クリスチャンとして生きる  テトス2:11−15         主の2007.1.21礼拝

だいぶ以前に、東北地方のある教会に行きました。その教会の牧師と山の中に住む青年を訪問したのですが生憎と留守でした。奥の仏壇のある部屋におじいちゃん、おばあちゃんがいましたので「イエス様のお話をしてもいいですか」と尋ねると、「どうぞ」との返事でした。おじいちゃんは病気で横で寝ていましたが、おばあちゃんは生まれてはじめてイエス様の十字架と復活のお話を聴いてくれました。「罪を認めて罪から離れ、イエス様を信じて、イエス様を心の中にお迎えしませんか?」とお勧めしたところ「ハイ信じます」との返事でした。大きな仏壇が置かれている部屋で、おばあちゃんは悔い改めて生まれ変わり、それから半年後に召されて行きました。

本日はテトス2:11−15です。ここには「すべての人を救う神の恵みが現れた」ことが告げられています。神とは「大いなる神、救主キリストイエス」のことです(13節)。この御言葉のとおりに、すべての人を救う神であるキリストの恵みによって、生まれて初めて福音を聴いたおばあちゃんが救われました。3章には、すべての人に働きかけて救いに導くのは聖霊の尊い働きであると記されています(3:4−7参照)。神であるキリストは愛であり、その愛はすべての人を罪から救い出し、永遠の命を与える恵みとして現されています。神であるキリストの恵みによって私たちも救われ、神の子になり、教会に加えられて信仰生活を継続しています。私たちひとり一人がキリストを信じるクリスチャンであることの自覚を深め、祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

内容区分

1、キリストを信じる者はすべて救われる 2:11

2、キリストを信じる者はキリスト中心に生活する 2:12−14

3、キリストを信じる者は軽んじられてはならない 2:14

資料問題

テトス書はクレテ島で牧会しているテトスにパウロが書き送ったもの。テトスについては使徒15章を見よ。

11節「神の恵みが現れた」、救主イエスキリストの降誕を指す。13節「大いなる神、わたしたちの救主キリストイエス」、これは「神と救主イエスキリスト」とも訳せるが、そう訳すと神とキリストは別個のペルソナとなる。しかし「大いなる神」「救主」はイエスキリストの二つの称号である。なぜなら「出現(現れる)」は、神のために用いられることはなく、もっぱらキリストにのみ用いられているからである(Tテモ6:14、Uテモ4:1、Uテサ2:8、マタイ25:31、Tペテ4:13)。14節「ご自身をささげられた」、キリストの言葉に基づくもので(マルコ10:45)、パウロがしばしば用いている(Tテモ2:6、ガラ1:4,2:20)。キリストの十字架の苦難と死は、私たちを罪から解放するために与えられた最高の賜物である(ロマ5:6,8、8:32、ピリ2:8、エペソ5:25)。「不法からあがないだす」、ユダヤ人がエジプトから解放されたように(出15:13)、またバビロン捕囚から救い出されたように(イザヤ44:21−24)、クリスチャンは罪の絆から解放されている。「聖別する(きよめる)」、ユダヤ人が契約の血によってきよめられたように(出24:8)、クリスチャンはキリストの血によってきよめられている(Tヨハ1:7、ヘブ9:14−22、Tペテ1:2)。

1、キリストを信じる者はすべて救われる 2:11

すべての人を救う神の恵みが現れた。(11節)

テトス書は3章からなる手紙ですが、使徒パウロは聖霊に導かれ、老人、青年男女、奴隷に対して神様の教えを伝えています。テトス書の中心である2:11−15には、「すべての人は神様によって愛されている。神様は大いなる(偉大なる)神であり、救主イエスキリストとしてこの世に現れて下さった。キリストはすべての人を救うために、人間の罪の身代りとなり、十字架にかかって下さったお方である。キリストを信じれば生まれ変わり、神の子になれる。キリストは罪を赦し、心を生まれ変わらせ、生活を変え、すべてを新しくして下さる恵みの神である」ということが伝えられています。

