失われた者への愛―羊飼いイエスキリストと迷った羊― マタイ18:12−14 主の2006.10.15礼拝
車に発信機をつけ、その電波を通信衛星で受信し、車の現在地や行く先を教えてくれるカーナビシステムがあります。それを応用して、子どもに発信機を持たせ、携帯電話とつないで親が子どもの居場所を知ることができます。また動物の保護地域を決めるために、動物に発信機を埋め込んで行動範囲を調べることもあります。昔はそんな便利なものがなかったので、もし子どもが迷子になれば、皆で捜し歩いて見つけていました。私が小学校2年生の時に、遊園地で親を見失ってしまい、弟と2時間ぐらい出入り口の所で親が現れるのを待っていましたが、心細い限りでした。親の姿が見えた時には本当にホッとしました。今度は親になってからですが、30年前ですが、駒込の本部で聖会があり、帰ろうとした一瞬の間に、大勢の人々に紛れ込んで愛雄の姿が見えなくなり、聖会に来ていた牧師の方々が捜し回ってくれました。近くの商店街にいた愛雄を一人の牧師が見つけ、負ぶって連れて来てくれた姿を見て、ホッとし感謝したことを思い出します。
本日はマタイ18:12−14です。これはキリストの例え話で一番短いもので、道に迷った羊とそれを捜し求める羊飼いの話です。私は自分が迷子になった経験を通して、早く見つけてもらいたいという羊の気持が分ります。また子どもが迷子になった経験を通して、羊を早く見つけて保護したいという羊飼いの気持も理解できます。この例え話に出てくる迷い出た羊は私たち人間のことです。羊飼いはイエスキリストを指しています。羊飼いと迷った百匹目の羊の話を通して、羊飼いであるイエスキリストの愛の素晴らしさを教えていただくと同時に、私自身の心の中に、そして皆さんひとり一人の心の中にイエスキリストの愛が豊かに満たされることを祈り願っています。イエス様の愛を受けて、今週中に私たちの周りにいる淋しい人、病気の人、心の罪に苦しんでいる人の所に出かけて行き、あるいは電話で、メールで、イエスキリストの素晴らしい愛を伝えることを実践して行くように、「私をイエスキリストの愛の器として用いて下さい」と祈りましょう。
内容区分
1、羊飼いキリストは、迷い出た羊を愛をもって捜す救主である 18:12
2、羊飼いキリストは、迷い出た羊を捜し出して喜ぶ救主である 18:13−14
資料問題
12節「あなた方はどう思うか」、質問形式を用いて対話を進めて行く方法は、キリストが用いた効果的な教育手法(17: 25、21:28、22:17、42、26:66)。「百匹の羊」、一人の羊飼いが牧する羊の平均的な数。「迷い出た」、正しい道からそれる、誤った方向に向かうこと。「捜しに出かける」、道をかき分けながら必死になって捜し廻ること。13節「もし見つけたなら」、捜しに行って発見するという意味合い。14節「みこころ」、神が積極的に望まれていること。 本日の12−14節は10節「これらの小さい者のひとりをも軽んじないように気をつけなさい」との関連で理解できる。また「良き羊飼いであるキリストが迷える羊である私たちを捜し出す愛の物語」として理解できる内容である。羊飼いに関してはヨハネ福音書10:1−30を見よ。迷い出た羊についてはルカ15:1−7を見よ。
1、羊飼いキリストは、迷い出た羊を愛をもって捜す救主である 18:12
あなた方はどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(12節)
