イエスキリストは命の門である  ヨハネ10:1−10      主の2006.10.8礼拝

江戸時代、旅をするのは歩きで、東海道、中山道など通る道は決められていました。徳川幕府は治安維持のために、通行上の大事な所に関所を設け、通行人の出入りを取り締まっていました。例えば東海道・箱根の関所は、将軍のいる江戸を守るために、出入りする人を厳しく調べていました。関所を通るためには、身分を証明する交通手形、今で言えばパスポートが必要で、それがないと関所を通してもらえず、旅が出来ませんでした。そこで、パスポートの無い者は、箱根の関所を避けて、山の裏道を知っている者をお金で雇って、関所破りをしましたが、関所破りをした者は役人に追われ、捕らえられて厳罰になり、時には死罪になったと言われています。

本日はヨハネ10:1−10です。1−4節に羊飼いと羊の関係、7−10節にはイエスキリストは羊の門であると言われています。キリストご自身が、「わたしは門である」と宣言され、「わたしを通る者、すなわちイエスキリストを信じる者は救われる。そして豊かな命をいただける」と教えておられます。世の中には様々な宗教があり、教えがありますが、それらは私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、天国に連れて行く力がありません。昔の旅では街道を進み、関所でパスポートを示せば安心して目的地に向かって進んで行くことが出来ましたが、抜け道を使うと役人に追われ、旅が出来なくなってしまいました。イエスキリストだけを信じるという信仰のパスポートだけが天国の門を開く確かな保証です。信仰があればサタンは私たちに手出しが出来ません。何故ならイエスキリストだけが私たちの罪の身代りになって十字架で命を捧げ、三日後に死を打ち破って復活された救主だからです。イエスキリストだけが私たちを個人的に知り、豊かな命を与えて下さいました。イエスキリストだけが道であり、真理であり、命であるお方なのです(ヨハネ14:6)。今朝、キリストの御言葉に耳を傾け、心を恵まれ、祈って新しい一週間の旅路に踏み出して行きましょう。

内容区分

1、イエスキリストは、私たちの名前を呼んで下さる救主である。10:1−6

2、イエスキリストという命の門をくぐり、私たちは豊かな恵みを受ける。10:7−10

資料問題

1節「羊の囲い」、ふつう囲いは人の背丈ぐらいの石垣で出来ている。出入り口は一つで、羊の群れは通常囲いの中で夜をすごす。3節「羊の名を呼ぶ」、当時パレスチナでは食用ではなく、羊毛をとるために羊は何年も飼われていた。また当時パレスチナでは個人の所有する羊の数は多くなかったので、羊に名をつけて大事にしていた。キリストはこのことから、ご自分と信者との親しい関係を言い表している。8節「わたしよりも前に来た人」、キリスト以前の宗教上の指導者で、高ぶって神を第二義にしたような者たちを指しているようである。彼らは教えるだけで命を賭けて羊を守らない偽指導者である。9節「わたしは門である」、キリストのみが救いを与えて下さる⇒ヨハネ14:6を見よ。この門は罪を認め悔改めた者だけが潜れる門であるので、狭い門と言われている(マタイ7:13:14)。「出入りし」、のどかな日常生活を意味するヘブライ的表現(申28:6、詩篇121:8、使徒1:21)。

1、イエスキリストは、私たちの名前を呼んで下さる救主である。10:1−6

門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名を連れだす。・・・他の人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである。(3,5節)

