クリスマスの恵みー神の子として生きる ヨハネ1:9−13 主の2005.12.11礼拝(アドベント第三週)

 

先週はケイラー師による2回のメッセージを通して、豊かな恵みを受け、幸いな日曜日であったことを感謝します。今日からアドベント第三週に入りました。18日(日)午後「こどもクリスマス」、23日(金・祝日)行田商工センターで「クリスマス祝会」、25日(日)「クリスマス礼拝、洗礼式」のためにお祈り下さい。特に23日は広い会場を借りています。クリスマスはキリストを伝える絶好の機会です。家族を連れて、友達を誘ってクリスマス祝会に出席して下さい。ポットラック(食事持ち寄り会)ですので、それぞれ食べ物を持参し、誘った方々の分も持参して下さるようにお願いします。

先日、天皇陛下の娘さんが結婚され、皇室の戸籍から一般の戸籍に移ったという事が報じられていました。この世に生まれると、誰でも生年月日、親の名前、本人の名前、住所を戸籍に登録され、亡くなると、それが戸籍に記録されます。

本日はヨハネ1:9−13です。13節に「神によって生まれた」という言葉があります。「神によって生まれる」ということは、12節によれば、「キリストを信じ、受け入れた者が、神の子どもになる」と言われています。キリストは、「わたしを生ける神の子キリストであると信じ、心の生まれ変わりを与えられた者は。天国の戸籍に登録される。自分の名前が天に記されていることを喜べ」(ルカ10:20参照)と言われました。使徒パウロは、「我らの国籍は天に在り」(ピリピ3:20)と高らかに叫んでいます。今から2005年前、キリストは全ての人の救主としてベツレヘムに誕生しました。ベツレヘムに誕生されたキリストを、個人的に心に信じ、受け入れることによって、誰でも神の子になることができます。クリスマスを前にしていますが、あなたはキリストを信じ、受け入れていますか。キリストを信じ受け入れている方々は、キリストによって神の子どもにされていることを感謝しましょう。キリストをまだ心に迎えていない方は「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日」です。今日、今、イエス・キリストを救主として心に迎え入れるように決断されるようにお勧めします。

 

内 容

1、キリストの前に二つの道がある。1:9−11

2、キリストを個人的に信じて、神の子どもになる。1:12

3、キリストを信じて、神の子どもになったことを大いに感謝しよう。1:13

資料問題

ヨハネ福音書は、紀元90年ごろエペソで使徒ヨハネが書いたもの。本書は、マタイ、マルコ、ルカの所謂「共観福音書」と異なった視点で記されている。例えば、共観福音書は主としてキリストのガリラヤにおける事跡を記しているが、ヨハネは主としてキリスとのユダヤにおける事跡を記している。「わたしである。エゴー エイミー」というキリスト自らの言葉によって、キリストの神であることが明確に示されている(出3:14参照)。

ヨハネ福音書を理解するカギは「信じる」という言葉である。「信じる」ことの結論は、「イエスの神の子キリストたる事を信ぜしめ、信じて御名により永遠の生命を得しめんが為である」(20:31)という聖句によって明らかに示されている。11節「受け入れる、パララムバノー」は公に家に迎え入れる事で、花婿が花嫁を迎えるような状態を指す。12節「受け入れる、ラムバノー」は個人的に迎える事を意味する。「その名」、名とはその本質を示すものであて、キリストの名を信じるとはキリスト自身を信じることである。「力」は許可、権能、能力、資格、特権。

 

1、キリストの前に二つの道がある。1:9−11

すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。(1:9)

今、どこの店でもクリスマスの飾り付けがされ、ふつうの家でもクリスマスツリーを飾り、点滅ライトで家を飾っています。店にはクリスマスプレゼントが並べられ、ケーキ屋さんはクリスマスケーキの注文を受けています。しかし、「クリスマスとは何をお祝いするのでしょうか」と聞いてみれば、大部分の人々はクリスマスの真の意義を知らないまま、ケーキを食べ、小さい子どもはサンタクロースがプレゼントを運んでくると思っているようです。

