クリスマスの恵みー感謝を深める時― テサロニケ第一5:18 主の2006.12.10礼拝
私事ですが、水曜日・夜の集会後に突然風邪になり、木、金とじっと臥せっていました。土曜日に起き上がり、日曜日のメッセージ原稿を整えることができました(毎週原稿用紙18枚位を完全原稿にします)。風邪になってしまったと呟く前に、床の中で感謝を数えることにしました。先週は渡辺賢治師を迎えて恵みの礼拝を捧げることができ感謝でした。先週午後は「聾者クリスマス」のために森本さんが家庭を開放し、家族で迎えて下さり、感謝でした。来週17日(日)はこどもクリスマス、23日(土・祝日)には行田商工センターを会場にして、広く大勢の方々にイエスキリストを伝えるクリスマス祝会が行われる。24日(日)はクリスマス礼拝及び夕拝がある。クリスマスのために教会全体で祈りが積まれ、多くの方々が一生懸命準備のために奉仕をしている。そうしたことを祈り、感謝しました。先週は教会に来たいという問い合わせが2件あり、イエス様がこの教会を用いて「伝道せよ!」と励まして下さっている印であると感謝しました。ゴスペルのためにボランティアで奉仕して下さる教会外の方々に家内がプレゼントを用意し、ささやかですが御礼をすることができることも感謝です。10年程前に大きな試練に遭遇した家族を、私たち夫婦で祈って東京に送り出したのですが、ご夫婦で試練を乗り越え、子ども二人が信仰をもって成長している、本当に主の恵みですという近況を知らせる電話があり感謝しました。諏訪の教会では台所を牧師宅と教会で兼用しているのですが、牧師家族のために台所を作って下さいと100万円の献金が捧げられ、見積もりをしているという感謝の知らせがありました。アメリカより、また身近な方よりクリスマスカードをいただき、その文面を通して愛が伝わって来て感謝でした。今年は三組の結婚、洗礼者が10名いました。倫夫・チャチャ伝道師夫妻による良き奉仕がなされていることなど数え上げると、次々に感謝が湧いてきて、体は風邪でダウンしていましたが、心は恵みでいっぱいになりました。
本日はテサロニケ第一5:18「すべての事について感謝しなさい。凡てのこと感謝せよ(文語訳)。Give thanks whatever happens.(The Everyday Bible)」という御言葉です。恵まれ、幸いな人生をおくる秘訣は感謝することです。ある牧師の証です。アメリカの小さな町のレストランで、お客たちが黙々と朝食を食べていた。そこへ母親と来た少女が「お母さん、レストランで食事の感謝の祈りをしていいの?」。するとウエイトレスが「お嬢ちゃん、もちろんお祈りをしていいのよ。私たち皆のために食事の感謝をして下さるかしら・・」。少女は皆を見て「頭を下げて下さい」と言うと、驚いたことに客は全員頭をさげた。少女は手を組んで、頭をたれ、「素晴らしい神様、善なる神様、この食事を神様に感謝したします。イエス様のお名前によって、アーメン。God is great, God is good, and we thank Him for our food. In Jesus’ name, Amen.」。その一言の祈りで、店内の雰囲気が一変し、人々は互いに語り合い出したのです(御翼・佐藤順師より)。 私たちが恵まれ、幸いを得る秘訣は、全てのことについて神様に感謝を捧げ、神様を讃美することです。例え不幸に見える状況の中にいたとしても、心から神様に感謝する時に、全ては祝福に変えられて行きます。
内容区分
1、すべてのこと感謝せよ。感謝の源はイエス・キリストである(ヨハネ第一4:10)
2、すべてのこと感謝せよ。感謝は傲慢な気持を追い払い、キリストの祝福を受ける源となる(申命記8:10)
1、すべてのこと感謝せよ。感謝の源はイエス・キリストである。ヨハネ第一4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のために贖いの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。(ヨハネ第一4:10)
ある若い方から信仰の質問を受けました。「友人から、世界に様々な宗教がある。それぞれがその良いところを認め合って行けば争いはなくなるのではないだろうか、と言われた。だが私は違うと思う、キリスト教は宗教ではない、宗教以上の真理である。私はキリストこそ真理であると確信しています。先生はどう思われますか・・」と。この質問の素晴らしい点は「私はキリストこそ真理であると確信しています」という所です。キリスト教という宗教を信じるのではない。「私はキリストこそ真理であると確信しています」という言葉で、生きておられるキリストを信じ、キリストによって自分の人生が導かれていることを言い表していますが、これこそ真理を掴み取った者の確信です。
