神に喜ばれる教会生活 テサロニケ第一5:12−28             主の2007.1.7礼拝

1日に元旦礼拝をささげましたが、2007年日曜日は52回ありますが、今朝まず第一回目の日曜礼拝に導かれたことを感謝します。イエス様は「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)と言われました。さらに、「あの人、この人ではない。ほかの誰でもない、あなたに言う、あなたはわたしに従って来なさい」と、私たちに親密に個人的に呼びかけておられます(ヨハネ21:22)。私たちは「もちろん従って参ります」と答えますが、ではどのようにしてキリストに従って行くのでしょうか。ある伝道者は「キリストを信じることは出発点である。キリストを信じた者は、教会生活を通して一生涯キリストに従うのである」と言っていますが、そのとおりです(米国伝道者B・グラハム)。昨年、10名が洗礼を受け、中学生、高校生がその中にいたことを感謝します。教会の歴史を振り返ってみますと、同じ位の年代で洗礼を受けた先輩たちの中から、伝道者になって主に仕えている方々がいます。教会にしっかりつながり、様々な奉仕の分野を担っている多くの方々がいます。私はそうしたことを思いながら、「洗礼を受けるひとり一人がイエス様に永続的につながって行くように」という事を祈りながら、洗礼を授けました。私事ですが、2日誕生日を迎えましたが、11月18日になると高校生の時に洗礼を受けた日から数えて、受洗満50年になります。私が信仰を続けることができたのは教会生活があったからです。多くの方々に祈られ、支えられてイエス様に従って来られたことを感謝します。

本日の聖書はテサロニケ第一5:12−28です。ここでは教会生活における大事なことが教えられています。いろいろな教えによって、私たちは自分の至らなさに気づきますが、しかし24節に「あなた方を召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」という励ましがあります。救主イエスキリストは真実なお方ですから、私たちの信仰生活を最後まで守り、天国へと導いて下さいます。主の2007年、決意を新たにしてイエス様に従って参りましょう。

内容区分

1、神に喜ばれる教会生活をおくるための大切な教え 5:12−15

2、神に喜ばれる教会の三つの特徴 5:16−22

3、神に喜ばれる教会生活をおくる秘訣は祈りである 5:23−28

資料問題

この個所はクリスチャンに対し、教会生活をおくるうえで大切な教えが簡潔に記されている。12-13節、「指導し、訓戒している人々を重んじ・・・愛し、敬いなさい」、指導者の労の故に尊敬する。彼らに与えられた務めが彼らをすぐれた者にし、奉仕が名誉のしるしとなっている。14節「怠惰な」、語源的には隊列を離れた兵卒の意。「小心な者」、最悪の事態を予想して気にかける者。19節「御霊を消す」、御霊の火を消すものは罪の力である。

20節「預言」、未来に対する予告ではなく信仰共同体を造り上げ、勧めと慰めを与えるために語られた霊感による言葉(Tコリ12:10、14章参照)。それが聖霊からか悪霊からか(Uこり11:14)、単に人間の言葉であるかを識別せねばならないが、それは霊の特別な恵みの一つである(Tコリ12:10,14:29)。23節「霊と心とからだ」、霊は人間の一番内面にある神の霊を感知するところ(ロマ8:16−、26−27)、魂は知情意の精神的部分で他の人々と人格的な関係をもつところ。からだは肉体であり、霊と魂を内包するところである。25節「わたしたちのために祈ってほしい」、サタンは激しく信仰の指導者、また伝道者を攻撃するので、パウロは祈りを求めている。

1、神に喜ばれる教会生活をおくるための大切な教え 5:12−15

兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。(12節) 兄弟たちよ。あなた方にお勧めする。(14節)

新約聖書は全部で27の文書が集まり、一冊になっています。27の文書は、神様が必要に応じて人を選び、聖霊によって導いて書き記されたもので、使徒パウロの文書が13あります。彼は初代教会の伝道の面において、教会形成という面において大きく用いられた人物です。テサロニケの手紙もパウロが記したもので、イエス様の昇天18年後、紀元51年に記されています。

