愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。コロサイ3:14―17 主の2006.5.21礼拝
ある年配のご婦人から聞いた話です。このご婦人の夫は典型的な昔の日本人タイプの亭主関白で、お茶が飲みたければ「お茶をくれ」と言い、奥さんがお茶を差し出すまで待っている。ご飯を食べても「おいしいー」などと言ったことはないし、後片付けをしたこともないし、もちろん料理を手伝うことはありません。身の回りすべてのことを奥さんがしてあげるのですが、「有り難う」の一言を口にしたことがない人でした。奥さんは、「夫婦ってこんなものかなー」と思いつつ、40年以上にわたり連れ添って来た。ところが、ご主人が病気になり、寝たっきりになり、奥さんから食事からお下(しも)の世話までしてもらうようになった。ある日、いつものように奥さんが、ご主人に食べさせ、下(しも)の世話をし、着替えをさせた時に、突然ご主人が「有り難うーな」と感謝の言葉を言った。長い結婚生活の中で始めて聞いた言葉であったので、奥さんはビックリしたが、同時にうれしかった。主人は自分のことを召使のように思っているのではないかと思っていたが、しかし奥さんは黙々として主人に仕えるという形で愛を示してきた。それに対し、結婚して初めて「有り難う」という言葉で、主人が奥さんに対して愛情と感謝とを示してくれたことによって、一段と二人の交わりが深められた。奥さんにはそれがうれしかった。奥さんは、さらに心を込めて主人を介護し、やがてご主人を天に送るということができたのです。
本日の聖書はコロサイ3:14―17です。14節に「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」と言われています。何をするにも、何を考えるにも、あらゆる事柄の中心は愛です。愛が心にあるならば、愛は必ず言葉となって表れ、行動となって表れ、相手に伝わります。40年以上、ひたすら夫に仕え、夫を介護する奥さんの愛に応えて、ご主人は最大限の愛情と感謝の気持を込めて、「有り難うーな」というふうに伝えたのです。奥さんは、その一言葉で、自分は愛されているという喜びを心に感じたのです。キリストは、「何事でも人々からしてほしいと望む事は、人々にもその通りにせよ。これが律法であり、預言者である」(マタイ7:12)と言われました。自分に誰かが「有り難う」の一言葉をかけてくれればうれしい。そう思ったことを、ご主人は40年かかりましたが、奥さんに伝え、それが二人を幸せにしたのです。まことに「愛は、すべてを完全に結ぶ帯」です。さらに本日の個所には、愛に加えて「平和(平安)」(15節)、「感謝」(15,16,17節)という教えがあります。主のメッセージを聴き、主の聖餐式に与り、祈って新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。
内容区分
1、私たちはキリストによって救われ、キリストの平和である愛と赦しの心を与えられている。3:14-15
2、私たちはキリストに感謝し、キリストを讃美し、すべての事を感謝して行こう。3:16−17
資料問題
コロサイ書は使徒パウロによるエペソ、ピリピ、ピレモンと並ぶ獄中書簡で紀元62年頃ロマの獄中で記された。コロサイ教会の設立者はエパフラス(1:7,4:12)である。パウロはコロサイに行ってはいないが、エパフラスより、「だましごとの哲学、言い伝え」(2:8)、「天使礼拝」(2:18)、「諸悪霊を拝する者」(2:10,15)が現れ、信徒をキリストより遠ざけ、さらに禁欲的戒律を強要する(2:16,21)など危険なものが教会に侵入しつつある事を聞き、本書で、特にキリストの恵みを力強く述べているので、コロサイ書といえばキリスト論の書簡であると言われている。
1、私たちはキリストよって救われ、キリストの平和である愛と赦しの心を与えられている。3:14-15
これら一切のものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(3:14)
便利屋といわれる仕事があり、日常生活の細々としたことを代行してくれます。例えば、急ぎの小さな荷物を届けてもらう、買い物に行ってもらう、家の掃除に来てもらうなど様々な仕事を気軽に引き受けてやってくれます。便利屋の仕事の中に一人暮らしの年配者に、一時間ほどお茶を飲みながら話し相手になるというのがあります。これは、人間は全くの孤独には耐えられない、誰かと話をしたい、交わりをしたいという願いがある、愛を求めていることの表れです。
ブラジルの乳児院で、一年の間に多くの赤ちゃんが死亡した。調べて見ると、衛生設備は完璧で病気に感染した形跡はない。時間ごとにミルクはキチンと与えられていたし、赤ちゃんが休むに静かな、快適な環境である。にも拘わらず、赤ちゃんの大半が死亡してしまった。最終的に分かったことは、赤ちゃんを抱いて育てるという愛情が決定的に不足していたということでした。こうしたことから年配者も、産まれたばかりの赤ちゃんも、人間には愛による交わりが必要だという事が分かります。では何故、人間は愛による交わりが必要なのでしょうか。その理由は、人間は神様によって創造されたからです。愛の神様は、土の塵で人間の形を造り、その鼻からご自分の生命(いのち)の息を吹き入れ、それによって人間は生きる者となったのです(創世記2:7)。神様の生命(いのち)の息を吹き入れられた人間には三つの特徴があります。
第一に、人間には霊が与えられています。
「神は霊であるから、霊と真実とをもって神を礼拝せよ」(ヨハネ4:24)と言われていますが、人間には霊があり、人間だけが神様を礼拝します。
第二に、人間には言葉が与えられています。
神様が言葉をもって天地万物を創造されたように、人間にだけ言葉が与えられ、神様と交わりをし、人間同士で交わりをすることができます。動物は自分の種類を越えて、他の動物と交わりをすることができません。猿が象と一緒になって食べ物を探し、遊ぶということはできません。人間だけが、言葉(バベルの塔まで言葉は一つでした、創世記11章)、民族、部族、文化、習慣、食生活の違いを越えて交わりをすることができます。この礼拝にも日本人、タイ人、韓国人、中国人、ミャンマー人、トリニダード・トバゴ人、アメリカ人などが集っています。
