大祭司キリストを見上げつつ、恵みの御座に近づこう へブル4:14−16 主の2006.5.7礼拝
先週は大型連休でした。この期間、様々な行楽地へ行く人がいる、海外旅行に出かける人がいる、地域では子ども会の行事がある、キリスト教関係ではいろいろな教会・教団で聖会があります。私たちの所属するアッセンブリー教団では、関東北東教区聖会が4日―5日東京・西新井文化会館で開かれ、当教会も参加しました。子ども連れの方は、子ども達が子ども聖会に出席し、恵まれました。聖会は、有賀先生の愛と力とユーモアに溢れたメッセージにより、主の恵みを喜び、励ましを受けました。祈りの時には、聖霊のバプテスマに与り、癒しを求め、祈りました。教区内の多くの牧師と信徒の方々にお会いし、恵みを分かち合いました。皆さんのお祈りに感謝します。
聞いた話ですが、宝石鑑定人を志す人は、先ず本物の宝石ばかりを見続けるとの事です。本物の宝石に手で触れる、あらゆる角度から輝き具合を見ること等を通して、本物の宝石を身をもって知るようにする。それから偽物に接すると、偽者がどんなに精巧にできていても騙されないで鑑定することができるようになるとのことです。私たちは本物の生きておられるイエス・キリストによって救いを受けました。偶像はどんなにきらびやかに飾り立てても、所詮は死んでいる空(むな)しいものです。多くの人々が本物の救主キリストを知らずに、偶像に迷っています。ここにいる私たちは生きている本物の神であるキリストを知り、信じ、平安を与えられていることを感謝します。
本日の聖書はヘブル4:14−16です。14節に「もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのである(おられる)」と言われています。キリストは十字架の救いを成し遂げ、死を滅ぼして甦り、天に帰り、父なる神の右に座して私たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ロマ8:34)。私たちは迷うことなく、先ずイエス・キリストに心を向け、聖書を通してキリストの御心を知り、祈って、信仰生活を継続して行くことが大切です。それは年頭にキリストが言われた「先ず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)という御言葉に従うことと一致しています。
今朝、生きておられる主を見上げつつ、主からの恵みを受け、祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内容区分
1、キリストを告白し、信仰に固く立って行こう。4:14−15
2、キリストの助けを求めて、恵みの御座に近づこう。4:16
資料問題
ヘブル書はユダヤ教から回心したユダヤ人クリスチャンに宛てて、紀元65年頃記された13章から成る手紙である(8:4、9:6−9、13:10からAD70年エルサレム神殿崩壊以前に記された事が分かる)。記者についてはパウロ、アポロ、バルナバなどの諸説があるが、誰が書いたかは不明である。内容は、ユダヤ人が熟知しているユダヤ教の儀式、犠牲などを引用しつつ、旧約のすべてはキリストを指し示す型であったことを説明している。冒頭からキリストの卓越性が語られ(1:1−4)、キリストこそ真に罪を贖うお方であり、私達はキリストの十字架を通して神の子になる(9:11−15)。キリストは死によって滅ぼされことなく永遠に生きておられる大祭司である(7章)。ヘブル書は旧約聖書の最上の解説書であり、旧約全体がイエス・キリストを指し示していることを的確に記している。
1、キリストを告白し、信仰に固く立って行こう。4:14−15
さて、私たちには、もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、私たちの告白する信仰を固く守ろうではないか。(14節)
日本、世界を問わず様々な宗教の特徴は、神々は遠く離れた、遠い所にいる近寄り難い存在であるという事です。例えば日本では山を神とする信仰の人々は、「六根清浄」と唱えながら山頂に行きます。六根と言われる、目、耳、鼻、舌、身、意の六欲の迷いを断ち切って、清らかになりますという意味で「六根清浄」と唱え、神である山を汚さないように登って行きますという事を表しています。インドでは、各地から多くの人々が何百キロも歩いてガンジス河に行き、良き生まれ変わりを願って、河の中に身を浸します。このように世の宗教では、神々は遠く離れているので、こちらから難行苦行して近づいて行く必要があるということを教えています。
