神を畏(おそ)れ、その命令を守れ

静まって、わたしこそ神であることを知れ!詩篇46:1−11       主の2006.7.30礼拝

 

21世紀に入って5年目です。私の尊敬する牧師から聞いた話ですが、20世紀から21世紀に移る時に、仏教、神道、キリスト教、そして新宗教と言われる様々な宗教の人々が集って座談会が開かれた。テーマは、「混乱した世の中にあっていかに生きるべきか」、「21世紀に希望はあるのか」ということで、様々な宗教家たちが熱弁をふるった。その中にあってキリスト教の門脇神父が発言した、「21世紀に入るから何か計画を立てる、ビジョンを掲げて皆で力を出し合って行こうという議論が主流のようだが、聖書の立場から言いますと、『何もしない。黙って神を待ち望む』ことこそが大事である」と言って後は涼しい顔をして皆の議論を聞いていたそうです。門脇神父はビジョンを掲げること、その実現のために働くことを否定した訳ではなく、色々な議論をする前に「何か大切なことを忘れていませんか、本当に大切なことは、人間を越えた神様に聞くことである、神様の導きを求めることである」ということを言ったのです。

本日は詩篇46篇です。ニュースは連日のように、国と国との戦争やテロ活動があること、大水、大地震が日本をはじめ世界各地に起っていること、私たちの身近では、親が子を殺し、子が親を殺すという心を暗くする事件が多発していることを告げています。騒がしい暗い世の中に生きる私たちに対して、神様は本日の御言葉を通して、2,3節「恐れない」、5節「ゆるがない」、7、8節「万軍の主は我らと共におられる」という御言葉をもって、私たちを励ましています。「恐れず、ゆるぎない信仰」をもって行く秘訣は10節「静まってわたしこそ神であることを知れ」という御言葉にあります。何かを議論し、決める前に門脇神父は「何もしないことだ、黙って上よりの神様の声を待ち望むことだ」と言いましたが、その根拠になる御言葉です。私たちひとり一人がまず神様の前に静まりましょう。聖書を通して語りかける神様の声に耳を傾けて行きましょう。祈りの答え、病気の癒し、進路に対する導きを求めている方がおられると思います。静まりましょう、神様を信じて祈りましょう。必ず神様の答が与えられます。

今朝も共に主の御言葉を聴き、祈って新しい一週間を、希望をもって出発して参りましょう。

 

内容区分

1、神はわれらの避け所である 46:1−3

2、神はわれらを助けて下さる 46:4−7

3、神の前に静まれ! 46:8−11

資料問題

内容は1−3節、神よりの平安、4−7節、神の臨在の中にある喜び、8−11節、神の驚くべき救いへの感謝と讃美である。4節「一つの川がある。その流れは神を喜ばせ」、エゼキエル47:1−12にある神殿から流れ出るすばらしい水のようにメシア的祝福の象徴と解されている。これは黙示録22:1―2では天のエルサレムを流れる川に適用されている。実際にはエルサレムには川はない。5節「朝早く」、エジプトにおける過越の夜の出来事(出12:29,42)、紅海での故事(出14:27)などがある。「都はゆるがない」、イザヤと共にヒゼキヤ王が経験した、アッスリヤ軍の包囲からの奇跡的な救助から来る信仰の確信であると考えられる(列下18:13−19:37)。7、11節「万軍の主」、戦いにおいて歴史を支配する主。7節「われらと共におられる」、インマヌエル(イザヤ7:14)の思想で、これは後に人の歴史の中に生まれたイエスの呼び名である(マタイ1:23)。

 

1、神はわれらの避け所である 46:1−3

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。(1節)

