クリスチャンになった恵み テモテ第一1:12−20      主の2007.1.14礼拝

7日井桁孝子さんの母、石浜繁子さんが93歳で天に召され、11日(木)川越キングスガーデン(クリスチャン経営による老人介護ホーム)で、孫にあたる井桁久志牧師司式により葬儀が行われました。久志先生が参列者に、おばあちゃんにキリストを伝えて救いを受けたという証(あかし)を折り込みながら、「我らの国籍は天にあり」というメッセージを語り、祈りが捧げられました。式の中で職員の方が、「おばあちゃんは笑顔の絶えない人柄で、その笑顔が私を励まし、多くの職員を励ましていました。私はイエスキリストを信じ、おばあちゃんもイエスキリストを信じていましたので、笑顔のおばあちゃんに天国で再び会う希望があります」という思い出が語られました。私はクリスチャンになると心が生まれ変わり、救いの喜びが笑顔となって表れる、その喜びが相手の心に伝わり、喜びが喜びをもたらす。自分の存在そのものがキリストの恵みを表すようになる、そしてクリスチャンは死んで終りではない、永遠の命の希望をもって生きる者であるということを改めて感謝しました。

本日はテモテ第一1:12−17です。この手紙の記者である使徒パウロは、「キリストイエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さったという言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである」(15節)と述べています。キリストを信じると罪が赦され、永遠の命を受け、天国へ行くことができます。井桁さんのお母さんはキリストを信じ、神の子になり、洗礼を受け、地上の生涯を終えて、天の御国に帰って行きました。使徒パウロは、「私はキリストの救いに与り、キリストを伝える使命を果し、世を去るべき時が来た。主はわたしを天にある御国に救い入れて下さるであろう」という天国への望みを語っています(Uテモテ4章参照)。私たちはキリストを信じてクリスチャンになり、神の教会に加えられて、天国へ向かっています。今朝、主の恵みの豊かさを御言葉によって教えていただき、信仰の道を前進する決意を新たにし、祈って、一週間の旅路を出発して参りましょう。

内容区分

1、イエスキリストに、まず感謝をささげよう 1:12−14

2、イエスキリストの救いをかみしめ、十字架にすがろう 1:15

3、イエスキリストの救いを、身をもって人々にあらわそう 1:16−17

資料問題

テモテ書とテトス書は、パウロが伝道者テモテとテトスに伝道牧会の実際を教えているので牧会書簡と呼称されているが、勿論一般信徒にも有益である。テモテは「神をおそれる人」「神を敬う人」の意。母ユダヤ人、父ギリシャ人でルカオニア地方のルステラ生まれでパウロ第一回ルステラ訪問の際に、母ユニヶ、祖母ロイスとパウロから洗礼を受けたと思われる。パウロは第二回伝道旅行の途次、ルステラを再訪、テモテに割礼を施し、伝道旅行チームに加えた。それは方々の町でユダヤ人と接触する機会が多かったので、彼らに対する宣教を容易にするためであった(使徒16:1−3、Uテモ1:5)。テモテはパウロの忠実な同伴者となり、パウロはピリピ書の中でテモテの信仰を評価している(ピリピ2:19−22)。手紙は紀元67年に記され、パウロはロマの獄中であり、テモテはエペソ教会の牧師であった。13節「神をそしる者、迫害する者、不遜な者」、パウロは三つの表現によって回心前の自己の罪深さを告白している。15節「わたしは、その罪人のかしらあのである」、罪人の中の罪人という事で、自分が最大の罪人であることを自覚している。17節「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなくほまれと栄光があるように」、栄光の讃歌である。6:16、ガラテヤ1:5、ロマ11:33−36、ピリピ4:20参照。

1、イエスキリストに、まず感謝をささげよう 1:12−14

わたしは自分を強くして下さったわたしたちの主キリストイエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じて下さったのである。(12節)

