イエスキリストの愛は永遠に変わらない ヨハネ13:34−35        主の2006.10.1礼拝

24歳で死刑判決という大きな罪を犯し、独房で死を待っている囚人がいました。彼の人生は悲しい人生でした。小学生の時に0点を取ったというので、先生に殴られ、蹴飛ばされ、「低脳児」と言われ、人に認められず、ほめられず、愛されず、誰にも受け入れてもらえない淋しい日々の連続でした。しかし、たった一度だけ、中学時代、図工の吉田先生から『絵は下手だが、クラスで一番構図がよい』と褒められたことを思い出します。途中を略しますが、彼は27歳の12月に獄中で洗礼を受け、32歳で死刑執行により天に召されて行きます。人生においてたった一度だけ自分が褒められた、受け入れてもらったことを思い出し、それがきっかけで褒めてくれた先生をはじめ、多くの方々と文通するようになり、クリスチャンに出会い、キリストを信じるように導かれたのです。

本日はヨハネ福音書13:34−35です。キリストは、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われています。キリストは愛の目をもって人をご覧になり、愛の耳をもって人の苦しみの叫びを聴いて下さり、愛の心をもって苦しむ人の所に出かけ、全ての人に救いと癒しを与えて下さる救主です。キリストは、人々が忌み嫌う長血の病気をもつ婦人の苦しみをご覧になり、癒しと共に救いを与えています(マルコ5:25−34)。悪霊に憑かれ、墓場で暮らす惨めな若者の心の呻きをキャッチされ、一晩船を漕いで彼の所に足を運び、悪霊を追い出し、正気に戻しています(マルコ4:35−5:20)。死刑になった男が死の間際にキリストに赦しと救いを求めた時に、「きょう、あなたはわたしとパラダイスに行く」と宣言され、救いと共に永遠の命を与えています(ルカ23:40−43)。24歳で死刑判決を受けた人も、中学校の先生に受け入れてもらったことを通し、キリストが人を赦すために十字架に死んで下さり、死刑になるような自分を無条件で受け入れて下さることを信じ、救われて生まれ変わり、洗礼を受け、永遠の天国へ旅立って行くことができたのです。

今朝、キリストは私たちに「わたしはあなた方を愛している。わたしがあなた方を愛したように、あなた方はわたしの愛を受けて、互いに愛し合いなさい」と言われます。愛の救主イエスキリストを仰ぎ見ながら、「私の心にイエス様のきれいな、混じりけのない愛を満たして下さい」と祈りましょう。

内容区分

1、キリストは私たちを愛して下さる救主である。13:34

2、キリストの愛を互いに表して行こう。13:35

資料問題

34節「新しいいましめ」、愛の戒めは旧約聖書にあり(レビ19:18)、また、キリストが「自分のように隣人を愛する」(マタイ19:19、22:39)ことも言われている。だが、ここでは「わたしがあなた方を愛したように」という条件が加えられているので、新しい戒めである。⇒第一ヨハネ3:16、4:9、ロマ5:8を見よ。「わたしがあなたがたを愛したように」、キリストのように報いを求めず、無私の愛で人を愛せよとの教えである。愛の最高峰は人のために、特に罪人のために死んで下さったキリストの十字架の愛である。35節「わたしの弟子であることをすべての者が認めるであろう」、キリストの弟子であることの最良の目印は互いに謙りくだり、愛し合うことである。

1、キリストは私たちを愛して下さる救主である。12:34

わたしは新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。(34節)

教会には様々な国の方々が集い、男女の性別の違い、下は赤ちゃんから上はシルバーエンジェルズの年齢の方々、健康な方もいるし少しばかり調子の悪い人もいるなどいろいろな人が主イエスキリストを見上げて礼拝を捧げています。イエスキリストは様々な人々を教会に引き寄せて下さいます。イエスキリストは国籍や性別の違い、年齢差を越えて、私たちが教会で神の家族として共に受け入れ合って行くように導いて下さる救主です。なぜ私たちはキリストによって引き寄せられ、またお互いに神の家族として受け入れ合って行くことができるのでしょうか・・・。それはキリストが私たちを愛して下さっているからです。キリストの愛を考えてみましょう。

第一に、キリストは言葉や口先だけの愛ではなく、人を助ける実際的な真実な愛を示された救主です。

愛とは相手のことを思いやり、相手のために祈り、相手を助けることです。熊谷の教会を開拓されたクラー先生が、20年ぐらい前ですが、アジアの国々を廻って「ティーンチャレンジ」という非行に走った青少年に伝道し、更正した者達を社会復帰させる働きをしていました。その頃、例えばベトナムへ行くと必ず子どもの乞食がいて、外国人にまとわりついてお金を求める。クラー先生は、「親が子どもに乞食をやらせている、だからお金をあげない」と思って行くのですが、しかし実際にはあげてしまう。それは、目の前で訴えている子どもを見て、イエス様だったらどうするかなーと思うと、邪険にすることが出来ないからだと言っていました。キリストは罪に苦しみ、死の怖れに脅えている私たち人間を、「お前たちが神様に背いたからだ、自業自得だ」と言って突き放すような冷たいお方ではありません。「わたしが罪の罰の身代わりになろう」と言われ、罪のない潔いお方でありながら、十字架にかかって死んで下さったのです。キリストの愛は十字架によって明らかにされた実際的な、真実な愛です。

