恐れるな!主は私たちを救い、愛し、共にいて下さる イザヤ43:1−7 主の2006.5.28礼拝
私が教会に行き始めた頃、車イスの女性が礼拝に見えたことがあります。礼拝後、その方が「私は小児麻痺にかかり、不自由な体になり、一人で出かけることもできない。生きているのがつらい」と牧師夫人に訴えました。牧師夫人は答える代わりに聖歌を歌いました、「神は独り子を賜うほどに、世人(よびと)を愛したもう、神は愛なり、ああ、神は愛なり、汚れ果てし、我さえ愛したもう、神は愛なり」(聖歌392番)。歌い終わると、牧師夫人は彼女の手をとり、「神様は愛です。神様の愛を表すためにイエス様が来られて、私たちの罪のために十字架にかかって下さったのよ。イエス様は『私はあなた方を棄てて孤児とはしない』(ヨハネ14:18)という愛をもって私たちを守って下さる、生きている救主ですよ。お祈りしましょう」と言って、祈りを捧げました。私たちは目に見えるところで、人を判断しがちです。例えば健康である、働ける、美しい、学歴がある、お金を持っているなどという事によって、人の価値を決めてしまいます。ところが神様は違います。体にハンディがあろうとも、何も持っていなくても、例え何か問題を抱えていようとも、私たちひとり一人を、そのままの姿で受け入れ、救い、愛し、いつまでも私たちと共に下さいます。
本日はイザヤ43:1−7です。主は、「恐れるな、わたしはあなたを贖った」(1節)、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する・・」(4節)と呼びかけておられます(文語訳「われ看(み)て、汝を宝とし、尊きものとし、また汝を愛す」。新改訳、新共同訳は週報参照)。神様は私たちひとり一人を尊い存在として見ておられます。小児麻痺の女性は、病気の自分に対する人々の目の冷たさに淋しさを感じ、自分の体の不自由さを嘆き、自分に存在価値はないと思っていた。しかし、牧師夫人の「神様は今のままのあなたを喜び、愛して下さっている」という祈りを通して、「自分も愛されている」という喜びが彼女に与えられ、それが彼女に生きる希望をもたらしたのです。
「恐れるな!わたしはあなたを救い、愛し、あなたと共にいる」と言われる主のメッセージを聴き、主に祈り、主に従う決断を捧げましょう。今週も、毎日、聖書を読み、進むべき正しい道筋を示され、聖霊によって祈りつつ信仰の道を歩んで行きたいと願っています。
内容区分
1、恐れるな、主はあなたを救い、守り、愛して下さるお方である。43:1−4
2、恐れるな、主はあなたと共にいて、栄光を与えて下さるお方である。43:5−7
資料問題
イザヤ書は1−39章、ダビデのような理想的な王(9章、11章)、その王は反抗的イスラエルと偶像礼拝をする諸国を審いた後に到来する。40−55章、イスラエルを贖い、諸国の光となる主の僕、この僕は苦しみによって使命を果す(53章は十字架の預言)。56−66章、万民の宗教的中心である新しいエルサレムの到来、回心しない諸国とイスラエルの不忠実な者は審かれる、という構成になっている。イザヤ書はイザヤが記したものであるが、しかし、以上の三つの内容から、少なくとも3人の著者(第一、第二、第三イザヤ)がいたとする見解もある。
2節、「水の中を過ぎる」、出エジプトの紅海渡渉(16−17節参照、出エジ16章)、「川の中を過ぎる」、荒野の旅の終りにイスラエルの人々がヨルダン河を渡ったこと(ヨシュア3章)、「火の中を行く」、炉に投げ込まれたダニエルの3人の友を神が守って下さったことを想起させる(ダニエル3:25,27)。
1、恐れるな、主はあなたを救い、守り、あなたを愛して下さる。43:1-4
「恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。(1節)
