(御翼21号より)

赦すという事ですが、私たちの人間関係で大事なことは、「先に謝る者が祝福を受ける。自分のプライドを捨てる者が主の恵みを受ける」ということです。先に誤り、プライドを捨てたほうが楽な気持になれます。もし、謝ろうかどうかと悩んでいる方がいれば、すぐに謝りましょう。謝って祝福を受けた方々は感謝を捧げて下さい。この朝、私たちひとり一人がイエス様を信じていることを感謝しましょう。イエス様を信じる教会の仲間のために、その家族のために祝福を祈る者になって行きましょう。

 

2、古い人生を、新しい人生に変えて下さったイエス様の恵みに感謝して行こう。6:9−11

あなた方の中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によって、また、わたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。(11節)

9、10節の中に「神の国を嗣(つ)(相続する)」という言葉があります。私たちは、キリストを信じて神の子になり、永遠の命を与えられています(ヨハネ112。キリストは「あなた方の名が天に記されたことを喜びなさい」(ルカ1020と言われました。パウロは、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ320と告げています。キリストを信じて心が生まれ変わった私たちは、死んで終りではなく、神の国である天国に入り、永遠に神と共に住まう希望をもって生きています。

ところで、私たちの一生を図に示すと、5のようになります。見てお分かりのように、私たちはキリストの救いを受け、生まれ変わって、天国に向かって新しい人生の道を歩んでいます。

図をご覧下さい。

1の所は、私たちがキリストを信じた時です。(新生、義認) 

私たちがイエス様を救主、また主として信じた日はいつだったでしょうか、または洗礼を受けた日はいつだったでしょうか。私たちは二つの誕生日を持っています。一つは両親を通してこの地上に生まれた誕生日で、地上の戸籍に登録されます。もう一つは罪を悔改めてキリストを信じて生まれ変わった日で、天の国籍に登録されます。

2の所は、私たちがキリストを信じ、教会を中心にして生きる信仰生活を指しています

これは一生の間継続するものです。キリストに従い続け、私たちはきよい者として、霊的に成長

して行きます(聖化)。信仰生活は完全無欠ではありません。失敗をしたり、落ち込んだり、罪を犯すこともあり得ます。罪を犯した場合は、ヨハネ第一19を読んで祈って下さい。聖霊は私たちの祈りを導き、罪を悔改めて祈れば、キリストの愛と赦しが必ず与えられます。

3の所は肉体の死を指しています。肉体は一度は朽ち果てます。霊は主の御許に行きます。やがてキリストの再臨の時に、体は栄光の体に復活し、霊と結びついて、新天新地に入り、永遠に神と共に生きるのです。

9−10節に罪のリストがあります。罪について、パウロはローマ1:18―32において、まことの神を信じないで偶像礼拝をしている罪、同性愛の罪を指摘し、その他に多くの具体的罪を挙げて、人間が罪に支配されている現実を具体的に述べています。ローマの手紙が記されたのはコリントの町であったので、そこで見聞きした罪のことが、ローマ書の中に色濃く反映されていると言われています。

11節始めをご覧下さい。「あなた方の中には、以前はそんな人もいた」とあります。「以前」というのはキリストを信じる前の事です。キリストを信じる前の人生は闇の人生でした。闇の人生から光の人生に変ったのはイエス様の恵みによります。イエス様は言われました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は闇の中を歩くことがなく、いのちの光をもつであろう」(ヨハネ812。私たちは多くの人の中より選ばれ、聖霊に導かれ、「イエスは主である」123と告白して、イエス様を心に迎え、明るい祝福の道を歩いていることを感謝します。先週、大地君の洗礼式があり、教会に恵みと喜びが満ち溢れました。一人の人が悔改め、イエス様に従う決断をして洗礼を受ける時に、天において喜びがあり、その喜びが教会に伝わり、私たちは恵まれたことを感謝します。

