イエス・キリストは望みの源である ロマ15:13        主の2006.11.12礼拝

1914年発明王と言われたトーマス・エジソンの工場が火事で焼け落ちてしまいました。損害は200万ドルであったが、火災保険に入っていたのは八分の一の24万ドルでした。何故なら、その頃はコンクリートの建物は火災になるとは考えられていなかったからです。この大きな試練に直面した時エジソンは67歳でしたが、こう言っています。「災難というものはいいものだ。失敗も全部燃えてしまったのだから、まったく新しくやり直せる」と。そして、火災から3週間後に新しい工場で世界初のレコード(蓄音機)が発明されました。聖書をよく読んでいたエジソンは、逆境の中で感謝し、前向きに物事を捉え、希望をもって前進することが出来たのです。

本日の聖書はロマ15:13です。短い言葉ですが、ロマ書を記したパウロの祈りが込められ、希望を与えてくれる内容です。口語訳、新改訳では「どうか望みの神が・・」と訳され、新共同訳聖書では「希望の源である神が・・」と訳されています。この13節に2回「望み(希望)」という言葉が記されています。エジソンは人生の晩年になって工場消失という大きな事故に見舞われましたが、その試練に負けることなく、新しい希望をもって前進して行きました。きょうの御言葉は、山あり谷あり、陽の当たる時があり陽の差し込まない時がある人生の現実を生きる私たちに対し、「どんな時でも望みを与えて下さる神であるイエスキリストがおられる。イエス・キリストは希望の源である」ということを告げています。明治の初め、札幌農学校教頭クラーク博士(1826−96)は「少年よ、キリストにあって太志をいだけ」という言葉を残しています。主のメッセージによって心を恵まれ、希望にあふれた日々を前進して行くように、祈って新しい一週間の旅路のスタートを切って参りましょう。

内容区分

1、イエス・キリストは望みの神であり、信仰により喜びと平安とを与えて下さる。15:13前半

2、イエス・キリストを信じる者の人生は望みにあふれ、満たされる。15:13後半

資料問題

ロマ書は使徒パウロが紀元58年にギリシャ・コリントから当時の世界の都ロマにある教会へ書き送った手紙である。彼はロマ教会を経由して当時の世界の果であるイスパニア伝道のヴィジョンを持っていた。彼はロマ教会の設立に関わっていなかったので、自分自身の紹介と共に彼が信じているキリストの福音の内容を組織立てて詳しく論述している。それ故に、この書を読むことによって福音の本質を理解することができ、また信仰の確信を得ることができるのである。 「望みの神(希望の神)」、異邦人は本来「この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)であったが、「望みの神(希望の神)」を信じるように導かれたのは偉大なる変化であった。パウロの祈りは、クリスチャンが信仰によって「喜びと平安」を得るようにということである。その上に「溢れる望み(希望が豊かであるように)を持つように」ということを願っている。

1、イエス・キリストは望みの神であり、信仰により喜びと平安とを与えて下さる。

「どうか、望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし・・・」(15:13前半)

ロマ書を記したパウロはユダヤ人でした。アバラハムを先祖とするユダヤ人は、神様の選びの民として、預言者を通して神様の言葉を聴き、それを旧約聖書にまとめて保持していました。救主イエス・キリストは、2006年前にユダヤ人として生まれ、旧約聖書が示すとおりに、私たちの罪のために十字架上で罪の身代りになって死に、遺体は布で巻かれ、岩をくり抜いた墓に安置されました。旧約書が示すとおりに、イエスキリストは3日目に死を打ち破って復活し、永遠に生きておられます(Tコリ15:1−11)。イエスキリストの十字架と復活による救いはユダヤ人という民族の枠を越えて、全人類に与えられた救いです。本来はユダヤ人以外の人々は(聖書では異邦人という)、「この世の中で希望もなく神のない者」(エペソ2:12)であったのです。しかしイエス・キリストは「わたしは多くの人(すべての人という意味)の贖いのために、自分の命を与える」(マルコ10:45)と言われ、全ての人のために十字架にかかって罪の身代りになって命を捧げて下さった救主です。誰でもキリストを信じれば救いを受け、神の子になれます。この礼拝にも、日本、アメリカ、トリニダード・トバゴ、タイ、フィリッピン、韓国、中国、ミャンマーなどの方々がいます。このことは、「キリストを受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、キリストは神の子となる力(特権)を与えたのである」(ヨハネ1:12)という御言葉が真実であることの証明です。