「恐れるな」と神様は、私たちに向って呼びかけています(1節)。聖書の神様はご自分の方から私たちに語りかけます、その呼びかけは愛に満ちています。神様は、最初の人間アダムが罪を犯して隠れていた時に、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけておられます(創世記3:9)。罪のはびこる地上で、ただひとり神様を信じるノアに、「ノアよ、箱舟を造りなさい」と呼びかけて救いの方法を示しています(創世記6:12以下)。月を礼拝する地方に住んでいたアブラハムに、「あなたは国を出て、わたしの示す地に行きなさい」と呼びかけ、彼をカナンの地に導き、信仰の先祖にして下さいました(創世記12:1−4)。ベツレヘムの野原で徹夜している羊飼いに、神様は天使を通して「恐れるな、きょう救主が生まれた」と呼びかけています(ルカ2:10以下)。キリストは、いちじく桑の木の上に隠れていたザアカイに「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。きょうあなたの家に泊まるから」と呼びかけ、彼はキリストを家に迎え、救いを受けています(ルカ19:5)、接待で心を取り乱しているマルタに、「マルタよ、マルタよ、忙しい事でイライラするな」と二度も優しく呼びかけています(ルカ10:41−42)。
本日の個所で、主なる神様は「ヤコブよ、イスラエルよ」と名前をもって呼びかけていますが、ここにあなたの名前を入れて下さい。神様は私たちひとり一人に個人的に呼びかけておられることが分かります。ここから、主は三つの恵みを私たちに示しています。
第一に、主は私たちを選んで、救って下さった救いの神様です。
主なる神様は言われます、「わたしはあなたを贖った。あなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」と(1節)。私たちはクリスチャンとして礼拝を捧げていますが、主が私たちを救いの中に導いて下さったのです。キリストは、「わたしがあなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)と弟子達に言われました。パウロは「あなた方のうちに良い業を始められた主が、あなた方の信仰を完成して下さる」と記しています(ピリピ1:6)。神様が私たちの信仰を守り、天国へ導いて下さいます。
ここで少し逸れますが、若い方々が多いので言いますが、キリストを信じるのは早ければ早いほど良いのです。年配の方が救われて言うことは、「もっと早く信じれば良かった」ということです。クリスチャン哲学者である森有正(1911−76)が次のようなことを記しています・・・・若い時期に神を信じ、そして神に献身するということは人生の様々な楽しみや発展の可能性を犠牲にするように思えた。しかし、それは違うのだ。若い時に情熱を傾け、神のために一生を献げるということは、その純粋な気持を生涯変わらず保って、人生の良き果を結ぶ事ができるということなのだ。70歳の人が言っていた、「70年!夢のように経ってしまいますよ。残るのは若い時の懐かしい回想だけです。青春は短いどころか、あっという間に過ぎ去ってしまいます」・・・・私事になりますが、私も60代になって振り返ってみて、人生の良い時は確かに若い時であることを思います。高校2年生の時にキリストによって選ばれ、救われ、洗礼を受けられたことを感謝します。キリストを信じて、誘惑の数々、たとえば酒、タバコなどの害毒から守られ(今はドラッグが若い人を蝕んでいます)、性的な事柄、ギャンブルの過ちに陥ることがないように、主が守ってくれました。自分の一生の目的を握ることができました。キリストによって最善の伴侶を与えられ、家庭を形成することができ、キリストを信じる信仰を共有する家族であることを感謝しています。また教会という神様の家族である皆様によって支えられていることを感謝します。個人的に言えば、聖書を中心にして霊的に、知的に日々に学ぶ楽しみがあり、心が豊かにされています。何よりも聖霊の助けによって人のために祈り、人に仕える喜びがあります。神学校で教える機会が与えられていることを感謝します。ここにいる若い方々がキリストを信じる恵みを与えられていることを感謝し、信仰第一に生きるように日毎に祈っています。
第二に、主は私たちを守って下さる助け主の神様です。