テサロニケの手紙の主題はキリストの再臨です。十字架の後、三日後に甦ったキリストは地上に40日間いて、神の国について弟子達に教え、エルサレム・オリーブ山から天国に帰って行かれました。天国に帰る前に、「わたしはあなた方を迎えにくる」(ヨハネ14:2−3)という約束をしています。と同時に再臨が来る前に「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という宣教命令を弟子達に与えています。私たちは、キリストの弟子として、「我らはキリストの大使である」(Uコリ5:20)という本年の御言葉に立って、キリストを伝道して行くように祈って下さい。

12−15節には、クリスチャンがどのようにして教会生活をおくるべかきが教えられています。

「指導者を重んじ、愛し、敬いなさい」との教えがあります。パウロは自分自身が伝道者であり、指導者ですが、命令口調ではなく、「あなた方にお願いする」という謙った思いをもって訴えています。主のために直接働いている伝道者たちのために祈ってほしい。彼らは様々なことで労している、彼らは委ねられた務めをし、奉仕をしている。彼らは時には人の中傷批判を受けながら、弁明せず、人を審かず、ひたすら神の教会に仕えている。そうした人々を「特に(特別に、最高の気持を込めて)愛し、敬いなさい」と言われています。私の信徒時代、おばさんの多い教会でしたが、結構いろいろなことを言う、そして大体ほとんどの人が何故か私に言ってくる。私は何を聴いても人には言わず、ただ神に祈りましたが、神様は万事を益にして下さいました。現在、群れの指導者として立てられている私たち夫婦のために祈って下さい。倫夫・チャチャ伝道師のために祈って下さい。そして皆のために、お互いに祈り合って行きましょう。

「怠惰な者」についての教えがあります。怠惰な者とは、隊列を離れた兵隊という意味があります。そこから中途で役目を投げ出した人のことを言っています。「キリストから離れるな、キリストにつながれ、教会につながれ」と繰り返し言っていますが、最後の最後まで、天国の門を潜り抜けるまで、信仰をもち、教会から離れず信仰を貫いて行くように祈って、励まし合って行きましょう。

「小心な者」についての教えがあります。小心な者とは最悪の事態を予想して気にかける人のことです。私は問題が生じた時に、種々の可能性を考え、最悪の事態も考えます。もし最悪の事態になっても受け入れることに心を決めます。最悪の事態になることを避けるために、人間的に根回しをする、予防線を張ることはしないで、万事を益として下さる神様に祈ります。今までに神様は最善に守り、導いて下さっています。

「弱い者を助けなさい」との教えがあります。信仰的に幼い人がいる、また人を裏切りがちな弱さをもっている人がいる、そういう弱い人々を支え、助けてあげられるように祈りましょう。

「すべての人に対して寛容でありなさい」との教えがあります。非常に難しいことですが、この勧めの言葉を厳粛に受け止めて行きましょう。これを実践する者にして下さいと祈って下さい。

「悪をもって悪に報いるな」との教えがあります。イエス様は十字架にかかった時に、恨みではなく、敵を赦す祈りを捧げています(ルカ23:34)。パウロはロマ12:19で「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りに任せなさい。なぜなら『主が言われる、復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」と告げています。私たちは悪ではなく、「いつも善を追い求めて行くように」という教えに従って行きましょう。

2、神に喜ばれる教会の三つの特徴 5:16−22

絶えず祈りなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなた方に求めておられることである。(16−18節)

16−18節の御言葉は祝福の三拍子として知られていますが、これは教会の姿についても当てはめられるべき御言葉です。教会はこうあるべきだとか、ここが足りないとかいろいろな意見や注文を言う人がいますが、私たちは聖書はなんと言っているかを知って行く必要があり、それに従って行くことが教会に祝福をもたらします。この個所は教会の三つの特徴を的確に表しています。