テモテへの手紙は二つあり、パウロが伝道者テモテに個人的に記したもので、「どのようにして教会生活をするのか」ということが主題になっています。第一の手紙はパウロが信仰の迫害を受けてロマの獄中にいたのですが、そこから釈放されて当時の世界の果てイスパニア伝道に行った紀元67年に記されています。第二の手紙は信仰の故に再逮捕され、死刑の判決を受けて首を斬られて殉教する直前に記されています(紀元68年)。この手紙には教会生活のことと同時にキリストの恵みがたくさん語られています(1:15,2:6、3:166:13、Uテモ1:10、2:8、3:15、4:1,18等)。それでこの手紙は、伝道者テモテに牧会上の必要を教えるための個人的な手紙でしたが、キリストの恵みは全ての人にとって必要であり、有益であるという事で新約聖書の中に加えられています。

12節、パウロは「わたしたちの主キリストイエスに感謝する」と言っています。パウロは常に感謝を忘れない人でしたが、ここでは救主イエスキリストに対する感謝が三つ述べられています。

第一に、パウロは、自分を強くして下さるイエスキリストに感謝をささげています。(12節)

強いというのは、聖霊によって強められるという事です。パウロは、自分では何もできなかったであろうが、キリストは聖霊を与えて下さった。「聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて・・・地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)という約束のように、聖霊によって強められ、当時の世界の果てであるイスパニアまで伝道に行くことができたということを感謝しています。私たちを強めて下さるのは聖霊です。聖霊は躊躇する私たちに「イエスキリストは主である」(Tコリ12:3)という信仰告白をするように導いて、キリストを心に迎える決心をさせ、洗礼に導き(テトス3:4−5)、私たちを励まして祈らせ(ロマ8:15,26)、キリストに従う道を前進するように強めて下さいます(詩篇143:10)。私たちに聖霊をおくり、強めて下さるキリストに感謝をささげましょう。

第二に、パウロは、自分を忠実な者であると見て下さるイエスキリストに感謝をしています(12節)。   パウロは、自分は「神をそしる者、迫害する者、不遜な者」(13節)であったと告白しています。そ

んなパウロをキリストは十字架の恵みをもって救い、教会の一員とし、しかも伝道という任務を与えてくれたのです。これはイエスキリストが私たちを赦し、信任してくれる愛のお方であるということを示しています。水曜日祈り会で「万物の終りが近づいている・・・何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(Tペテ4:7、8)という御言葉を学びました。その御言葉のごとくに、キリストは愛によってパウロの罪を赦し、彼を責めず、その罪の傷をおおい、彼を信任し、伝道の使命を与えたのです。  

第三に、パウロは、自分にイエスキリストの恵みが増大していることを感謝しています(14節)。

私事ですが、信仰の年月を重ねるに従って、主の恵みが増えていることを実感します。でもよく考えてみますと、もともと主の恵みはいっぱいで豊かであったのです。「キリストイエスにある信仰と愛とに伴い」とありますが、イエス様に対する自分の信仰と愛が成長することによって霊の目が開かれ、主の恵みに敏感になり、主の恵みの豊かさを充分に知ることが出来るようになったのです。

イエスキリストの恵みは豊かで、人知を越えた恵みです。前にも引用しましたが、明治時代、好地由太郎は勤め先の女主人に乱暴し、殺し、火をつけて家ごと焼き払い逮捕されます。死刑になる身でしたが、18歳であったので終身刑になります。ところが彼は罪を反省するどころか脱獄を企て、終身刑になお9年の刑を追加されます。看守に反抗し、手がつけられないような囚人でしたが、義母が差し入れてくれた聖書を読むようになり、聖霊により自分の罪を示され、十字架のキリストを信じて生まれ変わり、模範囚となり、23年後に特別恩赦によって出獄します。彼は被害者の遺族にお詫びに行き、赦してもらいます。それからは、「自分を強くして下さったわたしたちの主キリストイエスに感謝する」ために、全国の刑務所を回り、多くの囚人をキリストに導く働きを忠実に成し遂げ、天に召されて行きました。今朝ひとり一人が「わたしたちの主キリストイエスに感謝する」思いを深めて、キリストのして下さった救いの恵みをほめ讃えて行きましょう。

2、イエスキリストの救いをかみしめ、十字架にすがって行こう 1:15

「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」という言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(15節)

