「もしこの福音に立っているならば」 2006年7月16日 荻野倫夫師
聖書箇所:1コリント15:1−8、12−20
導入
ひとりの男が十字架上で死んだ。通常歴史の波に埋もれ、忘れ去られてしまうただの「犯罪人の死」であるが、彼については状況が異なっていた。彼は確かに生前偉大な人物だったが、注目すべきはむしろ彼の死後起こった。第一に、彼が死からよみがえった、との証言者たちが現れた。第二に彼の死と復活はある特殊な意義を持っている、すなわちすべての人に永遠の命を与えるため、と解釈された。第三に、彼の復活の証言とその意義が、信仰告白(ケリュグマ)の形に整えられた。この信仰告白(ケリュグマ)は人々の間を行きめぐり、果たしてこの男の死は、人類が決して忘れることのできないものとなった。
いうまでもなくこの男とはナザレのイエスである。恐らくイエスの死と復活の信仰告白(ケリュグマ)はイエスの死後(復活後)数年の間に成立したと考えられる。新約最古の文書群であるパウロ書簡は、このイエスの死と復活の信仰告白(ケリュグマ)を今に伝える貴重な歴史的資料である(1コリント15:3−8、ピリピ2:6−8、1テモ3:16など)。
私たちの信じる信仰は決して、時折ちまたで言われるような、イエスの時代から数百年後に捏造(ねつぞう)されたものではない。最古の証言に基づいた、堅固な土台に立った信仰である。「もしこの福音に立っているならばあなたがたは救われる」(1コリ15:2-3)。パウロが立ったあの福音に、私たちも堅く立っていこう。
I.1コリントの背景
A. 1コリントの著者は誰か
聖書学者たちによると…ローマ、1コリント、2コリント、ガラテヤ、ピリピ、1テサロニケ、ピレモンの計7通がパウロによって書かれた。
保守的な学者たちによると…
ローマ、1コリント、2コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、1テサロニケ、2テサロニケ、1テモテ、2テモテ、テトス、ピレモンの計13通がパウロによって書かれた。
結論。1コリントの著者は間違いなくパウロである。
B. パウロとは誰か
1.エリート中のエリート
私は八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。(ピリピ3:5-6)
2.キリスト教史上の巨人たちにインスピレーションを与え続けてきた真に偉大な人物。
アウグスティヌス(354-430)キリスト教史上、最も影響力のある神学者。パウロのロマ書を読み改心。マルティン・ルター(1483-1546)プロテスタントの父。パウロのガラテヤ書が彼の宗教思想の一大転機となった。ジョン・ウエスレー(1703-1791)イギリスのリバイバリスト。ルターのロマ書への序文を聞き、心が奇妙に温まる体験。カール・バルト(1886-1968)20世紀最大の神学者。パウロのロマ書注解を書き、20世紀神学に革命を起こした。
3.パウロとは‥キリスト・イエスの僕、使徒
「しかし、わたしにとって益であったこれら…一切のものを、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、損と思っている。」(ピリピ3:7−8)
「わたしにとっては、生きることはキリスト」(パウロ)
C. コリントについて
1.コリント
通称の中心地。商業都市、歓楽都市。人々は知的であり、経済的に潤っていた。アフロディーテの大神殿における千人の神殿娼婦はつとに有名。不名誉なことに「コリント」は不品行の代名詞として使われていた。「コリント風に振る舞う」=「淫行をする」。「コリント男」=「売春婦あさりをする男」。「コリント娘」=「遊女」の意味で用いられたそう(榊原康夫『コリント人への第一の手紙』30頁)。
2.コリント教会について
パウロは50年に第二次伝道旅行に出かけ、コリントに1年半滞在、コリントの教会を設立した。
主な人々は非ユダヤ人、つまりかつて罪深いコリントの習慣に染まっていた人たち。明らかに牧会的ケアが必要な人たちだった。
D.1コリントについて
1. 背景
50年代半ばごろ書かれたと考えられている。
パウロが教会を離れた後、この若い教会に問題は山積。パウロは様々な問題に対処せざるを得なくなりこの長い長い手紙を書いた。手紙の中でパウロは教会の具体的な問題について答えている。
2.1コリント15について
a.1コリント15におけるパウロの執筆意図
パウロがこの15章を書いたのは、コリントの教会に死者の復活を信じられない人がいたから。死者の復活が信じられないのは現代に始まったことではなし。パウロ在世当時も、懐疑的な人はいた。
b. 1コリント15のアウトライン
3部に分けることができる。
第1部.15:1−11 イエスの復活についての基本的信仰告白(ケリュグマ)
第2部.15:12−34 復活を否定した場合の、論理的矛盾
第3部.15:35−58 復活の身体がどのような栄光へといたるか
(The New Catholic Translation 『Holy Bible: The New American Bible』より)
今日は礼拝中の聖書朗読とあわせて1−20節を読んだので、第2部の途中までが説教聖句となっている。
II.メッセージ
・ある神学者の質問
ある神学者が次のように質問している。「もし今ここにイエスの死体が運ばれてきたら…あなたはどうしますか?」その神学者は言う。その場合は…「キリスト教信仰には価値がない。信仰を捨ててしまいなさい。」これは逆説的な表現。本当はイエスの死体(の考古学的発見等)は決して見つからない、なぜならキリストはよみがえっているから、そういう確信から、わざと挑戦的なことを言っている。
