神の国を求める者は、キリストの教会に所属する者である コリント第一12:12−30  主の2006.2.5礼拝

 

日本には約8000のプロテスタント教会があり、いろいろな教団・教派に所属しています。教会は自分の属する教団教派の特色を生かしながら伝道活動をしています。私たちの教会は日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の一員で、聖書信仰に立ち、聖霊の力に満たされて伝道をして行くことを願い、現在全国に214の教会・伝道所があります。時々、教団教派で、自分と他の教団との優劣を論じたりすることがあります。それに対し、宗教改革者ジョン・カルヴィン1509−64)は次のように言っています。「私たちは、誰か人を知ろうとする時、その人の靴や足を見ないであろう。まず私たちは相手の頭を見るだろう。それならば、なぜ教会を見る時、私たちはその頭から見ないのだろうか、教会の頭とはキリストである」。私たちの熊谷福音キリスト教会は「キリストをよろこび、キリストを伝える教会」を目指しています。「キリストを喜び、キリストを伝える教会」とは、私たちが救主イエス・キリストの恵みによって喜びに満たされ、イエス・キリストのみに救いがあることを確信し、教会全体で伝道に励んで行こうという祈りと願いとを表しています。

本日はコリント第一12:12−30です。この手紙を記した使徒パウロは、聖霊に導かれて「からだが一つであっても肢体(器官)は多くあり、また、からだのすべての肢体(器官)が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」と述べています(12節)。聖書では、教会はキリストの体と言われています。体を生かすものは頭であり、体全体の各肢体(各器官)は頭からの指令によって動いています。もし各器官が頭から離れれば、命が通わず、死んだものになり、何の役にも立ちません。教会の頭はキリストであり、私たちはキリストにつながることによって生かされています。カルヴインが言ったように、教会を生かす頭であるキリストが大事なのです。

本年は、キリストの「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)というご命令に従って行こうと、それぞれが祈って信仰の歩みを続けています。今朝、主のメッセージを共に聴き、まず神の国を求める者は、キリストの体である教会に所属する者であることを改めて再確認しましょう。キリストの教会にしっかり繫がり、キリストをよろこび、キリストを伝える者として、共に祈り合い、助け合い、赦し合い、支え合って信仰生活を継続して行くように、新しい決断をもって祈って下さい。

 

内 容

1、私たちはキリストの教会につながって霊的に生きる者である。12:12−13

2、私たちは教会の頭であるキリストにつながる各器官であり、各自の役割を持つ者である。12:14−24

3、私たちはキリスト中心の信仰に立ち、互いにいたわり合って行く者である。12:25−30

資料問題

コリント第一12:1−14:20は霊の賜物についての教えの箇所である。12:12−30において、パウロは、教会はキリストの体であり、教会と言う共同体における霊的賜物が相互依存の関係にあることを教えている。キリストは教会の頭(かしら)、教会はその体であることは教会の奥義である(エペソ1:23、5:2、コロサイ1:18)。教会は、人間の規則、教義ではなく霊に寄って結び合わされている有機的結合である。有機体は、複雑であればあるほど高等であると言われる。下等なる有機体はその一部を切断してもその生存に差支えがないが、高等なるものとなるほど体の極めて小部分の損失が全体の生存に大いなる影響を与える(例えば我々が指先に怪我をすれば全身が痛むようになる)。だから霊の有機的共同体である教会では誰一人失われてはならないのである。14節「一つの御霊を飲んだ」、キリストにおいて生きる生命の溢れ出る泉であり(10:4、ヨハネ7:37−39)、キリストの与える水である(ヨハネ4:10,14)。

 

1、私たちはキリストの教会につながって霊的に生きる者である。12:12−13

わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つの体となるようにバプテスマを受け、そして皆、一つの御霊を飲んだのである。(13節)