15節は暗誦すべき御言葉です。先ほど述べた好地由太郎はこの御言葉を自分の救いの支えにしていたということです。パウロは「わたしは、その罪人のかしらなのである」と言っています。それは「自分は罪人の中の罪人である」という深い罪の認識を示し、自分は本当に不信仰な悪い人間であり、神に逆らう者であったということを言い表しています。人と比べれば自分のほうが少し良いなどと思うかも知れませんが、神の子キリストの前に立てば、私たちは自分の罪深さにただただ恥じ入るのみであると思います。キリストは罪に沈んでいる私たちを救うために、十字架に架って罪の身代りになって死んで下さった唯一の救主です。私たちはキリストの十字架によって罪を赦された者です。私たちは罪を赦された罪人であることを忘れないでいる時に、主からたくさんの恵みをいただくことができますが、二つの恵みを分かち合いたいと思います。

一つには、赦された罪人であることを忘れぬ時に霊的傲慢から守られます。

聖書朗読のイザヤ51章で「あなた方の切り出された岩と、あなた方の掘り出された穴とを思いみよ」という御言葉がありました。私たちが固い岩のような罪の力に捕らわれていたのを、キリストは命をかけて十字架で罪を打ち砕いて下さった。十字架によって罪の力から解放されたが、私たちを縛っていた罪の岩の跡には大きな穴がぽっかりとあいている。それを見ると、自分の罪がいかに大きかったかを知ることができます。救いの恵みに感謝し、救いの日、あるいは洗礼の日を思い起し、主に感謝することは大切なことです。自分の救いを忘れぬことによって、私たちは霊的傲慢にならないように守られて行きます。アメージング・グレースという歌がよく歌われていますが、これは教会の歌です(聖歌「驚くばかりの恵みなりき」)。奴隷船の船長であったジョン・ニュートンが悔改めて救われ、後に牧師になります。彼は自分の部屋に大きな文字で「あなたがエジプトの地で奴隷であったこと、あなたの主があなたを贖ったことを忘れてはならない」と書いた紙を貼りつけ、自分は奴隷船の船長という忌むべき者であったが、恵みによって救われたことを忘れぬようにしていました。彼は墓碑銘を自分でこう書いています、「ジョン・ニュートン・クラーク、かつては異教徒であり、アフリカの奴隷であったが、我らの主と救主イエスキリストの恵みにより、支えられ、贖われ、赦されて、長年にわたって滅ぼそうと、やっきになったその信仰を、説教するように任命された」。ジョン・ニュートンは、自分が罪を赦された罪人であるということを決して忘れなかったのです。パウロもそうでした。私たちも自分が罪赦された罪人であることを忘れてはならないのです。自分が赦された罪人であることを忘れないでいる事が、私たちを霊的傲慢から守り、他人を見下し、審く心から救ってくれることになります。

二つには、赦された罪人として十字架の恵みにすがって行くようになります。

キリストによる罪からの救いは生涯の感謝であり讃美です。内村鑑三はキリストの十字架に一生涯に渡って感謝をささげ、私のキリスト教は十字架教(Crucifixianity)であるとまで言っています。それは彼が十字架の恵みによって救われたからです。彼は若くして結婚し、子どもが生まれましたが、離婚することになり、自分の罪に悩み、アメリカに行き、真の信仰を求めます。26歳の時に、アーマスト大学のシーリー総長に出会います。シーリー総長から「君はなぜ自分ばかりを見るのか。なぜ十字架の上に君の罪を贖いたまいしイエスキリストを仰ぎ見ないのか」と言われ、キリストの十字架を信じることができるようになって行きます。そして、「夏の午後、深く自分の罪を認め、十字架に付けられたイエスのうちに、その赦しを発見した。あまりの厳粛さにこの場をすませることはできぬと考えた。ちょううどその時、車軸を流すような夕立がやってきた。天みずから聖(きよ)い式典に招いているのだと思い、雨の中に飛びこみ、敬虔な態度で全身を『天からの水』に浸した。以来自分をキリストの弟子として表白するにいたった」と述べています。彼は十字架の恵みを終生忘れることなく、私の救いは十字架にある、私は十字架教だと感謝し続けたのです。「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」ということは掛け値なしの真実な御言葉です。イエス様を信じて生まれ変わったことは驚くべき恵みです。ジョン・ニュートンが作詞した「驚くばかりの恵みなりき、Amazing grace。聖歌総合版196番(旧聖歌229番)」をさんびしましょう。