第二にキリストは人を赦し、理解し、受け入れて下さる愛の救主です

私たちを本当に愛してくれる人は、私たちの短所を知りながら、なお私たちを愛し、受け入れてくれます。今年に入って、3組の方々が結婚しました。結婚して、相手の欠点や弱点を発見する場合が多いのでが、しかし、どんなに欠点、弱点があっても、本当の愛はそれらを克服して、相手を受け入れて行きます。そうした事態に備えて、結婚前の結婚講座でガッチリ学んでいますから大丈夫でしょう(ちなみに私は妻の足りない所を見いだせないまま結婚39年目です。そういう人を祈って見つけて下さい)。キリストは3年半にわたり弟子達と寝食を共にして、彼らの弱さや至らなさをよく知っていましたが、彼らを見捨てず、彼らを愛し守り続けて下さいました。一番大事な十字架の時に、キリストを3度も裏切ったペテロも赦され、受け入れてもらい、弟子達のリーダーとして用いられています(ヨハネ21章)。

第三に、キリストを信じる者の群れである教会はあたたかい交わりを通して人を引きつけます。

日本が戦争に負けた直後、食べ物が不足して皆がお腹をすかしている時代がありました。ある若者があまりの空腹に耐えかねて、家の米櫃から一握りの大豆を盗んだ。それは仕方がない事だと人はいうかも知れない。だがこの若者は唯物論者でした。宗教なんかなくても立派にやって行けるというプライドをもっていたが、家族が分け合って食べている大豆を盗んだことによって、心を責められた。そして自分には頼るものがないと知り、足元が崩れるような思いになった。その時、6年前にアメリカ人宣教師のバイブルクラスに出席し、厚いもてなしを受けたことを思い出します。それがきっかけになって教会へ導かれ、クリスチャンになった。友達は奇蹟だと言ったが、彼は新しく造り変えられたのです。彼は自分の失敗の中に、そんなダメな自分を受け入れてくれるキリストにある愛の交わりを思い出し、救われたのです。私たちの教会もあたたかい愛の交わりを通して、多くの人々を引きつける教会であるように祈って下さい。その手始めとして、今日も礼拝後に人に声をかけて下さい。

2、キリストの愛を互いに表して行こう。12:35

互いに愛し合うならば、それによって、あなた方がわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(35節)

キリストが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合って行くことによって、私たちはキリストの弟子であることを証して行くことができます。

ここで再び愛について学んでみます。(堀越暢治著「神の愛と教会の交わり」から引用)

第一の愛はエロースの愛です。(添付別紙参照)

これは非常に利己的な愛です。自分さえ良ければ、他はどうなってもかまわないという愛です。自分の生まれつきの欲望を楽しませるために他人を犠牲にしてしまう愛です。世の中はこうした愛が氾濫しています。最近飲酒運転の害が叫ばれています。自分の楽しみのために酒を飲み、酔っ払い運転によって、多くの命が奪われるという事故が後を絶ちません。これは脱線ですが、こんな事がありました。以前に、新幹線で行く予算がないので、神学校のダビデ先生、山城先生、青木先生と早朝に車で東京から関西へ私が運転をして行ったことがあります。途中でダビデ先生が「ハイ皆さん缶ジュースですよ」と言って、皆に缶ジュースを配ってくれました。最初に青木先生が飲んだのですが「うー、こりゃまずい」、山城先生も「こりゃ古いよ、飲めない」。ダビデ先生が「えー、本当ですか。私は新しいのを買ったはずですが・・」と言って飲んだが、「ほんとうだ、飲めない」と言っている。そして3人で缶の表示をよく見たら、缶の隅に小さく「酎ハイ」と書かれている文字を発見し、アルコール飲料であることが分った。もし私が口に含んでいれば、交通取締りでアルコール検出ということになり、「なんと現役の牧師と宣教師合わせて4名が東名高速道路で飲酒運転により逮捕」というニュースになるところでした。ここで酒について箴言23:29−35を読みます。

第二の愛はフィリアの愛です。(添付別紙参照)

