クリスチャンの務め ヘブル13:7−19         主の2007.2.4礼拝

自分の事ですが、私はイエス様を愛する多くの先輩牧師によって、伝道者となるように育てられてきました。「開拓伝道している伝道者を助けよう」と、各地の開拓伝道所を訪れ、助けたのは力丸先生です。「お祈りしましょう。もうお祈りが一番です」と言われ、常に祈っていたのは吉野先生です。「伝道は出かけることだ。命ある限りでかけましょう」と言われ、食道ガンで食物が喉を通らないので、鼻から胃に直接細長い管を通して流動食を流し込む生活をしながら、その管を鼻からぶら下げた状態で、アメリカから日本に来て1ヶ月間伝道旅行をされたのは豊留先生です。その他にも大勢の先生方にお会いしたことを思い起し、出会いを与えて下さった主に感謝しています。

本日はヘブル13:7−19です。7節前半で「神のことばをあなた方に語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい」との勧めがあります。私の信仰の恩師たちは熱い心をもってキリスに仕えていました。7節後半に「彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」と言われていますが、恩師たちは、キリストを一番とする生涯を貫き通して、天に凱旋して行かれました。私は恩師たちから多くの事を教えてもらいましたが、今はもう地上にいないので、直接に教えを乞うことはできません。しかし「イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(8節)永遠の救主です。私の心の中に住み、中から内から助けて下さる、生きている愛の救主です。永遠に生きておられるキリストを見上げつつ、メッセージを聴き、共に祈って新しい一週間を出発して参りましょう。

内容区分

1、キリストは変わることのない真の救主である 13:7−8

2、キリストの御許に行こう、キリストに感謝の献げ物をしよう 12:9−16

3、キリストに従い、祈りを深めよう 13:17-19

資料問題

7節「指導者へグメノス」、教会の指導者をさす(17,24節)。「生活の最後」、生涯の結末のこと、ここに言われている指導者たちはおそらく殉教した人々であろうと思われる。8節「さまざまな違った教え」、清い食物と汚れた食物の区別に関するもの(レビ11章)。10節「わたしたちには一つの祭壇」、旧約幕屋とは別のもの。キリストがご自身を犠牲として献げた十字架を意味する。クリスチャンは十字架を信じて永遠の命を受けている。しかし幕屋に仕える者、すなわち旧約律法を信じる者たちはキリストの救いに与れないままである。12節「門の外」、呪いごとを言う者(レビ24:14)、偶像礼拝者(申17:5)は門の外で殺された。キリストはユダヤ人によって、重罪者として門の外、エルサレム郊外ゴルゴタの丘の十字架で処刑された(マタイ26:65−66)。13節「営所の外に出て、みもとに行こう」、ユダヤ教団から離脱し、この世の宝、誉れからも離脱し、キリストのみもとに行こう。14節「この地上には、永遠の都はない」、クリスチャンはこの世では旅人、寄留者である(11:13)、真の国籍は天にある(ピリピ3:20)。15節「さんびのいけにえ、すなわち彼の御名をたたえる唇(くちびる)の実」、主がして下さった救いの業(わざ)を告白する者がクリスチャン(ロマ10:9−11)。その信仰告白の実が、唇の実(イザヤ57:18、ホセア14:2)であり、その信仰が生活に実践されることが聖化の道である。クリスチャン生活は救われた恵みに感謝する謝恩の生活である。16節「施しをするコイノ二ア」、精神的、物質的にすべてのものを分かち合うこと。17節「指導者たちの言うことを聞きいれて」、神に立てられている者は純粋に御言葉を語るのであり、聴く者はそれを受け入れ主に従って行く。そこに真の一致がある。18節「祈ってほしい」、最も力になり慰めになるのは祈りである。

1、キリストは変わることのない真の救主である 13:7−8

神の言をあなた方に語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。(7−8節)

「神の言を語った指導者たちのことを思い起しなさい」(7節前半))と言われています。指導者とは教会の指導者で、今日でいえば牧師、伝道師、宣教師などを指しています。私は多くの良き信仰の指導者に巡り合い、その出会いを通して信仰の励ましを受け、信仰が成長してきたことを感謝しています。私を教えてくれた指導者のことを思い起し、真の指導者について考えてみます。

第一に、真の指導者は常にキリストを指し示し、キリストを心から慕っている人です。矢内原忠雄という方が「自分の年齢はイエス様の倍になっているが、ますますイエス様を慕わしく思う気持が強まっている」と述べています。2002年102歳で天に召された私たちAG教団教職の霊的親である弓山先生の葬式で、先生の愛唱聖歌として「イエスはわが命また喜びぞ、すべてのすべてぞ我にとりて、悲しめる時は慰め励ます、世にただひとりの友ぞ」という讃美が歌われました(聖歌総合版653、旧聖歌608)。讃美しながら、聖霊に満ち溢れ、86年間キリスト一筋に行き抜かれ、「君達はキリストの弟子だ。キリストを慕い、キリストに仕え、キリストを伝道せよ」と言われた先生の志を引き継いで行くべきことを決意させられました。

第二に、真の指導者は裏表なく、自分の生活や仕事、その全人格を通してキリストを示してくれる人です。暗い面で言えば、アメリカ・テレビ伝道番組で華々しく活躍していた人が女性スキャンダル、金銭問題で消えて行くという事件がありました。テレビの表ではもっともらしく語っていたのですが、テレビの裏では醜いことをしていた、それが明るみに出て辞めていったのです。前述の吉野師は脳出血で言語障害になり復帰しましたが、「私は、なおいっそう祈り、お祈りで行きます」と言われ、年をとり、言語障害の後遺症がありながら、開拓伝道をはじめ、祈って祈って伝道所を築きあげ、天に召されて行きました。本当に祈りをもって一貫した人生を送られた方です。

