まず神の国を求める者のために、主は命を捨てて救いの道を開かれた。マルコ10:35−45 2006.1.15礼拝

 

共産主義は暴力革命を認めています。暴力革命を極端に推し進める過激派と呼ばれるグループが、日本航空の飛行機をハイジャックし、乗客を人質にとって、北朝鮮に行けという要求を出しました。当局は「人質を解放せよ」と言い、彼らは「出来ない」という交渉が続き、最終的に人質が解放されることになりました。その代わり、当時の山村運輸政務次官が新たな人質になって、過激派と共に北朝鮮に飛び、過激派グループが北朝鮮に降り立った後に、日本に戻って来たという事件がありました。一人の人の犠牲によって多くの乗客が救われるということが実現できたのでした。

本日はマルコ103545です。45節に「人の子が来たのは・・・多くの人の贖(あがな)いとして、自分の命を与えるためである」というキリストの言葉があります。多くの人とは全ての人という意味です。贖いとはきリストの十字架のことです。キリストは、「わたしは世界の全ての人を罪の中から救うために、この命を十字架に献げる」と言われたのです。言っただけではなく、キリストは罪がないのに本当に十字架にかかって、私たちの罪の身代りになって下さいました。過激派によって人質になった人々の代わりに、運輸政務次官が人質になり、大変危険な任務でしたが、無事に帰って来ました。キリストは最初から人間の罪の身代りになって十字架に命を献げる覚悟をもち、それを実行されました。キリストの十字架の死によって、私たちのために救いの道が開かれました。幸いなことに、キリストは死を打ち破って復活され、今も生きておられます。

今朝、私たちを救うために十字架に命を献げて下さったキリストのメッセージに耳を傾け、共に祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

 

内 容

1、キリストは、苦しみを怖れてはならないことを教えている。103540

2、キリストは、争いをやめ、互いに仕え合って行くことを教えている。104144

3、キリストは、十字架にかかり、本当の愛を示された。544

資料問題

マタイ20::2028ではヤコブとヨハネの母が来て願ったことになっている。35節「わたしたちのお頼みすること」、キリストの3234節の受難告知を知りつつ、ヤコブ、ヨハネは自分達の野心にのみ心を奪われている。伝道者の警戒すべきはその野心である。37節「あなたの右と左」、右は王座に次ぎ、左はその次であるので、栄光の国における最高の位置を要求したのである。38節「わたしが飲む杯、わたしが受けるバプテスマ」、杯は吉凶の運命を示し、ここでは苦杯を指す(イザヤ5117,21)。バプテスマは水中に浸されるように苦難の中に投げ込まれることを指す。杯は迫害による苦難、バプテスマは十字架の死を意味する(マタイにはバプテスマについてはない)。39節「できます」、ヤコブは殉教の死(使徒122)、ヨハネは長生きしたが、迫害を受けている(黙示録19)。41節「十人の者は・・・憤慨し出した」、彼らにも優位に立ちたいという同じ気持があった。人は他人を非難する時に却って自分の正体を暴露することが多い。44節「僕となりなさい」、神の国では愛をもって全ての人に仕える者が最大の人物である。45節「多くの」、全てのという意。「贖い」、キリストがこの語を使っているのはこの箇所だけである。贖い金として奴隷を買い戻して自由人となす時に払われるお金。

 

1、キリストは、苦しみを怖れてはならないことを教えている。10:35−40

イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。(38節)

キリストには12人の直弟子がいました。その中のヤコブとヨハネがキリストに対し、「神の国が到来した時に、私たち二人をイエス様の次に偉い右大臣、左大臣にして下さい」とお願いし、その答が38節の御言葉です。「杯」とは運命を意味しています。良い意味にも(詩篇235、悪い意味にも(イザヤ5117使われますが、ここでは苦しみの杯という意味で苦難を意味しています。「バプテスマ」とは、水の中に浸されるように苦難を受けるという意味です。この二つの言葉を用いて、キリストは十字架にかかって苦しみを受け、人の罪の身代りになって死ぬということを言い表しています。