今から1973年前、キリストは天国に帰って行きました。残された男女合わせて120名の弟子達がエルサレムの二階座敷で祈っていた時に、天から降ってきた聖霊を受け、彼らは力に満たされます。ペテロが弟子達を代表して、キリストの十字架と復活のメッセージを伝え、三千人の人々が救われ、洗礼を受け、教会が発足します(使徒2章)。それ以来、世界中にキリストの福音が伝道され、日本にも福音が伝えられました。日本では、まだ99%の人々がノンクリスチャンであり、私たちの周りには多くの偶像が溢れています。しかし少しずつ福音が伝えられ、各地に教会があり、私たちは熊谷の教会に属する者であることを感謝します。

ところで教会とは何でしょうか・・・。

キリストは、「教会はキリストを神の子、救主、主であると告白する信仰を持つ者の群れである」と述べています(マタイ16:16−19)

使徒行伝は、ペンテコステの日に教会が誕生し、「教会は、罪を悔改め、キリストを信じて洗礼を受け、聖霊を与えられた者の集りである。信じた者達は使徒達の教えを守り、聖餐式を行い、交わりをし、祈っていた」という最初の教会の様子を生き生きと伝えています(使徒2:38−42)

本日のコリント第一12:12で、使徒パウロは、「教会はキリストの体である(エペソ1:23参照)。教会の頭はキリストであり、体の各器官が頭に繫がって生きているように、私たちはキリストに繫がって霊的命を受けている者である」と述べています。

以上をまとめるならば、「教会とは、罪を悔改めて、キリストを救主、また主として信じ、洗礼を受け、聖書の教えに従い、聖霊によって祈り、神の家族として祈り合い、支え合って行く人々の群れである」と言うことができます。さらにつけ加えるならば、「教会は、聖霊の力によってイエス・キリストを伝道する群れである」(マルコ16:15)ということができます。

ここにはキリストを信じている方々が集っていますが、キリストを信じる者の特徴を三つあげます。

 

第一に、キリストを信じる者の特徴は共に集るということです。キリストは「二人でも三人でも、わ
たしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束されました。この礼拝に、遠くから近くから大勢の皆さんが出席されていることを感謝します。
第二に、キリストを信じる者の特徴はキリストにあって一つであるという事です。「ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つの体となるように、バプテスマを受け、皆一つの御霊を飲んだ」と言われているように、私たちはキリストを信じるという信仰を与えられ、教会に繫がっています。キリストを信じるということで、私たちは神の家族であり、兄弟姉妹なのです。
第三に、キリストを信じる者の特徴は、人に繫がるという派閥をつくらず、命の源であるキリストに繫がるということです。私が高校生で教会に行き始めた時に、私を可愛がってくれたSさんというおじさんがいました。私にはよくわかりませんでしたが、教会の人間関係のことで、事情があって教会に来なくなりましたが、私とSさんとの交わりはずっと続いていました。Sさんの信仰はどうなるのかなと思って、祈っていましたが、神は愛です、「主は『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた」(ヘブル13:5)という御言葉のように、Sさんは教会に戻る機会を与えられ、戻ったのです。その時には教会から遠く離れた所に越していたのですが、電車を乗り継ぎ、日曜日ごとに礼拝に出席し、命の源であるキリストにしっかりと繫がり、信仰の恵みを蓄えて恵まれていました。時満ちて、奥さんの祈りの中に静かに天に召されて行きました。私たちも命の源であり、「昨日も、今日も、永遠までも変わることのない」キリストに繫がり(ヘブル13:8)、教会にしっかり繫がり続け、聖霊に導かれ信仰生活に励んで行くことを、新しい決断をもって、主に祈りましょう。

 

2、私たちは教会の頭であるキリストにつながる各器官であり、各自の役割を持つ者である。12:14−24

実際、体は一つの肢体(器官)だけではなく、多くのものからできている(14節)、ところが実際、肢体(器官)は多くあるが、体は一つなのである(20節)

