きょうもキリストを信じ、キリストに従おう ヘブル3:12−15    主の2006.8.27礼拝

 

 

2002年5月、コロンビアの登山家ディアズは仲間と共に、アンデス山脈ネバドデルルイス山の頂上を目指していた(標高5400mで4800mより上は一年中氷河に覆われている)。途中吹雪に遭い、彼は仲間からはぐれてしまった。携帯電話を持っていたが、プリペイド式で料金は使いきっていた。連絡の術を失い、ディアズは死を覚悟し、冷たい雪の上に横たわっていた。突然、彼の携帯電話がなった。電話会社からのセールスで「お客様のプリペイド料金が切れていますが、通話の追加の申し込みはいかがでしょうか」と言ってきた。「今アンデスのネバドデルルイスで遭難しています。助けて下さい」と彼は居場所を伝え、救助を要請した。電話のセールスマンは、ディアズの声の調子から低体温症にかかり始めていることを察知し、30分ごとに電話をして、彼が眠らないようにし、7時間後に、彼は無事救出された。(「御翼・佐藤順」より)

本日はヘブル3:12−15です、15節に「きょう、み声を聞いたなら・・・心をかたくなにしてはいけない」と言われています。私たちに対し、神様は聖書を通して常に呼びかけておられます。私たちは聖書を読んでも、何を読んだか忘れてしまって、覚えていないような思いになることがあります。しかし、困った時に、行き詰まった時に、神様の方から聖霊によって御言葉を思い出させ、私たちを助けてくれます。ディアズは自分の携帯電話は料金切れで使えないと思い、雪の上で死を待っていた時に、電話会社から呼び出しが来て彼は助かりました。それは彼が携帯電話を持ち続けていたので、電話局の電波を受信することが出来たのです。聖書を読んで、キリストを心に信じているなら、何かの時に神様は聖霊という強力な助け手を送って下さって、聖書の言葉を思い出させ、困難を乗り越える力を下さいます。心を柔らかくして、聖書を通して語りかける主のメッセージを共に聴き、祈って、新しい一週間を出発して参りましょう。

 

内容区分

1、キリストを信じ、「きょう」といううちに互いに励まし合って、信仰を続けよう 3:12−13

2、キリストを信じ、最初の確信を持ち続け、天国に入る日まで信仰を続けよう 3:14−15

資料問題

本日の聖書個所は、3:7−4:13の流れでみるとよいが、今回は3:7−15という短い区分の中から主の使信(メッセージ)を聴いて行きたい。12節「生ける神」は、旧約聖書では真の神に対する称号。神はイスラエルの唯一の神、命の源、生命そのものである。「生ける神から離れ去る」とは、神の呼びかけに耳をかさず、教会を離れることである。13節「きょう」とは、神が人間に語るあらゆる瞬間のことであり、これは世の終りまで続く。信仰とは、今、この瞬間に信じていることである。信仰はいつも現在形である。14節「確信」とは一次的には本性、実体、土台、根底にあるもの。二次的には不動、信頼、信仰である。ここでは強固な土台の上に築かれた不動の信念すなわち確信である。「キリストにあずかる」とはキリストに従って行く者であり、キリストが苦難と死を通って得られた永遠の命、安息の光栄と栄誉とを、キリストと同じく与えられる者である(ヨハネ1:16)。「あずかるメトコス」は1:9、3:1、6:4、12:8を見よ。

 

1、キリストを信じ、「きょう」といううちに、互いに励まし合って、信仰を続けよう3:12−13

兄弟たちよ。気をつけなさい。あなた方の中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなた方の中に罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互いに励まし合いなさい。(12−13節)