人は真理を求めます。真理とは本当のこと、正しい道理のことで、いかなる場合にも通用する妥当な知識や判断です。真理を求めるのに一番障害になるものは自己弁護の精神です、自己弁護とは、自分に利益をもたらすものを善と考えて、正しいことを曲げてしまう心のことです。現職の知事であった人が3名も逮捕されています。選挙の時にお世話になった、だから御礼をしなければならないという理由で、知事の権力を使って公共事業の注文が行くように便宜を図った、その見返りとして賄賂をもらい、身の破滅を招いてしまったのです。それは権力を使って特定の人に利益を与えてはならないし、賄賂をもらってはならないという正しい道理を踏みにじって真理の道から外れてしまったことに原因があります。いじめの問題があります。いじめは良くないと知りながら、それに加担して相手を自殺に追いやってしまっています。自分が仲間はずれにならないために仕方がないと自己弁護し、いじめてはならないという正しい道から外れて自分も加害者になってしまっています。
しかし、よく考えて下さい・・・自分は正しい、大丈夫だという言える人は誰もいません。真理に従って行くためには自分をよく見つめなければなりません。真理を曲げて、自分のことをよく解釈しようというのではなく、真剣に自分を見つめる時に、人は誰でも自分の罪に気づきます。正しいと思う事をすることができない自分、悪いと知りつつ悪い事をしてしまう自分の姿に愕然とします。自分は罪人の頭であることを知り、罪より解放されるように必死の努力をして、正しい道を求めて学びます。座禅をする、滝に打たれる、よその家を訪ねてトイレ掃除をさせてもらう、社会奉仕をするなど何とかして罪に勝ち、罪から逃れようとします。しかし罪の力は強く私たちを縛っています。
ヨハネ第一4:10をご覧下さい。神は人間が罪に苦しんでいる事をご存知です。罪の結果は死です、死の先は永遠の審きによる地獄の滅びです。そこで神は独り子であるイエスキリストを救主として、この世に送って下さった。それがクリスマスの日です。キリストは33年半の人生を歩み、最後に十字架に上って、私たち人間の罪の身代りになって死んで下さったのです。「贖いの供え物(宥めの供え物)」とは、罪のために十字架にかかって罪の身代りになって下さったキリストを示している言葉です。自分の罪を認め、悔改めてキリストの十字架を信じれば、誰でも罪を赦され、永遠の命を与えられ、生まれ変わり、天国に行くことができます。私は神学校で「比較宗教」という課目を担当しましたが、世界に幾千という宗教がありますが、神自らが命を投げ出して、罪ある人間を救うという恵みを表したのはたった一人イエス・キリストだけです。
升崎氏(1892−1976)は、仏教の盛んな北陸金沢の地にある名門の寺の跡継ぎとして明治25年(1892年)に誕生、母は升崎氏を生んですぐに亡くなり、彼は父親と祖母の許で育てられます。少年時代から「人生とは何か」という真理を求めて、当時の仏教の先輩たちに教えを乞い、仏教書、哲学書を読みまくったが、解決が得られない。南無阿弥陀仏と唱えれば救いがあるというので、それを唱えるが平安がない。彼は、父親からキリストの教えは「日本人の信ずべきものではない」と教えられていたので避けていた。彼は、「人生いかに行くべきか」という問題に行き詰まり、自殺を6回試みるが失敗に終わった。自殺7回目を決行するために家を出た時に、十字路で救世軍が野外集会をしていた。いやなのものに出くわしたと思い、その場を急いで駆け抜けようとした時に、電柱に頭をぶっつけ、よろめき倒れた瞬間に「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしの許に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」という御言葉が響いてきた(マタイ11:28)。彼は「先生、救って下さい。僕は疲れきっています。背負いきれない重荷で押し潰されそうです。今も自殺しようとしてところです」と救世軍仕官(牧師)の前に跪いた。牧師の語るキリストの十字架の恵みを聴いて、彼は「おお主イエス様、私は信じます。あなたこそ真の阿弥陀仏です。