使徒パウロは、教会について体を例にしながら、教会のあり方を分かり易く説明しています。私たちの体を考えてみても、実に様々な器官があって、頭から来る指令に従ってそれぞれの働きをしています。私はメッセージをワープロで全文を書いています。文章を組み立て、それをキーボードに打ち込んで原稿を作成するのですが、よく十本の指がうまく動いてくれるなーと神様に感謝しながらワープロを使っています。親指で押すところに、他の指が「そこは俺が押す」と言って割り込めば、指が絡まってしまって仕事が捗りません。それぞれの指の特徴を生かしての役割分担があって、全体として調和を保って仕事ができるのです。使徒パウロは、耳、目、手、足などを例に引きながら、それぞれが頭に繫がり、各自の役割を果たして行く時に、全体としてバランスを保ちつつ、体が機能して行くことを説明しています。

22−24節には、目立たないような、或いは弱そうに見えるところなどが重要であり、大切にしなければならないということが言われています。人間の背骨の一番下あたり、お尻の辺に尾骶骨があります。昔、進化論者は、人間がサルであった時代に尻尾があった。人間が進化して尻尾がなくなり、その名残として尾骶骨が残った。だから、尾骶骨はあってもなくてもよいような退化した器官であると説明していました。しかし、尾骶骨は尻尾の名残ではなく、実は体を支える重要な器官であり、あってもなくても良いというのではなく、必要なものであるということが分かってきています。私たち全てが必要な無くてはならない者であり、誰一人欠けてはならない大切な者であることを知り、主に感謝しましょう。私が大切にされているように、ここにいる全ての人が神によって愛され、救われ、主を信じる信仰の仲間であることを憶え、互いに祈り合って行くようにすることが大切です。

ここで、良い教会について聖書から教えられて行きましょう

その前に、教会についての間違った考えがあります。

大きな教会、古い歴史をもつ教会が良い教会であるという考えは間違っています。教会の大きさ、古さは教会の良し悪しとは関係ありません。

面倒をよく見てくれる教会が良い教会であるというのは間違っています。自分のことをいろいろと手伝ってくれる教会が良い教会と考えるならば、随分と利己的な考えです。

名前の知れた有名な牧師がいる教会が良い教会というのは間違っています。人間が崇められるのではなく、人間の名前は消えて(ネームレス)、キリストが崇められ、聖書の教えているとおりに教会が歩んで行くことが大切なことです。

良い教会とは、聖書66巻を誤りのない神の御言葉として信じ、聖書の御言葉に従って行くことを励んでいる教会です。具体的に次の五つのことが大事なことです。

第一に、礼拝をささげる教会です。
礼拝では神がおられるという臨在感、主の御言葉がまっすぐに説き明かされること、心から祈る熱心さ、喜びと感謝をもってうたう讃美、全てを与えて下さる神様に真心から献金をささげること、新しい方々を心から受け入れることなどが大切です。
第二に、交わりのあたたかい教会です。
キリストの恵みを分かち合い、声をかけ合い、祈り合う交わりです。悪口、批判、審(さば)くことをしないこと。閉鎖的(仲良しグループ)ではなく、開放的な交わりでキリストが常に中心です。
第三に、奉仕をささげる教会です。
コリント第一12:4−7、霊的賜物をもって仕え合うこと。自分にできる奉仕を進んでする。時には新しい奉仕にチャレンジして行く。奉仕は個人プレーではなく、チームワークで奉仕して行くことが大事です。奉仕をささげる人のために祈りをもって支えて行くことを忘れないようにしましょう。
第四に、聖書を学ぶ教会です。
聖書全体を読む(例えば一年で全巻通読する、教会聖書日課に従うと、約3年で旧約聖書通読、新約が2回半通読できる)。聖書はクリスチャンの信仰と生活の唯一の規範であり、聖書の教えに従う事は神に従う事です。
第五に伝道する教会です。
第一から第四は教会の内側においてなされるもの。伝道は教会の外側に向ってなされるもの。
主の「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という大宣教命令に従うことによって、キリストを喜び、キリストを伝える教会として前進することができる。