クリスマスの中心はイエス・キリストです。キリストは、今から2005年前にユダヤのベツレヘムの馬小屋(家畜小屋)に生まれました。キリストがこの世に来られた目的はたった一つ、それは人間を罪から救い出すためでした。人間は「したいと思う良い事は出来ないが、したくない悪い事はすぐにしてしまう」(ロマ7:15−25)という罪に支配されています。聖書は、人間は神に背いて罪を犯し、罪の力に支配され、僅か70―80年の人生を生きて、あとは死んで永遠の滅びである地獄に行くという惨めな者であるという事実を率直に告げています。そうした人間を救うために、愛の神は独り子であるキリストを救主としてこの世に遣わし、キリストは33年半の人生の最後に、私たちの罪の身代りになって十字架の上に死なれました。何故なら「罪の支払う報酬は死」(ロマ6:23)と定められていたので、私たちの罪を文字通り死によって償って下さったのです(ロマ5:8)。素晴らしい事に、キリストは十字架の死後3日目に罪の罰である死を滅ぼして復活され、誰でもキリストを信じれば、罪の赦しと永遠の命を受けられる、救いの道が開かれました。それが「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」9節)という御言葉の意味です。まことの光とはイエス・キリストを指しています。

ところが、10−11節に「世は彼(キリスト)を知らずにいた。自分の民は彼を受け入れなかった」と言われています。キリストが救主としてやって来たのに、人々はキリストを信じなかったと言うのです。「自分の民」11節)とは直接にはユダヤ人を指しています。神が選んだアブラハムの子孫がユダヤ人であり、キリストはユダヤ人の中に生まれて来られたのに、ユダヤ人はキリストを信じなかったからです。ご存知のようにペテロもヨハネもパウロもユダヤ人です。しかし、ユダヤ民族全体としては、現在も旧約聖書だけを信じ、救主イエス・キリストを否定しています。

ここで、私たちが知っておきたい大切な事柄があります。それは、キリストの前には二つの道があり、私たちはそのどちらかを選ばなければならないという事です

一つはキリストを信じる道です。もう一つはキリストを信じない道です。

キリストを信じれば罪の赦しと永遠の命が与えられます。キリストを信じなければ罪の赦しはなく永遠の命もありません。キリストを信じれば天国であり、キリストを信じなければ地獄です。これが、キリストの前に二つの道があるという意味です。

多くの方々が、「救いに関して第三の道はないのか」と言います。それについてキリストは、「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」(マタイ7:13−14)と言われました。狭い門、細い道とはキリストを信じる道であり、天国につながっています。大きい門、広い道とはキリストを信じない道で、その行く先は滅びです。

また多くの方々が、「キリストを知る機会のなかった人々もいる、またキリストを信じなくても立派な人がいる。その人々はどうなるのか」と言います。それについてキリストは、「あなたは他の人のことを言うが、それでは、あなたはわたしを誰と言うか」(マタイ16:13−16)と言われます。神様は、今、メッセージを聴いている私たちに対して、「あなたはどうなのか。他の人のことは、わたしとその人の問題である。あなたはキリストを信じるのか」と言います。

アメリカで、二人の少年が農場で働いていた。日曜日、少年ムーデーは町の教会の礼拝に行く。もうひとりの少年は故郷を出る時に、母から「まず神の国とその義とを求めなさい。日曜日には必ず教会に行きなさい」と言われた。だがいつの間にか教会に行かなくなってしまった。後年、ムーデーは伝道者となり、昔の仲間が病院にいると聞いて見舞いに行った。やせ衰えたひとりの老人がうつろな目をして、「まず神の国とその義とを求めなさい」と一日中呟いていたということです。

私たちは、「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのである」(ヨハネ15:16)というキリストの愛の選びによって救われていることを感謝します。私たちの家族や友達がキリストを信じるように祈りましょう。クリスマスはキリストを紹介する絶好の機会です。特に23日のクリスマス祝会はキリストの救いのメッセージがあり、皆で食事を共にする交わりの時があります。多くの方々を誘い、キリストを求め、キリストを信じる恵みの時となるように、祈って備えて参りましょう。