昨日上野公園ホームレス伝道に参加しました。毎週土曜日、300名の路上生活者が集まり、礼拝を捧げます。300名とは熊谷の礼拝の3倍です。但し会堂はなく、青空教会ですので、雨の時、雪の時もあり、風が吹き荒れる時もあります。今は暑い時です。説教をしていても、給食奉仕をしていても汗が吹き出てきます。私は礼拝で「花も実もある人生:ヨハネ15:5」という題でキリストの愛と救いとを伝えました。礼拝後、出席者に熊谷から持参したおにぎりを差し上げました。ホームレス伝道を推進しているトポス教会(足立区・比留間師夫妻)のメンバーの方々が300人分のソーメンをゆでて用意してきたものを、どんぶりに入れてひとり一人に配り、バナナを配り、麦茶を配りました。奉仕をしながら、路上生活者は家族から切り離されている、行政の保護外にいる、彼らは何かあった時にどこに助けを求めて行くのだろうかということを考えてしまいます。毎週トポス教会主催で上野公園伝道礼拝が行われ、熊谷は毎月一回お手伝いに行っています。私たちの力は微々たるものですが、ホームレスの人々が救われ、神様に頼って行く信仰が与えられるように祈っています。なぜなら信仰が確立されることによって、神様に頼って、社会復帰して行く思いが与えられて行くことを信じるからです。魂の救いを受けて、すでに多くの方々が社会復帰を果たしています。

私たちは困った時に、病気の時に、どこに頼っているでしょうか。例えば家族がいる、友達がいるということで、いろいろ相談にのってもらえると思います。しかし人に頼る前に、今朝の詩篇46篇は何か問題があった時には、1節で「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」という信仰によって、神様に頼るべきことを告げています。「避け所」とは逃れ場ということです。ただ逃れるだけではなく、神様の御許に行くならば「力」が与えられます。2−3節に神様を信じていれば、恐れはないということが2回も言い表されています。主なる神様は、「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」と約束されています(詩篇50:15)。個人的な事ですが、孫の慧は、私の事をあまり霊的でないという判断しているのかどうか分りませんが、どこか痛くしたり、熱が出たりすると、私ではなく家内の所に行き、祈ってもらい、安心しています。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」という御言葉を知っている訳ではありませんが、3歳の幼子にグランマ(おばあちゃん)を通して神様に祈ったから安心であるという思いが与えられる、というのは神様の恵みです。

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」というのは真実な御言葉です。私は20歳前後に、クリスチャンである矢内原忠雄という人の全集を読みました。彼は大学教授、経済学者、伝道者であった人です。彼は日本が太平洋戦争に突入する時代に東大教授でしたが、戦争に反対し、クリスチャンであるということで大学を追放されます。戦争後、大学に呼び戻され、1952年から二期にわたって東大総長として活躍をした方です。彼は戦争前に中国大陸に行き、列車で旅をした時に(満州と言われた地方)、武装した匪賊(ひぞく)といわれる強盗団によって列車を止められ、500名の乗客のうち7名が殺されます。列車は小さな部屋で区切られて、各部屋に乗客が乗っていたのですが、強盗は部屋のカギを壊して中に入り込んで乗客の金品を奪って行きました。彼は4名の者と一つの部屋の中にいたのですが、強盗が隣の部屋まで来た。ところが何故か強盗達は彼のいる部屋を通り過ぎて行ってしまい、何の被害も受けなったのです。人々は運が良かったと言いましたが、彼は後に記しています、「私は神様を信じ、キリストの救いを信じて来ました。神様は信ずる者を捨てないと約束しておられます。平素から神を信じて神を避け所としている者には、何か事件が突発してもその生命は安らかであります・・・たといこの肉の生命は失うことがあっても、永遠の生命を与えられて、神の栄光を目の当り見せていただくのであります」。

私はその証を読み、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」というのは事実である、私も神様が避け所であることを信じて行こうと決意し、あれ以来50年の日々の間神様に守られ、これからも守られることを信じ、神様に感謝しています。

 

2、神はわれらを助けて下さる 46:4−7

神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝早く、これを助けられる。(5節)

4―5節の都とはエルサレムを指していると思われています。エルサレムは高い城壁で囲まれています。エルサレムの町には川がありませんが、城壁の外にある水源から地下にトンネルを掘って、水を引き入れています。敵に囲まれて城壁の外に水を汲みに行けなくなっても、町に住む者の水は確保されています。6節に敵に囲まれて、町が滅びるような騒ぎになっている、だが、7節、主が共にいて下さるから心配するな、と言われています。

