神の国を求める者は、主の十字架の愛に感謝し、恵みを分かち与える 第一ヨハネ3:16−18 主の2006.1.22礼拝

先週火曜日に宅配便でダンボールの箱が届き、中身はたくさんのカイロでした(現物を示す)。「ホームレス伝道のために」ということで送られてきましたので、これを28日(土)上野に持参します。路上で生活している人々の助けになることを思い、主に感謝し、送って下さった方に感謝と共に祝福が豊かにあるようにという祈りを込めてお礼状を書きました。私たちは困った人やなどのことを聞くと心が痛み、何かをして助けたいという気持になります。しかし正直にわが身を振り返って考えてみると、実際に具体的に何かの助けをすることは殆どしていないと言うのが偽らざる所であると思います。今回カイロを送って下さった方は、お米などの生活物資を継続して献げることによってホームレス伝道を支え、またホームレス伝道に協力している私たちの教会を励ましてくれています。

本日は第一ヨハネ3:16−18です。この手紙を記した使徒ヨハネは、「あわれみみの心を閉じないで、私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」117−8節)と言っています。その根拠は、16節にあるように、私たちひとり一人が、主イエス・キリストの十字架によって愛の救いを受けたからです。私たちはキリストの救いを受け、心の生まれ変わりを与えられ、永遠の命を受けてクリスチャンになりました。キリストの愛の救いを受けた者は、カイロを送ってくださった方のように、誰かにこの愛を分かち与えて行こうという積極的な気持を与えられ、あわれみの心を閉じないで、人を助けることを喜びとするようになります。

今朝、キリストの救いを感謝し、主のメッセージに耳を傾けて心にたくさんの恵みを受け取り、共に祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

 

内 容

1、キリストの十字架によって私たちは救われ、愛されている。3:16前半

2、キリストの十字架によって救われた者は、兄弟のために命を捨てる。3:16後半

3、キリストの十字架に感謝し、救われた恵みを表して行こう。3:17−18

資料問題

16節「いのちを捨てて下さった」、贖罪の死の意味に用いられる言葉。キリストは十字架の上にご自分の尊い命を献げて、私たちの罪の身代りになり、罪の赦しによる救いの道を開かれた。キリストの十字架の死は、私たちに対する最高の愛の表れである。17節「神の愛」、神を愛する愛。18節「行いと真実とをもって愛し合う」、愛は実際的である。例えば病気の人を訪れ、助けを必要とする者に助けの手を差し伸べることなどである。

 

1、キリストの十字架によって私たちは救われ、愛されている。3:16前半

主はわたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちを愛ということを知った。(16節前半)

ヨハネ第一の手紙3:16は、ヨハネ福音書3:16と並んで、神の愛を示す聖句として有名です。是非ふたつの聖句を暗誦して下さい。本日のヨハネ第一の手紙3:16で、「主」というのはイエス・キリストのことです。「わたしたちのためにいのちを捨てた」というのは、キリストが十字架の上で、私たちの罪の身代りになって死んだということを示しています。この聖句は、今から約1970年前、キリストがエルサレムの郊外ゴルゴタの丘で、十字架上で両手両足を釘付けにされ、脇腹に槍を刺され、罪のない、きよい尊い命をささげて、私たちの罪の身代りになったことを伝えています。さんびに、「君は愛されるために生まれた」という心に響く歌があります。ちなみに我が家の孫たちの愛唱歌です。「君は愛されために生まれた」という意味は、私たちは、キリストによって愛されるために生まれた、ということです。キリストは私たちをこよなく大切に思い、愛していることを十字架によって表して下さいました。キリストを信じる前、私たちは天地を創造された創造主なる神に背いている罪人でした。罪の支払う報酬は死です(ロマ6:23)。罪人のままでいるならば、この世に生まれて僅か70年か80年だけ生きて、肉体は朽ち果てて死に、霊は神の前で審きを受け、罪人として永遠の滅びの中に投げ込まれてしまいます。私たちが滅びるという悲惨な運命の根本原因は、神から離れている罪にあります。神は罪を嫌い、これを滅ばされます。そこでキリストが、「わたしが人間の罪を負います。そのためにこの身をささげます」と言って、きよい罪のない身を私たちの身代りとしてささげ、十字架にかかって下さったのです。私たちが罪を認め、罪から離れたいという願いをもって十字架のキリストを信じるならば、罪が赦され、心が軽くなったことを感じ、罪の力から解放されたことを知ることができます。キリストを信じる時に、私たちはその瞬間に救われます。

ところで、救いの確信について、誤解してはならないことがあります。キリストを信じると、多くの方々が喜びを表します。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる人もいます。しかし、キリストを信じても淡々として、平静な人もいます。一般的に、多くの方々は、救われたことが感情に伝わり、喜んだり、嬉し泣きをします。あるいは特別に感情を表しませんが、救われたことを感謝し、静かに喜ぶ人もいます。感情の高まりがあってもなくても、真に大事なことはキリストを信じることが救いの土台であるということです。私事ですが、私は高校生の時に、聖書のロマ書10:10によって、思いだす限りの罪を告白し、「イエス様を信じます」と祈りました。その時に「救われた」という思いが与えられ、洗礼を受ける決意をしました。洗礼を受けてから、キリストの十字架の意味をさらに学ぶことによって、救われている喜びを人に伝えるために、キリストに献身して行くように導かれました。