*「すべての人を救う神の恵みが現れた」・・・これは、クリスマスの日にこの世に来られたキリストを指しています。神であるキリストは天の栄光の座におられたお方です。神であるお方が何故この世に来られたのでしょうか・・・。私たち人間は神であるキリストを礼拝しなければならないのに、神様の戒めを破り、罪人になってしまい、僅か70年、80年の人生を生きて、あとは罪の故に永遠の滅びの中に投げ込まれてしまうという哀れな者でした。聖書は厳然と告げます、「罪を犯し、罪をもっている人間は死ぬ、死んで神の審判を受け、罪人は永遠の地獄に行く」(ロマ6:33前半、ヨハネ3:36後半)。そこでキリストは人間を救わなければならないという愛の故に、神である身分を一時的に捨てて、ご自分が人間になって罪の身代りになろうと決断されて、この地上に来られたのです。

*「すべての人を救う神の恵みが現れた」・・・神であるキリストの恵みは十字架によって現されました。キリストは今から約2000年前にエルサレムの郊外ゴルゴタの丘で十字架にかかり、人間が受けるべき罪の罰である死を、ご自分の身に引き受けて死んで下さったのです。14節に「キリストがわたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法から贖い出すためである」(14節)ということが告げられています。

ある人がムシャクシャして、「コンチクショウ」という怒りの気持でいっぱいになりながら、「怒りのために自分をコントロールできない自分は確かに罪人なのだ」ということが痛いほどに分った。こんな恵まれない心では、自分は救いを失ってしまうかも知れない。すると心に十字架が浮かんできて、「だからイエス様は罪ある自分のために十字架にかかって下さったのだ」という事が理屈ぬきにわかり、突然に涙が溢れて溢れて止まらないほどであった。「十字架は私の罪のためでした」と信じる者は、無条件で罪を赦され、罪から解放されます。十字架のキリストこそがすべての人を救う恵みの救主であり、まことの神様です。あなたはキリストの十字架を信じていますか・・・。もちろん信じていることと思います。キリストの十字架に感謝し、救いの恵みを喜び、讃美しましょう。

*「すべての人を救う神の恵みが現れた」・・・神であるキリストを信じることはすべての人に対して与えられている恵みです。男女、民族、年齢、学歴、職業、知能指数、身体的ハンディなどによって区別されることはありません。キリストの救いは、「キリストを自分の心に受け入れ、信じる者は誰でも、神の子どもとされる。キリストを信じる人は誰でも、救っていただくことができる」(ヨハネ1:12)という単純明快なものです。それで「すべての人を救う」と言うことで「すべて」が強調されています。

脇長さんの長女妙子さんは生後に高熱を出して脳に障害を受け、ご両親はあちこちの医者を訪ね歩きましたが、知恵遅れという診断を受けました。脇長さんは立正佼成会に入り心の平安を求めていましたが、しかしクリスチャンの次女田鶴さんより伝道を受けていて、大阪より熊谷に引越しする時に立正佼成会をやめてきました。立正佼成会では真の平安を得ることができなかったからです。熊谷に来て、教会員の方による個人伝道を通してキリストを信じて、真の心の平安を与えられました。妙子さんも「イエス様を信じる」ということで、親子で洗礼を受けました。妙子さんは施設で軽労働をするように導かれ、バスで送迎してもらうことになりました。未信者であった脇長さんのご主人が、「妙子、安全のためにお守りをもって行きなさい」と言うと「お守りはいらない。イエス様が私を守ってくれるから」と答えたのです。妙子さんは知恵遅れではありましたが、信仰は霊の事柄であって、妙子さんの霊はキリストによって救われていたので、偶像を退ける聖霊の知恵が与えられたのです。脇長さんのご主人は自分の力を信じ、宗教はいらないと言っていましたが、病気を通して心が砕かれ、イエス様を信じて生まれ変わり、慈恵病院の三階から教会のほうを向いて感謝して日々を送り、天に召されて行きました。この実例を通して、救いは人間の能力、知恵で得られるものではなく、神であるキリストが十字架によって、信じる者を無条件で救うという恵みの賜物であることを確信できます。私たち一人ひとりが、すべての人を救うキリストの恵みによって救われていることを感謝しましょう。