第三に、人間には物事を考え、決断する能力が与えられています。
神様はご自分の考えと決断とをもって天地を創造されたように、人間には物事を考え、決断する能力が与えられています。
このように、人間にだけ霊が与えられている、言葉が与えられて交わりをすることができる、物事を考え、決断する能力が与えられているのは、神様が愛をもって人間と交わりをしたいと願っていたからです。しかし、人間は愛の神様に背き、罪を犯し、神様に背を向け、滅びに向っていた愚かな者でした。神様は罪を犯した人間を放置したでしょうか・・・。神様は愛です。また。神様は沈黙のお方ではなく、罪に堕ちた人間を救うために預言者を遣わし、罪を悔改めように繰り返し繰り返し呼びかけて下さいました。そして、遂に最愛の独り子であるイエス・キリストを人間として、この地上に送り、キリストは罪のない、潔い身を十字架の上に捧げて私たちの罪の身代りとなり、罪の赦しと滅びない永遠の命に至る救いの道を開かれたのです。(図を見て下さい。挿入してあります)。
「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」とは、直接には12−13節を受けている御言葉です。しかし、キリストの十字架の愛は、全ての人を神様に結びつける力があるというように理解するることもできます。キリストの十字架の愛によって、私たちは罪を赦され、神様との強固な結びつきの中に入れてもらうことが出来たのです。
キリストの愛を受けて神の子になった者は、「キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい」(15節)と命じられています。キリストの平和の中で、最大のものは赦しです。赦せないことはたくさんあるかも知れません。しかし、「主の祈り」で祈ったことを忘れないで下さい。「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」という祈りです。私たちが人を赦す、だから神様も私たちを赦して下さると、今朝も共に祈りました。キリストは私たちが、「まだ罪人であった時に、その命を十字架に捧げて死んで下さったことによって、神の愛を示された」救主です(ロマ5:8参照)。このキリストの愛を受けて、私たちも人を赦すことができるのです。「召されて一体となったのは、このためである」と言われているのは教会の交わりのことです。教会の交わりを構成しているのは私たちクリスチャンです。私事になりますが、伝道牧会していると、とんでもないデマを撒き散らされたりします。そんな時にどうするのか・・・我が恩師である弓山先生は「司令官は弁明せず」と教えてくれました。(弓山師は初代アッセンブリー教団総理。神学校校長として500人の献身者を育成した。2002年102歳で召天)。それは「人を審(さば)くな、審(さば)きは神様の権限である。とにかく赦しなさい、相手の悪口を言うな、自分の憤懣を人に言うな、ただ主に祈りなさい。弁明するな」という教えであり、そのことを教えて下さった先生に感謝します。そして、十字架上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と自分を十字架につけた人間を赦しているキリストの無限の赦しを思います(ルカ23:34)。
1972年6月8日ベトナム戦争で、アメリカ軍のナパーム弾が炸裂し、9歳のベトナムの少女が背中に火傷を負い、裸で逃げている写真が公表され、全世界に衝撃を与えました。この少女はファン・チ・キム・フックさんと言い、14か月入院し17回の手術を受け、背中と腕にケロイド状のキズが残り、季節ごとに痛むということです。ナパーム弾を落としたアメリカのパイロット、ジョン・プラマー氏は世界に公表された写真によって、自分を責められ、少女に謝りたいと願いつつ24年間苦しみ、結婚に失敗し、酒を飲むようになった。1996年ワシントンでの退役軍人式典にプラマー氏が出席した時に、何とキム・フックさんがベトナム記念碑に花輪を捧げ、「数え切れない人々が犠牲になりました。しかし私は爆撃した人々を赦します。過去は変えられないが、平和のために前進します」と述べた。プラマー氏は夢中でキム・フックさんの許へ駆けつけ、「自分が村を爆撃したパイロットです。赦してほしい。私にも小さな女の子がいるんだ」と泣きながら謝罪した。キム・フックさんは「もういいのです。あなたを赦しています」と涙ながらに言って、彼を抱きしめた。実は爆撃の10年後の1982年、彼女はキリストを信じていた。信仰を持つ前は、「この醜い皮膚では結婚できない」と悲観していた。信仰をもってからは、「顔と手は火傷を免れてきれいだ。足は火傷しなかったから、走って逃げることができたのだ」と考えられるようになっていた。彼女はベトナム人と結婚後、カナダに亡命、二人の男の子が産まれ、ユネスコ平和大使になり、キム基金を設立し、戦争で犠牲になった子どもたちの救済のために活動をしています。プラマー氏は「私が受けた赦しは贈り物である、私が努力して得たものではない」と感謝しています。まことに、愛こそは、すべてを完全に結ぶ帯であり、キリストの平和があるところ、赦し、赦される恵みが与えられます。プラマー氏は牧師になり、キム・フックさんと定期的に電話で話し合っています。
2、私たちはキリストに感謝し、キリストを讃美し、すべての事を感謝して行こう。3:16−17
あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。(17節)
1、ふだんから聖書を読んでいる人の82%は平安がある。聖書を読まない人は58%です。2、聖書を読んでいる人の78%はいつも幸福である。読んでいない人は67%です。3、聖書を読む人の68%は喜びに満たされていると言い、読んでいない人は44%です。