11節後半をご覧下さい。主イエス・キリストによる十字架の救いの恵みが言われています。原文では、この中に3回「しかし」という言葉が使われています。「あなた方は以前は罪人であった。しかしあなた方は洗われた。しかし、あなた方はきよめられた(聖なる者とされた)。しかし、あなた方は義とされた(義と認められた)」という救いの恵みが言われています。また洗われた、きよめられた、義とされたと言う言葉は受身です。自分で罪を洗った、きよくなった、正しい義なる者になったのではありません。「私は罪人であった。しかしイエス様の十字架の愛により、罪を洗ってもらった、罪をきよめられて聖なる者にしてもらった、罪をゆるされ、義なる者にしてもらった」という恵みを言い表しています。私たちは罪人でした。ですから全然良いところのない駄目な者でした。そんな私たちをイエス様が十字架にかかり、両手両足に釘を打ち込まれ、脇腹に槍を刺され、その傷口より流れ出た十字架の血潮によって、私たちの全ての罪を赦して下さったのです。

皆さんは、イエス様の十字架の救いを受けていますか・・・。信じていますか・・・。イエス様の十字架は「私のためでした」と告白し、救いの恵みを感謝していますか・・・。

6月末に関東北東教区メンズの集まりがあり、11教会68名が出席し、幸いな集会でした。その中で3人の方が証しをしました。名前を言わずに、イニシヤルで言います。

間違った光であるネオンの街を流浪していたT兄は、お姉さんが救われていましたが、自分は自分の力で生きると威張っていました。しかし、神様にちょっと十二指腸をいじられて医者に行くと聞いた時に、私たちは「神様よくぞ彼を病気にして下さいました」と感謝しました。それを一つのきっかけにして、彼は魂の医者であり、まことの光であるイエス様の御許に導かれたのです。

イエス様の話をした時に、「私は無神論で来ました。この頃、すこうしばかり見えないものがあると思うようになっています」というのが信仰の始まりでした。会社倒産を受け、再建の指揮をとるために転勤ということになり、急遽洗礼を受けて単身赴任し、常務として再建の陣頭指揮をとり、毎週送られてくるメッセージテープを聴き続け、見えないが共にいて下さる神に日々祈りながら、遂に会社再建を成し遂げたI兄がいます。退職後、教会献身者として仕えておられます。

思わぬ苦難の中に投げ込まれ、四面楚歌の中で、涙の中に新約聖書をむさぼり読んで悔改め、イエス様を信じ、私の前に正座して「これから主を信じて生涯信仰の道を歩みます」とご挨拶され、今では私よりも栄光に輝いているのはO兄です。ここにいる一人一人がそれぞれの救いの物語を持っています。昨日は「こどもサマースクール」があり、下は2歳から中学生までが聖書を学び、ユースグループが手伝い、恵みの一日を過ごしました。こどもたち一人一人がイエス様を信じて、やがて明日の教会を担うようになることを思って、心に感謝が溢れました。

 

まとめ

1、7節、イエス様の十字架の救いによって罪を赦されたことを感謝し、赦し合って行きましょう。

2、11節、古い罪の人生を新しい人生にして下さったイエス様の十字架の恵みに感謝しましょう。十字架によって、罪を洗われ、きよめられ、義とされていることを感謝しましょう。

主の恵みを讃美して、お祈りを捧げます。聖歌588710)「罪の世人らに」を讃美します。

 

祈 り

天地の主である神様、救主イエス・キリストによる救いを感謝します。イエス様の十字架によって黒い罪を洗っていただいて雪のように白くされ、きよい聖なる者として下さり、私たちを義として下さった恵みをほめたたえ、感謝を捧げます。

イエス様によって救われていることを感謝し、共に祈り合い、赦し合い、愛し合って、教会生活をして行くように導いて下さい。

今週はファミリーの週です。人の言葉に頼らず、人のことを話題にしたりすることなく、皆でひたすらイエス様の恵みを分かち合うファミリーとして導いて下さい。深谷、松江、諏訪の各伝道所を祝福して、成長させて下さい。徳島にも恵みを注いで下さい。私たちの罪を洗い、きよめ、義とするために十字架にかかって下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献コリント注解―竹森、黒崎、バークレー、フランシスコ会、榊原、西川、佐藤、文語略解、LAB