イエス・キリストは私たちの命の光である ヨハネ8:12―19        主の2006.6.18礼拝

真っ暗な山道を歩いたことがあります。月も星も見えず、隣に歩いている人の顔も見えない、声を掛け合って、山腹側をソロリソロリと2時間ほど歩いた時に、数百メートルの彼方から闇を貫いて光が私たちの目に飛び込んできました。真っ暗闇の中で光を見た時に、安堵感で肩の力が抜け、行くべき方向が具体的に示され、命が助かるという喜びが与えられ、神様に感謝しました。

本日はヨハネ8:12−19です。キリストは「わたしは世の光である、わたしはあなた方の命の光である」と言われています(12節)。聖書朗読の詩篇27篇1節では「主はわたしの光、わたしの救いだ」と歌われていました。光であるイエスキリストを見上げて、天国に続く、明るい光の道を歩み続けて行きたいと願っています。光ということで思い出すのは、「あなたのみ言葉はわが足のともし火、わが道の光です」という詩篇の御言葉です(119:105)。世の光であるキリストに従うために、私たちには神の御言葉が与えられています。電気の無い時代、日が沈むと、曇り空であれば、月も星の光もない夜の道は文字通り真っ暗でした。そこで、暗い夜道を歩く時に、足元を照らすともし灯(昔の日本では提灯、現代では懐中電灯)が必要でした。ともし灯を頼りに、人々は足元の石をよけ、穴に落ちるのを避け、一歩一歩安全に歩んで行くことができました。私たちの人生の道を照らし、進むべき道を教えてくれるのは神の御言葉です。ともし灯が足元の一歩一歩を照らしてくれるように、朝ごとに聖書を読み、祈って、一日一日主の御心に従って行くことが大切です。一日が積み重なって一週間となり、一週間が積み重なって一ヶ月となり、一ヶ月が積み重なって一年となり、一年一年が積み重なって、私たちの人生となります。朝ごとに聖書を読み、祈って一日を始めて行くことが人生の勝利の秘訣です。教会の聖書日課は旧約が、先週金曜日から創世記に戻りました。聖書は旧約929章、新約が260章あります。一日に旧約を1章、新約を1章読めば、旧約全体を2年半位で読むことができ、旧約を読み終わる間に新約全体を3回半位読むことができます。

今朝も主のメッセージに耳を傾け、祈って、新しい一週間を出発して参りましょう。本日は午後より結婚式があります。主の臨在と喜びにあふれる結婚式になることを信じ、皆さんの祈りと協力の下に全てを進めて行きます。結婚式、ティーパーティーとも130名の参加があります。この会堂を最大限に使い、私たちは「水を汲む僕」(ヨハネ2:9)に徹し、教会外よりお出でになる方々を心から歓迎いたしましょう。

内容区分

1、イエスキリストは世の光である 8:12前半

2、イエスキリストは従う者に命の光を与える 8:12後半

資料問題

「光」はキリストのことを表すのに最も適当な言葉である。知恵、知識、光明、光輝、明覚、聖潔、審判等道徳善だけではなく、凡ての善いものが光の一字に込められている。「闇」は光と全く反対の罪悪等を示している。「命の光」は、人間は他の生き物と異なり、本来は神の光をもって照らされて生きるものである。キリストを信じて心に迎える時に、キリストは信じる者の心に入り、彼の命を照らし、正しき道を歩ませるのである。キリストは単に一個人またはイスラエルのみの光ではなく全世界の光であるので、悔改めてキリストに従う者は、どんな人であっても闇の中に(罪の中に)生活する事が無い。またキリストを信じる者は、キリストの光を受けて、あたかも月が太陽の光を反射するように、クリスチャンは「世の光」となってキリストを反射することができる(マタイ5:14)。

1、イエスキリストは世の光である。8:12前半

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である・・・」。(12節前半)

キリストは、「わたしは世の光である」と言われました。世とは、この世界のことです。また、世とは、この世に住む私たちひとり一人の人間を指しています。キリストが言われた意味は、「わたしは全世界の救主である。世界には多くの人々がいるが、わたしはこの世に住むひとり一人の心を照らし、人生を導く救主である」と言うことです。