5節前半「神がその中におられるので、都はゆるがない」・・・神様がおられるから、都が安全であるという信仰が告げられています。神様がおられるということは、住んでいる人々が神様を信じているということを表しています。神様を信じるということが信仰です。神様を信じないことは不信仰です。どんなに神様が町を守ろうと思っても、人々が神様を信じなければだめです。事実、エルサレムの町は、人々の不信仰によって2回滅ぼされています。一度は紀元前587年にバビロンによって滅ばされますが、70年後に復興することが出来ました。二度目は紀元70年ロマによって滅ぼされ、ユダヤ人は故国を追われ、約2000年間世界をさ迷いますが、1948年にユダヤ人はイスラエル国家を再建し、エルサレムは再び首都となり、現在に至っています。私たちの教会もキリストによって救われた者達の集まりであり、神様が共にいて下さる群れであることを信じます。キリストは言われました、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集っている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:30)。この礼拝の中心に、神が愛であることを現し、十字架に上って救いの道を開かれたイエスキリストがおられます。キリストの御名による集いの中心にキリストはおられます。

5節後半「神は朝早くこれを助けられる」・・・神様は信じる者を助ける恵みの神であることが告げられています。サタンは闇の世の主権者です(エペソ6:12)。私たちは毎日体験していますが、どんなに夜が長くても朝は必ずやって来ます。どんなに夜のように心が暗くなり、悲しみがあったとしても、喜びの朝は必ずやってきます(詩篇30:5)。サタンは私たちを苦しめますが、朝が来て夜の闇が消え去るように、神様がサタンの力を打ち砕いて下さるのです。今から3500年前、ユダヤ人はエジプトの国で奴隷でした。彼らの苦しみの叫びが神様に届き、ユダヤ人を苦しめるパロ王をはじめエジプト人に神の審(さば)きが下ります。審きの内容は夜の間にエジプト全土を死の使いが行き巡り、その家の長男、動物の雄の初子が殺すというものでした。しかしイスラエルの人々は子羊を殺して、その血を家の玄関に塗っておけば、死の使いが過ぎ越して行くという約束を与えられ、彼らはそのようにして、死の使いから逃れました。夜の暗い闇の中を死の使いがエジプト全土を行き巡り、エジプト人は神の審きを受けます。夜が明けて、イスラエルの人々は奴隷という暗い身分から解放され、祖先の住んでいたカナンの故郷に向かって出発します(出12:29,42)

キリストのことを考えてみましょう。キリストは金曜日朝九時に十字架につき、午後三時に息を引き取り、布に巻かれた遺体は洞窟のような墓場に安置されます。次の土曜日はユダヤの安息日であったので、三日目の朝早く女の弟子達が墓参りに行くと、キリストは死を滅ぼして甦り、墓の中にはキリストの体に巻いてあった布が残されているだけでした(ヨハネ20:1−11)。「神は朝早く助けられる」という御言葉の通りにキリストは十字架の死から三日後の朝早くに甦り、信じる者に永遠の命の確かさを保証して下さったのです。

私たちはそれぞれの生活のリズムがあるでしょうが、朝の時間を大事にして行きましょう。キリストは忙しい生活の中で朝の時間を神様との交わり、祈りに用いていました(マルコ1:35)。朝の祈りが一日を支えます。眠い目をこすりながら、時にはあくびをしたりしながらでも良いのです。朝に祈りましょう。朝、目覚めるためには夜更かしをしないことです。私の場合、電話が途絶え、来訪者がない時間というと夜更けになり、その時間に読書をし、学び、説教原稿を書くので、寝るのが遅くなる傾向がありますが、次の日のことを考えると、すべてをやめて床に入るようにしています。皆さんもご自分の生活を点検し、朝に目覚めることができるように生活を工夫して行きましょう。朝の祈りによって一日の祝福をいただいて行きましょう。

 

3、神の前に静まれ! 46:8−11

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの國民にあがめられ全地にあがめられる」(10節)

