イエス・キリストは揺るがぬ平安の源である ルカ福音書24:36−49      主の2006.10.29 

マシュー・ヘンリー(1662−1714。イギリスの聖書注解者)は言っています。「キリストは、ご自分の霊は天の父に委ねた。十字架で死ぬが、その体はアリマタヤのヨセフに委ね、彼の墓に葬ってもらう。衣服はロマ兵に与える。母マリアは弟子ヨハネに託す」と。では、一切を捨ててキリストに従って来た弟子達には、何を残されたのか。「金銀はキリストの所有するところではなかった。キリストは目に見えないが、しかし最も尊いもの、すなわちキリストの平安を弟子達に残されたのである」。

本日はルカ福音書24:36−49です。復活されたキリストが弟子達に現れ、「安かれ!平安あれ!Peace to you!」(36節、新改訳は欄外)と声をかけています。現代は「万物の終りが近づいている」終末の時代です(Tペテロ4:7)。終末の特徴は神様という絶対的なものはない、全てが揺れ動いているという不信仰な考えが蔓延していることです。不信仰は人の心に不安をもたらします。その不安に付け込んで、「私が救主である」と名乗る偽キリストが現れています。ある者は宗教の衣をかぶり、ある者は政治の権力者として、ある者は金の力で世を支配する者として表れています。偽キリストの所に行っても救いはなく、もちろん平安を得ることができません。不安の原因である不信仰は創造主である神様に背く罪です。罪の結果は死であり、滅びです。罪を除くために、キリストは十字架で罪の身代わりになり、死にました。死にましたが、永遠の命を与えるためにキリストは復活して、永遠に生きておられます。本日午後、やすらぎの里で召天者記念会を行いますが、クリスチャンは「我らの国籍は天にある」(ピリピ3:20)ことを信じ、永遠の命の希望をもって天国に向かって進んで行く者です。救主イエスキリストによる罪の赦し、永遠の命こそが、私どもの平安の源です。

キリストは「平安あれ!」と言われます。・・・あなたは平安ですか。日々キリストを讃美していますか。感謝していますか。喜んでいますか。問題はある、だがキリストが共にいて下さるから大丈夫と信じていますか。病気である、だがキリストの助けと癒しを信じていますか。仕事、就職、経済などで先行き不安になる時がある、だがキリストが万事を益として下さることを信じていますか・・・。

今朝、揺るがぬ平安を与えて下さる主イエスキリストのメッセージに耳を傾け、今週の日々が平安の連続であるように、共に祈って、新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。

内容区分

1、キリストは言われる、「平安あれ!」。 24:36−43

2、キリストは言われる、「十字架に救いがある」。 24:44−47(前半)

3、キリストは言われる、「救いはエルサレムから全世界に広まって行く」。 24:47(後半)―48

資料問題

36節「イエスが彼らの中にお立ちになった」、これはエマオ途上にある二人の弟子への出現(13−32節)、ペテロへの出現(34節)の後である。これには多くの弟子達が立ち会っているので、復活の事実を証明する最も重要な出現である。ヨハネ20: 19−25、マルコ16:14参照。38節「わたしの手や足を見なさい」、主の十字架上の釘跡を見て、弟子達はキリストであることを認めたに違いない。44節「律法と預言書と詩篇」、全旧約聖書を指す。45節「彼らの心を開いて」、25−32節を参照せよ。47節「エルサレムから・・・もろもろの国民に宣べ伝えられる」、46−47節は福音の中核であり、福音はエルサレムを出発点として全世界に伝道される。48節「証人」、キリストの十字架と復活を人々に伝える使命をもつ者。マタイ28:18−20、マルコ16:15−16を見よ。49節「父から約束されたもの」、聖霊を遣わす約束(ヨハネ15:26、使徒1:4−5)。キリスト昇天10日後ペンテコステの日に聖霊は降臨された。「都にとどまる」、ルカはガリラヤでのキリスト出現を省略している(マタイ28:16−20、ヨハネ21:1−14)。