旧約聖書では、神様が羊飼いに例えられ、民はその羊の群れとして描かれています。聖書朗読の詩篇95:7に「主はわれらの神であり、われらはその牧の羊、そのみ手の羊である」という信仰が告白されていました。聖歌495番4節(旧478)をもって「飼はるる我らは神をほめよ、み手の羊なり、神をほめよ!きょうこそ御前(みまえ)にて、神の御声を聞き、こころ打ち開き、神をほめよ!」とさんびを捧げました。このヨハネ10章では、羊飼いはイエスキリストであり、羊は私たち人間のことです。キリストがおられたユダヤは荒地が多く、農業に適さず、羊を飼って暮す人々が多かったのです。羊は食用ではなく、羊毛をとる目的で飼われていたので、羊と羊飼いとが何年も一緒に暮すということが普通で、羊飼いは飼っている羊に名前をつけ、一匹一匹を大切にしていました。ユダヤは狭い高地の道の両側が崖になっているので、羊がそこに落ち込むと行方不明になってしまいます。荒地には狼などの野生の動物がいて羊を狙っているし、また羊泥棒がいて、羊を盗もうと隙をうかがっているという危険が常にありました。羊飼いは、羊を緑の野原や泉に導き、彼らのお腹を満たし、充分に水を飲ませ、崖から落ちないように注意し、獣がくれば追い払い、常に羊が安全であるように注意し、守る者でした。羊は羊飼いについて行けば安全であることを知っているので、自分の名前を呼ぶ羊飼いの声を聞いて従って行きます。

ある旅行者が、羊の群れと一緒に歩いている羊飼いに頼んで、羊飼いの服を自分が着て、羊飼いは旅行者の背広を着た。旅行者は得意になって、羊の先頭に立って「レッツゴー」と言って導こうとしたのですが、羊は全く動かないままです。ところが背広を着た本物の羊飼いが呼ぶと、羊は一斉にそちらの方へついて行ったのです。羊は羊飼いの格好ではなく、自分を愛し、守り、草や水のある所に導き、獣を追い払ってくれる本物の羊飼いの声を聞き分けて、そちらのほうに従って行ったのです。

エリコの町の取税人ザアカイがいちじく桑の木の上で、葉っぱの茂みに身を隠してイエス様を眺めていた時に、突然イエス様が上を見上げて「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。彼は急いで降りて来て、イエス様を自分の家にお迎えし、罪を悔改めてイエス様を信じ、新しい生活に踏み出して行きました。立派な衣を着て、旧約聖書の戒めを教える学者はいましたが、ザアカイのことを罪人呼ばわりして冷たくあしらっていました。しかしイエス様は、ザアカイを批判せず、審かず、愛を込めて親しく彼の名前を呼び、彼の家に泊まりに行かれました。イエス様は「愛はすべての咎をおおう」(箴言10:12)ことを実践されたお方であることが分ります。恐らくエリコの町で、ザアカイの名前をまともに呼ぶ人はなく、「罪人」、「あの税金取り」とか、彼は背が低かったので「ちびスケ」とか呼ばれていたことと思われます。愛を込めて「ザアカイよ」と名前を呼んでくれたのはイエス様だけです(ルカ19:1−10)。聖書は「あなたを造られた主は今こう言われる、『恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」(イザヤ43:1)と告げています。

私事になりますが、中学生位の時に新約聖書をもらったのですが、最後のページにヨハネ3:16が記されていました。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この世、御子を信じる者という箇所に自分の名前を入れて読みなさいとありましたので、自分の名前を入れて読んでみると、神様に自分の名前を呼ばれている、神様に愛されていると感じ、神様を信じてみたいという気持になったことを思い出します。それが一つのきっかけになり、やがてイエス様を信じるように導かれたことを感謝しています。先週「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスキリストの御言葉を学びました。イエス様が私たちを親しく呼んで下さったように、人の名前を親しく呼んでお祈りして下さい。今週はファミリーです。聖書の恵みを分かち合い、お互いの名前を、愛を込めて呼び、祈り合って行くことを、さらに実践して下さい。水曜日の祈り会で倫夫先生を通して、讒言(ざんげん)ということを教えられました。讒言とは人を落としいれるために、ありもしないことを人に告げて、悪くいう事です。人の名前を出して、噂話、陰口、ゴシップを言う事は、死に価するということを学びました(ロマ1:29−31)。人の名前を出す時には「人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」という勧めを忘れないようにして下さい(エペソ4:29)。

2、イエスキリストという命の門をくぐり、私たちは豊かな恵みを受ける。10:7−10

わたしは門である。わたしをとおって入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。(9節)

イエスキリストは、わたしよりも前に来た者は盗人であり、強盗であると言っています。いろいろな宗教指導者が現れましたが、彼らは教えるが、残念ながら命を賭けて羊を守る愛の持ち主はいなかった。自分の身に危険が迫れば、羊を置き去りにして逃げてしまう。しかしイエス様は命を賭けて羊を守って下さるお方です(11−13節参照)。