3、私たちはキリスト中心の信仰に立ち、互いにいたわり合って行く者である。12:25―30

それは、体の中に分裂がなく、それぞれの肢体がいたわり合うためなのである。(25節)

年の初めに、キリストは「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)という御言葉をもって語りかけて下さいました。そのために、今朝、私たちは教会の頭であるキリストに繫がって、霊的命を与えられ、またそれぞれに与えられた各器官としての務めを果し、キリストの恵みに溢れる教会を形成して行くように教えられました。28節以下に具体的な役割のことが記されています。その前の25−27節を通して、キリストにある一致を保って、喜びも悲しみも共有して行こうということが教えられています。25節に「いたわり合う」という言葉があります。いたわるとは相手に関心をもち、親切な思いを持って人に接することであり、また人をねぎらう時にも使われる言葉です。キリストはいたわりのお方でした。ひとり息子を亡くして嘆き悲しむ寡婦に、限りない、いたわりの気持をもって近づき、声をかけ、息子を生き返らせて寡婦の嘆きを静めています(ルカ7:11−17)。伝道に行って戻ってきた弟子達に対し「人を避けて淋しい所へ行き、ゆっくり休んで食事をしなさい」といういたわりの言葉をかけています(マルコ6:30−32)

「いたわる」ということは、強い、力ある者が、弱い、力のない者にすることであるという感じがしますが、そうではないのです。25節をご覧下さい。「互いにいたわり合う」と言われています。キリストを信じる者は「互いにいたわり合って行くことができる」のです。水野源三さんという詩人がいました。小学生の時に高熱が続き、しゃべる器官がだめになり、体は成長が止まり、自分では身動きできない体になり、40年ほど六畳一間で家族の世話になりながら生活をしました。しかしキリストを信じ、瞬きで自分の意志を伝えることができるようになり、たくさん信仰の詩を発表し、多くの人に慰めと希望を与えた人です。障害のために教会に行けないのでテープを通して礼拝メッセージを聴き、一生の間キリストに繫がる純粋な信仰を保ち続けていました。水野さんは、一般的には人からいたわれる立場の人です。ある時、片目の視力を失うという宣告を受けた少年がやって来た時に、水野さんは「失ったものを数えず、今ある恵みを数えて行こう」と言う励ましの言葉をもって、少年をいたわってあげています。私たちは、誰一人自分は強い、立派だ、大丈夫だと言える人はいないでしょう。それぞれが重荷や課題を背負っています。だから互いにいたわり合い、助け合って、キリストに縋って行くことが必要なのです。

 

まとめ

1、13節、私たちはキリストに繫がって霊的に生かされます。キリストを信じる者として共に集り、一つ思いになり、人間の派閥ではなく、命の源であるキリストに結びつき、教会に繫がって行きましょう。

2、14節、20節、私たちは教会の頭であるキリストにつながる各器官であり、各自の役割を与えられています。良い教会とは、1、礼拝をささげること、2、交わりのあたたかいこと、3、奉仕をささげること、4、聖書を学ぶこと、5、伝道することを積極的に行っていることが現れています。

3、25節、私たちはキリスト中心の信仰に立ち、互いにいたわり合って行く者です。

聖歌総合版584(旧聖歌560)「心にあるこの安きを」をうたい、祈ります。

 

祈 り 天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストによって救われ、教会の一員にされていることを感謝します。私たちひとり一人が教会の頭であり、命の源であるキリストにしっかり繫がり、聖霊によって日々に祈りを与えられ、信仰生活を力強く継続して行くように導いて下さい。病気の方々に速やかなる癒しが与えられ、仕事を求める者に仕事が備えられ、各自の課題に対して良き答を与えて下さい。2月の間に救われる方々が起され、教会に加わって行くように導いて下さい。教会の頭であり、命の源であるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献コリント注解―黒崎、フランシスコ会、LAB、米田、文語略解。「信仰生活の手ほどき・尾山著」「キリスト教例話事典」