キリストを信じる以前、私たちの心は罪の闇に閉ざされていました。罪とは神様の戒めに叛き、反抗することです。神様に逆らっているからといって、その罰としてただちに病気になる、貧に苦しむ、社会的地位を失うという訳ではありません。かえって神様を信じない者のほうが、自分で好き勝手ななことをして得をしているように見えますが、神様を信じる者と信じない者の間には顕著な違いがあります。神様を信じない者に下される罰は品性の堕落です。何が正しいか、何が聖いか分からなくなります。聖書は心が罪の闇に閉ざされていると、「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者(威張って大きなことを言う者)、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながら、その実を捨てる者」になるということを告げています(Uテモテ3:2−5)。もし、このような罪を持ったままでいるならば、人間の末路は悲惨です。それは最終的には死んで滅びるからです。そこで、人間が罪のために滅びないようにということを願って、キリストは、「わたしは世の光である。世にいるあなたがひとり一人の心を照らす個人的な救主である」と呼びかけて下さっています。「わたしは世の光である」と言われるキリストについて三つのことを教えてもらいます。

第一に、悔改めることです。

悔改めとは元々は方向転換という事です。「今まではキリストに無関心であった、キリストを知りたいとも思わなかった。でも、今、私は心の向きをキリストのほうに向け、キリストを知り、信じたい」という願いを持つことが、真の悔改めです。

第二に、キリストを救主として信じることです。

キリストが人間の罪を赦すために、十字架にかかって下さった救主であることを信じて、個人的にキリストを心の中にお迎えすることです。クリスチャンの方々は十字架のことが分かっていますが、キリストを求めつつある方々は「なぜ十字架が・・」と思うかも知れません。しかし、自分の心を探ってみて「自分に罪がある」と認めるならば、「イエス様、十字架によって罪を赦して下さい」と祈れば、心が軽くなり、「私の罪は赦された」という明るい気持になれます。

第三に、キリストを主として信じることです。

自分の人生の主として、キリスト第一の生活をするということです。キリストに従い、教会生活をするために洗礼を受けます。礼拝を優先する生活をし、祈り会に出席し、毎日聖書を読み、祈って生活をします。キリストを主とすることは一生の事柄です。仕事が忙しい、家族に問題がある、自分の信仰が沈みがちである、病気の時がある、受験がある、結婚があるなど人生には様々なことがあります。その時に「私の主はイエスキリストである。私はキリストに信頼します。私はイエス様を主として仕えて行きます」という信仰生活を第一にすれば、必ず守られます。信仰の先祖であるアブラハムは、飢饉に襲われた時に、神様にお祈りすることを忘れて、自分の判断でエジプトへ下って行き、妻の命を危機にさらしたことがあります(創世記12:10−20)。人生で問題が生じた時にこそ、まず主に縋ることが大切です。ある教会に行きました時に熱心な壮年信徒の方がいた。「私は若い時に洗礼を受け、恵まれていた。しかし途中でキリストを主とすることを忘れ、自分の考えで生きるようになった。気がついたら教会を離れていた。物質的には必要を満たされたが、心は荒野を行くような淋しい時代を過ごした。イエス様の導きによって、再び主に仕える生活に戻れた。失われた時はもったいなかった。そこで失われた信仰の空白の時を取り戻すために信仰生活に励み、その私を見て妻も子どもも救いに導かれています」と言っていました。クリスチャンの皆さんは信仰が惰性的にならないように、毎日祈って、キリストを主とする生活を継続し、しっかり教会に?がって信仰生活を前進して行くように新しい決断をもって祈って下さい。

2、イエスキリストは従う者に命の光を与えられる。8:12後半

「わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(12節後半)

信仰生活はキリストに従うことです。「わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがない」とハッキリと約束されています。キリストに従うことこそが信仰生活です。キリストに従うとは、キリストに学ぶ事です。「学ぶ」というのは「まねぶ(まねをする、まなぶ)」に通じます。優れた人の姿を見て、その真似をして、何かを身につけて行くことが学びです。個人伝道を通して「キリストきちがい」になることを教えて下さった豊留真澄先生は、常に小さな英語新約聖書をポケットに入れ、閑さえあれば読んでいました。そこで私も真似をして、英語聖書をポケットに入れて持ち歩き、読むようにしました。すると牧師仲間が「その小さいのはなに?」と興味を示し、何人もの方が同じ聖書を購入して読むようになったことを思い出します。

今朝は、キリストの生き方を学んでみます。

1、朝に祈る(マルコ1:35)

2、いつも祈る(ルカ22:39−40)

3、聖書に精通している(ルカ24:25−27)

4、聖霊によって喜んでいる(ルカ10:21)

5、共に歩く(マタイ5:41、ルカ24:13−33)

6、共に食事をする(ルカ15:1−2)

7、相手の話を聴く(マルコ5:33)

8、相手をありのままに受け入れる(マタイ11:28)

9、会話をする(ヨハネ21;15−23)

10、生きる喜びを与える(ヨハネ10:10)

11、自分を犠牲にする(ヨハネ10:11)

12、相手の苦しみを思いやる(マルコ1:41)

