キリストの新しい戒めー互いに愛せよヨハネ13:34−35        主の2005.10.23礼拝

「私は聖書を、これまでに神が与えて下さった最上の賜物と信じる。世界の救主イエス・キリストから発する一切の良きものは、聖書を通して我々に伝えられる」という言葉を残したのは、アメリカ十六代大統領アブラハム・リンカーン180965です。彼の家は貧しく、小さな丸太小屋に住み、眠る時は鹿皮の下着のまま、ワラ蒲団に寝っころがるような生活でした。けれども、母のナンシーは、そんな貧しさに負けないで、人間にとって一番必要なものは物質ではないということを、小さい時からリンカ−ンとその姉に教えてきました。10歳の時、彼の愛する母は、マラリヤにかかってしまいます。病が重くなって、母は自分が神の御許に召される時が来たことを悟った時、枕許にリンカ−ンと姉を呼び寄せます。痩せ衰えた手で、息子リンカ−ンの手をなでながら、信仰深い母は、「おまえが、これからもっとも大切にし、そして実行してもらいたいことがあります。それは聖書の教えですが、お母さんの願いでもあります。神様を信じなさい。そして正直に生きなさい。お父さんを助け、姉さんと仲良くし、隣り人を愛しなさい」と遺言します。そして母の魂は彼女の愛するイエス・キリストの御許に召されて行きました。1818105日、母35歳、姉のサラが12歳の時のことでした。その後、リンカーンは苦労して学び、弁護士になり、やがて大統領になり、奴隷解放という偉大な働きをします。それは母の与えてくれた信仰によるものであり、聖書の教えにかなうものでした。

本日はヨハネ133435です。この僅か2節の中に、愛という言4回使われています。リンカーンは母親から、「隣り人を愛しなさい」との遺言を受け、大統領になった時に、愛という事を奴隷解放という形で実践しました。今朝、開かれた聖書の箇所を通して、愛について、特にキリストの愛についてメッセージを聴き、共に祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

 

内 容

1、キリストは愛の戒めを与えて下さった。1334前半

2、キリストの愛に倣って行こう。1334後半

3、キリストの愛を受けて、互いに愛し合って行こう。1335

資料問題

使徒ヨハネによってヨハネ福音書は記された。彼はキリストの昇天の約60年後に「ヨハネ福音書」、「ヨハネの手紙3通」を書いた。晩年迫害により地中海パトモス島に流されるが、そこで聖霊によって、来るべき世の終りの幻を見て「黙示録」を記した。ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とは異なる独自の視点から、キリストの一生を描いている。例えば、冒頭1章に先在のキリストが紹介されている。キリストの大祭司としての祈りがある(17章)。十字架の日付、時間などが共観福音書と異なる視点で記されている(例えば十字架についた時間、共観福音書は朝9時、ヨハネは昼ごろ)。34「新しい戒め」と言われている。「自分を愛するように隣り人を愛せよ」(レビ1918、マタイ1919,2239)の戒めに対し、「わたしがあなた方を愛したように」という条件が加えられているからである。キリストの愛は十字架の愛である。35「互いに愛し合えば・・・弟子であることがわかる」、キリストの弟子であるという最良の証拠は互いにキリストの愛を持って愛し合うことである。

 

1、キリストは愛の戒めを与えて下さった。13:34前半

わたしは、新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。13:34前半

キリストは、今から約2000年前に、ユダヤの国で33年半の地上生涯をおくり、30歳からの3年半はユダヤ全土を巡り歩いて伝道をされ、最後に十字架にかかって人間を罪から救う道を開かれました。しかし死んで終りではなくキリストは死んでから3日後に甦り、今も活きている救主です。

本日のヨハネ13:34−35は、キリストが十字架にかかる前の晩の出来事です。キリストは12人の弟子達と食事を共にしながら、この戒めを語り、14章以下に様々な教えを伝えていますが、キリストが十字架で死ぬ前の言葉ですので、訣別遺訓(遺言)と言われています。ふつう人が亡くなる時の言葉は尊重されます。私事ですが、私は5人兄弟の2番目で、4番目の弟が一昨年に亡くなりました。病気が重くなっても生きることを願っていたのか、弟は家族になかなか自分の気持を打ち明けようとしませんでした。しかし危篤状態になった最後の時に、大学生の息子に苦しい息の下からいろいろと言葉をかけ、息子は父親の思いを知ることができて、「本当に良かった」と言っていました。

