キリストは、まず神の国と神の義とを求める者の霊・心・体を祝福される。マルコ5:25−34 主の2006.1.8礼拝
今はテレビによって瞬時に世界中の様子を知ることができます。携帯電話によって、好きな時に自由に連絡を取り、メールをやり取りできます。しかし、1945年日本が戦争に負けてから戦後しばらくの間、テレビはまだなく、少しお金のある人の家にラジオがあり、電話を持っている家はほんの僅かであるという時代が続きました。そうした中で多くの情報は人から人へと口伝えで伝えられていました。ある田舎でひとりの少女が、村はずれの峠道を登って隣の村に行くと、そこに聖書という本を通して、心を安らかにするお話しをしてくれる外人さんがいるということを聞きました。彼女はその村で生まれた者は自動的に神社の氏子になり、昔からの様々な因習に縛られている田舎の暮らしに疑問を感じ、なぜか知りませんが隣村の外人さんを訪ねる決心をしました。ある朝、彼女は独りで、村はずれの峠道を登り始めました。くねくねと曲がりくねった峠道を喘ぎあえぎ登り、数時間後に隣村に着き、外人さんに会うことが出来ました。外人さんとはイギリスから来た宣教師で日本語も話すことが出来たので、彼女は生まれて初めて聖書の話を聴くことができました。やがて、彼女はクリスチャンになり、彼女の家族も救われて行くという恵みに与りました。
本日の聖書はマルコ5:25−34です。ひとりの病気のご婦人が、イエス様のことを聞いて、必死の思いでイエス様に近づき、病気を癒されただけではなく、霊も心も救われるという素晴らしい祝福を受けたことが記されています。田舎に住む少女が、何として因習から自由になりたいという願いをもって、僅かな情報を頼りに峠道を辿って、そこでイエス様の救いを得たように、病気のご婦人はイエス様の御許に行き、全く新しい人生を歩む恵みを与えられています。
本年、主イエス・キリストは私たちに、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)という御言葉を旗印に進んで行くようにと言われました。今朝、まず神の国と神の義とを求める者の霊・心・体を祝福して下さる主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内 容
1、キリストを切に求める者は恵みを受ける。5:25−30
2、キリストは霊・心・体を祝福して下さる。5:31−34
資料問題
この記事はヤイロの娘の甦りと共に記されている(マタイ9:21−43、ルカ8:30−46)。長血は律法上不浄であった(レビ15:25)。そこで、ひそかに群集に紛れ込んで、後ろからイエス様の衣に触ったのである。29−30節、女は病気が癒されたことをしっかりと感じ、キリストは自分の内から力が出て行ったことを知り、癒しのわざが確実になされたことが分かる。34節「あなたの信仰があなたを救った」とは霊の救い。「安心して行きなさい」は心の平安。「すっかり治って達者でいなさい」は肉体の健康。霊と心と肉体との救いが与えられている。「安心して行きなさい」は安安心を得なさい、安心の中に入って行きなさい、安心を楽しみなさいということである。「達者でいなさい」とは今後いつまでも健やかでありなさいという健康持続の意味である
1、キリストを切に求める者は恵みを受ける。5:25−30
この女がイエスのことを聞いて、群集の中にまぎれ込み、うしろからみ衣にさわった(27節)、すると血の元がすぐにかわき、女は病気が治ったことを、その身に感じた。イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群集の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた(29−30節)
この箇所に出てくる女性は12年間もの長い期間、長血という病気に苦しめられていました。詳しい病気の種類は分かりませんが、婦人の病気で出血が止まらないと言いう厄介なもので、しかも律法の中で汚れた病気とされていたものです。この女性は何とか治りたいと思って、あちらこちらの医者を巡りましたが、治してくれる医者は一人もいませんでした。12年間という年月の間にお金を使い果たし、病気はさらに悪化して行くばかりで、絶望の日々をおくっていました。ところで、この女性の状況は他人事(ひとごと)ごとではありません。私たちの人生にも様々な形で重荷があります。2006年が始まっていますが、皆さんはいかがでしょうか・・・幸いにもこの女性はイエス様のことを耳にしました。彼女の病気は当時の社会では汚れた病気と言われていましたので、そこで誰にも気づかれないように人込みに紛れて、キリストの衣に触って病気を治してもらおうと考えたのです。
「イエスのことを聞いた(耳にした)」(27節)という言葉があります。「聞いた(耳にした)」とありますが、実はイエス様はあらゆる機会に、あらゆる方法を用いて私たちにご自分を表し、救いを与えようと呼びかけておられます。私の事ですが、日本が戦争に負けて、しばらくの間アメリカ占領軍が日本を治めていた時があります。小学校5年の時に、アメリカ宣教師団は日本中の小・中学校に、手の平に入るような小さい形の赤表紙のヨハネ福音書を配布しました。それを受け取り、パラパラと見ましたが、小学生には分からずじまいでしでしたが、それがイエス様の最初の呼びかけであったと思います。その後、小・中・高校時代の3人の親しい友が亡くなり、死の怖れを感じました。高校の時に、クリスチャンの同級生から聖書を借りて読むようになり、「教会へ行ってみよう」という思いになり、そこでイエス様と出会う恵みを与えられたのです。振り返って考えてみると、友の死という人生の悲しみと死の怖れを通して、イエス様が私の心に呼びかけておられたのです。それで、小学生の時に聖書をもらった事を思い出す事が出来て、聖書を読むようになり、イエス様に導かれて行きました。皆さんはいかかでしょうか・・・。順調な時にイエス様の呼びかけを聞いた方もいることでしょう。しかし逆境の時に「私はイエス様に導かれた」という人のほうが多いように思います。この女性は12年間の長血という苦しみを経て、イエス様のことを聞いて大いなる祝福を受けました。聖書朗読の詩篇119:71「苦しみにあったことは、わたしに良いことです(しあわせでした)。これによってわたしはあなたの律法(おきて)を学ぶことができました」と言うことは、私たちの人生を振り返ってみると真実であるということに同意できます。
