イエスキリストは真の礼拝の源である ヨハネ4:21−26 主の2006.11.19礼拝
ある本に、一日に30分静まる時を持ちなさいと記されていました。それを読みながら、日常生活の中にあって、静まる時があるのかということを考えてみました。例えば、先週14日火曜日朝から17日金曜日午後まで、東京本部で全国217の教会・伝道所より選出された65名の代議員によって、来年度の方針・計画などについて討議する教団総会がありました。朝から遅い時は夜中の1時半頃まで会議をしたのですが、そこにいて感じた事は静まる時間の欠如でした。総会では全国216教会の事柄を討議するので、どうしても会議に多くの時間をとられ、静まって祈る時間が取り難いという状況になります。その忙しさの中で、私は教会で朝6時から開かれている早天祈祷会が本当に慕わしく思われました。イエス様は、多忙な伝道生活の中にあって、朝早くに起き出てお祈りをなさっておられました(マルコ1:35)。イエス様は忙しさに流されずに、先ず祈って一日を始めておられる、これこそが本物の信仰者の姿です。総会の中で、教会の早天祈祷会に合わせる時間を持つ事によって、それが私の活動力の源になりました。総会では様々な意見が飛びかいますが、その中にあって無用な議論に巻き込まれることなく、平静に時を過ごすことが出来て幸いでした。
本日はヨハネ福音書4:21−26です。イエス様は、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととを礼拝すべきである」(24節)と教えておられます。生きておられる神様を礼拝するためには、忙しい日常の生活から離れ、目を閉じ、心を静めること、そして分っている、知っているという先入観を捨てて、ひたすら神の御言葉である聖書の話に耳を傾けることが大切です。分っている、知っているという先入観を捨てるということですが、ある雲の多い夕方、孫の慧と歩きながら、私はろくに空も見上げずに「慧ちゃん、きょうは月が出ていないね、星も見えないね」と語りかけました。そうしたら慧が立ち止まって、何やら空の彼方を見つめていたのですが、「グランパー、違うよ。あそこに星がある」と言って指差すのです。確かに雲の間にピカリと光る星が見えました。その時に、分っている、知っているという先入観や自分の考えを捨て、周りのことを見つめ直すことが大切であるということを教えられました。今朝、心を静め、霊とまことを尽くして礼拝をささげ、新しい気持をもってイエス様の御言葉に耳を傾けるならば、恵みは上より豊かに降って心は恵まれ、喜びが心に満ちてきます。
内容区分
1、イエスキリストによって救われ、私たちは礼拝を捧げる恵みを与えられている。4:21−24
2、イエスキリストによって救われ、礼拝を捧げる者の人生は価値あるものになる。4:25−26
資料問題
4章1―42節は、イエスキリストがサマリアの罪ある生活をしていた女性を救いに行かれたことが記されている箇所である。サマリア人とは、紀元前八世紀イスラエル民族がアッシリア捕囚になった時、イスラエルに残った者とアッシリア王が殖民として送り込んだ異教徒との混血児の子孫で、ユダヤ人とは仲が悪かった(列下17:24−34、エズラ4:1−4、9:1−10:44)。特に血統の純粋性を誇るユダヤ人はサマリア人を蔑視していた。キリストはわざわざサマリアの地へ行かれ、零落の生活を送っていた女性を救いに導き、また神礼拝の本質を教えられた。
24節「霊」、霊において生まれた者として(3:5−6)、神の霊に生かされての意。「まこと」、キリストの示す神の啓示に従っての意。「メシア」、油注がれた者の意。キリストはメシアのギリシャ語訳。26節「わたしがそれである」、キリストが「それはほかならぬわたしである」という自らが救主であることを宣言された言葉である。
1 イエス・キリストによって救われ、私たちは礼拝を捧げる恵みを与えられている。4:21−24
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。(24節)