1、キリストは言われる、「平安あれ!」。24:36−43

こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。そして「やすかれ」と言われた。(36節)

「平安あれ!」・・・弟子達はイエスキリストが逮捕された時に逃げ出しています。キリストが十字架に架った時にヨハネ以外の直弟子は誰もいませんでした。女の弟子達がキリストの死に立ち会い、葬られた場所を見届けました。女の弟子達は安息日が終わった時に墓参りに行き、一番初めにキリストの復活を知ることができました。逃げ出した男の弟子達は気を取り直して集って来ましたが、彼らは愛する師を失って失望し、また自分達も逮捕されるかも知れないという怖れを抱いていました。女の弟子達が「墓が空っぽです、イエス様は甦ったのです」と告げても、彼らは暗い部屋に座り込んだままでした。そこへ甦った主が現れて、「平安があなた方にあるように!」と呼びかけています。裏切った不甲斐ない弟子達に対し、驚くべきことに譴責の言葉は語られていません。鋭い叱責の言葉もありません。キリストは静かに弟子達の真ん中にお立ちになり、穏やかに「平安あれ!」と呼びかけておられます。弟子達ひとり一人に見つめながら、「あなた方ひとり一人に平安があるように!」と語りかけています。

「平安あれ!」・・・キリストの愛は、人間の理解を越える、大きな豊かなものです。キリストの愛は人間のあらゆる罪、背き、裏切りを赦すものです。私ども罪人が、「罪を赦して下さい」と願う以上に、キリストは罪人を赦したいという愛に満ちたお方です。キリストは「わたしが好むのは憐れみである」と言われ(マタイ9:13)、それを実践なされたお方です。十字架の上で、死に行く罪人が、悔改めて「イエス様、私のことを忘れないで思い出して下さい」と願った時に、キリストは即座に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスに行く」と言われ、彼の罪を赦し、救いと共に永遠の命を与えて下さいました(ルカ23:40−43)。

「平安あれ!」・・・キリストの愛は、人を包む温かいものです。キリストは「わたしは憤らない(怒らない)」と言われます(イザヤ27:4)。キリストは常に人を立ちあがらせよう、回復しようと願っておられます。ですから、私どもがキリストに愛され、平安を与えられているクリスチャンであるならば、周りの兄弟姉妹に対して常に赦しの心をもっていなければならない、ということを教えられます。使徒パウロは、自分は罪人の頭であったが、キリストの憐れみによって救われ、平安を与えられた者であることを感謝し、「互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、赦し合いなさい。主もあなた方を赦して下さったのだから、そのようにあなた方も赦し合いなさい」(コロサイ3:13)と述べています。

明治時代、新島襄(1843−90)は京都に同志社大学を設立しました。学生が問題を起こした時に、彼は全学生を講堂に召集しました。「諸君、問題の原因は校長の私にある。だから罰せらるべき者はこの私である」。彼はそう言って、右手に持っていた杖で、自分の左の手首を激しく叩いた。何回も叩くので、皮が裂け、血が流れ出した。学生達が「先生、やめて下さい」と叫びだし、問題を起こした生徒が「先生、すみません」と名乗り出たのです。その話を小学校学校時代に読んで感動し、ずっと覚えていたのですが、私がクリスチャンになってから、新島譲がクリスチャンであることを知りました。そして彼が人を審かずに己を罰したのは、キリストの愛と赦しを受け、平安を心にもっていたからであることを知りました。私どももキリストの平安を求めて祈って下さい。

2、キリストは言われる、「十字架に救いがある」。24:44−47(前半)

そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦る、そして、その名によって罪の赦しを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。(45−47節)