キリストを信じて与えられる希望の中身は一体何でしょうか。

第一に、罪の赦しと罪からの解放です。

人は神様に背く罪人になり、罪の奴隷になっています。罪の奴隷とは、「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ロマ7:18−19)という状態です。私の知っているM牧師は、病の時にキリストに出会い、救われ、職場に復帰し、熱心に教会に通うようになった。M師は自分の体はイエス様が住んでおられる聖霊の宮であるから、体の害になる事はやめよう、と決心してタバコをやめることにした。自分の健康のために、そしてイエス様のために、M師はタバコを捨てた。ところが通勤途上の電車の中で無性にタバコが吸いたくなったが我慢した。仕事場では皆が吸っているが、我慢した。しかし、遂に吸いたくなって、人の捨てたタバコの吸殻を拾って吸った。そんなことを繰り返しているうちに、「自分の力ではダメだ。イエス様、助けて下さい」と祈って、完全にやめることができた。罪の力から解放されたのです。M師は病弱であったが、罪の力から解放されて元気になり、牧師になり、80歳近くですが、恵みの日々をおくっています。

第二に、心に喜びと平安を与えられます。

クリスチャンの特徴は喜びと平安です。皆さん、きょう、今、この時に喜んでいますか・・・。聖書は「主にあって、いつも喜びなさい」(ピリピ4:4)と言っています。私は先週、風邪を引き、声が出ず、じっとしている日々でした。喜べる状況ではなかったのですが、感謝を数えてみました。家内と家族の支えがある、皆さんに祈られている、食事ができる、じっとしている時を利用して本が読める、早天祈祷会を皆さんが守っている、水曜日の集会はチャチャ、倫夫伝道師によって御言葉のご用がなされたなど感謝がたくさんあり、それによって喜びが与えられました。感謝によって喜びが与えられ、それによって何があっても平安であるという祝福を与えられ、風邪も幸いに変わりました。

第三に、キリスト中心の信仰によって、実生活において祝福されます。

罪からの解放が与えられる、心に喜びと平安とを与えられる、そして生きる実際上の祝福を与えられます。

Nさん(永田さん)は1963年結婚を機に、クリスチャンの妻に導かれ、教会生活を始めた。郵便局員で、勤務が交代制であったので、礼拝は月1−2回の出席でした。1985年別の郵便局に転勤をした翌年に、奥さんがクモ膜下出血で天に召され、大きなショックを受けた。やがて管理職になれたので、これで日曜日休めると思ったら、かえって仕事が増え、特に年末年始は超多忙で、クリスマスにも出席できない有様であった。妻の信仰に少しでも近づきたい、礼拝に出席したい。郵便局の定年は60歳ですが、このままでは神様を見失ってしまう。そこで定年5年前に55歳で退職した。無収入になったのですが、幸いにも奥さんの遺族年金を2年間受け取ることができた。退職した翌年から、自分の教会が属している教区の会計を10年間担当した。退職して13年余りが経ちますが、退職後一日も休まずに礼拝、祈祷会に出席し、感謝の日々を送っている。Nさんは自分の選んだ道が間違いなくイエスキリストに通じる道であったことを、喜び、感謝しています。

イエス・キリストは望みの神、希望の源です。キリストを第一にして行く時に、人生は祝福されます。学びの方向を決める時、仕事を選ぶ時、常にキリスト中心、教会中心にして行くならば、希望の源であるイエスキリストが万事を益となるように支え導いて下さいます。