イエス様はサマリアという場所に来ておられます。イエス様は民族としてはユダヤ人です。ユダヤ人は「自分たちは神に選ばれている」という強烈な自負心をもっていました。彼らはユダヤ人という大枠の中で結婚をし、ユダヤ民族という血統を保つようにしていました。ユダヤ人は旧約聖書を保持し、神様を正しく礼拝する民であるという事を誇っていました。サマリア人は、昔はユダヤ人に属していたのですが、他の民族と結婚し、混血の民となり、ユダヤ人とは区別されるようになっていました。しかし、彼らも旧約聖書を知っており、神様を礼拝する民であると考えていました。ユダヤ人は混血民族になったサマリア人を毛嫌いし、両者は犬猿の仲になっていました。そのサマリア地方へイエス様はわざわざ出かけて行かれ、罪の生活をしていたサマリアの女性を救いに導き、同時に真の礼拝について教えておられます。イエス様はまことの礼拝について先ずユダヤ人に教えるべきであるのに、サマリア人に教えておられます。そうした事から21−23節のキリストの言葉は次のように理解できます、「礼拝の場を、サマリア人はゲリジム山、ユダヤ人はエルサレムであると言っているが、礼拝する場所が大事なのではない。大事なことは、天地を創造された神様を信じる者たちが共に集まり、礼拝を捧げることである。それにはユダヤ人もサマリア人も関係ない。救いの始まりはユダヤ人であるが、しかし神様を信じる者は等しく礼拝を捧げる者である」と。
ここで皆さんにお尋ねします・・・クリスチャン生活の際立った特徴は何でしょうか・・・それは礼拝を捧げることです。イスラム教をはじめ、宗教といわれるものは礼拝という共通のものがあります。ではイエスキリストが教えて下さった礼拝とはいったいどのようなものでしょうか。
第一に、私たちはキリスト中心の礼拝を捧げます。
私たちは神様に背いていた罪人です。神様は「あなたはわたしの外に、なにものをも神としてはならない。あなたは偶像を拝んではならない」(出20:3−5)と命じておられます。四国にある金毘羅の本体はワニです。お稲荷さんという油揚げにご飯を詰めた食べ物があります。これは稲荷神社のお使いは狐である、狐の好物は油揚げである、そこで油揚げにご飯を詰めたものをお稲荷さんと呼ぶようになったのです。年末になると、お札、お守り札、おみくじ、破魔矢などの大量生産が始まります。交通安全になるというお札がテレビで紹介されていましたが、職人が板切れを削り、その表面にお経の文句を書き、布で包んだだけのものです。その板切れにお金を払い、車にぶら下げていますが、板切れで交通事故を防ぐことができるでしょうか。京都のお寺で祈願値段表というのがありました。出産願いは幾ら、病気治癒は幾らというお祈りの最低値段が決められていて、特別祈祷は割り増しになりますという内容でした。イエス様は違います。神の子でありながら、人となり、十字架に命を捧げ、罪の赦しの道を開いて下さいました。罪を悔改めてキリストを信じれば、誰でも無条件、無代価で救われます。私たちはイエス様に感謝して、心から礼拝を捧げます。
第二に、私たちは礼拝を継続します。
私事ですが。中学生の頃はカトリック教会のミサに出ていました。ミサは儀式中心で、そのころは司祭の唱える祈りの言葉はラテン語ですから意味が分りません。分りませんでしたが、大人が敬虔に礼拝を捧げている態度に心打たれ、聖歌隊の讃美で心が満たされたことを思い出します。高校になってプロテスタント教会に行きました。おばさん達が赤ちゃんや小さい子供を連れて礼拝に、夜の祈祷会に出席し、集会を休まないで信仰を貫いていました。おばさんを中心とする祈りで、小さな教会でしたが霊的パワーがあり、私を含めて6名が神学校に行きました。ここで大事なことを申し上げましょう。それは祈り会に出席することです。祈り会に出られるように祈り、出席して下さい。高校生、大学生の時から祈り会に出席すれば、必ず恵まれます。現在、この教会から献身し、伝道者になっている方々は祈り会に出て信仰を養われていました。またファミリーの集まりを大事にして下さい。さらに教会の集会一つ一つ、奉仕の一つ一つを大切にし、休まないで継続して行くように祈り合って励まし合って下さい。何故なら信仰の拠点は教会だからです。
第三に、「まず礼拝ありき」です。