2、キリストを信じる者はキリスト中心に生活する 2:12−14

大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。(13節)

キリストを信じている私たちに対し、「神を敬わない不信心な(不敬虔な)心、この世につく情欲を捨てなさい」ということが命じられています。クリスチャンは洗礼の時に「私はキリストを自分の救主、また主として信じ、一生涯キリストの教会につながって信仰生活をして行きます」という決意をして、信仰生活に出発しました。その決意を保ちつつ、不信心を捨ててキリスト中心に生きること、また「我らの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)ということを信じ、「神の国と神の義を求めて生きる」(マタイ6:33)ことを第一にして生きるのがクリスチャンです。

キリストを信じている私たちに対し、「慎み深く、正しく、信心深く生活しなさい」ということが命じられています。何故ならば、やがてキリストが再臨される時に「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」からです(Uコリ5:10)。キリストを信じている者は天国に入りますが、しかし、それぞれがどんな信仰生活をしたのかということがキリストの前で問われ、さばかれるというのです。キリスト再臨の日が間近い事を覚えながら、クリスチャンは罪を振り捨てて、キリスト中心に生きて行くことが大切です。

14節をご覧下さい。私たちがキリスト中心に生きて行けるように、「キリストは十字架にかかって私たちを罪から救い出し、良い業(わざ)に熱心な選びの民として、私たちをご自身のものとして聖別(きよめる)している」ということが約束されています。ですからキリストにしっかり結びつき、キリストにすがりついて行くこと、イエス様が一番、イエス様いのちです。クリスチャンの別名はイエス様大好き人間です。使徒行伝には、聖霊に満たされて弟子達がキリストきちがいになって伝道している様子が記(されています。キリストご自身が「聖霊はわたしについて証をする」(ヨハネ15:26)と言っています。この手紙を書いたパウロは、「キリストの愛が迫ってきて、気が狂うようである」と告白しています(Uコリ5:13−15)。聖霊に満たされ、導かれ、イエス様が一番である教会の三つの特徴を申し上げます。

第一に、教会はキリストの救いを感謝する喜びの群れです。

「あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ4:4)。

イエスキリストの十字架の救いを喜び、キリストの救いを常に讃えて行く集まりが教会です。

第二に、教会はキリストを信じる者が隔てなく集る所です。

「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなた方は皆、キリス

トイエスにあって一つだからである」(ガラテヤ3:28)。

体が頭の下に有機的につながり、全ての部分が無くてはならないものであるように、私たちはキ

リストにあって一つです。キリストにあって互いに尊び合い(Tコリ12:12以下)、キリストが弟子の足を洗われたように、高ぶった思いを捨て、へりくだった心をもって互いに人を自分よりもすぐれた者とする集まりが教会です(ヨハネ13:1−20、ピリピ2:2−4)。そのためにお互いに愛し合い、赦し合い、祈り合って行く者の集まりが教会です。

第三に、教会はキリストの救いを伝道する基地です。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)

イエスキリストの命令に従い、時が良くても悪くても伝道して行く者の集まりが教会です(Uテモテ4:2)。やがてキリストが再臨します。キリストは、「世界中にキリストの福音が伝えられた時に世の終りが来て、再臨がある」(マタイ24:14)と預言されています。現在、世界の隅々まで、通信衛星を通して、インターネットを通してキリストの福音が伝えられていて、すべての人に福音が伝えられる日が間近になっています。

