我らはキリストの大使である。Uコリント5:16−21 主の2007.1.1(月)新年(元旦初詣)礼拝
新年おめでとうございます!新しい年2007年を迎えました。年は変わりましたが、イエスキリストは、きのうも、きょうも、永遠に変わることのないない救主です(へブル13:8)。主は私たちに三つの大事なことを言われます、「あなたはわたしに従ってきなさい。You follow me.」(ヨハネ21:19)。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。You love one another. Just as I have loved you。」(ヨハネ13:34)。「死に至るまで忠実であれ。Be faithful until death.」(黙示録2:10)。祈って、聖霊の助けによってキリストに従う決断を捧げ、2007年度を出発いたしましょう。
私事ですが、私たち夫婦は主の愛と皆さんの祈りによって昨年一年間を守られ、導かれ、新しい年を迎えることができたことを感謝します。2007年も私たちのために祈って下さるようにお願いします。私たちも皆さんのために祈って行きます。
ところで、中国は、少し前までは広い領土、多くの人口、多くの天然資源をもちながら、孤立していました。それは世界の超大国アメリカと対立していたからで、中国とアメリカが国交を樹立することは困難であると思われていました。ところが、ある日突然に中国、アメリカが国交を樹立するというニュースが世界中に伝えられました。それはアメリカのキッシンジャーがアメリカ連邦政府より全権を委ねられて中国に派遣され、毛沢東、周恩来など中国のトップと外交交渉をした結果でした。
本日はコリント第二5:16−21です。20節が2007年の御言葉です。使者という言葉があります。使者とは一国を代表する大使を意味しています。キッシンジャーはアメリカを代表して中国と話し合い、国交樹立の道筋を開きました。クリスチャンは、神の国を代表してキリストの十字架の恵みを人々に伝えて救いに導き、天国に伴うという使命を与えられている「キリストの使者・大使」なのです。キリストの使者・大使とは英語でChrist’s ambassador です(原語も同じです)。ちなみに教団では、青年たちが神の国の大使として、この世に遣わされ、主の証人としての使命を果すようにと願い、青年部をChrist‘s ambassadorからCAという名前で呼んでいます。
本年度の御言葉として、「我らはキリストの大使(Christ’s ambassador)である」と暗誦して下さい。私たちひとり一人が、「我らはキリストの大使である」ことを誇りに思い、神の国の代表としてキリスト一筋の日々を歩んで行くように、祈って決断いたしましょう。
内容区分
1、我らはキリストの大使である。キリストを信じて救われた者であることを感謝しよう。5:16−17
2、我らはキリストの大使である。キリストの和解の使者となり、キリストの救いを伝えよう。5:18−21
資料問題
16節「肉によって知ることをすまい」、キリストを人間的、外形的に知ることをやめること。キリストは、聖霊により信仰によって知ることができる、生きておられる主である。キリストを霊的に知った者は17節にあるように、まったく新しい者に造り変えられている。18節「和解」、破られた関係が回復されること。神と人間との和解は、一方的な神の恩寵によって、御子の十字架の死によって遂行された破格な出来事である。その内容が21節に詳述されている。「キリストを罪とされた」、キリストの十字架の死は、罪なき者が、私たちの罪のために、罪そのもとなった事である。罪人の姿ではなく、人間の最も根源的な現実である罪そのものになったのである。このことによって、私たち罪ある者が、神の義をいただき、罪あるままに神の前に義と認められるのである(ロマ3:21−26)。
1、我らはキリストの大使である。キリストを信じて救われた者であることを感謝しよう。5:16−17
私たちは今後、誰をも肉によって知ることはまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである。(16-17節)