交わりを深めたい、何かを始めたいと願うなら、「まず礼拝ありき」です。交わりを第一にして、礼拝を後にすれば、それは失敗に終わります。教会の全ての集いは先ず礼拝からはじまります。先週、教団総会があり、多くの議論が交わされたことを話しました。議論に熱中して会議が紛糾しそうになった時、全員が黙して、イエス様の前に頭をたれて静まりました。そして再び落ち着いて議題に取り組む事が出来ました。「まず礼拝ありき」、これを肝に銘じて下さい。
2、イエス・キリストによって救われ、礼拝を捧げる者の人生は価値あるものになる。4:25−26
女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られたならば、わたしたちに一切のことを知らせて下さるでしょう」。イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしがそれ(キリストと呼ばれるメシア)である」。(25−26節)
25節にキリスト、メシアという言葉があります。メシアとは世を救う救主という意味のヘブル語で、そのギリシャ語訳がキリストです。イエスとは人を罪から救う者という意味があります。イエス・キリストとは人を罪から救う、世界の救主という、とても深い意味のあるお名前です。
イエス様に対し、サマリアの女の人は「私たちを救うキリストが来られますが、ご存知ですか」と質問しています。それに答えて、イエス様は「それは外の誰でもない、この私である。私が救主イエスキリストである」と宣言なさっています。サマリアの女の人はビックリしたと思いますが、彼女はイエス様を救主であると信じています。彼女は、「このお方は私が罪深い生活をしていることを知っておられた。5度の離婚、現在は男性と同棲していることを知っていた。しかし私を審く前に、私のことを受け入れ、神様を礼拝するように教えて下さった。なんと有り難いことだろう。周りの人々は私を軽蔑し、いじめ、噂の種にし、誰も声をかけてくれない。私は人目を忍んで、誰も来ない時間を選んで水を汲みに外に出て来た。ところが、このお方は私に話しかけ、私の言葉に耳を傾け、神様を礼拝する恵みを教えてくれた。このお方は救主に違いない。私は罪を捨てよう、救主を信じて新しくなろう」(4章始めからみるとそのことが分ります)と決意したのです。彼女は周りの人々にイエス様を伝えに出かけています(4:28−30)。それは彼女の心が生まれ変わり、自分はイエス様に愛されている、私の人生は新しくなった、私の人生は価値あるものになったという信仰の結果です。
*イエス様によって与えられる恵みは何でしょうか。
第一に生きる喜びが与えられます。
皆さん、喜んでいますか。どんな時でもイエス様に信頼して、くじけないで生きて行く底力(そこじから)を持っているのがクリスチャンです。先週の総会で深夜の1時半になり、本部に泊まり、神学校時代の後輩と枕を並べて寝ました。明るい感じの牧師ですが、大変に苦労された経験の持ち主です。神学校卒業後、北海道の開拓伝道に遣わされたのですが、経済を支えるために冬は雪の中を電気検針のバイトをしていました。子供の一人が障害をもって生まれ、苦労の多い中で牧会伝道をしていました。大変な生活を強いられながら、喜びを失わずに、今は立派な牧師になっています。その時に深谷を思いました。久志先生は毎日早朝バイトをし、その他にバイトをし、教会を支え、牧会伝道をしている。諏訪では敦子が子供二人を抱えつつ英語を教え、経済を支えている。松江では由香先生が子供二人を抱え、保育園で働いている、ご主人もバイトをしている。今は日曜日に会館を借りて集会をしている。日曜日ごとに様々な用具、器具を運び入れ、礼拝後は持ち帰るということを毎週している。だが彼らはイエス様に仕える喜びを持って牧会伝道を続けています。分り易い例として伝道者のことを申し上げました。皆さん方も、それぞれに困難があっても主に信頼し、心の奥底で喜びの心をもって信仰生活を続けておられます。そうしたことを思いながら、私は皆さんがイエス様の守りの中に、喜びをもって前進されるように祈っています。
第二に、生きる目的が与えられます。