10節の御言葉ですが、新改訳は「やめよ。わたしこそ神であること知れ」、新共同訳は力を捨てよ、知れ、わたしは神」と訳していますが、この個所は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という訳が一番分り易く、しかも覚えやすくなっています。

静まって、わたしこそ神であることを知れ」・・・ここに信仰の秘訣があります。静まることは神様に信頼する時に与えられる心の平安です。落ち着きましょう。静まりましょう。主の前に謙りましょう。

静まれないで、心が騒ぐ時に次の御言葉を思い出して下さい。「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい(出14:14)。うろたえずに、騒がずに、神様に信頼して祈ることが勝利を得る秘訣です。11節には「万軍の主はわれらと共におられる」と言われています。見えない神様を現すために、キリストがこの世に来て下さいました。「われらと共にいます」とは「インマヌエル」ということであり(イザヤ7:14、マタイ1:23)、私たちの所に来て下さったイエスキリストを指しています。キリストを心に迎える時に、私たちの心の中から、内から、キリストが「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない(ヘブル13:5後半参照)と言われて、いつも支えて下さいます。

静まれないで、心に思い煩いが満ちる時に次の御言葉を思い出して下さい。何事も思い煩ってはならない。ただ事ごとに感謝をもって、祈りと願いとをささげ、あなた方の求める所を神に申し上げるがよい。そうすれば人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリストイエスにあって守るであろう(ピリピ4:6−7)。思い煩う前に、感謝を数えましょう。昨日上野公園で、ホームレスから救われた66歳の男性が証をしました。事情があって、上野公園に流れてきたが、所持金10円であった。毎週土曜日の上野公園の集会に導かれ、キリストを信じて救われた。救われたことによって、生まれ変わることができて、永遠の命が与えられたこと、生きる目的が与えられ、神のしもべになって行こうという決意を与えられたこと、先行き不安な気持ちから解放されたこと、そして社会に復帰し、仕事を得ることが出来たという感謝を数えて証をし、キリストの御名が崇められ、幸いでした。恵みを数え、感謝をいっぱい捧げて下さい。

静まって、わたしこそ神であることを知れ」・・・(先々週の水曜日祈り会で引用したことを再度言います)。1812年、W・ケアリー1716−1834、英国宣教師)はインドで伝道していましたが、伝道用印刷工場が焼け落ちるアクシデントに見舞われます。最初ケアリーは物も言えないほどビックリ仰天した。しかし次の日曜日、彼は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という御言葉によって説教をした。説教の詳しい内容は分りませんが、そこに居合わせた新聞記者はケアリーの説教を聞いてこう書いた、「この火の燃えさかる中に、人々は神の計画のあることを知った」と。その事はぱっと広まり、その結果、印刷工場の再建に要した費用は2ヶ月ですべてを返済することが出来たのです。ケアリーは、最初は印刷工場消失で口もきけないほどのショックを受けたのですが、彼は神様の前に静まり、神がすべてを支配されることを信じ、祈ったのです。そこに神様の恵みが現されたのです。

 

まとめ

1、46:1、神様は私たちの避け所です。まず神様に頼って行きましょう。

2、46:5、神様が私たちを助けて下さいます。

3、46:10、この御言葉の前半を暗誦して下さい。静まりましょう。神様が戦って下さることを信じましょう。思い煩う前に恵みを数え、感謝をいっぱい見つけましょう。

 

祈 り 天地の主である神様、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、この御言葉を心にしっかり

刻んで、まず神様に縋り、神様の助けを信じ、恵みと感謝をたくさん数えて、信仰の道を歩んで行ける

ように導いて下さい。七月が守られていることを感謝します。迎える八月も恵み豊かな日々であるよう

に私たちを導いて下さい。これからの聖餐式の中に、キリストの豊かな臨在があり、十字架の恵みに

感謝して信仰が深められるように導いて下さい。イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献詩篇注解―フランシスコ会、G.A.ナイト、米田、岸井、矢内原、内村、LAB、関根。「矢内原忠雄全集・岩波書店」