クリスチャンとして成長する恵み ヘブル5:7−10 主の2007.1.28礼拝
いろいろなスポーツがありますが、皆さんはどんなスポーツが好きでしょうか・・・。現在はあらゆるスポーツがテレビで放送されています。アナウンサーが画面に合わせて内容を伝え、その他に大体どのスポーツ放送にも解説者がついていて、ゲームの見所などを説明してくれます。いろいろなスポーツがありますが、解説者の共通の言葉があります。例えば相撲では「土俵際あぶなかったのですが、よく回り込んで相手を押し出しましたね、よく稽古をしていたので、体がとっさに動いて逆転できたのです」。野球では「最後までピッチャーが崩れずに相手を押さえましたね。普通のピッチャーだとヘバッテしまうのですが、彼はよく走りこんで足腰を鍛えていますから、イザという時に踏ん張れるんですね」。そうした解説を聞く時に、基本に忠実で、ふだんコツコツ練習して本番に備えている者が、ピンチを迎えても、日々に練習を通して蓄えてある力によって、いざという大事な場面で実力を発揮し、勝利できるということを知ることができます。
本日はヘブル5:7−10です。この箇所は、イエスキリストが十字架に架る前夜、ゲッセマネの園で、「激しい叫びと涙とをもって祈った」ことが記されています。「人間の罪を背負って、罪のない自分が神の罰を受けて死のう。神から切り離されて陰府(よみ)にまで堕ちて行こう」という覚悟を決めるために、キリストは血の汗を流しつつ、激しい叫びと涙とをもって徹夜で祈られたのです。大事な時にキリストが先ず祈ることができたのは、いつも祈っていたからです(ルカ23:39−46)。どんな人でも死が目前に迫っていれば動揺し、落ち着かないと思いますが、キリストは祈っています。それは日々に祈るという基本に忠実であったので、いざという時に、自分の苦しい気持を父なる神様にブチマケ、激しい叫び、涙の祈りを捧げることができました。キリストの祈りから、心の底から神に頼る「深い信仰(神を畏れ敬う態度―新共同訳、敬虔−新改訳)」、何があっても神に従う「従順」の尊さを教えられます。今朝私たちはキリストを信じるクリスチャンとして、さらに霊的に成長して行くことを願い、主のメッセージを聴き、共に祈って新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。
内容区分
1、キリストを信じ、何があっても深い信仰を求めて行こう 5:7
2、キリストを信じ、何があっても従順な者になって行こう 5:8−10
3、キリストを信じ、涙をもって人のために祈って行こう
資料問題
7節「肉の生活の時」、この世におられた時であり、特にゲッセマネに始まる受難の時を指す。キリストはゲッセマネで「この杯がわたしの前を通り過ぎるようにして下さい」と祈り(マタイ26:39)、御使いに力づけられ、血の滴りのような苦しみの汗を流し祈っている(ルカ23:43−44)。「深い信仰」、エウラベイアは信仰、恐れ、苦難、尊敬などの意がある。新約では敬虔すなわち神を畏れ敬うことの意で用いられている(12:28、ルカ2:25、使徒2:5、8:2)。キリストは苦しみのうちに、神の御旨を果すために、畏れ敬う心をもって祈ったが(ルカ22:42、マルコ14:36)、それが深い信仰である。8節「苦しみによって従順を学んだ」、キリストは人間として、己を捨てて神の御旨に従うという苦しみによって従順を学び、従順の究極が十字架である。10節「メルキゼデク」、義の王と言われる祭司で7章及び創世記14章を見よ。キリストの前表とされている。
1、キリストを信じ、何があっても深い信仰を求めて行こう 5:7
キリストは、肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰の故に聞きいれられたのである。(7節)