生ける救主です」と告白して信仰の決心をします。彼が16歳の時です。ところが寺の跡継ぎがキリストを信じたことが大問題になり、父親によって土蔵に閉じ込められますが、抜け出して教会に行き洗礼を受けます。それを父親に報告すると日本刀で肩を峰打ちにされて血が流れ出ます。それを見た祖母が彼を助け、命を取り留めます。彼は勘当され、寺を出て献身します。升崎氏は伝道者として良い働きをしますが、それはまたの機会に述べることにして、彼の父親のこと述べます。父親は、息子はキリストに取られた、何とかして取り返そうと思って、聖書は誤っていることを論証するために、ひとりで聖書を読み始めた。始めにマタイ福音書を開き、3年かかって4章まで進んだ。そうやって遂に聖書全体を何回も読んだ。読めば読むほど不思議に思い、驚いたのはイエス・キリストの人格であった。「人にして神、神にして人であるキリスト、我が尊崇する親鸞上人とは比べ物にならない。親鸞は一介の僧侶、キリストは正に神の独り子である」。父親は21日間断食して滝に打たれ、「キリストが」神ならばお姿を現したまえ」と祈った。21日目に滝から上がると、白い衣のキリストが目の前に現れ、父親はその場に倒れ付してしまいます。それは息子を勘当して12年目、父親65歳の時でした。父親は息子に伝道地から一時帰ってきてもらい、息子に詫び、自分がクリスチャンになったことを感謝し、71歳まで奉仕の生涯を送ります。その遺書には、「自分を天国の特等席に招いてくれた息子に感謝する。葬儀には国からもらった勲章などを飾ってはならない」と記され、ただただキリストの恵みに感謝して一生を閉じています。
私たちを罪から贖い出して下さったイエスキリストの十字架を讃美しましょう。聖歌399番をお開きして「カルバリ山の十字架」を共に歌いましょう。
2、すべてのこと感謝せよ。感謝は傲慢な気持を追い払い、キリストの祝福を受ける源である。申命記8:10−11
あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその地に賜ったことを感謝するであろう。あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。(申命記8:10−11)
感謝する時に、傲慢な気持から解放されます。人間にはどうしても比べる気持があります。昨日の聖書日課コリント第二10章12節に「彼らは仲間同志で互いに測り合ったり、互いに比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである」という御言葉がありました。私たちの教団は全国で217教会・伝道所があります。一年に一回総会があり、その時に各教会の会員数・礼拝人数・一ヶ月間の収入の一覧表などが出ます。歴史の古い教会があり、伝道をはじめて日の浅い教会があります。都会、田舎という地域的な差があります。会堂のある所、借家で伝道している所などがあります。ですから単なる統計の数字では比較できないのですが、それでも比較しようとする人々がいます。私は、主の召しに忠実に応えて、一生懸命に伝道すれば。結果は神様が与えて下さると信じています。それを忘れて、単に集る人数とか献金高で教会の優劣を考えるようになったら、それはサタンの思う壺です。(因みに100名礼拝、毎月の献金が百万円を越える所は217教会のうち28です。毎月の献金が20万円以下という所が63あります)。私は、特に地方で苦闘している教会に思いを馳せ、祈るようにしています。とりわけ、深谷(井桁久志師)、松江(生武嗣幸・由香師)、諏訪(山本憲治・敦子師)の各伝道所が早く教会となるように祈っています。また聾者の多い徳島で手話を学びながら伝道している井桁正巳・幸枝師のために祈っています。私たちの教団ではありませんが、この教会で個人伝道を学び、それを実践しているトポス教会(比留間師夫妻)のためにも祈っています。
申命記8:10をご覧下さい。とても大事な御言葉です。主がすべてを与えて下っていることを感謝しよう、と言われています。新共同訳、新改訳では、主が与えて下さった恵みを感謝し、主をほめ讃えなければならない、と言われています。
皆さん、きょう、今この時に主の恵みに感謝していますか。主の恵みをほめ讃えていますか・・・。