ふたりの間違いは、苦しみを避けて、ただ良いものだけを願ったことです。そこでキリストは、「わたしは十字架にかかって死ぬ。あなた方が栄光を求めるならば、まず苦難を受けることになるが、それで良いのか」とふたりに聞いています。ふたりは本当に分かったのかどうか分かりませんが、「できます」と答えています。キリストはふたりの答を受け入れていますが、しかし、報いは神様がお決めになることである、と言っています。ふたりのことですが、ヤコブはキリストの昇天から10年後、ヘロデ王に首を切られて殉教の死を遂げています(使徒122。ヨハネは長生きをしましたが、迫害を受けてパトモスに島流しになったりして苦難の人生をおくっています。ふたりは、この箇所で願ったような、右大臣、左大臣にはなりませんでした。しかし、素晴らしいことに、このふたりは、迫害に会っても、決してキリストから離れずに、信仰を全うして天国に行く幸いを得ています。

ここで、キリストのことを考えてみましょう。キリストは、「わたしは苦難の杯、苦難のバプテスマ、即ち十字架の苦しみを受ける」と言われました。キリストは神の独り子で、永遠の昔から栄光の王座におられたお方です。ところが、今から2006年前に、キリストはこの栄光の位を投げ棄て、人間となってこの地上に来られたのです。その理由は、人間が罪のために死んで地獄へ行くことを阻止しなければならない。そのために、自分が人間となり、十字架に人の罪を背負って死ぬという道を選ばれたからです。キリストは人間の苦しみを体験して人間の苦しみを理解しよう、そして罪のない清い身を、人間の罪の身代りとして献げよう。そう決意して、自ら進んでこの世に来られた救主です。その使命を負っているので、ヤコブとヨハネに対し、「わたしは苦しみの極致である十字架にかかって死ぬ。あなた方はわたしの弟子であるから、信仰の故に迫害を受け、苦しむという体験をすることになる。だが、苦しみを通して恵みはやってくる。わたしは十字架にかかって死ぬ。父なる神はわたしを復活させるであろう。あなたがたは神が苦しみを通して素晴らしい恵みを下さることを信じ、苦しみを受ける覚悟があるか」と語りかけたのです。皆さんはいかがでしょうか・・・。何があっても「私はキリストに従い続けます」という決断の祈りを献げて下さい。

少し話がそれますが、本日は成人に達した二人のために祝福の祈りをささげます。私の心に、そしてここにいる多くの信仰の先輩方の心に響く聖句は、週報に記してある、「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」(伝道121という御言葉であると思います。若い日にイエス・キリストを信じ、聖書を読み、祈ることを身につけた人は幸いです。どんな時でもキリストに頼る時に間違いのない人生を歩めます。日本の社会は少子高齢化の時代を迎え、仕事のこと、結婚のことなど直面する問題はたくさんあるでしょう。そうした社会の中にあって、教会全体は神の家族として互いに祈り合って行きましょう。成人を迎えたふたりのために、その後に続く若者たち、子供たちのために祈って行きましょう。これから結婚という時期を迎える方々のためにクリスチャンの配偶者が与えられて行くように祈って下さい。仕事を求めている方々のためにも祈って下さい。病気の方々に先ず心の平安が与えられ、癒しの力が注がれて行くように祈って行きましょう。

 

2、キリストは、争いをやめ、互いに仕え合って行くことを教えている。10:41−44

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間で頭(かしら)になりたいと思う者はすべての人の僕(しもべ)とならねばならない」。(43−44節)