甦ったキリストは「聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた」とあります(45節)。これは聖書の本当の意味を弟子達に教えて下さったということです。この場合は旧約聖書ですが、特にキリストについての預言の成就について詳しく教え、弟子達にその意味を悟らせたのです。聖書を読む時に、私たちの心の目が明らかになり、心の耳が開かれ、キリストの恵みを知るように読む事が大切です。そのために「聖霊よ。私に聖書を悟る知恵を与えて下さい」と祈ることが大切です。私は説教を準備する時に、聖書の注解書を読み、様々な参考書などに目を通します。しかし、最終的には、すべての注解書、参考書から離れて聖書に帰り、聖書の御言葉が示す意味はなんであろうかと祈り、考えます。使徒パウロは「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2;4)と言っています。聖書の教えの中心はキリストです。キリストの恵みをたくさん語ることが祝福をもたらします。そう信じてメッセージを備えて行きます。

聖書の教えは「うれしい喜びのニュース、GOOD NEWS」です。46−47節は福音の中核といわれている内容ですが、「罪の赦しを得させる悔改め」とあります(47節)。これこそが福音の中心的内容です。悔改めと罪の赦しこそ、全ての人に伝えなければならない最も緊急な事柄です。

*46−47節の内容は次のとおりです。

1、すべての人は、悔改める必要があります。

2、それは、すべての人は、生まれつき罪の性質を受け継ぎ、神様を信じないまま、滅びに向っている罪人だからです。

3、罪の支払う報酬は死です。死んだ先は地獄です。

4、キリストは、私たちの罪の身代りになって、十字架の上で死んで下さいました。十字架の死後、三日目に甦って、罪の罰である死を滅ぼして下さいました。

5、自分の罪を認め、罪を悔改めて、キリストを心に迎えれば、誰でも神の子になれます。

良い教会に所属し、良いメッセージを聴き、教会の礼典(洗礼と聖餐式。本日は聖餐式を行います)にあずかることは大きな特権です。しかし、その前に最も大事なことがあります。それは次の二つの質問です。

*あなたは罪を悔改め、イエスキリストを自分の個人的な救主、主として信じていますか。

*あなたはイエスキリストを信じ、神様に義と認められ、神の子になっていますか。

この二つの質問のポイントは「イエスキリストを信じていますか」ということです。もしキリストを信じていないならば、私たちは神様の御前で霊的に死んでいます。もちろん私たちはキリストを信じ、救われている者であることを感謝します。

この二つの質問を、いつも自分の心に思い続けているクリスチャンは幸いな者であり、イエス様から祝福を受けます。悔改めと罪の赦しは、けっして初歩的な教えではありません。悔改めと罪の赦しは信仰の初心者の事だと考えるのは誤りです。クリスチャン信仰の成長は、悔改めと罪の赦しについて、絶えず自分の心の中に問いかけることによって得られます。私事ですが、イエス様を信じて50年ぐらい経ちます。「罪人であったのに、悔改めてキリストの十字架によって罪を赦された。今まで信仰を守られてきた、これからも守っていただける。目指す所は天国だ。イエス様の十字架に感謝します!」という讃美が心から溢れ出てくるのを抑えきれなくなります。

使徒パウロは、「『キリストイエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしはその罪人のかしらなのである」と言っています(Tテモテ1:14)。これはパウロが信仰をもって40年ちかく経った時に述べた言葉です。彼は世界各地に出かけ、多くの人に伝道し、新約聖書中に13通の手紙を残すほどの信仰的に偉大な人物です。実は、パウロはキリストに敵対していた者でしたが、キリストは一方的な愛をもってパウロを救って下さった。パウロは「悔改めと罪の赦しによって、私は救われ、神の子になった。こんな罪人のかしらのような者をイエス様は救って下さった。イエス様の十字架の愛によって救われていることを感謝します」と告白しているのです。

この二つの質問を忘れぬようにして、イエスキリストによる救いの恵みに感謝し続けて行きましょう。救いの恵みに感謝して、聖歌476番(旧463)「われ贖われて」を歌いましょう。