開拓伝道を始めた頃、小さな家を借りていました。平屋の家で小さな玄関に続いて3畳の部屋、そして2畳ほどの台所と小さな風呂場がありました。玄関の横に6畳、3畳の部屋があり、その部屋が私たち親子4名の住む所であり、日曜日、水曜日にはそこを集会場にしていました。最初の頃、礼拝人数が早く10名になるようにと祈っていました。ある方が「教会はどういうふうに進んで行くのですか」と聞かれたので、「教会を導くのは聖霊です。間もなく礼拝が10名になるでしょう。その次はそれが10倍になることを信じ、伝道して行きます。そして救われた方々が一生に渡って信仰を持続して行くように祈り、霊の糧である聖書のメッセージを語って行きます」と答えたのを思い出します。その後、「心と心の伝道」の創始者である豊留真澄師と出会い、それ以来熊谷は、聖書に基づいて、キリストをまっすぐに伝える個人伝道を続けています。また小宮山林也師との出会いを通して、祈りの家族であるファミリーという小グループを中心にして教会形成がなされています。そして教会伝道、教会形成を支えるためには祈りが大切であるから祈ろう、特にイエス様が祈られたように早天祈祷に励んでいます。教会は主によって導かれ、現在親子三世代など大勢の人が集っていることを感謝します。9月に入ると、洗礼式があります。また新しい洗礼講座が始まります。主なる神様の恵みに感謝して、キリストに従って行きましょう。

本日の聖書をご覧下さい。12節、「気をつけなさい」とあります。教会が成長していることを感謝します。また個人的には信仰の年月を重ね、主の恵みを豊かにいただいていることを感謝します。ところが、主の恵みを喜ばない者がいます。それはサタンです。サタンは天使の長として、神様によって最も美しく創造され、「黎明の子(暁の子)、明けの明星」と讃えられ、また大きな力を授かっていた者です。しかし、ほめ讃えられているうちに「俺が天の神の座に上り、いと高き神のようになろう」と高ぶり、神様によって陰府(よみ)に落とされてしまいました。けれども、今しばらくの間は存在を許され、人間を神様に背かせようと必死になって働いています(イザヤ14:12−15、エペソ6:11−12)

気をつけなさい」・・・「不信仰な悪い心」、「生ける神から離れ去る」、「罪の惑わしにより心がかたくなになる(頑固、心がひねくれること)」ことに気をつけなさいという意味です。

不信仰な悪い心」また「罪の惑わしにより心がかたくなになる」ということの兆候は何かと言えば、聖書を読まない、お祈りしないということに表れてきます。ガンという病気があります。ガンは死をもたらす厄介な病気として恐れられています。何故なら、病気であるという自覚症状がなく、気づいた時には、症状がかなり進んでいるからです。普通に動けて、食べる事が出来て何の異常もないはずであるのに、ガンが発生していることがあります。そこで定期健診をして、ガンの早期発見に努めましょうという事が言われています。早期に発見できれば有効適切な治療ができるからです。「不信仰」「心がかたくなになる」ことは聖書を読まない、お祈りをしないことに表れると言いました。しかし聖書を読まなくても、お祈りをしなくても、けっこう普通に生活できます。すると「あんまり信仰、信仰と厳格にしなくても大丈夫だ」という心の弛みが生じます。それがサタンのワナです。聖書を読まないのはご飯を食べないのと同じで、食べなければ体力がなくなります。聖書を読まなければ、心がやせ細って、霊的にダメになります。お祈りをしなくなると神様の愛、力、聖(きよ)さから遠ざかり、お祈りができなくなってしまいます。だいぶ以前にテレビニュースで100歳の人々が出ていました。その中で、品のいいおじいさんが何やら一生懸命に横文字の本を読んでいる。それは引退された牧師で、毎日新約聖書をギリシャ語で読んでいるとのことで、心が恵まれ、その恵みが外に現れ、顔もつややかで気力がみなぎっていました。聖書を読み、祈る人は恵まれ続けて行きます。聖書を読み、祈ることを毎日して行くことが恵みの秘訣です。