これは普通によくみられる愛の形です。自分に何かをしてもらった。だから感謝してお返しをする。それによって両方が満足するという形です。愛がお互いの間を行ったり来たりしている往復運動の愛です。しかし、この往復運動が崩れると、愛が破れるという危険性があります。私たちは何の報いも求めないで、純粋な気持で相手に愛を与えれば良いのですが、心の奥底で返礼を期待している、あるいは無意識の中でお返しを求めていることがあります。キリストは「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」と教えています(マタイ6:3)。でも私たちはなかなかそうした気持になれず、お返しを求めてしまい、それがないとイライラしたり、相手を審いたりしてしまうことがあります。昨日は上野公園ホームレス伝道で、私は大事をとって留守番をさせてもらいましたが、9名の方々が奉仕に行かれ、倫夫先生がメッセージをしました。私はホームレス伝道に月1回行けることを感謝しています。それは、ホームレス伝道は、人間的には何ら報いのない、ひたすら愛を分ち与える伝道であるからです。そのために具体的に、おにぎりをはじめ、多くの捧げものがり、献金があり、教会の自動車がフル活動で用いられ、教会全体の祈りがあります。自己責任という言葉でホームレスの人々をだらしないという人もいますが、政治が見捨て、人が蔑むホームレスの人々に、キリストの救いと給食などの物資をもって手を差し伸べられるのはクリスチャンの特権です。今年はあと3回上野に行きますので祈って下さい。

第三の愛はアガペーの愛です。(添付別紙参照)

これは自分に愛を求めず、また愛を与えてもお返しを期待しない、与えるだけの純粋な愛です。この愛は相手のために行動する必要があるから行動し、行動しないことが自分自身の苦悩となる愛です。それは、キリストの十字架で表された愛です。キリストは人間が罪で苦しんでいる。自分が行動を起こして助けなければならない。そこで行動を起こして人間となり、私たちがまだ罪人であった時に、私たちの罪の身代りになって、十字架にきよい命を捧げて、私たちに対する愛を明らかに表されたのです。それを表す御言葉はロマ5:8です。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。(添付別紙参照)

アガペーの愛はキリストから来る愛です。私たちのために死んで下さったのはイエスキリストだけです。キリストは「わたしの愛のうちにいなさい」と言われます(ヨハネ15:9後半)。キリストに固くつながり、聖霊によって祈り、キリストの愛で心を満たして下さいと祈って下さい。

キリストの愛で互いに愛し合って行くために必要なことはなんでしょうか・・・。今回は一つだけ申し上げます。

人のために祈ることです。祈りこそが愛の実践のはじまりです。

*相手のためにキリストの恵みを求めて祈る時に、相手の中に何か良いものを見いだすことができます。95歳のクリスチャン女性、森作順子さんが、「いやな相手の長所をみつけ、ほめりゃステキな人になる」という歌を作っています。

*相手のためにキリストの恵みを求めて祈る時に、審く心、悪口、噂話から自由になります。

森作さんは、こうも歌っています、「人のうわさや口車には、大事な自分は乗せられぬ」。

*人のために祈る時に、思いやりの心が与えられます。昨日の読売新聞の第一面に、「たった一度の人生だから」という日野原重明・星野富弘氏の本の広告が出ていました。二人ともクリスチャンです。星野さんは59歳で、事故で下半身麻痺になりましたが、口に絵筆を加えて多くの美しい絵を描き続け、見る人々に励ましを与えています。日野原氏は現在95歳ですが、現役の医師です。2005年に文化勲章を授与されています。日野原氏の講演を聴き、また著作を読むと、常に相手を思いやるキリストの愛に根ざした心が伝わってきます。日野原氏は牧師の家庭に生まれ、大学医学部に入った時に結核を患い、エリートコースから外れますが、その時に病者の痛み、悲しみを体験し、それが人を思いやる医療に生かされて行く土台になります。1970年59歳の時に乗っていた飛行機が日本赤軍によってハイジャックされます。ハイジャックという言葉が一般的でない時代でしたので、自ら名乗り出て、「それは乗客を人質にして、飛行機を乗っ取ることです」と皆に説明してあげたそうです。乗客は4日後に解放されますが、日野原さんはその間に祈って、残る人生を人のために尽くして生きようというということを決意します。聖路加国際病院で、患者を尊重する医療を実施し、今も全国を飛び回って、多くの人々に命の尊さを伝えています。生活習慣病という言葉は日野原氏が提案したものです。

まとめ 

ヨハネ13:34−35を読みます。

1、キリストは私たちを愛して下さる救主です。

2、キリストの愛を受けて、人のために祈り、キリストの弟子であることを表して行きましょう。

*さんび「君は愛されるために生まれた」を共にうたい、祈りを捧げます。

祈 り  

天地の主である神様、キリストの十字架の愛によって救われていることを感謝します。キリストが私たちを愛して下さった愛を受けて、私たちもお互いに祈り合い、愛し合って行く者であるように私たちを導いて下さい。病気の方々や困難の中にある方々に癒しと勝利を与えて下さい。今月も主に従う日々でありますように導いて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、米田、バークレー、榊原、LABN、ライル、文語略解。

「遺愛集・島秋人・東京美術」、「たった一度の人生だから・日野原重明、星野富弘・いのちのことば社」、「神の愛と教会の交わり・堀越暢治・いのちのことば社」、「よろこびの泉・2006年10月号・日本ミッション」

「信徒の友・2006年10月号・日キ教団」

個人的な報告・・・9月22日(金)正午すぎ、回転性めまいで関東脳外科に救急車で入院しました。症状はすぐに落ち着き、精密検査で異常なく、25日(月)夜に退院しました。主に感謝し、皆様のお祈りに感謝します。