3、キリストは言われる、「救いはエルサレムから全世界に広まって行く」。24:47(後半)−49

そして、その名によって罪の赦しを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなた方は、これらの事の証人である」。(47−48節)

最後に「エルサレムから伝道がはじまる」ということに注目いたしましょう。エルサレムはユダヤの中心地です。そこに多くの預言者が送り込まれましたが、エルサレムの人々は預言者を迫害し、時には殺してしまいました。最後には神の独り子であるイエスキリストを十字架にかけてしまうほどに罪深い人々が多い町、それがエルサレムです。キリストは、その最も不信仰な所から伝道をせよと命じているのです。私たちは福音を伝え易い所から伝道したいと思います。しかしイエス様の考えは違います。この教会出身の由香先生は、日本の神々が集るといわれる出雲大社のある松江でご主人と共に伝道しています。私たちの娘・敦子は御柱の祭で知られる諏訪大社のある諏訪で主人と共に伝道しています。そんな所では救われる者がいないのではないかと思われるような土地ですが、しかし救われる者が起こされています。なぜなら偶像には救いがなく、イエス様の十字架に救いがあり、力があり、癒しがあるからです。

この熊谷福音キリスト教会はひとりの信徒もいない時に、アメリカから来たクラー宣教師が幾多の困難を乗り越えながら、真っ直ぐにイエス様の十字架の救いを伝道してくれました。それが引き継がれ、イエス様の十字架の救いを信じる多くの方々が集うようになっています。ここで改めてお願いしたいことは、松江(生武嗣幸・由香師)、諏訪(山本憲治・敦子師)、深谷(井桁久志師)、徳島(井桁正巳・幸枝師)の地に十字架の恵みが浸透して行くように、多くの方々が救われて行くようにお祈りの継続をお願いします。

「エルサレムから始めよ」・・・罪人の満ちている所、人間の目には困難と思われる所、だが、その困難な地にこそキリストの愛が注がれます。「あんな人は救われない」というのはサタンの考えで、イエス様は全ての人のために死なれた救主であり、その救いは全ての人に及びます。昨日は上野公園ホームレス伝道の日でした。人生に絶望して路上生活をしている人々が大勢います。「彼らはやり直す気がない、福音を伝えても馬の耳に念仏だ、給食をもらうのが目的だ、無駄な働きだ」とホームレス伝道を批判する人がいます。でもイエス様はなんと言っているか・・・「迷っている一匹の羊がいれば、羊飼いは損得を考えずに、直ちに捜しに行く。それは羊を愛しているからだ。私イエスキリストは失われた者を尋ね出して救うためにきたのだ」・・・。比留間夫妻は全てを投げ打ってホームレス伝道に献身しています。上野で信仰決心した人々を、自分達の牧会しているトポス教会に導き彼らの信仰を養い、社会復帰する人々が起こされています。これからも毎月一回、熊谷の教会はホームレス伝道に協力して行きますのでお祈り下さい。

まとめ

1、36節、イエスキリストは平安の主です。あなたは平安ですか。

2、44−47節、十字架に救いがあります。イエスキリストを信じて救われ、神の子にされていることを感謝しましょう。

3、47−48節、救いは最も困難と思われる所から伝えられて行きます。イエス様の十字架に力があります。イエス様の救いを伝えましょう。名前をあげた教会のために祝福を祈って下さい。

祈 り 天地の主である神様、イエスキリストによって救われ、平安を得ていることを感謝します。十字架に救いの力があることを信じます。イエス様の十字架は私自身のためであったことを感謝し、聖餐に与ることができるように導いて下さい。午後の召天者記念会を守って下さい。揺るがない平安の源であり、生きておられる救主イエス・キリストの御名によってお祈りを捧げます、アーメン。

参考文献ルカ注解―黒崎、フランシスコ会、LABN、文語略解、J・C・Ryle。 「福音の核心・大黒洋三訳」