現在の政治は「多数決の原理」に従ってなされています。北朝鮮のように独裁者が支配している国でも、一応議会があって多数決の形をとるようにしています。人間の社会では、多数決の方法が一番進歩したものであると考えられているからです。しかし、多数決の原理では、数の多いほうが正しいことになり、数の少ないほうは間違っているとして少数者の意見、立場などが切り捨てられて行きます。本日の聖書では100匹のうち99匹の羊は安全である。1匹が迷子になって帰ってきていない。多数決でいえば99対1ですから、「残念だがやむを得ない」と言って、1匹は捨てられても仕方がないということになります。人間は少数の足手まといになる者を、どんどん切り捨てて行きます。政治の世界では少数野党の意見は顧みられず、教育では出来の悪い生徒は置き去りにされてしまいます。多数決の世界では、「多数決で決まったので、やむを得ない」という言い訳を言いながら、少数の者を捨てて行きます。しかしイエス様は人を捨てることはありません。ひとり一人を助け、守る愛の救主です。それを示すのが本日の聖書の内容です。
羊飼いは羊に一匹ずつ名前をつけ、一匹づつ名前を呼んで羊小屋から連れ出します。羊は自分の名前を呼んでくれる羊飼いの声を聴き、それに従って行きます(ヨハネ10:3)。このお話では、夕方、自分の家に連れ戻すために、羊飼いがいつものように名前を呼んだら羊が足りなかったのです。ふつうの感覚では、100匹のうちの1匹がいない。99匹は安全だ。もう日も暮れる、羊飼いも疲れている、明日になってから捜そうということでも良かったのです。しかし羊飼いは一匹一匹に名前をつけて呼んでいます。羊飼いにとっては、「一匹」足りなかったのではなく、自分が名前をつけた、「愛するあの羊」がいないのです。かけがえのない、「愛するあの羊」が帰って来ていないのです。そこで、羊飼いは99匹を他の羊飼いに見てもらって、もう暮れかかった野原へ羊を捜しに出かけて行きます。「愛するもの」は大切です。「愛するもの」に代用品はないのです。卑近な例ですが、私は以前1本の万年筆を愛用していました。大変書き具合が良かったのですが、いつの間にか紛失してしまい、残念に思ったことがあります。似たような万年筆はありますが、自分の愛用していたものの代わりにはなりませんでした。羊は、羊飼いが愛をもって呼べば、愛をもって答える存在です。いのちのない物ではなく、羊は命ある大切な存在です。ですから、羊飼いは、愛する自分の羊を見つけるために、夕暮れであっても捜しに出かけているのです。
羊飼いはイエスキリストです。羊は私たち人間です。羊は目がよく見えず、自分で草や水を見つけることができず、獣に襲われれば簡単にその餌食になってしまいます。そこで羊飼いが羊を草や水のある所に連れて行き、獣から守ってくれるのです。ところが羊は羊飼いの許を離れて迷子になっています。自分の力に頼って、おいしい草を求め、もっと先に、自分の欲望を満たし、自分の思い通りになる所があるに違いないと考えたからです。ふと気づいたら夕暮れになり、冷え込んできたが、仲間はいない、群れを導く羊飼いもいない、獣が出て来るかも知れないことを知り、たまらなく孤独を感じたに違いありません。
人間は創造主であるまことの神様から離れ、不信仰になっています。神様を信じない者の心にあるのは孤独と不安だけです。勝手に羊飼いの許を離れ、迷子になっている羊は切り捨てられても文句が言えないのです。だが、羊飼いは愛の故に羊を捜しに出かけています。神様に背き、不安と孤独の中にある人間を救うために、イエスキリストは神の独り子であることをやめて、天の栄光の位を捨てて人間となり、私たちを捜しだすために地上に-来て下さった救主です。
ひとりの若者が大学入学を契機に下宿することになった。彼の家はクリスチャンホームであったが、彼は教会に行くことに反発を感じていた。それは同年代の仲間が日曜日には遊びに行っている、だが自分は礼拝に出なければならない、ああ自分も自由に好きなことをして遊びたい。信仰は心の中で信じていればいいのでないかと勝手に考えていた。だから下宿が決まった時に、これで自由だと思った。ところが、いざ日曜日になった時に、大学のサークルに行き、遊びに出かけたが、思ったほど面白くない。面白くないどころか何をしても虚しい気持になる。そんなことが続いて、礼拝のことを思い出した。礼拝に行くのは、何か拘束されているような気がしていた。しかし、さんびで恵まれ、御言葉によって生きる指針が与えられ、祈りによって生きる力を受け、真実の交わりがあった。礼拝こそ本当の自由を得るところだったのだ。羊飼いであるイエス様のおられる教会から離れたら、何も心を満たすものがないということに気づいた。そんな時に下宿先でクリスチャンに出会い、彼は「イエス様がクリスチャンと出会わせて下さったのだ。それはイエス様が自分のことを捜し出している印だ」と信じ、イエス様の教会に戻り、信仰生活に復帰したのです。