「我らはキリストの大使である」・・・この世の大使は外交官試験に合格し、あるいは社会的地位のある人などという条件があり、誰でも大使になるということはできません。キリストの大使はキリストを信じて救われていることが必要です。外には条件はありませんが、救われていなければキリストの大使になることはできません。キリストの救いという事ですが、私たちは救主イエスキリストを肉の目をもって見たことはありませんが、しかしキリストを信じ、愛しています。それは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。私たちは聖書を通してイエスキリストの十字架と復活の話を聴き、罪を悔改め、心を開いてキリストを救主また主として心にお迎えした時に、罪が赦され、生まれ変わりました。生まれ変わった者の特徴は何でしょうか、それは喜びです。ペテロは、「あなた方はキリストを信じて、言葉に尽くせない輝きにみちた喜びに溢れている」と告げています(1ペテロ1:8−9)。
神学生のころ、ひとりの老牧師がメッセージの中で、「自分は若い時に、辺鄙な田舎から町の教会へ行き、イエス様の十字架を信じ、救いを受けた。集会後、暗い田舎道を嬉しくてたまらず、泳ぐようにして家に帰った(実際に泳ぐようなゼスチャー入りでした)。不思議なことに、何十年経ってもイエス様の救いの恵みは消えないでいる、消えるどころか年月を経れば経るほど、心の奥底からますます喜びが湧いてくる」と感謝していたことを思い出します。
この手紙を書いたパウロは、初めはキリストに反対していました。「キリストは人間であるのに神であると言っている。十字架を信じれば救われると説いているが、救いは律法を守ることによって得られるものだ」。彼はそういう肉の思い、人間の知恵で考えてキリストに敵対する者でした。彼はパリサイ派に属し、熱心に律法を守り、自分の力で救われると自負していました。しかし、実際のところパウロは、「善いことをしたいが、それをする力がない。したくないと思う悪いことは、これをしてしまう。私はなんという惨めな人間だろうか。誰がこの死の体から、私を救ってくれるのだろうか」という悩みをもち、律法を守れず、罪に負けている者でした(ロマ7:15−25)。その彼がキリストと出会う機会を与えられ、キリストの十字架を信じた時に、瞬時にして罪が赦され、罪の力から解放され、永遠の命の希望を得ることができたのです。そこで、パウロは16節で、「キリストのことを人間の肉の欲望や知恵や研究で知ることはできない。自分の罪を認め、罪から離れたいと思う者に、聖霊が働いて下さって、イエスキリストを信じ、心の生まれ変わりを与えて下さる」と伝えています。17節はキリストの救いの内容です。「男と女、人種、年齢、身分、宗教に関わりなく、誰でもキリストを信じれば救われ、生まれ変わり、新しい人間になれる」という素晴らしい救いです。
家内の父が、富田さんのお父さんに伝道したことを思い出します。二人とも60代であったと思います(ふたりとも既に天国に行っています)。家内の父は寡黙な人でしたが、聖書を開き、御言葉のとおりにイエス様の十字架と復活を伝えました。富田さんのお父さんは、ずっと農業をされ、キリスト教とは無縁でしたが、娘の弘子さんが救われたことによって、教会に来たこともありますし、家庭集会にも出席していましたが、イエス様のことを個人的に聴くのは初めてであったと思います。神様の聖霊が豊かに働いて、富田さんのお父さんはキリストを心に迎え入れ、救われるという大きな祝福を受けました。ちなみに富田さんの孫が倫夫・路津子のおふたりです。
「我らはキリストの大使である」・・・私たちもキリストの十字架を信じた時に生まれ変わり、天国に国籍を持つ者になったことを感謝し,キリストを信じる者はキリストの大使であることを感謝します。
2、我らはキリストの大使である。キリストの和解の使者となろう。5:18−21
すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音を委ねられたのである。神が私たちをとおして勧めをなさるのであるから、私たちはキリストの使者(大使)なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい(19-20節)
「我らはキリストの大使である」・・・大使について幾つかのことを考えてみましょう。
第一に、キリストの大使は、天国を治めている神様を表す生き方をします。