ヤコブとヨハネが、キリストに「右大臣、左大臣にして下さい」と願ったことを聞いた10人の弟子達は怒っています。人間にとって、誰が一番になるか、誰が有利な立場に立つかということは気になるところです。キリストは弟子達の序列を決めていませんが、年長者で結婚しているペテロが皆を代表して、いろいろな場合に発言しています。ヨハネは最年少者ですから、ペテロは年長者の自分を差し置いてヨハネは生意気であると思ったかも知れません。いろいろな思惑がぶつかり合って弟子達が争っている様子を見て、キリストは悲しかったと思います。キリストはいきなり弟子達を叱りつけることをせずに、この世の中のことを例にして42−44節で弟子達に教えています。この世では権力者がいて人を支配しているのが当たり前です。ところが、キリストの教えはこの世とは全く逆の教えです。なぜなら、キリストの教えは、神の国の教えだからです。神の国の基準は、支配することではなく仕えることである。頭(かしら)になることではなく僕になることであるという教えです。

キリストの教えから大事なことを述べてみます。

第一に、人と比較しないことです。

私たちは比較が当たり前であるこの世に生きています。小さい時から、体格、何が出来ること、成績、学校など常に比べられています。この世では、一般的に強い、美しい、健康、成績の良いこと、お金があることなどが良いとされています。キリストは全ての人の救主ですが、特に弱い、美しくない、病気、力の弱い者などに対して心を向けておられます。キリストは、ゲラサの墓場で、悪霊に憑かれて暴れ回るので鎖で縛りつけられましたが、その鎖を引き千切り、その鎖で自分の体を傷つけ、血だらけになって裸で叫びながら暮している人の所へ、わざわざ出かけて救いを与え、正気に戻しています(マルコ5120)。

第二に、人を審かないことです。

何でも一生懸命やって仕事が速い人は、ユックリペースの人を見るとイライラします。ユックリペースの人は、何であの人は忙しくセカセカしているのかなーと心の中で批判します。人には人のペースがあることを認めて、何でも自分の基準で相手を審かないことが大切です。

第三に、人を受け入れて行くことです。

これは難しいことですが、人を受け入れて行くように祈りましょう。私が神学生の時、女子と何かのことで対立したことがあります。「女子のくせに」という意味のことを言ったらしいのですが、何故かその事が上級生の耳に届いていました。「主の前には男も女もない聖書に書いてある」と言われて、悔改めて、それから気持ちよく神学校生活が出来るようになったことを思い出します。

このことを教えて下さったキリストはどうだったでしょうか

キリストはユダヤ人して生まれました。ユダヤ人は「私たちが神の民である」という選民意識が強く、他民族を異邦人と呼ぶ尊大なところがあります。しかし、キリストはユダヤ人の嫌うサマリ人の住む地域に行き、身を持ち崩していた女性を救いに導いています(ヨハネ4章)。当時嫌われていた取税人を弟子にしています(マタイ9913。当時ライ病と言われ、人から隔離されていた人に触って癒しています(マタイ81-4。弟子達の足を洗っています(ヨハネ13章)。キリストは人と人を比較しない、人を審かない、そして、全ての人を受け入れています。以前、訪問していた家は子どもが多く、その奥さんは体が弱く、家事が思うように出来ないので、当時はまだ布のおしめの時代で、洗濯前のおしめが部屋に積まれていてオシッコの臭いが立ちこめている。台所は食器が山積みにされ、食べ物のカスがこびりついている。お茶を出してくれるのですが、何かべっとりとアブラがついている。部屋に座る時は荷物をかき分けて座るという所へ何べんも訪問に行き、私はそれに慣れ、その中で聖書を学び、祈っていました。ある時、アメリカより豊留先生が来られたので、その家へ一緒に訪問に行きました。べっとりとアブラのついた湯呑みでお茶が出ましたが、先生は美味しそうに飲み干し、聖書を学び、祈って下さいました。帰りに「きょうは恵まれました。あの家は大変だと思いますが、しかしイエス様はあの家庭をも愛されています」と言われた言葉が心に残っています。

 