キリストは世を去る前に、「わたしは、あなた方に新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言われましたが、遺言ですから、大事な言葉です。この言葉を言われたキリストの一生は愛に生きた一生でした。キリストのおられた当時、ユダヤ教の祭司や律法学者が人々の上に立っていました。ユダヤ教は旧約聖書に基づくものですが、祭司や学者達は、旧約聖書の言葉に自分達の解釈を付け足し、多くの細かい規則を作り、人々を縛っていました。例えば安息日は神を礼拝する日であるから働いてはならない、また行動も制限し、安息日に歩ける距離は900メートルとしました。さらには安息日に家を掃除するのは労働になるのかどうかという事を論じていました。ある安息日に、キリストが18年間も腰がかがんだままでいた女性を治した時に、ユダヤ教の指導者は「安息日に働いてはならない」と怒りました。彼らは人が救われることより安息日という規則のほうが大事だったのです。それを聞いたキリストは、「あなた方は安息日に自分の家畜を水飲み場に連れて行くではないか。この女性は人間であり、家畜とは比べられない尊い存在である。だからサタンの力から解放し、癒してあげるのは当然ではないか。動物と人間とどちらが大切か。安息日に人を癒すという良い事をするのは当然である」と言われています(ルカ13:10−17)。キリストは、いつでも人間を大事にし、人を差別、区別せず、どんな人をも受け入れる愛の心をもち、それを実践なさったお方です。

愛について、聖書朗読のレビ記19:13−18に「兄弟を憎むな。恨みをいだくな。隣人を愛せよ」とありました。しかし、ユダヤ人には自分の同族、仲間なら愛するが、仲間以外の者には愛を示さないし、逆に憎んだり、差別するという考えがあったのです(申命記7:2,3。23:6.25:19参照)。ユダヤ人に限らず、私たちも仲間以外の者を排除するという考えがあります。しかし、キリストは違います。例えば、ユダヤ人はサマリヤ人を差別、軽蔑し、付き合いを拒否していました。キリストはユダヤ人ですが、わざわざサマリヤ人の村に行き、罪の生活をしていた女性を救いに導いています(ヨハネ4章)

キリストの愛は人間の小さな考えを越えています。マタイ福音書の「山上の説教」の中でキリストは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えています(マタイ5:43−44)。これは「敵を憎むのは当然である」という私たち人間の常識を覆した教えです。キリストは「互いに愛し合う」ことを拡大して、「自分の敵のために、嫌いな人のためにも愛をもって祈りなさい」と教えています。それで、キリストは自分の教えを「新しい戒め」と言われたのです。キリストは頭に荊の冠、両手両足に釘を打ち込まれ、十字架にかけられた時に、自分を死刑に追いやった者達のために、「父なる神様、彼らを赦して下さい。彼らは自分のしていることがわからずにいるのです」(ルカ23:34)という愛と赦しの祈りを捧げています。キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということを教えただけではなく、その教えをもっとも苦しい場面で、敵のために実際に祈ることによって実践されたお方です。

教会に、電話で、ファクスで、ハガキで、手紙で、「バカ、あほう、死ね、一生恨むぞ、時限爆弾するぞ、殺すぞ」ということを執拗に言ってくる女性がいます。私の名前を騙って、通信販売の品物を次々に注文して品物を送ってきたこともあります。私はその人を知りませんし、この教会とも全く関係のない人です。理由は分かりませんが、多くの教会に同じようなことをしています。そこで教会の電話は公衆電話からつながらないようにしました。この頃、もう大丈夫かなと思って電話を普通に戻したら、「殺すぞー、死ねー」という電話があり、また公衆電話からつながらないようにしました。先日は注文していない通販の品物が送られてきました。赦し難いことなのですが、新しい愛の戒めを教えてくれたキリストの言葉に従い、その人がこれ以上罪を犯さないように、悔改めるように祈っています。私たちが安心して伝道牧会に励めるように、皆さんもお祈りください。