先日、「たった一度の人生だから・ことば社発行」という本を紹介しました。日野原重明さんと星野富弘さんの対談集です。二人ともクリスチャンで、日野原さんは95歳で現役のお医者さん、星野さんは60歳、事故で首から下は全く体が動かない障害を負っていますが、口に絵筆を加えて絵と詩を発表しています。星野さんは24歳の時に事故にあい、下半身麻痺になり、活きる希望を失いかけます。しかしキリストを信じる信仰を与えられて、口に絵筆を加えて絵を描き、多くの人を励まし、勇気づける働きをしています。体を動かすことの出来ない中にあって、イエス様によって口に絵筆を加えて絵を描く力を与えられ、絵を通してイエス様を証するという人生の目的、生きる力を与えられています。イエスさを信じる者には生きる目的が明確に与えられます。
第三に、愛が与えられます。
私たちはイエス様に愛されています。イエス様の愛を受けて、愛と赦しを分ち与えることができるようになります。先日ビリー・グラハムの娘であるルースが結婚21年後に離婚し、それから6か月立った時に、両親や周りの反対を押し切って再婚した。だが、すぐに破局に至るという失敗をした。罪の意識に苦しみ、失意の中にいる彼女が、ご両親によって受け入れてもらい立ち直ったという証をしました。きょうは、その後の出来事です。ルースがようやく静かな生活に立ち戻った時に、ある晩、16歳の娘が母親であるルースに、目に涙を浮かべながら、自分は妊娠したかもしれないと告白した。「こんな事は、よその家で起こることでしょう」とルースは思ったが、それは厳然たる事実だった。娘は異性関係で過ちを犯し、その代償を負うことになったのだ。ルースは、自分は過ちを犯した時に、赦され、愛されたのだ。今度は娘に対して、自分が愛を表す番なのだ。娘を責めたりすることはできない。何故なら自分も過ちを赦された者なのだからです。ルースは愛と赦しを実践することになった。16歳の娘は出産し、子供は里子に出すことを決意した。このような娘は社会から白い目で見られ、学業をあきらめなければならないかもしれない。家族も非難されるだろう。妊娠が目立つようになれば、隠す事は出来なくて噂の種になるだろう。しかし、ルースはキリストにある愛をもって、心から娘を受け入れ、保護した。ルース親子の一連の出来事は、ビリー・グラハム一家に大きな傷を与えた。しかし、このことを生かして、ルースは「望まない妊娠をした時に」という本を書き、過ちを犯した人の立ち直りのために、生まれてくる赤ちゃんを里子に出すための法的手続き、保険のこと、望まない妊娠によって子供を産んだ者へのカウンセリングについて述べています。イエス様はどんな罪、過ち、失敗があったとしても、悔改めて縋ってくる者を退けずに愛し、赦し、受け入れて下さる恵みの救主です。私たちひとり一人がイエス様の愛を受ける恵みを与えられていることを感謝します。
まとめ
1、24節、イエスキリストによって救われ、礼拝を捧げる者にされていることを感謝します。キリスト中心の礼拝を捧げる、礼拝を継続する、まず礼拝ありきである、常に礼拝が最優先であることを心に留めて下さい。
2、25−26節、イエスキリストによって救われ、礼拝を捧げる者の人生は価値あるものになります。生きる喜びが与えられる。生きる目的が与えられる。愛が与えられます。私たちはイエス様によって愛され、赦されています。この愛と赦しを外の人に分ち与えて行きましょう。
*「君は愛されるために生まれた」を讃美し、祈ります。
祈 り
天地の主である神様、私たちはイエス様の十字架によって救われ、霊とまことをもって礼拝を捧げる者になりましたことを感謝します。これからも礼拝を継続して行きます。祈り会に出席できるように導いて下さい。ファミリーをはじめ、教会のあらゆる集いに率先して出席し、恵みを得て行くようにして下さい。奉仕を喜びのうちに継続して行く力を与えて下さい。今週25日土曜日の上野公園ホームレス伝道を祝福して下さい。来週26日日曜日に洗礼を受ける佐藤よし子さん、大武優くん、林大悟くんの上に豊かな恵みを与えて下さい。クリスマスに向っての全ての準備を祝福して下さい。私たちの救主であるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献ヨハネ注解―ライル、黒崎、フランシスコ会、榊原、羽鳥、文語略解、LABN。「御翼・佐藤順・アンカークロス社