生ける神から離れ去る」とありましたが、これは神様の呼びかけを無視することで、神様の言葉が語られる教会へ行かないで、教会を離れてしまうことです。何千回も繰り返して言っていますが、教会を離れたら救いを捨てることになります。私はメールで、手紙でいろいろな方々と連絡をとり、教会から離れることがないようにということを心がけています。

「『きょう』といううちに、日々、互いに励ましあいなさい」と言われています。キリストを信じる、キリストに従うのは、きょう、今、この瞬間です。それで「日々、互いに励まし合いなさい」と言われています。この度、10代の人達が洗礼を受けます。私が洗礼を受けたのは16歳でした。おばさんの多い教会でしたが、礼拝に行く度に、おばさんたちが声をかけてくれ、信仰を励ましてくれたことを思い出します。お互いに、「きょう」といううちに互いに励まし合ってキリストに従って行きましょう。きょう、礼拝が終わったら、誰かに声をかけ、信仰の励まし合いをいたしましょう。この次に声をかけようと先延ばしにしないで、自分の方から進んで声をかけましょう。

 

2、キリストを信じ、最初の確信を持ち続け、天国に入る日まで信仰を続けよう 3:14−15

もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神に背いた時のように、あなた方の心を、かたくなにしてはならない」

(14−15節)

私たちの信仰の一生ということを考えてみましょう。それには図をご覧下さい。

 

図を見る

14節に「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば」という言葉があります。

最初の確信とは、この図で言えば、キリストを救主として信じた日です。キリストが私の罪の身代りになって死んで下さったということを信じた時に、私たちは罪を赦され、生まれ変わって神の子になりました。それが霊の誕生日です。ある方は、キリストを信じた日を明確に覚えているでしょう。ある方は洗礼を受けた日を霊の生まれ変わりの日としていることでしょう。

この図を私に当てはめてみるならば、私は両親を通して、この地上に誕生しました。

16歳の7月、夏の暑い日、私は礼拝に始めて行きました。そして多分9月頃、キリストを信じたと思います。そのことを牧師に告げ、11月18日(日曜日)に洗礼を受けました。私は自分の霊の誕生日を、洗礼を受けた11月18日にしています。それが図の1のところです

それ以来、「キリストが私の救主であり、主である」という信仰をもって、キリストに従ってきました。この確信は揺るぐ事のないものです。それが図の2の部分です。私は図の2のところを日々歩んでいます。

「キリストが私の救主であり、主である」という確信を持ち続けて、やがて私は図の3のところに行くようになります。キリストを知らない方々は死を恐れます。しかしクリスチャンにとっては、死とはキリストに出会う日です。その日、キリストと顔を合わせ、「私は恵みによって信仰の道を歩み、天国へ導かれました」と報告する日です。

14節終りキリストにあずかる」と言われています。キリストを見上げて、私たちは歩みます。時には苦しみや試練があるかも知れませんが、その時にキリストが私たちのために十字架で苦しんで下さったことを思い起こし、苦しみや試練に打ち勝つ力が与えられます。キリストが復活されて永遠に生きているように、私たちも永遠の命を与えられて、天国を目指して進んで行き、天国に入る恵みを与えられます。それが「キリストにあずかる」ということです。それで、「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」と約束されています。

最初の確信を最後まで持ち続け、信仰の道を前進するためにはどうしたら良いでしょうか。

神に背くな」と言われています。今年の夏、高校野球が話題になりました。早稲田実業高校が駒大苫小牧高校を再試合で下し、優勝しました。高校生とは思えないような上手な選手がたくさんいました。強いチームの選手を見てみると、練習によって基本的なわざをしっかりと身につけています。基本的なわざを一年365日練習することによって、いざ本番という大事な試合で、ミスをすることが殆どないようです。神に背かない信仰生活の基礎は教会生活です。教会生活は時には平凡に思えます。例えば日曜ごとに礼拝に集い、水曜日の祈り会に出席し、大体決まったパターンで集会があります。毎週同じ牧師が説教をします。しかし、この平凡と思える積み重ねが信仰を養い、強固にします。時々いろいろな教会、集会を経巡り歩いている浮き草のような信仰の人がいます。それらの人は一応信仰はある、各種の集会の事情に通じてはいる、だが真に信仰が安定していない人が多いようです。私たちは腰を落ち着けて教会における信仰生活に励むことが大切です。何かあった時に、祈り助けてくれるのは自分の所属する教会です。古い言葉で言えば、骨を拾って最後の最後まで支えてくれるのは自分の所属する教会です。