イエス様は、迷い出た羊をあらゆる方法を通して捜し出して下さる愛の救主です。私たちもイエス様によって救いを受け、教会の中に加えられていることを感謝しましょう。
2、羊飼いキリストは、迷い出た羊を捜し出して喜ぶ救主である 18:13−14
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらのもっとも小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではない。(13−14節)
羊飼いは、何キロも羊の足跡を辿り、危険を冒して急な坂道や崖っぷちに行き、羊を捜し出します。それだけの苦労をして捜し出すので、見つかった時には大喜びです。留守番をしている他の羊飼い達は、捜しに行った羊飼いが戻って来るのをずっと待っています。疲れ果てた羊を肩に担いで、羊飼いが無事に山道を急いで帰ってくる姿が見えると、皆で歓声をあげて出迎えます。
羊飼いはイエス様です。私たちは羊であり、正しくは迷い出た羊です。「私は迷うなんていうドジなことをしません。私は99匹の中にいました」と言える人は誰もいません。私たちはイザヤが言っているように、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向って行った」愚かな者でした(イザヤ53:6)。勝手に愛の神様の御許を離れ、サタンの導く罪の道をたどり、一直線に滅びに向かっていた者でした。滅びに向かい、地獄に堕ちて行く私たちのために、十字架に上って私たちの罪の身代りになり、罪を滅ぼして下さったのはイエス様です。何故なら、「罪の支払う報酬は死」です(ロマ6:23後半)。そこでイエス様は罪の闇路をさ迷い、地獄に堕ちて行く私たちのために、体を張って十字架の上に命を捧げ、救いを与えて下った真の良い羊飼いなのです(ヨハネ10:11)。
*イエス様の愛について考えてみましょう。
第一に、イエス様の愛は個人的な愛です。
羊飼いは100匹ほどの羊の面倒を見て、全部を名前で呼んでいます。だが、その日に限って名前を呼んでも返事がない羊が1匹いたのです。99匹は安全である、だが返事のない1匹は山で迷っているに違いない。その1匹を捜し出して、100匹全部が揃わなければ、羊飼いは気が安まることがありません。私は兄弟7人で育ちましたが、親にとっては子どもが何人いてもひとり一人がみな大切で、平等に叱られ、褒められたりしたことを思い出します。しかし親の愛は我が子だけという限定付きです。だが、キリストの愛は民族、男女の性別を超えて、全ての人に及ぶ愛です。
第二に、イエス様の愛は忍耐強い愛です。
本当は羊が自分勝手な方向に迷って行ったので、羊が悪いのです。しかし羊飼いは羊を責めずに、その救いのために全力を傾注しています。彼は暗くなりかけた山道を一歩一歩踏みしめながら、忍耐強く羊を捜し歩いています。あちこちを注意深く見回しながら、そして羊の助けを求める鳴き声を聞き漏らすまいとして、耳を澄ましながら捜し歩いています。
本題から外れるかも知れませんが、耳を澄ますということから、相手の話を聴くことを忘れないように、ということをお勧めします。最近、地域社会でも企業でも聴くこのとの大切さが説かれ、聴く事の講習会が行われています。
話を聴くということですが、訊く、聞くではなく、話を聴くとは傾聴することです。
聴くことの重要性
*訊くというのは、相手を追及するように訊くことです。(刑事が訊問するように訊くことです)
*聞くというのは、ただ普通に話を聞くことです。(一般的な聞きかたです)
*聴くとは傾聴のことです。愛とは相手の話を傾聴することです(Love is listening.)