キリストはこの地上に来られて、イスラエルの地で33年半の生涯をおくられ、十字架により、復活により、私たち人間の救主となられたお方です。キリストは人間として生きておられた時に、よく祈っておられました。例えば、朝早く起きて祈っています(マルコ1:35)。弟子を選ぶ時に徹夜で祈っています(ルカ6:12−16)。子どもたちを抱いて祝福の祈りをささげています(マルコ10:13)。聖霊によって喜びに溢れ、祈っています(ルカ10:21)。病人のために祈っています(マタイ8:16−17)。弟子達のために祈っています(ヨハネ17章)。ゲッセマネで祈っています(マルコ14:32)。十字架の上で祈っています(ルカ23:34)。この個所では、ゲッセマネの園で「激しい叫びと涙とをもって・・・祈りと願いとをささげた」と記されています。そして、その深い信仰の故に祈りは聴かれ、キリストは、私たち人間の罪のために一度は十字架で死にましたが、死から救う力をもっている神様によって復活して、今も、そして永遠に生きておられます。
この個所で言われている「深い信仰」とはなんでしょうか。 「深い信仰」とは、原語では信仰、恐れ、苦難、尊敬などの意味があり、敬虔とも訳されています。深い信仰の故に祈りが聞かれたというのは、神様を畏れ敬う心をもって(敬虔な態度をもって)、神様に心からの信頼をもって祈ったからです。神様に信頼するというのは、「私はあれこれ注文をつけません、神様の一番よいと思うことをして下さい。どんなことでも神様のおっしゃるとおりにします」という祈りです。私たちも信仰にしっかり立って行きたいと思います。信仰をもっているはずなのですが、私たちの信仰は時々グラグラします。また落ち込んだりします。深い信仰と言われる、岩のようにどっしりした、揺り動かない信仰になるためにはどうしたらよいのでしょうか・・・その秘訣はたった一つ、キリストに頼り、キリストの御名によって祈ること、あれこれ注文をつけないで神の御心に任せることです。自分の感情に動かされないで、神様は最善をして下さるという信仰に立つことです(ロマ8:28)。
*先ず自分の信仰を点検してみましょう。
まことの救い、まことの信仰は次のとおりです(図示します)。
第一に、キリストの十字架と復活の事実があります。
第二に、罪を悔い改め、キリストを救主、また主として信じること、そしてキリストを心に迎え入れることが信仰です。
第三に、それが感情に伝わり、喜びとなって表れます。キリストの事実―信仰ー感情です。決して感情、信仰、キリストの事実ではありません。この順序を間違えると、感情に支配され、浮き沈みの激しい、上がったり、下がったりの信仰になります。
*次に神第一の信仰生活をしているかどうかを点検してみましょう。
第一に、あなたは時間、お金、才能をどのようなことのために使っていますか。
第二に、あなたの心をいつも占めているもの、最も大切にしているものはなんでしょうか。
第三に、あなたの人生のゴール(目的、目標)はなんでしょうか。
この三つの質問は簡単なようですが、大事な問いです。自分の身にあてはめて考えて下さい。
自分が神を第一にしていると思う方々は、祈ってますます信仰生活に励んで下さい。
自分が神様を第一にしていなかったと思う方々は、信仰と勇気とをもって神第一の生活に踏み出して行くように祈って下さい。必ずや祝福されます。祝福の第一歩は平安です。神様第一の生活をしていれば、何があっても慌てるこなく心が平安です。
Aさんはキリストを信じ、燃えていた。結婚をし、子どもが生まれた。万事はうまく行っているように思った。その時にサタンが忍び寄って囁いた、「お前には仕事がある、趣味に打ち込む時間もほしいだろう。お前は聖書のことをよく知っている、だから毎週々々教会へ行かなくても大丈夫だよ」。彼は「自分ひとりの信仰でやって行ける」という傲慢な気持になり、神第一を忘れ、教会に行くのをサボり、遂に行かなくなり、平安のない空虚な惨めな生活をしていた。しかし「神は愛なり」(Tヨハ4:8)です。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)という恵みの主です。神様は、彼に病気という試練を与え、もう一度キリストに縋りたいという思いを持たせ、彼はしまい込んでいた聖書を取り出し、教会へ出席し、傲慢であったことを悔改め、失われていた心の平安を取り戻し、信仰の再出発をすることができたのです。私たちも、祈って、常に神様一番の深い信仰をもって前進して行きましょう。