第一に、それは喜びの教会である。

教会の真の雰囲気は喜びです。教会に行くと嬉しくなる、元気になる、気持が明るくなる、心に喜びが湧いてくる。生きる力が溢れてくるというのが教会出席の恵みであると信じます。喜びの源泉はなんでしょうか・・・きのうも、きょうも、永遠までも変わることのないイエスキリストです(ヘブル13:8)。正月は日本人にとっては、めでたい嬉しい気分になる時です。大晦日が終わって、元旦になると、早朝に荒川の土手へ初日の出を見に来る人々が大勢います。正月元旦で、何となく嬉しい気持で初日の出を見に来るのでしょうが、それは一時的な喜びですぐ消えてしまうものです。その証拠に二日目からは誰も日の出を見に来ません。正月にご馳走を食べて喜んだ人もいるでしょう。お年玉をもらって喜んだ人もいるでしょう。でもそれらの喜びは何故かすぐ消えてしまいます。それはこの世のものは全て過ぎ去るものだからです。過ぎ去らないものはイエス・キリストのみであり、キリストが与えて下さる救いの恵みです。キリストは私たちを罪から救い、永遠の命をもつ神の子にして下さいました。救いの喜びは年々歳々、日々新たに心の底から湧きあがってくる喜びです。この救いの喜びを得た者の集まる所が教会です。私たちの教会の合い言葉は「キリストを喜び、キリストを伝える教会」です。この合言葉には何よりもキリストの救いを喜んで行くという意味が込められています。使徒パウロは、後年ロマの獄中から、自分が捕らえられていること、死刑になるかもしれない不安定な状態にいることなどを忘れているかのように「主にあって喜べ、繰り返し言うが喜べ」(ピリピ4:4)と叫んでいます。皆さん、きょう喜んでいますか・・・。喜びの与え主であるキリストの救いを喜んで行きましょう。

第二に、それは祈る教会である。

祈りは、聖霊によって与えられた素晴らしい祝福です(ロマ8:15)。祈りは呼吸であると言った人がいます。人間は生まれた瞬間から息をします。私たちはキリストを信じた瞬間に、聖霊によって祈るようになります。ですから、祈りは霊の呼吸であると言うことができます。多くの人々にイエス様を伝え、信じる決意をした人に「自分の言葉でイエス様を信じるということをお祈りして下さい」と勧めると、お祈りをするのが生まれて初めての人でもお祈りをしてくれます。そして、キリストを信じた人は祈り続けることによって、祈りが成長し、どんな事でも祈れるようになります。これは聖霊の助けによる恵みです。

教会の素晴らしい点は祈る群れであるということです。キリストは「何事でも、わたしの名によって願うならば、わたしはそれを叶えてあげよう」(ヨハネ14:14)と約束して下さいました。年の暮れ、年末感謝会をしました。深谷の井桁久志先生により、祈りが聴かれた証がありました。細かい点は略しますが、隣接の家と共同で使っていた水道を分離したことによって、水道工事代金56万円を支払わなければならないという緊急事態が生じた。教会にそんな大金はないし、とにかく祈ったそうです。先生は個人的に祈って祈って、それからこのことを教会の方々に告げて皆で祈ってもらうことにしたそうです。教会に告げ、祈った後で「私が献金します」と申し出た方々があり、何と全額が満たされ、支払うことができたのです。私たちの霊的必要、健康のこと、物質的必要など、祈りをとおして神様は最善の答を下さいます。何事でもイエス・キリストの御名によって祈って行きましょう。