聖書の示すまことの神はどうでしょうか・・・。13節、「私たちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司である神の子イエス・キリストがおられる」とあります。原文では「持っている」という意味の言葉から始まっています。14節を原文に即して見ると、「持っている、それだから、偉大な大祭司を、その方は、諸天を通ったかた、神の子イエス」となっています。この御言葉は、キリストは遠く離れたお方であるので、私たちが一生懸命ガンバって、その御許に行くように努力せよと言うことを教えていません。なんと有りがたいことに、もう、既に私たちはイエス・キリストを持っている、信じているということを告げています。日本語の関係で、「もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいます」という訳になっているので、「もろもろの天をとおって行かれた」という言葉が強く響いて、キリストが遠く離れた天の彼方におられるというような感じになりますが、違うのです。「もろもろの天を通って行かれた」とは、キリストが人間として地上に降り、様々な体験を通して救いの道を開かれた後に、今は天の御座におられるというふうに理解できます。天の御座というと、やはり遠い感じになりますが、この表現の真意は、キリストは遠くにいる、あるいは私たちが行き着くことのできない天の彼方におられるというのではなく、先ほど言いましたが、既に私たちはキリストを持っているのです。キリストを持っているというのは、キリストが私たちの内におられるという意味です。
キリストが私たちの内にいることが、どうして分かるのでしょうか・・・。聖書は罪に負け、滅びに向かう人間のために、キリストの方から私たちに近づいて下さったことを告げています。キリストは、人となられて33年半の人生を送って、人間のかかえているもろもろの苦しみを体験されました。そして人間の苦しみの原因は神に背いている罪にあるので、キリストは罪がないのに、人間の罪の身代りになって十字架に命を捧げられたのです。しかしキリストは死んで終りではなく、死を打ち破って甦り、今も生きておられる救主です(ピリピ2:6−11を見よ)。
甦って生きておられるキリストは私たちひとり一人に、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)と呼びかけて下さいました。心の扉を開いた時に、キリストは間違いなく私たちの心の中に入って来られ、罪の赦しと共に永遠の命を下さいました。それ以来、ずっと私たちの心の中に住んでおられ、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなた方と共にいる」と言われて、私たちを心の中から、内から守り、支えて下さるお方です(コロサイ1:27、マタイ28:20)。ですからキリストが私たちの内におられることは確かなことなのです。
そこで、私たちは、「持っている、それだから、偉大な大祭司を、その方は諸天を通ったかた、神の子イエス」という信仰の告白を固く守って行くことが大切です。15節には、私たちが信じ、告白するキリストがどんなに素晴らしいお方であるかが記されています。ここで、キリストについて三つの大切なことを知っておきましょう。
⑴キリストは私たちを理解して下さるお方である。
ユダヤ人にとって神は聖なるお方です。聖とは区別されたという意味です。神は聖であるとは、神様と人間とは全く区別されている、神様は人間と同じ体験をすることができない。だから、神様は遠く離れたお方であり、人間を見下ろしていると考えていました。ところがキリストが来られて、私たちと同じ肉体をもって生活され、人間と同じ体験をして下さったのです。それによってキリストは、私たち人間と同じ立場に立ち、私たち人間を深く理解されるお方となったのです。
⑵キリストは私たちの弱さを理解されるお方である。
キリストは人間を理解されますが、特に私たちの悲しみ、痛み、苦しみなどの弱さを分かってくれます。それはキリストが人生のあらゆる事柄、特に苦しみを多く体験されたからです。ある娘さんがニュースを聞いて泣いていた。以前に自分が住んでいた地方に軍隊が侵入したからです。かつて自分がその地方に住み、そこには自分の家があった。通った学校は今でもある、友達も大勢いる。そこが軍隊によって蹂躙されていることを知り、友達が苦しんでいることを思い、彼女は、今は遠く離れているけれども、その地方のことを思い、友を思い、自分がそこにいて苦しみを直接受けているかのように感じて、泣いていたのです。キリストは遠く離れたお方ではなく、かつて地上におられ、種々のことを体験されたお方です。それ故に、私たちが人生において悲しみ、痛み、苦しみを体験する時、キリストは「わたしもあなたと同じ悲しみ、痛み、苦しみを体験した」といって、私たちを理解し、受け入れ、支えて下さることができる救主です。キリストは罪を別にして、あらゆることを体験されたお方であるので、私たちを限りなく理解できるのです。
⑶キリストは私たちの話を聴いて下さるお方である。
私たちは自分の悩みを人に訴えることがありますが、ちゃんと聴いてくれる人は殆どいません。神学校で教える関係から、私は3年ほどかけて、カウンセリングの初級から上級までを学びました。最後に病院で実習をして資格を得て下さいという事でしたが、それはしませんでした。何故ならカウンセリングの学びをする前から、個人伝道を通して、最高のカウンセラーはイエス・キリストであることを知っていたからです。私の個人的な、最高のカウンセラーはイエス・キリストです。私は牧師という立場にいるので、様々な話を聴き、相談を受けます。神学校では生徒からの相談があります。さらに、他の牧師の悩みを聴いたりする場合もあります。それらの人生に関わる諸問題は、カウンセラーの資格をもっていても解決できないような事柄が大部分を占めています。自分では手に余ると言って、それらの問題を他の人に言うことはできません。もし、私が一人で問題を抱え込んでいたら大変ですが、有りがたいことに、キリストには何でも言えます。私は祈りを通してキリストに全てを語ります。キリストは全てを聴いてくれます。そして、聖霊を通して、私の心に平安を与えて下さり、解決の方向に向かう良き知恵を与えてくれます。