相手の感情を汲み取りながら聴く
相手の話を途中で遮らない
相手の話を批判したり、反論しない
相槌を打ちながら、ありのままを聴く
アドバイスや指示はしない
最後に祈れたら祈る
相手の話を一生懸命に聴いて下さい。臨終に駆けつけた牧師が、長男に尋ねた。「お父さんの最期の言葉はなんでしたか?」、「はい先生、父は何か言いたそうに何度も口をあけていたのですが、とうとう何も言えないまま、逝ってしまいました」。「どうしてお父さんは一言も言えなかったのでしょうか?」、「実は、母が最期までしゃべりまくっていましたから」。(「世界傑作ジョーク250」より)。そんなことにならないように聴く事を常日頃から心がけて下さい。私たちはイエス様に充分に聴いてもらっています。イエス様は、耳を傾けて私たちの訴えを聴いて下さいます。祈りを通して、私たちの心は整えられ、また感情が平らかになります。ですから私たちは人の話を聴く事ができるのです。
第三に、イエス様の愛は心から心へ伝えられる愛です。
「愛は他人にこれを伝達しなければ、消えてしまう火である。あなたの心が喜びをもって燃えていたなら、あなたに近寄ってくるすべての者にその火を伝達しなければならない。もし、そうしないなら、あなたは石のようになり、煙で黒くなり、ただ冷たくなるであろう」(「イエスの生涯」・パピニ著)。イギリスの教会で、イエス様を愛する愛をもって捧げましょうという訴えがあり、人々は回ってきたお盆の上に献金を捧げた。リビングストン(1813−1873)は、お盆を床の上に置き、彼自身がお盆の上に立って、イエス様に献身するという決意を表した。彼は学力優秀でしたが、説教の時に顔が赤くなり、言葉がうまく出なくなるので、なかなか宣教師試験に合格できなかった。しかし彼は宣教師になる決意を変えずに、誰も志願しないアフリカ大陸に行く事を決意します。当時アフリカはまだ暗黒大陸と言われ、白人が大勢の現地人を武力で脅し、奴隷として捕らえて行った時代です。その困難なアフリカ大陸に、彼は宣教使として入り、イエス様の救いを伝え、同時にアフリカの実状を世界に知らせる働きをしたのです。そして、最後は草のベッドからずりおちたて祈ったままの姿で、60歳で天国へ召されて行きます。彼の遺体はイギリスに運ばれ、王族の墓所であるウエストミンスター寺院に葬られています。彼がイエス様の愛をもってアフリカに仕えたことはムダにならずに、多くの後継者が起こされ、福音が伝えられ、奴隷が廃止され、アフリカは発展しています。イエス様の愛を伝えた時に、彼の心は燃え、その愛は心から心に伝わって行ったのです。
まとめ マタイ18:12−14を読みます。
1、羊飼いはイエスキリストです。キリストは迷い出た羊である私たちを、愛をもって命がけで捜しだし、救いの中に入れて下さいました。
2、羊飼いであるイエスキリストは私たちを捜し出して喜んで下さる救主です。個人的に名前を呼んで私たちを捜して下さいました。忍耐をもって、耳を澄まして私たちの叫び声を聴いて、助けの手を伸ばして下さいました。私たちも人の話をよく聴きましょう。イエス様から受けた愛を他の人に伝えて行きましょう。今週、誰かに手紙で、電話で、メールで、相手を訪ねて行くという様々な方法でイエス様の愛を伝えて行きましょう。
祈 り 天地の主である神様、独り子であるイエスキリストを羊飼いとして遣わし、迷っていた愚かな羊である私たちを救いに入れていただき、感謝いたします。何があっても羊飼いであるイエス様から離れることなく、イエス様にどこまでもついて行きます。イエス様から受けた愛を伝えるために、心に悩みを抱えている人、病気の人の所へ私たちを遣わして下さい。来週のケイラー先生集会のために毎日5分以上祈って備えて行きます。聖霊に導かれ、イエス様の恵みに溢れる素晴らしい集会になることを信じます。羊飼いであるイエス様のお名前によって祈ります、アーメン。
参考文献マタイ注解―中澤、バークレー、フランシスコ会、黒崎、LABN、米田、M・ヘンリー。 「信仰偉人群像・近世篇・ヨルダン社」、「若き魂への福音・曾根暁彦・日キ教団」、「心と心の伝道・豊留真澄・いのちのことば社」