2、キリストを信じ、何があっても従順な者になって行こう 5:8-10
彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、唱えられたのである。(8−10節)
この個所にメルキゼデクという名前が出てきますが、創世記14章に登場する祭司の名前です。キリストはメルキゼデクに等しいと言われていますが、ヘブル7章にはキリストはメルキゼデクより遥かに優れた真の大祭司であり、人を罪から救う唯一の救主であることが記されています。
「キリストは神の御子であったにもかかわらず、さまざまな苦しみを体験された」ことに注目しましょう。苦しみということですが、人生には多くの苦難があります。昨日は上野公園ホームレス伝道でし
たが、300名の人々が冷たい地べたに座って神様を礼拝しました。仕事を失い、家族と離別し、路上で暮らすことは並大抵のことではない辛い生活です。私はホームレスの集会に行く度ごとに、人生には経済の苦しみ、愛する者から切り離されてしまう孤独の苦しみがあるということを痛いほどに実感します。キリストは伝道の旅をしながら「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、わたしには安心して眠るところ、枕するところがない」(ルカ9:58)と言われ、ホームレスの苦しみを体験されています。私たちは人間関係に悩みますが、皆様の中には信頼していた人から裏切られるという苦しみを味わった方もいると思います。キリストは3年半も手塩にかけて育て訓練し、財布を預けるほど信頼していたユダに裏切られています。私たち人間には死ぬという苦しみがあります。そして私たちには罪という大きな誰にも言えないような苦しみがあります。罪ある人間は死んで終りではなく、死んだ後に神の審きの座に立ち、罪ある者は永遠の滅びの中に投げ込まれてしまいます。けれども、キリストは愛の救主です。人間を救うために、人間としてこの地上に来られ、人生のあらゆる苦しみを体験されたお方です。ご自分はきよい罪のない神の独り子であるのに、人間の罪の身代りになって十字架で死を味わい、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という悲痛な叫びを発し、神から切り離されて陰府(よみ)に下って行くという言語に絶する苦しみを体験されています。そうした苦しみを体験されながら、キリストは神様に従順であり続けたのです。そのキリストを神様は甦らせて下さいました。キリストは生きておられる救主です。ですから、キリストを信じ、従順に従う者に対して「永遠の救いの源」(9節)となり、私たちの罪を赦し、永遠の天国に導い下さる救主となられたのです。
シカゴのスパフォード弁護士は、彼の妻と4人の娘たちがヨーロッパ旅行から帰る途中、船が転覆し、4人の娘は波にのまれて行方知れずとなり、夫人だけが助かった。夫人は悲嘆のあまり生きておれぬ思いであったが、とりあえず夫に無線通信で娘たちの死を伝えた。あまりの出来事に彼は絶望のどん底に突き落とされ、ただただ一晩中祈り続けた。朝の光が射し染めてきた時に、彼の心の奥底にさしこむ光のように閃いてきたのは、わが悲しみをことごとく知りたもう救主イエスキリストがおられるという動かし難い事実であった。さらに彼は祈り続けた。そして長い祈りの後に、乱れに乱れていた心に、少しずつ心の平安が回復してきた。彼は何があろうとも主に従順であり続けようという信仰が与えられ、それが聖歌総合版493(聖歌47「安けさは川のごとく、心ひたす時」という聖歌になっています。