・パウロの挑戦
パウロも基本的に同じことを言っている。パウロによれば、イエスの復活の証人は500人ほどおり、一部は死んだが、ほとんどは今なお生存している。つまり調べる気なら調べられる、疑うならそれらの証人達に、直接聞いて確かめたらいい、と読者に挑戦している。
逆にパウロは言う、もし死人の復活がないのだったら、伝道は意味がない、キリスト教信仰に価値はない、と。むろんこれも逆説的な表現。パウロにとっては「生きることはキリスト」キリストを伝えることに文字通り命をかけている。彼にとって、伝道の意味がない訳がない。キリスト教信仰の価値がないわけがない。
つまりそれほどパウロは、イエスの復活の確かさに自信を持っている。イエスの復活の確かさゆえに、伝道に何よりもやりがいを感じ、そのために命をかけることができる。パウロにとって、キリスト教信仰ほど希望に満ちたものはない。パウロによれば、キリスト教信仰の価値は、キリストの復活に一切がかかっている。
更にパウロは言う。もしイエスがよみがえらなかったとすれば、私は神に背く偽証人になる。なぜなら嘘の宣伝をしているのだから。また言う。もしキリストが復活しなかったのなら、あなたたちの罪はゆるされていないことになる。そして死んだ人に希望はなく、私たちは死んだ後滅んでしまうだろう。もし私たちがこの世の生活における御利益のみの理由でキリスト教信仰を持っているのだとしたら、私たちはすべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。(1コリント15:20)「初穂」とはつまり大収穫の前触れ。これから起こるであろう多くの収穫(多くの人が救われ、永遠の命を与えられること)の一番はじめの収穫として、イエスがよみがえった。
・「いたずらに信じないで…」(15:2)
世の中ではイエスに関する様々な憶測、風評、陰謀説が囁かれる。私たちはそれらをいたずらに信じないようにしなければならない。むしろそのようなものを耳にしたとき、私たちに伝えられ、受け入れ、それによって立ってきた福音を思い起こす良い機会にしたい。
・「神の教会」「聖徒」(1:2)
手紙の冒頭で、パウロはコリント教会を「神の教会」、その信徒を「聖徒」と呼んでいる。果たして彼らはそう呼ばれるに値する教会、信徒達だったろうか。
彼らは党派心に燃え互いに争い(1:10−13)、教会の中のある人は信者以上にふしだらな生活をしており(5:1)、聖餐式は各自勝手に食べ、ある人たちは飢えている一方で、ある人たちは葡萄酒で酔っている(11:21)。問題だらけの教会。まだクリスチャンとしてよちよち歩き(3:1−3)。
これらの問題を十分知っていながら、パウロはコリント教会を「神の教会」「聖徒」と呼んでいる。
なぜパウロはそう呼ぶことができたのだろうか。
すべてのクリスチャンは成長の途上にある。ある人は信じてまもなく死に、ある人は信じてから充分成長の時間がある。クリスチャンは成長の成熟度によって「聖徒」と呼ばれるわけではない。
「聖徒」の基準はただ一点。イエスの死と復活は自分の罪のため、と信じる「この福音に立っている」こと。
・私たちの場合
倫理的に言って、私たちは、コリント教会より優れているかも知れない。だがそのことが熊谷教会を「神の教会」、あるいは私たちを「聖徒」とするわけではない。何が条件か。
それはただ一点、「(パウロが伝えた)福音に立っている」ということ。
私たちは教会を「神の教会」とするため、また私たちが「聖徒」であるために、この福音に堅く立ち続けなければならない。
・良い行いについて
クリスチャンの成熟度が関係ないなら、どんな無軌道な生活をおくっても良いのだろうか。
無論そうではない。良い行いをする義務はある。
教会に分裂があるべきではないし、不品行もあるべきではない、主の晩餐も良く自分を吟味して厳かに行われなければならない。
各自は自分が聖霊の宮となっていることを良くわきまえ、神を恐れて歩まなければならない。
しかしながら、それらの良い行いが私たちを救うのではない。
私たちの救いはただキリストの十字架における罪の許しの福音のみから来る。
だからパウロは福音をもっとも大事なことと呼び、これを堅く守れ、この信仰を揺るがすようなものをいたずらに信じないように、と言っている。
結論
世の中では「イエスとマグダラのマリヤ結婚説」「イエスが神という教義は、イエスの時代から数百年後の捏造(ねつぞう)」等々のことが、まことしやかにささやかれる。あなたはそれらを「いたずらに」信じることを選ぶだろうか。
それとも聖書が伝えるところの福音に固く立って動かされないことを選ぶだろうか。
もし私たちがこの福音に立つならば、15:14−19は以下のように読み替えられる。
・私たちの宣教は非常に意義深く、私たちの信仰は実り豊かである。
・イエスの復活を伝える私たちは、偽証人でなく真理の証人である。
・キリストは復活したので、わたしたちの罪はゆるされている。
・死んだ人たちには希望がある。イエスがよみがえったように、死んだ人もよみがえるだろう。
・私たちの信仰はこの世における望みを持つためだけではない。後の世における希望がある。よって私たちはすべての人の中で最も幸せな存在である。
私たちはパウロ共にこの福音に固く立つ。なぜなら「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」のだから。