2、イエス・キリストを信じる者の人生は望みにあふれる

「・・・聖霊の力によって、あなた方を、望みにあふれさせて下さるように」。(15:13後半)

「望み(希望)」という言葉が、この中に2回記されています。「どうか望みの神が・・・(希望の源である神が)」とありますが、希望は神様から、上から来るものです。信仰の父と言われるアブラハムは月の神を礼拝する異教の地にあって、「あなたは国を出て、親族に別れを告げ、わたしが示す地に行きなさい」という上から語りかける主なる神様の声を聴いて、新しい土地へと出発しました(創世記12:1−4)。祝福は常に天からやってきます。パウロは「聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように」と祈っています。聖霊は神の御許から来られました。聖霊は私たちを助ける助け主であり(ヨハネ14:16)、聖霊は私たちに祈る力を与えて下さいます(ロマ8:26−27)。人間は無力です。聖霊により頼んで行かないと、私たちは信じることもできず、何の希望も持てない愚かな者になってしまいます。

ある教会で緊急総会が開かれました。総会は議長の祈りではじまった。議長は祈りの時に誰もが用いるような言葉で、「永遠にして全能なる神よ。その恵みをもって全てのものを満たして下さる神よ」と立派な祈りを捧げた。祈りが終わって総会がはじめられた。たった今、祈りを捧げたその議長は、「皆さん、この教会はまったく絶望的で、どうにもなりません」と語り出した。彼は「全能の神、全てを満たして下さる神」と祈ったのに、その祈りは空虚な祈りであって、聖霊に導かれた祈りではなく、全く神様を信じる気持はなく、最初から絶望していたのです。祈りの時に人間の知識、力、経験だけに頼り、祈りを与えて下さる聖霊に頼らないと希望を持つことができなくなってしまうのです。ですからパウロは「聖霊の力によって」ということを言っているのです。

毎日「主の祈り」を捧げると思いますが、ともすれば主の祈りを祈ることがお経のようにただ唱えるだけにならないように、真剣に祈ることが大切です。塚本虎二という伝道者が主の祈りの中で「我らの日用の糧をきょうも与えたまえ」という個所で考えた。母のない幼い二人の子供を育てなければならない。子供の将来のことを考えると、あれこれお金もかかる。だが「きょうも与えたまえ」と祈れと言われている。そこで彼は決意します。これからは純粋に主なる神様に信頼して行こう、毎日、主の祈りを真剣に祈って、主に縋って行こう。そう決意して彼の心は晴れやかになります。これこそが聖霊によって祈る者に与えられる恵みです。

ところで、この世界には悪霊が働いています。「お告げにより、蛇の居場所を見つけてもらった」ということで、ある村が霊媒師に感謝状を贈った。ペット用の大蛇が逃げたが、その居場所を霊媒師が霊感によって言い当て、大蛇が捕獲できたからです。こういうような事は、キリストへの信仰がなくてもしばしば行われます。しかし超能力があったとしても、ただ蛇の居場所を見つけただけでであって、正しい信仰の根拠にはなりません。聖書の中で、使徒パウロは「幻を見た」という体験をしたからと言って、それで信仰があるとか信仰が深いという証明にはならないと言っています(コロサイ2:16−19)。何故なら、それは人の魂の救いや霊的成長には何の関わりもない事柄であるからです。私は以前に、ある所でクリスチャンと称する人から、「幻のうちに蛇がとぐろを巻いているのが見える。蛇は私の傍にいる」と言われ、その意味を尋ねられた。「私には見えませんから」と、それにについては答えませんでした。世の中は細木○○とか江原○○とか様々なスピリチュアルと称するものの教えが氾濫しています。私たちは決して悪霊に騙されてはいけません。これについては新約聖書ヨハネ4:1−6を開いて下さい。この個所は大事な所です。ここに線を引いて、しっかりと憶えて下さい。