イエス様は羊である私たちをどのように守るのか・・・イエス様は「わたしは羊の門である」(7節)と言われました。羊飼いは夕方になると、羊を村にある共同羊小屋に連れて帰ります。しかし、暖かい季節の間は、羊飼いはいちいち羊を村に連れて帰りません。夜になると羊を丘の中腹、牧羊地にあるオリの中へ入れます。オリといっても、ただ囲いがあるだけで、一箇所だけ羊が通れるように空いています。羊飼いは羊をその囲いの中に入れて、野の獣や、羊泥棒から守るのです。一箇所だけ羊が出入りする所には門がついていません。そこから、獣も泥棒も出入り自由ですし、羊が外へ迷い出るかも知れません。そこで、夜になると、その空いている所に、羊飼い自身が身を横たえて、自分が門となるのです。門である羊飼いを踏み越えて行かなければ、誰も中に入れません。また羊も外に出ようと思う時には、羊飼いを踏み越えて行かなければなりません。羊飼いは自分の体を張って、羊たちを守るのです。私たちのために、体を張って守ってくれる人がいるでしょうか。子どものために親は命がけで守ってくれるかもしれません。しかし人生には人間の力では守りきれない人生の敵が、たくさんあります。例えば病気や事故があります。先月末、私は突然のめまいで関東脳外科病院に入院しました。主の憐れみと皆様の熱い祈りで、4日間で退院できたことは感謝でした。私の隣にいた若い男性は、上は2歳、下は5か月という子どもがいるのですが、私が退院する日に、脳の手術を受けるために朝から食事制限をし、検査をして備えていました。一人の年配の男性は「早く退院したい」と言っていました。廊下を歩けば、手術のために髪の毛を切取られて頭に穴を開けて手術をした人が、手術後の傷を覆う包帯をしている人が多くいました。

しかし私たちの人生にとって、もっとも大変な敵は、罪の力と死の力です。先日ある大学教授が電車の中で女子高校生に痴漢行為をして逮捕されました。捕まった時には「私がしました」と認めていましたが、後から「酔っていたし、電車が揺れて接触したので無罪だ」と言っていると報じられていました。経済専門家として知られ、弁の立つ人ですが、罪に支配され、してはいけないことをしてしてしまい、今はそれを隠し、言い逃れをしようと必死になっています。これは罪に支配されている私たち人間の姿です。聖書は、罪の結果は死であり、神から切り離されて永遠の滅びである地獄に行くということを厳粛に告げています(ロマ6:23前半)。この惨めな罪人の私たちのために体を張って、羊の門となって、私たちを罪と死から救い出し、守って下さるのはイエスキリストです。イエスキリストは、罪の罰を受け、また罪の結果である死をご自分の身に引き受け、十字架にかかって下さった唯一の救主です。

「わたしを門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」(9節)と言われています。「出入りする(安らかに出入りする)」というのは、のどかな日常生活を表すユダヤ人の表現です。日常生活の出入りすべてが守られるということです。(詩篇121:8参照) さらに「命を得る、豊かに得る」ことが約束されています。私たちは門であるイエスキリストを信じなければ救われることはできません。日本には多くの神々があります。神々のお祭があり、お祭にともなう楽しみもあります。でも本当に大事なことは、私たちを罪の闇路から引き出す愛と力があるがどうかです。イエス様は「我に従え」と言われ、私たちを罪の闇から解放し、新しい命の力を私たちに下さいました。私たちが従うのはイエスキリストだけです。