「血の元(源)がすぐにかわいた・・・治ったことを、その身に感じた」(29節)という言葉があります。この女性は汚れた病気と言われていたので、人前に出ることは勇気がいったのですが、しかしひたすら、熱心にキリストを求めて行ったのです。そして、即座の癒しという恵みを受けました。この場合は即座の答えでしたが、私たちがイエス様に求め、祈って行く時に、答の時機は様々です。祈ったことがある人は、祈りが即座に聴かれる、祈ったとおりに聴かれる、祈った内容とは違う形で聴かれる、すこし間をおいてから聴かれるなどいろいろな答をいただいた経験をもっていることと思います。いずれにしても、祈りは聴かれます。
祈りについて、イエス様は「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん」(マタイ7:7)という熱心さをもって祈りなさいと教えてくれました。イエス様ご自身が、答を得るまで祈っています。その極致は、ゲッセマネの園で徹夜をして、神様の答を求めて祈り続け、十字架に向かう確信を与えられて、十字架に上って行かれたことですコ14:32−44)。
今年は「まず、第一に神の国を求めなさい」という御言葉をいただいていますので、まず熱心に、夢中になって、一生懸命になってイエス様に縋り、集会に励み、奉仕をささげて行く年であるように、皆で祈り合って進んで行きましょう。
2、キリストは霊・心・体を祝福して下さる。5:31−34
イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかり治って達者でいなさい」。(34節)
この女性は、癒されたので黙って帰ろうと思ったようですが、イエス様の前に進み出て、ひれ伏しています。これはイエス様が神であることを認め、信じている、謙った態度を表しています。全てありのままを(真実を余すところなく)申し上げた、とありますが、イエス様は愛の耳を持って、私たちの悩みを丁寧に、残らず全部聴いて下さり、完全に理解し、そして解決へと導いて下さいます。ある方から、「先生は立場上いろいろなことを聴いたりして、それがストレスにならないのですか。どうやってストレスを解消するのですか」と問われて、「うーん、私はストレスが溜まらないんです」と答えました。それは正確には、全てをイエス様に打ち明け、イエス様がそれを完全に理解し、解決に導いて下さるから、私はストレスが溜まらないという意味です。もし、聴いて下さるイエス様がいなければ、今頃は病院に入っているか、引退しているか、髪の毛が全部抜けていることでしょう。
34節は素晴らしい祝福の言葉です。「救った」という言葉が「直した」と訳されている場合がありますが、救ったという直訳のほうがイエス様の心をよく伝えていると思います(新改訳聖書注を見よ)。
「あなたの信仰があなたを救った」というのは霊の救いです。人間には霊があり、霊によって神のことを知り、信じることができます。霊が恵まれ、神の聖霊を与えられて祈りができます。
「安心して行きなさい」というのは心の救いです。心には、物事を知り、理解する力があり、喜びや悲しみを感じる感情があり、また物事を決めたりする意志の力があります。この「安心して行きなさい」というのは、ずっと安心をもって生活して行くことができますよと言う意味です。
「達者でいなさい(すこやかでいなさい)」とは体の健康です。ずっと健康で、達者でいなさいという健康持続の意味が込められています。
イエス様の祝福は霊・心・体に及ぶ積極的なものです。シカゴのホール博士が、あるグループを選んで一年半にわたって、人の受ける情報を調査したことがあります。グループの人々はテレビ、新聞、雑誌、また人と話した時に、そこから受けた積極的情報と否定的情報を日記につけて行きました。ところが日記をつけた人々は最終的にはみな落ち込み、憂鬱な毎日をおくるようになった。その理由は、日記の内容を集計してみた時に分かったとのことです。一年間半の全員の日記の内容を分析した結果、積極的前向き情報はわずか10%で、あと90.%は消極的否定的情報であったということです。このように、世の中は否定的情報に満ちています。しかし、イエス様は違います。12年も苦しみ、人から差別疎外されていた女性に全く新しい喜びの人生を与えておられます。
まとめ
1、27節、29−30節、イエス様の所に解決があります。イエス様に縋り、祈りましょう。
2、34節、イエス様の恵みは霊と心と体の全てに及びます。今朝、あなたの求めは何でしょうか。祈りましょう。必ず祝福の答が与えられます。
*聖歌584(旧560)「心にあるこの安き」をさんびし、祈ります。
祈 り
天地の主である神様、救主イエス様の「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかり治って達者でいなさい」という祝福の御言葉を心に刻んで今週も信仰の道を歩みます。神の霊である聖霊により、また御言葉の光によって私たちを導いて下さい。各ファミリーを祝福して下さい。病の方を癒し、戦いの中にある方に勝利を与えて下さい。今月も救われ、教会に定着する人々を起こして下さい。祝福を与えて下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献マルコ注解:矢内原、黒崎、バークレー、フランシスコ会、LAB、文語略解。 「キリスト教の事典・三省堂」「御翼・佐藤順」