では、聖霊の力によって望みにあふれ、希望をもって生きるとはどういうことでしょうか。

第一にキリスト中心に生きることです。

キリストを中心にして生きている人の話は人を高め、明るくします。笑顔があります。人の話を真剣に聴き、人を受け入れて行く愛があります。

第二に、祈りを喜びます。

お祈りの時間を大切にしていますか。イエス・キリストの御名によって祈っていますか。祈りのコツは「絶えず祈れ」ということです(Tテサ5:17)。これは祈りをやめてはならないという意味です。

お祈りは落ち着いて、急がないで祈り、たくさん感謝して下さい。孫の慧に祈りを教え、最後は「イエス様のお名前によってお祈りします、アーメン」と教えたのですが、ところが「イエス様のお名前によって、アーメン」と微妙に短くしてお祈りしていました。余談ですが、食事の時に、あまりに長く祈ると恨まれます。ある所で大勢の人が集り、食事の時間になり、韓国の牧師が祈るはずだったのですが、祈りの前に30分説教をし、皆が待ちくたびれたことがあります。毎日祈り続けることによって、その場その場でふさわしい祈りをすることが出来るようになって行きます。祈りをやめないで、毎日祈って行くように励まし合って行きましょう。

第三に、望みは天国につながる望みです。

キリストにあって永遠の命への希望をもって生きることが大切です。

おじいさん(平野さん)の左耳の下にコブができたが、医者嫌いで10年間そのままにしていた。10年後にコブが崩れ、ガン細胞になっていて全身に転移している事が分った。おじいさんは居間にベッドを置いて寝かされ、家族が世話をしたが、体は急速に衰えて行った。クリスマスイヴの日、女性伝道師が訪問に来てくれた。おじいさんは家族が教会に行くのは認めていたが、礼拝に出席したことはなかった。ところが伝道師に「洗礼を受けたい」と申し出たのです。その夜、おばあちゃんをはじめ、家族20名がベッドを囲んだ。雪の中を駆けつけた牧師がおじいさんに問うた。「生きる時も死ぬ時も、あなたがあなたのものではなく、真実な救主イエス・キリストのものであることを信じますか」。おじいさんは「はい」と明確に答え、洗礼を受けた。その2時間後、おじいさんは手を上に掲げて別れを告げ、天国へ旅立って行きました。モーセは人の一生は長くて70年か80年と言っています(詩篇90:10)。日本の平均寿命は80歳ぐらいですが、いずれにしても、生まれて来たことが確実であるように、死ぬことも確実です。やがて全ての人に死の時が訪れてきます。これは誰も避けることができません。その時に「望みを持たない外の人々のように、あなたが悲しむことのないため」に(Tテサ4:13)、死んで終りではない、永遠の天国があるのだということを確信して下さい。全ての人がキリストを信じて、永遠の命の希望を持って生きるように祈って行きましょう。

まとめ

*ロマ15:13を読みます。

1、イエス・キリストは望みの神です。信仰により心に喜びと平安とを満たして下さり、また信じ頼る者の実際生活を祝福して下さいます。

2、イエス・キリストを信じる者は望みにあふれて日々をおくり、天国に行けるという希望をもって生きることができます。

祈 り

天地を造られた神様、神様を表すために来られたイエス・キリストが、私たちの希望の源であることを感謝します。十字架によって罪を赦し、復活によって永遠の命を与えて下さるイエス・キリストこそが私たちの唯一の確かな望みです。今週も望みの神であり、希望の源であるイエスキリストに信頼して信仰の道を歩めるように、聖霊の力によって導いて下さい。ファミリーを祝福し、ゴスペルを祝福し、夜の礼拝も祝福して下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ロマ書注解―木村、フランシスコ会、尾山、佐藤、福田、松木、岩隈、内村、LABN、バークレー。

「主の祈り・塚本虎二・伊藤節書房」、「御翼・佐藤順」、「信徒の友・日キ教団出版部」