まとめてみますと、救いについては、次のことが大切です。

まことの救い

キリストの十字架と復活の事実

罪を悔い改め、キリストを救主、また主として信じること。そしてキリストを心に迎え入れる事が信仰である

それが感情に伝わり、喜びとなって表れる。

キリストの事実―信仰−感情である。

感情−信仰-事実ではない。

「主はわたしたちのためにいのちを捨てて下さった」という十字架の事実があり、私たちはキリストを信じて、心にキリストを迎えて喜びが溢れ、心の奥底より生きる力が湧きあがって来たのです。

聖歌220番(旧220番)を歌いましたが、イギリスのチャールズ・ウエスレー1707−88)の作です(「讃美歌21」456番では『わが魂を愛するイエスよ』)。彼は兄のジョン・ウエスレー1703−91)と共に全イギリスにキリスとの救いをもたらした伝道者です。兄のジョンが説教をし、弟のチャールズが讃美をもって人々に福音を伝え、このふたりによってイギリスは滅びることを免れたと言われています。ふたりは当時の新大陸と言われたアメリカへ船で行く途中、大嵐になります。沈没するかも知れない危険の中で、少しも騒がずに、讃美を歌い続けているドイツからの移民であるモラヴィヤ派のクリスチャン達の信仰に感銘を受けます。ふたりはアメリカ伝道に失敗して、失意のうちにイギリスに戻ります。チャールズは自分の信仰を見つめ直すために兄とモラヴィヤ派の集会に出ます。1738年5月31日、チャールズは熱を出して寝込んでいましたが、モラヴィヤ派のある女性が部屋にきて枕元で「ナザレのイエスの名によって起きなさい、そして信じなさい。そうすれば、あなたの弱さは癒されます」と告げて去ったのです。彼が起きて聖書を開くと、「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みは主にあります(詩篇39:7)とありました。さらに聖書を開くと、イザヤ書40:1「慰めよ、わが民を慰めよ」とありました。救いの確信がもてないで悩みぬいていたチャールズは、この出来事によって神との平和を与えられます。やがて兄のジョンも救いの確信を得、ふたりで馬の背に揺られながら、当時イギリスの国教会から見捨てられていた貧しい人々に、キリストの福音を伝えて行きます。チャールズがキリストを信じて生まれ変わった直後に「愛するイエスよ、かくまいたまえ」という魂の歌を作詞したのです。この歌は日本語でもいろいろな訳があり、メロディーもいくつかあります。「主イエス・キリストはわたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」・・・・私たちはキリストの十字架によって救われていることを感謝し、キリストによって愛されています。キリストの救いの恵みをさんびしましょう。

 

2、キリストの十字架によって救われた者は、兄弟のために命を捨てる。3:16後半

それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。(16節後半)

3:16後半、キリストの愛を知った者は、兄弟のために命を捨てるべきであるというのは、実に思い切った言葉です。ここで兄弟のために命を捨てるとは愛の問題を示しています。13−15節を読んでみると、人を憎む者は人殺しであると言われています。憎しみの源は罪にあります。16節で、人を憎む心を生み出す罪を取り除くために、キリストは十字架の上に命を献げて下さったことが分かります。ですから、「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」という御言葉は次のように理解できます。キリストの十字架の愛によって、信じるだけで救われる恵みを受けた者は、憎しみを捨てて、兄弟を大切にし、思いやりを示し、いたわりの言葉をかけて愛を表しなさい、ということです

愛を表すために最も単純ですが、しかし最も大切なことを三つ言います。

(1)  愛は言葉をかけることから始まります

神学校の時に弓山先生によって「ロマ書」を二年間勉強しました。先生は分厚い英語やドイツ

語の本から直接に訳しながらロマ書の真理を噛み砕いて教えてくれました。ロマ書の内容に入る前に、かなりの時間をかけてロマ書を記した使徒パウロについて学びました。学期末に筆記試験があり、その後に面接がありました。面接で、「わしはパウロの人となりについて、だいぶ時間を費やしたが、パウロは挨拶の人であり、気配りの人であった。ロマ書16章がその良い例だ。伝道者となったら、このことを忘れないで、腰を低くして人に接しなさい」ということを教えてくれたのを思い出しかす。キリストは病気の人に近づき(ヨハネ5:6)、息子を亡くして嘆く母親に声をかけ(ルカ7:13)、常に私たちに近づいて下さっています(ルカ24章エマオの途上)。帰る時に、新しい方々に、初めての方々に声をかけて下さい。