ルッターは「心から感謝できることは、聖霊の働きだ。神様に感謝できるということは、傲慢な心が取り去られている証拠であり、賜物を神に用いていただける」と言っています。申命記8:12以下には、主に感謝することを忘れ、「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た」と言ってはならないと警告されています。もし、そうなったら、主は「あなたは滅びる」と警告されています。箴言の中に、「高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ」と述べられています(箴言16:18)。イスラエル三代目の王ソロモンは、王様になった時は神様の戒めを守り、謙っていましたが、王として力を増し、金銀財宝が溢れるようになった時、高ぶっています。外国から多くの女性を呼び寄せて妾とし、彼女たちは偶像を持ち運んで来て偶像礼拝が王の宮殿から始まっています。彼は神様に頼ることを忘れて軍備を増やし、国民に重い税の負担を強いています。すべては神様が与えて下さっていることを忘れると、高ぶり、滅びを招きます。
恵まれている生涯とは、キリストの愛に感謝し、キリストの愛をもって人を愛することです。90年以上キリストを信じているクリスチャンが、人生を健康に、喜びをもって生きる秘訣は四つある。「健康で体が動くことである」。「食べることを楽しむことである」。「心配ごとがないことである(思い煩わないこと)」。「十分な休養である」と言っています。それに加えて、「絶対に人の悪口を言わないこと」と「世界中で嫌いな人がいない」ことであると言っています。その方が言うには、悪口を言わないことを3年間すると身につく。5年、10年、15年、20年と続けると、非常に穏やかな心になる。一方、悪口を言うたびに、その人の人相は悪くなる。悪口を言わずに穏やかな気持でいれば、三度の食事が美味しく食べられる、よく眠れる。楽しい毎日を送ることができる。これこそがイエス様の恵みであり、祝福です。イエス様の恵み、喜び、祝福に欠けるなら、罪に負けるという惨めな結果を招きます。最近、警察官による犯罪が異常に増えています。原因を調べてみると、借金を返すために強盗を働き、盗みをしています。借金の原因は派手な生活をしたいという欲望を抑えきれないで、何でも欲しいものを手に入れることに夢中になるからです。クリスチャンの述べている恵みの生涯とは違う敗北の人生です。欲望を抑えるということですが、神学校の時に宣教師夫人が英語の先生でした。英語以上にたくさんの信仰の恵み、伝道者としての心得を話してくれたことが印象に残っています。その中で「欲しいものがあったら、それが必要であるかどうか祈りなさい。必要であるなら、それを買うお金が満たされるまで待ちなさい」と教えてくれたことを思い出します。熊谷の開拓をされたクラー宣教師は、アメリカで伝道者になったころ、食べるものは毎日ジャガイモであった。クラー夫人は台所に跪き、ジャガイモを毎日おいしく食べられるように知恵を与えて下さいと祈って料理したとのことです。クラー夫人はその厳しい生活の中で絶えず感謝し、誰よりも料理上手になり、多くの人々にキリストの愛と恵みを分ち与えておられました。
まとめ
1、すべてのこと感謝せよ。感謝の源は十字架による救いを与えて下さったイエス・キリストです。
2、すべてのこと感謝せよ。感謝は傲慢な気持を追い払います。主の恵みに感謝しましょう。主の恵みに感謝する時に、悪口はなくなり、キリストを讃える喜びがあり、感謝から感謝の満ち足りた日々を送ることができるようになります。
*聖歌642番(旧604番)、「望みも消えゆくまでに」を賛美し、お祈りを捧げます。
祈 り
すべてのこと感謝せよ。天地の主である神様、十字架によって、私たちに罪の赦し、永遠の命の恵みを与えるために来て下さったイエス様に感謝を捧げます。私たちを救うために来られたキリストの誕生されたクリスマスを心から祝い、キリストを伝えるクリスマスとなるように導いて下さい。感謝を忘れて傲慢になることがないように、恵み深い御霊によって感謝と讃美を絶やすことがないように導いて下さい。午後から大掃除を一致協力して行わせて下さい。ゴスペルがありますが、一年間ボランティアで指揮、楽器演奏などをして下さっている方々に感謝し、イエス様の祝福を注いで下さるように祈ります。感謝の源であり祝福の源である主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
参考文献テサロニケ・ヨハネ第一・申命記注解―口語略解、文語略解、LAB、黒崎、DSB、新屋、フランシスコ会、黒崎、米田。 「荒野に水は湧く・田中芳三・キリスト新聞社」、「御翼・佐藤順・アンカークロス社」