第三に、それは感謝に満ちた教会である。

サタンは常に失ったもの、ないもの、不足のものを数えさせます。サタンは常に過ぎ去ったものに心を向けさせます。しかし、どんな暗闇の日であっても、全てが暗闇ではありません。ダビデは歌っています。「わが魂よ、主をほめよ。そのすべての恵みを心に留めよ(主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな)」(詩篇103:2)。主のして下さった恵みを思い起して感謝すれば、呟き疑いは消えて、前に向って行く希望が与えられます。私事ですが、昨年9月22日に突然「めまい」の症状に襲われましたが、その時の感謝をあげてみます。家族が先ず祈ってくれたこと、早い段階で、救急車で関東脳外科病院に運ばれ、適切な処置が取られました。三泊四日の入院中、あまりにもいろんなことで無理をしていたなーと反省することができました。特に睡眠時間は、常々家内に「早く寝なさい」と言われていたことを思い返し、早く眠るという自分の生活の改良点を実践する決断を与えられました。金曜日入院でしたので、日曜日の集会に穴をあけるところでしたが、倫夫先生が見事にピンチヒッターを引き受けてくれました。日曜日はベッドで礼拝を捧げることができました。倫夫先生がもってきてくれた何冊かの本を読むことができました。家族と何人かの人々の直接の見舞いに励ましを受け、きれいな花が飾られて、心が明るくなりました。自分は本当に多くの人々に祈られて幸いであるということを強く実感しました。病院の中を歩きながら、病人の苦しみや家族の方々の痛みを知ることができました。食欲が衰えずに食事できました。自分の事ばかりを申し上げましたが、皆さんもたくさんの感謝をもっていること思います。パウロは「すべてのことを呟かず、疑わないでしなさい」と言っています(ピリピ2:14)。恵みを数えて感謝を捧げましょう。

19−22節には霊の賜物を軽んじてはいけないことが教えられています(時間の関係で後日適当な機会をみて、このところを学ぶことにします)。22節に「悪から遠ざかりなさい」と言われていますが、聖霊は常にキリストを指し示し、義の道を歩むように導いてくれます。

3、神に喜ばれる教会生活をおくる秘訣は祈りである。

兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。(25節)

23−24節には、神様が私たちの全存在を守り、きよめ、最後の日に備えさせて下さることが言われています。23節の「霊」は神様を知るために、人間だけに与えられているものです。「心」は知る、感じる、考え決定するという精神的な働きをします。「からだ」は霊と心とを宿しているものです。もっとも大事なものは霊です。私たちはキリストを信じて、霊的に生まれ変わり、天国に行く命を与えられていることを感謝します。

パウロは、テサロニケの人々の霊と心とからだとを神様に委ね、手紙を閉じようとしています。しかし、最後にパウロは最も大事な、心を打つ言葉を記しています。それは「兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい」という言葉です。使徒の中の使徒、新約聖書27文書中、約半分の13の文書を書くほど偉大な信仰者であるパウロが「祈ってほしい」と訴えています。これこそ神に喜ばれる教会生活をおくるための秘訣です。改めて皆さんにお願いします、「私たち夫婦のために、倫夫・チャチャ伝道師夫妻の祈って下さい」。私たちは皆さんの祈りなしには、一日たりとも伝道者としての働きを続けることはできないでしょう。またお互いのために祈り合って下さい。ペテロは「万物の終りが近づいている。心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」(Tペテロ4:7)と告げています。

ある時、その国の最高の役職に選ばれた、優れた政治家のもとへ友人たちがお祝いに来た。その政治家は答えていった。「どうぞわたしに、お祝いではなくて、あなた方の祈りを下さい」。パウロにとって祈りとは、彼が他の人のために祈り、他の人々が彼のために祈る命の鎖であったのです。私たちも祈り、祈られて行く霊の命の鎖を大切に行きましょう。祈り、祈られる者の群れが教会の集まりです。神に喜ばれる教会生活の秘訣は祈りです。

まとめ

1、5:12以下にあるように、霊的指導者のために祈り、敬い、愛して行きましょう。5:14以下にある教えを心に留め実践しましょう。

2、5:16−18、喜びの教会、祈りの教会、感謝の教会を築きあげましょう。5:19−22教会に与えられている霊の賜物を重んじて行きましょう。

3、5:23以下、特に祈りが神に喜ばれる教会生活の秘訣であることを心に留めて下さい。

祈 り 天地の主である神様、神に喜ばれる教会生活を実践し、喜びの教会、祈りの教会、感謝に溢れる教会となるように導いて下さい。イエスキリストのお名前によって祈ります、アーメン。