心をかたくなにするな」と言われています。心がひねくれてはいけないのです。心を素直に保って、天国に入る日まで信仰を続けて行くことが大切です。

「二荊自叙伝」を記した斉藤宗次郎というクリスチャンがいました1879−1968)。岩手県花巻市にある寺の住職の子どもでした。岩手県師範学校で学び、小学校の先生になりました。1900年(明治33年)、彼は内村鑑三によって、キリストを信じる信仰に導かれ、クリスチャンになります。寺の住職の息子がクリスチャンになったというので、大迫害を受け、教師を辞めさせられ、娘と奥さんが早死にをするという悲しい目にあいます。彼はどんなひどい目にあっても、神様に背くことなく、また心がかたくなになって、ひねくれることなく、深く神様に信頼し続けて行きました。小学校の先生を辞めさせられたので、新聞雑誌配達業を始めます。当時は気車が駅に着くと、新聞の束をホームに落として行きます。それを拾い上げ、整理し、各家に配達するという仕事を20年続けます。忙しい生活の中で、自分の家の前が通学路なので、冬は雪かきをして、道路を安全にした。新聞を配達しながら、病人を見舞い、気の毒な人を尋ね励ましていた。彼は50歳になって、東京の内村鑑三の許で、伝道の手伝いのために故郷を離れたが、かつては斉藤を迫害した町の人々が、町長、お坊さん、神主、学生、ホームレスの人まで何百という人が見送りに来て、列車が動けないほどであった。東京に着いた時に、真っ先に手紙をよこしたのは宮沢賢治で、斉藤上京5年後に「雨ニモ負ケズ」の詩を書いたのですが、斉藤がモデルと言われています。斉藤宗次郎は迫害の中に、娘、妻を失うという苦難に直面しましたが、キリストを信じた最初の確信を最後まで失うことなく、神様に決して背くことなく、心ひねくれることなく、信仰生活を最後まで続けたのです。彼はどんな時でも、いつも主に祈りながら、キリストに従って信仰の生涯を生き抜き、最後の言葉として「私は神様の御許へ行くから、あとから皆ぞろぞろついて来い」と言って、90歳で天国に旅立って行き、キリストにあずかるものになっています。

 

まとめ

1、2−13節、「きょう」といううちに、互いに励まし合って信仰を続けて行くことが大切です。「きょう」といううちに励まし合うことを実践して下さい。誰かに声をかけ、信仰を励ましましょう。

2、14−15節、最初の確信を持ち続け、天国に入るまで信仰を続けることが大切です。神に背くことなく、心をかたくなにすることなく、祈って行きましょう、天国に入る日まで信仰を続けて行くように、新しい決断をもって祈って下さい。

 

祈 り

天地の主である神様、独り子である救主イエスキリストによって神様の子どもになっていることを感謝します。「きょう」という、この時に主に従って行きます。キリストを信じた最初の確信を最後まで持ち続けて行くことを決断しますので、私たちを導いて下さい。心を素直にして信仰を続けて行きますので、私たちを守って下さい。信仰の戦いの中にある方々を支え、勝利を与えて下さい。病気の方々を癒して下さい。私たちの救主イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

参考文献へブル注解―名尾、黒崎、フランシスコ会、文語略解、LABN。「二荊自叙伝・斉藤宗次郎・岩波書店」