2)愛は人の悪口を言いません。

私たちは、ついつい調子に乗って人のマイナス面を言いがちです。ライブドアという会社に不正があるということで警察の調べが入りました。少し前までは、ライブドアの社長はホリエモンというニックネームでマスコミの人気者であり、時代の寵児であり、衆議院議員選挙にも出ましたが、今はマイナス面しか報道されていません。人の評価には上がり下がりがあります。クリスチャンは人の悪口を言わないことが鉄則です。キリストは、「あなた方に言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない」と言われています(マタイ12:36)

3)愛は人のために祈ります

祈っていれば、人に声をかけることができるようになります。また悪口を言うことがなくなります。人は生きている以上、様々に誤解されて、陰口を言われたりします。言われるとカッとなって、負けずに言い返したくなります。私も悪口を諸教会に言われたことがあり、それを心配して知らせてくれた牧師がいました。そういう時に、弓山先生の「司令官は弁明せず」という言葉を思い出します。また「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅かすことをせず、正しいさばきをする方に一切を委ねておられた」というイエス様の愛を求めて祈り、相手のためにも祈ります(Tペテロ2:22−23)。その結果、巻き込まれて相手を悪く言わなくてよかったということを体験ししています。本当に正しいことを知っておられる主によって、やがて全ての真実が明るみに出されるので、主に任せて祈ることが勝利の秘訣です。

3、キリストの十字架に感謝し、救いの恵みを表して行こう。3:17−18

あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が彼のうちにあろうか。(17節)

この箇所で、「あわれみの心」という言葉があります。私は自分の心があわれみを失って、冷たい心、無関心な心にならないようにと祈っています。皆さんに、あわれみの心を閉じないようにするために、是非とも実践してもらいたい事があります。それは耳をささげることです。ふつう一般には弁舌が重んじられます。また様々な人助けをする行動力が求められます。しかし、私は自分のことを考えてみると、どうも弁舌の力が弱く、口下手である。また、大体スローペースが得意で、例えば原稿を頼まれた場合、締め切りが近づくと力が出て書けるというタイプです。そういう足りない牧師ですが、奉仕役員の方々、教会の皆さんの祈りと支えによって、そして家内の助けによって今日まで守られてきました。そんな足りない牧師ですが、豊留先生が、「耳を使って、相手の話を聞く事は誰にでも出来ます」と言われたことを心に留めて、一心に人の話を聴くことを心がけて行こう、そしてイエス様に祈ろう、これを実践して行こうというのが私の働きの一つの大切な目標です。

聴くということは時間が必要です。自分に興味のない内容の時もあります。また早く解決の道を教えてあげたいという気持になります。それは間違っていると指摘したくなります。また同じことを繰り返すんですか、と言いたくなる場合もあります。嫌なことを聴く場合おあります。しかし黙って聴くことに徹するのです。相手の気持を尊重しながら、相手の気持を理解するように努めて聴いて行くのです。批判、説教、行動を促すことをせず、話を遮らず、反論せずに聴くことが、耳をささげるということです。そして聴きっぱなしにしないで主に祈ることです。後は主が解決し、導いて下さいます。聴いた嫌なことが(人の悪口など)残らないように、主が私たちの心を守ってくれます。考えてみれば、私たちはイエス様に何度も同じことを繰り返したり、愚痴を言ったり、時には怒りの気持をぶつけたりなど、随分と失礼なことを祈りの中で言っていますが、イエス様は残らず全部を聴いて下さいます。だから祈った後は気持が晴れやかになり、平安になることを経験します。イエス様は憐れみの心を閉じないで、私を受け入れて下さっていると思うと、心が穏やかになり、感謝が湧いてきます。クリスチャンだけが耳を使って、人の話を誠実に、真剣に聴く知恵と力とを与えられています。それが、あわれみの心を閉じないということの大切な実践になります。

 

まとめ

1、3:16前半、キリストの十字架によって救われています。キリストは命をかけて、私たちを大切に思い、愛して下さる救主です。

2、3:16後半、相手を憎むのではなく、愛することが大切です。相手に声をかけ、悪口を言わず、相手のために祈ることをして行きましょう。

3、3:17あわれみの心を閉じないように祈りましょう。具体的な実践として、相手の話に誠実に耳を傾けましょう。そのあめに耳をささげて下さい。

讃美をささげ、祈ります。聖歌614(旧578)「主の愛のながうちに」を讃美します。

 

祈 り  天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストが命を捨てて、私たちのために救いの道を開いて下さったことを感謝します。イエス様のきよい愛で心を満たされ、人に声をかけ、悪口ではなく人を高める言葉を語り、心から人のために祈る者にさせて下さい。この耳をささげます。あわれみの心を閉じないで、人の話を聴き、祈る者にして下さい。水曜日の祈り会、土曜日の上野ホームレス伝道を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献第一ヨハネ注解ー黒崎、フランシスコ会、LAB、文語略解。 「信徒の友・2月号・日キ教団」、「信仰生活の手ほどき・尾山著・キリスト新聞社」