2、キリストを個人的に信じて、神の子どもになる。1:12

しかし、彼(キリスト)を受け入れた者、すなわり、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(特権)を与えたのである。(1:12)

12節のはじめに、「しかし」とあります。9−11節で、キリストが来られたのに、ユダヤ人を始めとして、多くの人々がキリストを受け入れなかった、ということが記されています。11節の「受け入れなかった」というのは、「公にキリストを受け入れ、迎えなかった、信じなかった」ということです。例えば、ユダヤ人は今でも民族全体でキリストを迎え入れることを拒んでいる、共産主義者達はキリストを迎え入れないで拒んでいる、かつて日本では国家神道の下にキリストを迎え入れないで拒んだということを指しています。ところが、12節冒頭の「しかし」でガラッと局面が変わります。全ての民に与えられたキリストの救いを、多くの民族や人々が受け入れることを拒んだ。「しかし」、それで終りではない。キリストを受け入れた者は神の子どもになるという恵みが与えられたと明言されています。12節はキリストの救いが約束されている喜びの音信(おとずれ)の聖句です。

12節の「受け入れた」というのは「個人的に受け入れた」という意味です。「その名を信じる」とは、名はその本質を示しています。イエス・キリストという名前は、「イエスは神の救い」「キリストは世界の救主」という意味です。「その名」すなわち「キリストの名を信じる」とは「キリストは神の救いそのものである。イエス・キリストという名前によって示された神の救いを信じる」という意味です。

「罪を悔改めて、私はキリストを個人的に信じます」という決意をもって、キリストを信じた者は、誰でも例外なく神の子どもになる特別な権利が与えられます。私たちは、キリストを信じることによって、罪を赦され、生まれ変わり(新生、義認)、天国の「いのちの書」に名前を記されて永遠に生きる者になりました。この特別な恵みは無条件で、タダで与えられる、神の一方的な祝福です。

キリストを信じ、受け入れるということについては、次の三つの事柄が含まれています。

第一に、キリストに自分の身を任せることです

キリストに身を任せるというのは、キリストに心から信頼し、キリストが自分の人生を導いて下さる主であることを、個人的に信じるという意味です。私たちがキリストを信じ続け、キリストに縋り続けて行くならば、キリストは私たちを守り、支えて、天国に導いて下さいます。「わたしの生きている限りは必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう。わたしは永遠に主の宮に住むでしょう」(詩篇23:6)。

第二に、キリスト以外の他の神々(全ての偶像)を棄てることです

神様は、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20・3)と命じています。日本は八百万の偶像に満ちている異教国です。日本の年末は、クリスマスがあり、それが終わると大晦日に寺で打ち鳴らす百八つの鐘で煩悩を忘れ、元旦になると一斉に神社に初詣に行き、少しのお賽銭で一年間の家内安全、無病息災、商売繁盛をお願いします。わずか一週間の間に、キリスト教―仏教―神道と早替わりし、あとは無宗教で暮しているという状況です。

そういう中にあって、この世と妥協することなく(調子を合わせることなく)、キリスト以外のものに心を向けず、キリスト一筋に信仰生活をして行くことが大切です(ローマ12:2)。そのために一回一回の礼拝を大切にして教会に集い、一日の始めに祈り、一日の終りに感謝の祈りを捧げます。また何をするにしても、どんな小さなことでも先ずキリストの御名によって祈って、信仰生活を持続して行くことが大切です。「あなたはわが神です。恵みふかい御霊をもって、わたしを平らかな道に導いて下さい」(詩篇143:10)と、聖霊の助けを求めて、決断を新たにして祈って下さい。

第三に、キリストと永続的なつながり(関係)をもって行くことです

キリストはペテロに対し、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われました(ルカ22:32前半)。ペテロは自分の力、頑張りで信仰を続けると言いましたが、その直後に3回もキリストを裏切るという失敗を犯しました。しかし、キリスとの祈りによって、悔改めて信仰を回復し、殉教の死を遂げるまでキリストに忠実に仕えて行きました。キリストが私たちを支え、導き、守って下さいます。私たちの側ですることは、キリストについて行くことです(マタイ4:19)。キリストの教会から離れないで、ますます固くキリストの教会に結びついて行くことです(ヨハネ15:5)