 教会がキリスト中心であるように祈って下さい。*教会が喜びの群れであるように、*いろいろな人々がキリストを求めて隔てなく集まる教会であるように、*キリストの救いを常に伝道して行く教会であるように祈って下さい。そのために自分自身がキリストを見上げて、一生懸命に信仰生活をし、周りの人々のために祈って行くことが大切です。教会のために、牧師である私たち夫婦のために、倫夫・チャチャ伝道師のために、お互いのためにまず祈って下さい。自分自身がキリスト中心になり、忠実に信仰生活に励んで下さい。その時に必ず心が恵まれ、人のためにさらに祈れるようになり、愛をもって人に言葉をかけている自分になっていることを発見すると思います。それが本当に喜んでいる者の姿です。祈って下さい、祈りがすべてを恵みに変えるカギです。

3、キリストを信じる者は軽んじられてはならない 2:15

あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。(15節)

15節は、直接には伝道者テトス対する勧めです。パウロはテトスに「キリストの権威をもって聖書をしっかり語ることができるようにしなさい」と言っています。「責める」とはキリストを信じない異端の人々の間違いを指摘することです。またクリスチャンであると言いながら、神の御言葉に従わない者に対して戒めるという意味もあります。伝道者が主から委ねられている使命を果たして行けるように、祈って下さるように再びお願いしておきます。

15節最後にあります「だれにも軽んじられてはならない」という言葉を忘れないで下さい。

キリストを信じている者は、キリスト一筋に生きて行くことが求められています。「あれでもクリスチ

ャン・・・」と言われることがないように、キリスト中心に、教会生活中心に生きて行くように祈って下さい。軽んじられない信仰生活をするためには、毎日一歩一歩キリストに従って行くことが大切です。ドイツのマルチン・ニーメラー牧師(1892−1984)はヒットラーに抵抗し、強制収容所に投獄され、大きな苦しみを体験した人です。戦争後自由になった時、彼は説教の中で、「世間では強制収容所に入っていたから偉いように言うが、自分はその当人として、そこにいた時は途方にくれてしまった。試練とは本当に厳しいものだ。ではどうやって試練を乗り越えて来られたのかと言えば、ただ一日一日、羊飼いであられるキリストの御言葉に支えられて生きてきたのだ。顧みれば、ただそのことを通して最善のことがなされたように思う」と語っています。ここに軽んじられない信仰生活をする秘訣があります。秘訣は毎日聖書を読み、祈り、呟かず疑わずキリストについて行くことです。

まとめ

1、2:11、キリストを信じる者はすべて救われます。神であられるキリストの十字架によって救われていることを感謝しましょう。

2、2:13、キリストを信じる者はキリスト中心に生きます。キリストを信じる者の集まりが教会です。教会はキリストの救いを感謝する喜びの群れです。教会はキリストを信じる者が隔てなく集り、愛し合い、赦し合い、祈り合う所です。教会はキリストの救いを伝道する基地です。

3、2:15、誰にも軽んじられない信仰生活をして行くように祈りましょう。毎日毎日聖書を読んで、祈ってキリストについて行くことが秘訣です。(「イエスは勝利をとられた」をさんびします)

祈 り 天地の主である神様、全ての人を救うためにキリストが人となって来て下さって、十字架の上で私たちの罪の身代りになって、救いの恵みを現していただき、私たちはただ信じるだけで救いをいただけたことを感謝します。私たちの教会を、キリストの救いを喜び、キリストを信じる者が隔てなく集り、キリストを伝道する教会として成長させて下さい。日々聖書に親しみ、聖霊によって祈り、信仰を軽んじられることがないように導いて下さい。病気の方、入院中の方を癒し、支えて下さい。問題を抱えている方に勝利を与えて下さい。イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献テトス注解―フランシスコ会、口語略解、文語略解、LABN、黒崎、バークレー、新共同訳略解。「キリスト教逸話例話集・高野勝夫編著・神戸キリスト教書店」