3、キリストは、十字架にかかり、本当の愛を示された。10:45

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。(45節)

人の子とはイエス・キリストご自身のことです。この45節で、キリストはご自分がこの世に来られた目的を明確に述べています。キリストは「わたしは仕えるために来た。わたしはあなた方を救うために十字架にかかって死ぬために来たのである」と言っています。

キリストは神であるのに、その一生は、人に仕えるための一生でした。クリスマスの時に聖歌隊が「馬糟(まぶね)の中に」という讃美を歌いました。その中で、「食する閑も打ち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きし この人を見よ」と歌われていたように、キリストの一生は人に仕える日々の連続でした。そして、「すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで 十字架にあげられつつ 敵を赦しし この人を見よ」との讃美のように、キリストは私たちの罪の身代りになるためにクリスマスの日にこの世に来られ、33年半の人生の最後に十字架にかかって救いの道を開いて下さったのです。

苦しみを怖れずにキリストに縋り、人を受け入れ、人に仕えることが神の国の基準です。そして、キリストが多くの人のために命を捨てて下さった十字架の愛に倣って生きることが大切であることを教えられました。ナイチンゲールの名前は知っていると思います。19世紀、イギリスの上流階級の家に生まれ、小さい頃から日曜学校に通い、キリストの愛を実践するために貧しい家を訪問し手助けをしていた。16歳の時に「神に仕えなさい」という召しを受け、24歳の時に「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37.良きサマリヤ人の箇所)という御言葉に従い、看護の道に進んでキリストのようになるという決意をした。その当時、看護婦はカトリック教会の修道女(シスター)の仕事で、あとは社会の貧しい女性が看護の仕事をするという状況であった。上流階級の娘であるナイチンゲールは看護の仕事につくことを家族に反対されます。しかし、彼女は立派な青年からのプロポーズを断り、研修を受けつつ学び、8年後にロンドンの病院で看護婦として働くようになります。クリミヤ戦争と呼ばれる戦争が勃発し、ナイチンゲールは前線に出て負傷した兵士の治療に当たります。兵士ひとり一人を人間として尊重して治療し、彼女が来てから、兵士の病院における死亡率が42.7%から2.2%に下がっています。37歳で過労に倒れ、頭痛、耳痛、歯痛、喉頭炎、関節炎などの持病に悩まされながら、しかし80歳まで病院改革などに関してイギリスだけではなく全ヨーロッパの相談役として活躍します。その間に認知症(所謂ボケ症状)になった母親の介護をしています。90歳で天に召されますが、国民の英雄としてウエストミンスター寺院に埋葬されることを断り、その墓は家族そろって通っていた教会にあります。彼女は華やかな上流階級の生活を捨てて、キリストと人に仕え、英国民から敬愛されますが、ひたすら謙って一生をおくりました。クリミヤ戦争で重傷を負ったある兵士は、「あなたは私にとってキリストです」と言ったそうです。

 

まとめ

1、38節、キリストのために苦難を受けたとしても、それが恵みに変わることを信じて、苦しみを怖れないでキリストに縋って行きましょう。

2、43−44節、争いをやめ、互いに仕え合って行きましょう。

3、45節、キリストが示された本当の愛である十字架を感謝し、キリストに倣って他の人のために祈り、また助け合って行く者にして下さいと祈りましょう。

聖歌198番「イエスは神であるのに」をさんびし、お祈りをささげます。

 

祈 り 天地の主である神様、救主イエス・キリストが命を捨てて私たちへの愛を表し、十字架の恵みによって神の子になる恵みを与えていただき感謝をささげます。苦しみを怖れず、どんな時でもキリストに縋り、助けを得て行くように導いて下さい。人に仕え、また人のために祈り、人を助ける愛の実践をするように用いて下さい。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献マルコ注解―バークレー、黒崎、フランシスコ会、文語略解、LAB、豊田栄。「御翼・佐藤順メッセージ」

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