私の母教会にSさんという御婦人がいましたが、親戚や近所の方々はSさんが家にいない時は、教会に訪ねて来るほどに、Sさんはいつも教会の集会にいました。

あなたはご自分の心の中にキリストをお迎えしていますか。

キリストに自分の身を任せ、キリスト以外の他の神々を棄てて、キリストに結びつき、キリストの教会にますます固く結びついて行きますか・・・。

 

3、キリストを信じて、神の子どもになったことを大いに感謝しよう。1:13

それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。1:13

13節終りに、「神によって生まれた」とあります。私たちは、ただ一方的な神の愛を受け、聖霊に導かれて罪を悔改め、キリストの十字架を信じて、救われることができました。血筋、肉の欲、人の欲と言われている、先祖や親の身分や地位、人間の願望や意志によるのではなく、神の愛によって選ばれ、心の生まれ変わりを与えられて、神の子どもになることができたのです。

皆さんは神の子どもになっていることを感謝していますか。大いに喜んでいますか。自分の生活を通してキリスとの恵みを表そうと願って、それを実践していますか。

鈴木さんという方が救われ、神学校で小使さんとして働くことになった(今は小使ではなく用務員と呼ぶ)。彼はバクチうちをしていた元ヤクザでした。神学校では毎日礼拝があり、神学生たちが交代でメッセージをするが、鈴木さんが聞いてもサッパリ分からない。「キリスト教というのは、学問のできる人々が信じるものなのかなー。俺みたいに元ヤクザで学問のない者にはさっぱり分からない。道を誤ったのだ」と悩んだ。ある時、トイレに入っている時に気がついた。「家には様々な部屋がある、いろいろな材料が使われている。床柱みたいに立派なものもある。このトイレに使われている材料もある。人はキレイな所ばかりを見る。だがこのトイレに使われている物は誰も注意して見ない。だがトイレを形作る材料がなければ、人は用を足せない。偉くなろうと思わず、難しいことを知らなくても、私はイエス様を信じて自分の務めを果そう」と思った時に、迷いが消え、人と比べる事から自由になった。そして晩年には元ヤクザの彼が、その教団の伝道委員として良い働きをしたのです。鈴木さんは、キリストを信じて滅びから救いに入り、神によって新しく生まれ変わり、神の子どもになったことを感謝し、イエス様のために一生懸命に生きたのです。

 

まとめ

1、1:9、キリストの前には二つの道があります。キリストを信じる道、天国につながる救いの中に入れられたことを感謝しましょう。

2、1:12、キリストを個人的に信じて、神の子どもになることができました。祈って、キリストに身を任せ、キリスト以外の偶像を棄てて、キリストに固く結びつき、キリストの教会にしかり繫がって信仰生活を続けましょう。

3、1:13、キリストを信じて、神様によって生まれ変わったことを感謝して行きましょう。キリストによる救いの恵みを身をもって表して行くように祈りましょう。

聖歌475(旧462)番「わが生涯はあらたまりぬ、イエスを信ぜしより」をうたい、お祈りを捧げます

 

祈 り

天地の主である神様、クリスマスにキリストがこの世に来られたのは、私たちを罪から救い出すためであったことをメッセージを通して教えられ感謝します。キリストに身を任せ、偶像を棄てて、キリストに固く結びつき、教会にしっかり繫がって信仰の道を歩んで行けるように、聖霊によって私たちを導いて下さい。午後の大掃除、ゴスペル、夜の礼拝を祝福して下さい。23日のクリスマス祝会には、家族、友人と共に出席し、会場が一杯になるようにして下さい。病気の方々を癒し、主の助けを求める者に速やかに応えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献ハネ注解―フランシスコ会、LAB、口語略解、榊原、米田、黒崎。「心と心の伝道・豊留著」「人生の選択・木村著」