3、イエスキリストの救いを、身をもって人々にあらわそう 1:16−17

わたしが憐れみをこうむったのは、キリストイエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼(キリスト)を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。(16節)

キリストの十字架によって救われた者がクリスチャンです。パウロは自分がクリスチャンになったという事は、「わたしが、今後、キリストを信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」と言っています。先日、私のために高校時代から、50年間祈ってくれている82歳のご婦人から電話がありました。その方は娘二人を死産するという厳しい試練を体験され、その苦しみの中からキリストに出会い、救いを受け一生懸命に信仰生活に励み、まだ小さな群れであった教会を支えていました。その方は小さな子どもをかかえながら、いかなる時でも日曜礼拝、木曜祈祷会を休んだことがありませんでした。よく聖書を読んでいました。絶えず祈っていました。心からの感謝をもって献金をしていました。私はその方の信仰生活の実際を通して、私の信仰生活の初期に、信仰の最も大事な基本的なことを教えてもらったことを生涯の感謝に思っています。まさしくその方は「キリストを信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」ということを実践していたのです。私たちの群れも人数が増えてきたことは感謝なことです。人数が増えてくれば、例えば礼拝後に私たち夫婦や倫夫・チャチャ伝道師が幾らガンバっても全部の人に声をかけることは不可能です。先に救われ、信仰生活をしている皆さんが、声をかけてあげることによってキリストの愛をあらわすことになります。キリストを信じる者の模範になると言うと、何か大変なように思いますが、声をかけるという身近なところから、キリストを信じている者のお手本を示すことができるのです。私が救われた教会はおばちゃんたちが多かったので、賑やかでしたが、しかしひとり一人が信仰生活の基本に忠実であったことを思い出します。集会は休まない、祈る、聖書も読んでいる、よく献金していました、新しい方や信仰生活の新しい人に声をかけて励ましていました。私はそういう中で信仰生活のスタートを切り、信仰を養われ、「主のために生きなさいよ。あんたは献身だね」と言われ続けて、遂に献身し、もう50年が経っています。

この年「我らはキリストの大使である」(Uコリ5:20)という御言葉を与えられています。キリストの信任を受けて、和解の使者としてキリストの救いを伝えるために、信仰生活の基本に忠実であることが大切なことです。聖書を読む、祈る、集会に励む、献金する、伝道奉仕をして行くということをコツコツ実践して行く時に、私たちは後に続く者の模範となって用いられて行きます。「主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じて下さったのである」(12節)ということを感謝し、自分の身をもってキリストの救いの恵みを表して行くように祈って下さい。

まとめ

1、12節、キリストに感謝しましょう。聖霊によってキリストを信じ、キリストを伝道する力が与えられ、キリストが私たちを忠実な者であると認めて下さっていることを感謝しましょう。

2、15節、私たちはキリストの十字架によって救われた、赦された罪人であることを忘れないことによって、霊的傲慢に陥ることなく、謙って十字架の恵みにすがって行くことができます。

3、16節、キリストの恵みを、身をもってあらわし、後に続く者の信仰の模範になって行きましょう。

祈 り 天地の主である神様、聖霊に導かれて「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」ことを信じてクリスチャンになれたことを感謝します。キリストの十字架にすがって、感謝をもって日々を前進し、キリストをあらわす生活をして行けるように私たちを導いて下さい。ファミリー、ゴスペル、夕べの礼拝を祝福して下さい。イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。

参考文献テモテ注解―バークレー、文語略解、口語略解、フランシスコ会、LABN、黒崎、米田。 「この人に学ぶ・久保有政編著・レムナント出版」、「内村鑑三信仰著作全集・2巻、23巻・教文館」、「日本人の回心・野村耕三著・新教出版社」