水の中、川の中、火の中を行くような困難があっても、主は言われます、「恐れることはない、わたしがあなたの神、主である、あなたの救主である」と(2−3節)。困った時にこそ主イエス様の御名を呼んで下さい。困った時の緊急電話(ホットライン)は「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」(詩篇50:15)という約束を信じて、「イエス様!」と呼ぶことです。この緊急電話は話中もなく、圏外であることもなく、留守電に入れることもなく、主は直ちに答えてくれます。先輩の牧師の証です。ひとりの娘さんが夜道を帰宅途中、痴漢らしい怪しい男が後をつけてくる。急ぎ足で歩いたが、男が迫ってきて、腕をつかまれた。その時に「イエス様の名前を呼べ」と言われたことを思い出し(聖霊の助けです)、「イエス様、助けて!」と自分でもびっくりするような大声で叫んだ。その声を聴いて、近所の建物から飛び出してくれた人がいた。それを見て、痴漢は逃げ去った。飛び出して来たのは、その角にあったお寺のお坊さんでした。主は人知を越えた不思議な助けをもって守って下さいます。
第三に、主は私たちを尊い宝の民として重んじて下さる愛の神様です。
神様の目には、私たちひとり一人がなくてはならない大切な存在です。子どもの頃、石ころなどを宝物として集め、大事にしていたことがあります。大人には、「そんな石っころ」と言われましたが、自分の目には宝物に見えるということで大事にしまっていました。神様は、私たちを大事な宝物のように見て下さり、大切にして下さいます。私たちもキリストの愛によって愛されていることを感謝し、人々に愛をもって接して行く時に、神様の愛の御業が現れます。
明治時代、ハワイに渡った日本人労働者は奴隷のように虐待されていた。日本人労働者は希望を失って酒、バクチに溺れて行った。ハワイを訪れた美山牧師は何とかして日本人を立ち直らせようと思って、集会を開き、「イエス様を信じて、日本人として恥ずかしくないようにしよう」と訴えた。それまでも集会があったが、白人宣教師が、日本人を見くだしながらのメッセージで、しかも通訳がだめで、聴く人々は反発するだけだった。しかし美山牧師が、神様、いのちの生まれ変わり、罪、死、イエス・キリストの救いについて、日本語で愛をもって語り、やがて移民たちも乱れた生活を反省するようになった。安藤ハワイ総領事は「移民は酒、バクチに金を費やしている」と言った。美山牧師は「キリストが彼らを変えます」と答える。美山牧師は、彼らに必要なのは愛であると信じ、移民に温かい言葉をかけ、励ましを与え続けた。遂に彼らは「酒をやめます。バクチをやめます」と杯やバクチに使うサイコロを美山牧師に差し出すようになった。そして禁酒会が設立され、美山牧師は安藤総領事を会長にし、「総領事がまず酒をやめて下さい」と頼んだ。しかし総領事は「私は会長だ。移民労働者が禁酒すればよい。上に立つ者には必要ない」と断る。総領事夫人が夫に禁酒を勧めても「うるさい」と言っていた。クリスマス頃、日本から上等の酒が二樽届き、総領事は喜んだ。ところが、使用人の手違いで、中身の酒全部が棄てられてしまった。総領事は、それを機に酒をやめた。やがて総領事夫妻はキリストを信じる信仰を持ち、「外交官として、総領事として洗礼を受けて問題になり、本国召還になるかも知れない。だが永遠に救われることのほうが大事だ」という決意をする(明治の初期であったので、そういう心配があった)。1888年(明治21年)安藤総領事夫妻、領事館で働く10人が洗礼を受けた。それを聴いた宣教団体のハリスはアメリカ本部に「本日、日本総領事館全員、馬二頭を除いて、洗礼を受けたり」と報告した。このことが、やがて、日本人のハワイ移民の人々の生活向上、社会的信用の基盤となった。美山牧師が、酒とバクチに明け暮れる移民たちを見棄てずに、「あなたはわが目に尊く、重んじられるもの、わたしはあなたを愛する」という熱い思いをもってキリストを伝え、そのことが神の愛の御業となって現れたのです。
2、恐れるな、主はあなたと共にいて、栄光を与えて下さるお方である。43:5−7
「恐れるな、わたしはあなたと共におる。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(5節前半、7節)