 

2、キリストの愛に倣って行こう。13:34後半

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13:34後半

キリストは「互いに愛し合いなさい」と教えていますが、そのために、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉を付け加えています。クリスチャンの方々は、キリストが私たちを愛して下さった愛は、分け隔てのない愛であり、見返りを求めない、与える愛であるということを知っています。

ここで愛ということについて、少し考えてみましょう。

愛についての図をご覧ください。

第一に、エロスの愛があります。ここをクリックして表示

図を見れば分かるように、これは自己中心の愛です。自分の生まれながらの欲望に基づいた愛であり、肉欲の愛です。常に自分に関心をもってもらい、人が自分に何かをしてくれることを期待する愛です。自分さえ良ければいいという、自分の欲望を満足させる愛です。これは愛という名に値しないかも知れません。世の中は、こういう自己中心の愛で満ちています。

若い方々が大勢いますので言います。これから色々な異性の人と友達になると思います。若い男女が、お互いに惹かれあうのは、成長のしるしです。その時に、「好きになったら何をしてもよい」と考えて、セックスの関係に入ってしまうという誘惑と危険性があります。好きになったら何をしても良いという考えは、自分の欲望を隠すための言い訳です。サタンは巧みに人を誘惑します。欲望に負けたために、多くの命が妊娠中絶によって失われています。若年層の中にエイズが広がっています。「私は大丈夫」という保証はありません。もし誰かと真剣に付き合いをする、結婚を前提にしてお付き合いしたいと願う方がいれば、牧師に言って下さい。主の祝福があるようにお祈りします。そういう依頼を受けて、何組かの方々のために祈っています。

第二に、フィリアの愛があります。ここをクリックして表示

図を見ますと、相手と自分との往復運動のような愛です。相手と自分の間を平均して往復する愛です。これは私たちがもっとも身近に体験している愛の形です。自分から与えるが、相手からお返しを期待する愛です。お返しはいらないと言いながらも、実は無意識のうちにお返しを期待している愛です。夫婦の関係、親子の関係などを、自分に当てはめて考えてみれば良く分かります。往復運動がうまく行っていれば問題はないのですが、バランスが崩れるとダメになります。極端な例では、自分の息子が親の言うことを聞かない。頭にきた親は、「今までお前にこれだけのお金をつぎ込んで育てた。お前が言うことを聞かないなら、お金を返せ」というような争いになってしまうことがあります。ここにフィリヤの愛の脆さがあります。

第三に、アガペーの愛があります。ここをクリックして表示

自分から出て行く愛で、一方交通の愛です。愛を与えたら、それを喜びとする愛です。報いがあっても、報いがなくても、そういうことを気にしない、求めない愛です。この愛を表されたのは神様です。その愛を具体的に分かるようにされたのが神の子キリストです。神様はもっとも大切な独り子キリストを救主として私たちのために遣わして下さいました。それは人間に罪があるからです。人間はまことの神を離れて、偶像を拝んでいます(出エジプト20:3−6)。罪があるので、人の心から悪い思いが出てきます。不品行(不倫)、盗み、殺人、貪欲、欺き、好色、妬み、高慢などが心の中から出てきて自分を汚し、他人を傷つけます(マルコ7:20−23)。人が罪をもったままでいれば、「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23)と言われているように、人は死んで地獄に行ってしまいます。そこで罪の赦しのために、罪のない神の独り子であるキリストが、私たちの罪の罰をご自分の身に引き受け、十字架にかかり、罪の身代りになって死んで下さったのです。これが究極の愛です。キリストの愛は命がけの愛です。いや実際に十字架に命を捧げて下さった愛であり、言葉や口先だけの愛ではなく、実際に十字架に自分を犠牲にして捧げた愛です。