2、キリストの助けを求めて、恵みの御座に近づこう。4:16
だから、わたしたちはあわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを得るために、はばかることなく(大胆に)恵みの御座に近づこうではないか。(16節)
私たちは、先ず第一番に、どこに助けを求めているでしょうか。ある母親が子どもに教えているのを聞いたことがあります。「花子ちゃん、いつでも、どんな時でも、『イエス様』と言うのよ。イエス様はすぐに助けてくれるからね。家の傍の横断歩道を渡る時には、車が来ないかどうかを見て、『イエス様、守って下さい』と言ってから渡るのよ」と噛んで含めるように教えていました。その子は今では成長して、教会の良き奉仕者として活躍しています。
私たちは、どんなことでも、「イエス様」と呼び求め、助けを願い、導きを求めているでしょうか。「恵みの御座に近づこう」とあります。恵みの御座とは、神様の神殿の一番奥にあった贖罪所といわれる神聖な場所を表しています。一年に一度だけ、大祭司が入り、罪の赦しのために祈った所です。ところがキリストが来られて、ゴルゴタの丘で十字架につき、祭司という人を介しないで、誰でも個人的にキリストを信じれば救われるという恵みを表して下さいました。今、神殿がないのは、キリストの十字架が恵みの御座だからです。私たちは直接にキリストの十字架を仰いで助けを得る事ができます。はばからず、大胆にキリストの恵みの御座に近づく恵みを三つ言います。
⑴恵みの御座に近づこう・・・誰でも罪を悔い改めて、キリストの十字架を信じれば罪が赦され、神の子になって永遠の命を受けることができます。
キリストの十字架の脇にいた死刑囚はキリストを信じてパラダイスに行きました(ルカ23:40−43)。明治時代、好地由太郎(1865−没年不詳)は、18歳の時に勤務先の女主人に乱暴し、殺し、罪を隠すために放火をし、死刑の判決を受けます。不思議な導きで聖書を読み出し、自分の罪の重さを知り、悔い改めてキリストの十字架を信じ、生まれ変わります。彼は自分が殺した女主人の遺族へお詫びの手紙と共に働いて得たお金が僅か残っていたものを添えて送ります。遺族は「過去のことは忘れます」と言ってくれた。彼は模範囚となり、23年後に仮釈放され、巡回伝道者として、全国の刑務所を定期的に訪問してキリストを伝道し、多くの人々が救いに導かれるという良い働きをして天国に帰って行きました。
⑵恵みの御座に近づこう・・・キリストの十字架によって救われた者は、一生涯、主によって導かれて行きます。
本日、大谷楽空(らく)ちゃんのために幼児祝福式を行います。礼拝の初めに朗読したイザヤ46章4節に「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、あなた方を持ち運ぶ」という主の御言葉があります。この御言葉のように、楽空ちゃんが、年老いて白髪となるまで、一生涯にわたってキリストが守り、支え、導いて下さることを信じて祝福を祈ります。ここにいる全ての方々に、主の祝福が豊かであるように祈ります。
⑶恵みの御座に近づこう・・・救いの確信に満たされ、何があっても平安が与えられます。
心臓病治療で知られている榊原外科病院に、ある日、小学校3年生の女の子が手術を受けに入院した。彼女が手術を受けるためエレベーターを降りる際、はらはらする父母を見つめて、「イエス様が一緒にいて下さるから心配しないで」と、かえって両親を励ました。三歳の時から培われた信仰が少女を勇気づけ、キリストに信頼をおいて決して恐れなかったのです。
まとめ
14−16節を読みます。
第一に、キリストを信じ、告白する信仰を保ち続けることが大切です。キリストは私たちを理解し、特に弱さを受け入れ、理解して下さるお方です。またキリストは私たちが言うことを徹底して聴いて下さって、祈りのうちに聖霊によって良き答を与えて下さいます。
第二に、恵みの御座であるキリストの十字架を信じ、恵みの御座に近づき、恵みを受けて行きましょう。今朝あなたが祈り求めれば、良き答が与えられます。主を見上げて祈りましょう。
祈 り
天地の主である神様、私たちのために独り子であるキリストをおくり、十字架による救いを備えていただき感謝します。私たちはキリストを信じる信仰の告白を固く守り、恵みの御座である十字架を見上げつつ、祈って、主に従って参ります。ひとり一人の祈りに答えて下さい。幼児祝福式(献児式)を豊かに祝福して下さい。午後の全ての集まりを導き、聖日夕べの礼拝を守って下さい。来週は野外礼拝を祝福して下さい。私たちの祈りを恵みの御座で聴いて下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、ア−メン。
参考文献ヘブル書注解―バークレー、名尾、米田、LANB,黒崎、フランシスコ会。 「チャペルタイムス192号・日本教会新報社」、「この人の生涯に学ぶ・久保有政編著・レムナント出版」