キリストは門であるということに関連して、ダンテ(1265−1321)の『神曲』の地獄篇の言葉と最近のイジメ問題のことを思います。神曲・地獄の門に、『われに先立った被造物とは永遠のものだけで、われは永遠に立つ。ここに入る者、望みを捨てよ』と記されています。地獄は滅びの場ですから、地獄の門を潜る者は望みを捨てなければならないのです。その通りだと思います。しかし、もし私たちが、自分の言葉や行いによって、人に絶望の思いを与えたとしたら、私たち自身が地獄の門になってしまうのです。私たちは、どんな場合でも人に絶望を与えるようなことをしてはならないし、言ってはならないのです。北海道の小学生が教室で首を吊って自殺した事件がありました。遺書が残されていて、イジメによって自分は自殺するという内容であったそうです。ところが学校関係者、教育委員会は「イジメではない」という主張を繰り返していましたが、一転してイジメを認め、市長以下大勢の関係者が被害者の家に行き、謝罪しているニュースが報じられていました。まわりの仲間たちが言葉によってイジメなどを通して一人の命を死に追いやってしまった。それを阻止できず、責任を回避するために、イジメの事実を隠そうとした大人がいた。まるで、これは地獄の有様です。これは人事ではありません。私たちは自らを振り返って、決して人に絶望を与えるような言動をしないように、イエス様に祈って行かなければならないのです。私が友人として長く付き合っている友達がいます。長く付き合っていられるのは、人の悪口を言わないからです。人の消息を語ったりしますが、決してマイナスになるようなことを言わないのです。地獄の門ではなく、祝福の門となり、天国を指し示しているから、長い付き合いが安心して出来るのです。

イエス様は、「わたしを通って入る者は救われる」と言われています。私たちがイエス様を信じ、イエス様に従っているかどうかかが大切です。キリストを中心にして、キリストに従って行くことが真の教会の姿です。人間中心になったら、それは真の教会ではなく、また真のクリスチャンとは言えなくなります。イエス様に集中して下さい。キリストきちがいになって下さい。カトリックの方ですが、本をたくさん書いている著名な哲学者が「我々が従うのはキリストだけであることを忘れてはならない」と言っています(今道友信氏)。ヒエロニムス(340−419)という修道僧がいました。彼は聖書学者でしたが、聖書よりもギリシャ・ロマの古典文学・哲学が好きで、それを読んでいたが、ある日、天の神様の前に呼び出された。神様が「お前は何者であるか」と言うので「私はクリスチャンです」と答えた。すると神様が「お前は偽りを言っている」と言うので「いえ、私は正真生銘のクリスチャンです」と再び答えた。そうしたら天使が現れて、「お前は聖書を読まないで、ギリシャ・ロマのものばっかりを読んでいるではないか」と言って彼をムチで打った。そしてヒエロニムスが「私は神の言葉である聖書を読みます。他のものから離れます」と誓いを立てたところで目が覚めた。それ以来、彼は聖書一筋になって、聖書をラテン語に翻訳するという働きをします。

私たちは本当にクリスチャンですか・・・聖書を神様の言葉と信じていますか。キリストだけに集中していますか。キリストが私たちを愛してくれた愛をいただいて、人のために祈っていますか。悪口、噂話、ゴシップから常に離れていますか。人の徳を高める言葉を語っていますか。

私たちは本当にクリスチャンですか・・私は先日4日間入院しました。何もできず、日曜日の朝はベッドの上で礼拝の時間に合わせながら、聖書を読み、祈りました。その時に、やがて自分から、全てのものが取り去られる時が来る。その時に何が残るだろうかと考えました。残るものは信仰と希望と愛である(Tコリント13:13)。キリストに結びつく純粋な信仰である、イエス様を心に宿して行くことが大切であることを思いました。命の門であるイエスキリストを信じ、しっかりキリストにつながり、教会につながって行きましょう。

まとめ

1、3節、5節.キリストは私たちの名前を個人的に呼んで下さる愛の救主です。私たちも人の名前を愛をもって呼び、祈りましょう。そして祝福の言葉を語りかけましょう。

2、9節、キリストは体を張って、十字架にかかり、罪と死を滅ぼし、私たちを救って下さった救主です。キリストだけが命に至る門です。命の主であるキリストにしっかり?がって行きましょう。

祈 り  天地の主である神様、弱い羊のような私たちのために、まことの羊飼いであるイエス様を救主として、十字架と復活を通して救いの道を開いて下さったことを感謝します。キリストに固く結びついて信仰の道を歩ませて下さい。羊飼いであるイエス様の御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解――榊原、黒崎、フランシスコ会、羽鳥、バークレー。「ダンテ神曲・集英社」・