まとめの図はここをクリックして表示

自分を犠牲にした愛という事ですが、前に紹介したことがありますが、先日ユダヤ人を救った外交官杉原氏のドラマがありました。第二次世界大戦中、ユダヤ人はナチス占領下のヨーロッパから日本を経由してアメリカへ渡りたい。そのために日本へ入る入国許可証(ビザ)が必要である。だが日本はドイツと同盟を結んでいるので、ユダヤ人にビザを出せない。当時リトワニヤ国の領事であった杉原氏は日本へのビザを求めて日本領事館の前に座り込んでいるユダヤ人を前にして、大いに悩みます。遂に彼は国の方針に背くことになるが、目の前で助けを求めている人々を放置できないと決断して、日本へのビザ発給に踏み切ります。彼の決断の背後にはクリスチャンであった奥さんの祈りがあったと思います。当時は手書きでビザを書いたのですが、朝から晩まで書き続けて右手が腫れ上がっても書き続けます。移動命令が出て、汽車に乗りながら出発間際までビザを書き、その結果6000人のユダヤ人が救われたのです。彼はこのために、戦後外務省を辞め去せられますが、助けられたユダヤ人が彼を探し出して、ユダヤ人を救った人として感謝を表し、彼のしたことが広く知られるようになったのです。エルサレムには彼の名のついた記念の樹木が植えられています。

 

3、キリストの愛を受けて互いに愛し合って行こう。13:35

互いに愛し合うならば、それによって、あなた方がわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。13:35

キリストが私たちを愛して下さっていることを感謝します。35節には、その感謝を互いに愛し合うことによって表して行こうという勧めがあります。

愛の実践は、相手のために祈ることです。名前を挙げて祈りましょう。

愛の実践は、その人に声をかけ、話を聴くことです。皆さんにお願いしたい。礼拝後に、誰かに、特に新しい方々に声をかけて下さい。この礼拝にも新しい方々、最近きはじめている方々がいます。礼拝の途中で互いに挨拶をしましたが、礼拝後に少しユックリとお話をして下さい。私もいろいろな方々とお話をしたいのですが、何人もの人と話をすることはできません。皆さんが声をかけ、話を聴き、必要であればお祈りして下さい。

ところで、この後に婚約式があります。ふつうは収入、職業、家族構成など様々な条件を満たす相手を見つけて結婚しようとします。クリスチャンは、聖霊に導かれて結婚相手を見出します。条件から入らずに信仰から入ります。キリストを信じる二人が、祈りの中に決断して、これから婚約をします。靖くんは大学院を出て、立派な社会人ですが、小さい時から知っていますので靖くんと呼んでいます。裕子ちゃんは、海外留学を終えてから、この教会に導かれたのですが、やはり裕子ちゃんと呼んでいます。二人が神様に導かれて、婚約に至り、結婚に向っているということは、二人がいつもイエス様を中心にしていることによって分かります。例えば、礼拝、祈り会などに二人は率先して出席しています。二人が集会に出席している姿は、まことにほのぼのとしています。この二人の婚約式を行えることを主に感謝します。

 

まとめ

13:34-35を読みます。キリストは新しい戒めとして「愛し合いなさい」と命じています。キリストが十字架の愛をもって、私たちを愛して下さったことを感謝します。キリストのアガペーの愛で心を満たしていただきましょう。互いに祈り合い、声をかけ、話を聴くというように、互いに愛し合うことを実践して行きましょう。

 

「主われを愛す」の讃美を歌い、お祈りします。

 

祈 り  

天地の主である神様、キリストの十字架によって、私たちは神の子にされていることを感謝します。キリストが十字架に全てを捧げ、命を捧げて私たちを愛して下さったことを感謝し、私たちも人のために祈り、愛をもって人に仕えて行くように導いて下さい。病気の方々を癒し、仕事を求めている方々を導いて下さい、私たちの家族を守って下さい。午後の手話の集り、聖歌隊、クリスマス委員会、夜の礼拝を祝福して下さい。婚約式を豊かに恵み、喜びで満たして下さい。私たちを愛して下さるイエス・キリストの尊いお名前によって祈ります、アーメン。

 

参考文献ヨハネ注解黒崎、フランシスコ会、バークレー、口語略解、文語略解、LAB。 「聖書ハンドブック・聖書図書刊行会」、「神の愛と教会の交わり・堀越暢治著・ことば社」、「キリスト教例話事典・藤原康男編著・教会新報社」