この世の大使は自国を離れて相手の国に住みます。そこは言葉、生活様式、食べ物もまったく違います。大使は違う環境の中で生活しながら、常に自国のことを表すようにしています。あまりふさわしくありませんが、分りやすい例として熱心なイスラム教徒は日に五度メッカの方に向ってひれ伏して拝みます。クリスチャンである私たちは、この世で暮らし、この世の仕事をしていますが、本当は私たちは天国の市民です。この世に生きている限りは、この世の生活習慣などに順応します。しかし、天国の市民は天の神様のことを第一にします。その表れが礼拝です。週に一度は共に集り、礼拝第一の生活をして行きます。私たちは教会に集り、礼拝を捧げる姿を通して、キリストの大使であることを表して行きます。
第二に、キリストの大使は、天国のことを表す役目を担っている者です。
この世の大使は、自国の全てを表す者です。人々は大使の言葉、行動を見て、その国のことを判断します。少し前に、アメリカの駐日大使にライシャワーという方がいました。ある時、暴漢に襲われて怪我をした事があります。一国の大使に怪我を負わせれば、大きな外交問題に発展しますが、ライシャワー氏は寛大な態度を示し、大問題になるのを食い止めてくれました。そのことを通して、日本人の心の中にアメリカに対する親近感が増大したのです。クリスチャンである私たちは、自分の言葉、行動を通して天国の民として、天国の中心であるキリストを表して行きます。キリストの愛をもって人に接して行くことが大切です。日本人は死んでしまえば終りだ、あるいは輪廻転生という無常観を持っている人が多いのですが、「キリストを信じる者は永遠に生きることができる」という永遠の命の希望をもって、死を怖れないで、天国を目指して進む生き方をとおして、キリストの大使であることを表すことができます。
第三に、キリストの大使は和解の使者です。
この世の大使は、自国と相手国との間に立って平和であるように努力します。クリスチャンである私たちは、神様に背いている人間に対し、キリストの十字架による救いを伝えます。神様は愛の神様です。人間が罪を犯して背いているのに、神様のほうから手を差し伸べて、罪の赦しの道を開き、神の子にして下さるという方法をお取りになったのです。それを和解という言葉で言い表しています。21節をご覧下さい。キリストは和解を与えるために、罪がないのに、罪になられた、とあります。神様は罪を滅ぼします。キリストは十字架にかかり、罪そのものになり、神様から見放され、滅びるという体験をなされました。キリストは、本当は私たちが受けるべき罰を背負って、十字架の上で身代りになって下さった愛の救主です。私たちはキリストによって罪を赦され、神様と和解し、神の子の一員になっていることを感謝しましょう。
*皆さんにお尋ねします・・・キリストの十字架を信じて、神様との和解を与えられ、神の子になっていることを感謝していますか。
和解の使者である私たちの生き方を考えてみましょう。
まず感謝と讃美です。元旦を迎え、どんな感謝を捧げましたか・・・。どんな讃美を捧げましたか・・・。祈りがあります。元旦を迎えて何を祈りましたか・・・。祈りをやめないことが祝福の源です。
祈りに関連してですが、今朝も「主の祈り」を捧げましたが、その中に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈りました。私たちは神様の愛によって、キリストの十字架によって、無条件で罪を赦してもらいました。聖書朗読のイザヤ44:22で「わたしはあなたの咎を雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」という慰めの御言葉がありました。キリストは一方的に、無条件に、私たちの罪と過ちを十字架によって雲のように吹き払い、霧のように消し、私たちを赦し、受け入れ、愛を示して下さいました。キリストの愛を受けた者は感謝の思いをもって、人を赦し、受け入れ、愛して行く者に変えられます。和解の使者である私たちは、「イエス様のきれいな愛で心を満たして下さい。人を審(さば)く思いから解放して下さい」と祈ることが大切です。