13、相手を赦す(マタイ18:21−22)

14、相手を、認め、使命を与える(ヨハネ21:1−23)

15、相手のために祈る(マタイ5:44)

16、必要なものを準備して与える(ルカ6:38)

17、恵みの言葉を語る(ルカ4:22)

18、真実を話す(ヨハネ16:7)

19、名前を呼ぶ(ルカ19:5)

20、自分を低くする(ルカ14:11)

21、平和を作る(マタイ5:9)

22、良く忍ぶ(ルカ8:15)

23、相手の心、信仰を見る(ルカ5:20)

24、相手を癒す(マタイ4:23−24)

25、良い行いを現す(マタイ5:16)

26、相手を励ます(マルコ5:34)

27、いつも神に感謝する(ヨハネ11:41)

脱線しますが、きょうは荻野倫夫・チャチャ・フィッシュおふたりの結婚式があります。皆さんの祈りと愛のささげもの・奉仕によって、素晴らしい祝福の時が間もなく始まろうとしています。チャチャは今回どうしてもご両親が出席できません。「娘を教会で受け入れて下さって感謝しています。どうか今後もよろしくお願いします」との意を込めたお父さんからの手紙をいただいています。彼女が言語・風俗・習慣が違い、気候も違う日本になじむまでに多少時間がかかることでしょう。その中にあって、彼女は一生懸命に皆さんとコミニュケーシヨンを試み、既に多くの方々と親しくなっています。25歳という年齢で、生まれ育った祖国ミャンマーを離れ、イエス・キリストに献身して行くために、見も知らぬ外国である日本に単身で来たチャチャを、皆さんの愛で包み、いろいろなことを教え分かち合い、何よりも祈って支えて下さるようにお願いをします。倫夫先生は、多くのことを学んで来て、これから伝道者として進んで行くことになります。現在、教団に伝道師となるように二人で申請をしています(チャチャはミャンマーアッセンブリーの教職資格を得ています)。二人に今あるものは信仰と希望と愛です。二人の思いは、「わたしは世の光である」というイエス・キリストを一生懸命に伝道して行くということです。使命貫徹のために祈って、支えて下さい。

最後に命の光をもつということを考えて閉じます。キリストが人の命の光です(ヨハネ1;4)。私たちはキリストを心に迎えて、命の光をいただいています。ふだんは、そのことが余り人目には分からないでしょうが、二人の人のことを述べてみます。一人は72歳の男性、会社社長で豪邸に住み、お手伝いが数人いる、車庫にはベンツが2台ある。ガンで入院してきたが、魂に平安がない。「先生、何とかして下さい、死にたくない」と言って号泣する。そして息を引き取って行かれた。もう一人はやはり72歳でふつうのおばあちゃんで、クリスチャンであった。ガンで苦しいのにニコニコしている、「先生、私は間もなく神様の所へ行きますから延命治療はいりません。ただ最後の痛みだけを治療して下さい」ということで痛み止めを注射してもらった。その二日後、クリスチャンの娘さんが見舞いに来た時に「じゃ、行って来るね」と言われて、天国へと旅立って行った。ふすまを開けて、隣の部屋へ行く感じであった。見送る娘さんも「お母さん、行ってらっしゃい」という言葉で送った。キリストの命の光をもっている者は、天国で再会の希望があるので、平安の内に死を迎えることができるのです。

まとめ

今朝はヨハネ8:12が中心になりましたが、この御言葉をぜひ暗誦して下さい。

1、キリストは世の光であり、私たちひとり一人の救主です。罪を認め、悔改め、キリストを救主として信じ、キリストを自分の人生の主とし、一生にわたってキリストに従って行くことが大切です。

2、キリストに従って行けば、闇のうちを歩く事がなく、キリストのように霊的に成長して行くことができます。キリストに学ぶことを心に留めて行きましょう。キリストを心に迎えて、心に命の光をいただいて、天国への道を歩んで行きましょう。

祈 り  創造主である神様、イエス・キリストによる救いを受けていることを感謝します。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」という尊い御言葉を心に刻んで、キリストに従う祝福の人生を歩ませて下さい。本日は午後から荻野倫夫・チャチャフィシュお二人の結婚式を行います。お二人をイエス様の愛で満たして下さい。結婚式・お祝いパーティーとも130名の人々が参加します、すべてが順調に導かれ、主にある一致、愛の一致、奉仕の一致、喜びの一致を与えられて行くことを信じ、聖霊の導きをお願いします。私たちに命の光を与えて下さったイエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解―榊原、黒崎、バークレー、フランシスコ会、LANB、文語略解、新共同訳略解。

内村鑑三「研究十年」「宗教座談」、佐藤順「御翼」