キリストは人生の全ての苦しみを体験され、死をも味わい、陰府(よみ)にまで行くという苦しみの極致を体験されています。あなたの苦しみ、問題はなんでしょうか・・・キリストは、人間の苦しみのすべてを体験済みのお方ですから、あなたの苦しみをそのまま理解し、しっかりと受け止めてくれます。スパフォード弁護士は4人の愛娘を一度に失う悲劇の中にあって、キリストが共にいて下さるという心の平安を与えられ、主に従って行く信仰の従順を失うことなく、悲しみの中にあって多くの人を慰め、励ます聖歌をつくりだしています。聖書は告げています、「あなたがたの会った試練で世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである」(Tコリ10:13)。キリストに縋れば、極限の悲しみと絶望の中にあったスパフォードのように逃れの道を見いだすことができます。キリストは言われます、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)。キリストの御許に行き、祈りましょう。そこにあなたの逃れの道があります。
3、キリストを信じ、涙をもって人のために祈って行こう
キリストは・・激しい叫びと涙とをもって・・祈りと願いとをささげ・・(7節)
最後に、「キリストは激しい叫びと涙とをもって・・・祈りと願いとをささげた」という御言葉に注目しましょう。キリストの叫びと涙は人の救いのために十字架にかかるということを決断するための祈りでした。キリストは人の罪の赦しと永遠の命を与えるために、涙を流して祈って下さったのです。自分のことではなく、人の救いを願って泣いておられるのです。ここにキリストの涙の尊さがあります。私たちのために涙を流し、そして十字架の上で血を流して救いの道を開いて下さったのはイエスキリストだけです。ただひたすら人間の救いを願って、神の子イエスキリストが手放しで泣いて下さっているのです。キリストは愛と憐れみに満ちた涙の救主です。キリストはラザロの墓の前で、人目をはばからず涙を流しておられます(ヨハネ11:35)。キリストは滅びに向うエルサレムの悲惨な運命を思いながら、涙を流しています(ルカ19:41−44)。
私たちは、クラー宣教師が福音の種まきをした後を引き継いで開拓伝道を始めました。クラー宣教師夫妻は私たちの霊的な父であり、母であり、今も継続して祈って下さっています。開拓伝道の初期に、クラー宣教師夫妻が訪ねてきてくれたことがあります。ちょうど私たちが昼ご飯を食べ終わった頃であったと思います。私はクラー宣教師に伝道の進み具合を話していました。後で家内に聞いたのですが、クラー宣教師夫人が物陰で泣いていたというのです。私たちはお昼に山芋をご飯にかけて食べていた、それだけの食事でしたが、食べることができて私たちは感謝でしたが、それを見て、クラー夫人は、睦子は赤ちゃんも生まれるのにと思い、ご自身の開拓伝道時代に毎日ジャガイモを食べていたことを思い出し、私たちの生活状況を察して涙を流してくれたのです。至らない私たちのために愛を注ぎ、涙を流し祈ってくれた宣教師夫人、あらゆる面において支えてくれた宣教師、そして今も祈ってくれているクラー宣教師夫妻を、私たちの霊的父、母とする恵みを主に感謝しました。そしてキリストが涙をもって人のために祈ったように、私たち夫婦も人のために涙を流して祈りをささげ、特に家内は助けを必要とする人のために物心両面で惜しまずに手を差し伸べて、開拓当初から今日までキリストのお手伝いをさせてもらって来ました。これからも私たち夫婦は涙の主に倣って行こうと決意を強めています。私たちのためにお祈り下さい。
まとめ 5:7−10を読みます。
1、キリストを信じ、何があっても深い信仰を求めて祈って下さい。
2、キリストを信じ、何があっても従順な者となるように祈って下さい。
3、キリストを信じ、涙をもって人のために祈って下さい。
祈 り 父なる神様、激しい叫びと涙とをもって祈られたイエス様によって救いを与えられていることを感謝します。何があっても揺るがない深い信仰、何があっても、たとい苦しみがあっても信仰をもって神様に従順であるように導いて下さい。涙を流して祈って下さったキリストの愛を受けて、涙をもって人の為に祈る者にして下さい。涙の主イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献へブル注解―フランシスコ会、黒崎、LAB、文語略解,名尾。「その人は慰められん・日キ教団」