私事ですが、私自身に関して、ありもしないデマを飛ばされたことがあります。私に関する根も葉もないことを各方面に言い触らされたこともあります。その時に主が私に言われたことは、「黙せ、静まれ!」という事でした。さらに私たちの恩師弓山先生の「司令官は弁明するな」という教えを思い出し、祈って主に全てを任せました。やがて主が万事を益に変えて下さったことを感謝します。キリストは「人をさばくな。自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)と言われました。人を審いたら自滅です。私は内村鑑三のことを思い出します。彼は1981年天皇に関する不敬罪ということで、井上哲次郎から攻撃を受け、教師を辞職し、奥さんは心労のために死に、暫しの間流浪の生活を余儀なくされたことがあります。ところが35年後の1926年に井上哲次郎が突然国会議員など公職を追放されてしまいます。理由はなんと天皇に関する不敬罪でした。内村鑑三は「仇を返すことは主にある」ことを知り、神様のネメシス(天罰)に怖れを感じたことを日記に記しています。人を審き、人に悪いレッテルを貼り、受け入れることを拒否すれば、それは神様の審判を受けることになります。
ある牧師が言っています、「審き合うことがあってはならない。審くことはねたみ、そねみ、いやみ、臭みです」と。人のことをねたんだり、過度に羨んだりするそねみの心が起きないように祈って下さい。人の陰口を言ったり、人にレッテルを貼ったり、ゴシップを撒き散らす人は嫌がられます。ねたみ、そねみ、いやみはキリストのかぐわしい香りではなく、臭みを感じさせるようになります。ねたみ、そねみ、いやみ、臭みという四位一体になってはいけません。
キリストの大使として、クリスチャン新聞にスポーツ選手が紹介されていました。ゴルフの中嶋選手が4年ぶりに優勝しています。プロ野球で優勝した日本ハムのヒルマン監督がいます。ボクシング東洋太平洋クル−ザー級でタイトルを取った高橋良輔選手は勝利インタビューで、「僕はクリスチャンなので、まずこれを言わせてください、『サンキュウー・ジーザス』」と叫んでいます。アメリカ・メジャーリーグ・ワールドシリーズの優勝チームのカージナルスに田口壮選手がいます。いい所でヒットを放ち大活躍しましたが、かれは3年前に「イエスキリストに自身の心をささげ、クリスチャンになった」とアメリカのキリスト教スポーツ雑誌「スポーツ スペクトラム」ガ伝えています。奥さんが先に救われ、その導きで救われ、「家庭でも試合中でも、イエス様に祈れるというのはうれしい」と告白しています。田口選手はアメリカに渡り、通訳をつけず、マイナーリーグでもまれたりして、這い上がってきた選手ですが、クリスチャンになり、キリストの大使として活躍しています。
「我らはキリストの大使である」・・・最後にチャレンジします、答えて下さい。大使は相手国に出かけます。私たちも出かけましょう。私は皆のために祈る、そして週に一度は誰かの所に直接に出かける、手紙を出す、メールを送る、電話をするなどの方法をもってキリストの恵みを届けるようにと祈っています。若い方々に勧めます、月に一度はトラクトをもって近隣に配って下さい。今、教会の中堅を担っている方々は、市内、市外へと月に一度は皆でトラクトを配布し、福音の種を蒔きました。そこで共に祈り合い、助け合って行く真の交わりを与えられました。教会が内にこもったら伸びる事ができません。若い活動力を生かして、CAとなって、福音の最前線で活動するようにと祈っています。教会学校のための働き人も必要です。皆がキリストに仕え、そしてキリストの和解の福音を人々に伝える年であるように祈って下さい。もう一つ大事なこと、水曜祈り会に出席しましょう。
まとめ
1、16−17節、我らはキリストの大使である。キリストを信じて、救われていることを感謝しよう。
2、19−20節、我らはキリストの大使である。私たちは神様を礼拝します。私たちはキリストの十字架の福音を伝えます。私たちの最大の使命は和解の使者になることです。チャレンジとして相手の所に出かけて行き、キリストの福音を伝えることができるように祈りましょう。
祈 り 天地の主である神様、2007年、「我らはキリストの大使である」という御言葉を心に刻んで、私たちが聖霊によって祈り、キリストに従う日々を前進する一年であるように導いて下さい。キリストの大使としての生活を通して、家族が救われ、周りの方々が救われて行くように祈ります。私たちの救主、主であるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします、アーメン。
参考文献コリント注解―バークレー、口語略解、黒崎、LAB。「クリスチャン新聞年末号」「内村鑑三日記書簡全集・教文館」