第三に、真の指導者は信仰のために命を投げ出し、最後にどのように死ぬかを示してくれる人です。前述の豊留師はネームレス伝道を創始した先生です。日系アメリカ人として、アメリカ・コロンビア大学で最高の学位をとり、英語、日本語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、へブル語に通じ、化学者であるという全ての経歴・学歴をキリストに献げ、「肩書きは邪魔です、私は『キリストきちがい』の豊留でございます」と名乗り、ネームレスを実践していました。「わたしにとっては生きる事はキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:21)という御言葉のとおり、ガンを抱えながら日本伝道に来られ、最初にこの講壇で語って下さった先生の姿を憶えている方々も多いと思います。

「棺を蓋(おお)いて事定まる」という中国の言葉があります。死んで初めてその人の一生の真価が分るということですが、弓山師、吉野師、豊留師もキリストを信じ続け、キリストによって天に召されて行きました。その生涯の結末を通して(7節後半)、先生方の一生はまさしく信仰から信仰への生涯であったということを知ることができます。私事ですが、右目に異常があり、先週月曜日にレーザー光線を目に当てる手術をしました。看護師に「心配ないですよ」と言われましたが、いざ受けて見ると、レーザー光線が目の玉の奥にドスンと当たる感じで、「主よ、医師を用い、早く終わらせて下さい」と祈りました。先週末は歯医者に行きましたらガリガリと痛い目に会い、「主よ、このガリガリを速やかに終わらせたまえ」と祈りました。二つの事を通して思ったことは、自分の臆病さ、弱さです。しかし、聖霊は「イエスキリストはきのうも、きょうも、いつまでも変わらない」ということを思い起させてくれました。尊敬する先生方は天に帰って行かれ、直接にはもう相談できない。目や歯の事を痛がる自分は弱い者である。その私のためにキリストは十字架によって罪を赦し、甦って私と共にいて下さるインマヌエルの主である。キリストの恵みは変わらない。私を支える家族、祈ってくれている教会の方々がいる。そう思ったら平安があり、感謝があり、讃美が溢れ出てきました。主は言われます、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(5節後半)。皆さん、キリストの愛は永遠不変です。きのうも、きょうも、いつまでも変わることのないイエスキリストに縋って行きましょう。

2、キリストの御許に行こう、キリストに感謝の献げ物をしよう 13:9−16

したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所(宿営)の外に出て御許に行こうではないか・・・わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえる唇の実を、たえず神にささげようではないか。(13節、15節)

「さまざまな違った教え」(9節)とありますが、真理はただ一つ、道であり、真理であり、命であるイエスキリストです。真理はキリストだけですから、キリスト以外の教えに迷ってはならない、食物のことをはじめ、さまざまな規則を細かくいうユダヤ教の律法主義に惑わされるな、という警告です。「わたしたちには一つの祭壇がある」(10節)というのはキリストの十字架を指しています。十字架を信じて私たちは救われるのです。旧約聖書の古い儀式や律法を守れば救われるという人々は祭壇の食物を食べる権利、すなわち救いの恵みを失ってしまう者である、何故なら罪を認めて十字架を信じる者だけが救われる、というのが神の救いの原則だからです。(ユダヤ教主義者による救いと聖書によるまことの救いについては挿入してある図を見よ) キリストを信じた者は感謝の思いを表します。

第一に、キリストの十字架に感謝し、古い生活に訣別します。(11−14節)

「キリストは門の外で苦難を受けられた」(12節)とあります。門の外というのは律法に背いて罪を犯した者が殺される場所です。十字架の場所はエルサレムの門の外でしたので、キリストは罪がないお方であるのに、罪ある者のように門の外で命を献げて下さったことを意味しています。「営所(宿営)」というのはユダヤ教の教え、またこの世を指しています。「営所(宿営)の外に出る」(13節)とは、キリストを信じたなら、私たちは古い教えであるユダヤ教を捨てて、またこの世のものに執着しないで、キリストを求め、キリスト中心に生きて行こうということを意味しています。救われたクリスチャンは古い教えから離れ、偶像から離れます。今までに多くのお守り、お札、経文からさまざまな飾り物、また仏壇、数珠、神棚などが持ち込まれましたが、イエス様にお祈りし、聖霊の助けをいただいて処理してきました。映画スターの写真(救われる前はスターが偶像であった)、占いの本なども数多くあ処理しました。キリストに反するものは全てを処分することが恵まれる秘訣です。

第二に、クリスチャンは、感謝をもってキリストの救いを喜び歌います(15節)。

キリストを信じるクリスチャンは、さんびをささげる者です。私たちがさんび出来るのは「イエスによって」とあるように、キリストが私たちを救って下さったからです。さんびの内容はなんでしょうか・・・「彼の御名をたたえる唇の実」とありますが、正しくは「彼の御名を告白する唇の実」であり、キリストが私たちのためにして下さった救いの業(わざ)のことです。信仰とは、自分の罪を認め、悔い改めて心にキリストを信じ受け入れることです。キリストを信じ受け入れるとは、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)とあるように、「私はイエス・キリストを信じます」ということを自分の口で言い表すことです。その信仰告白をした者は、自分の信仰を神と人の前に公にして洗礼を受け、教会一員になります。クリスチャンは救いの恵みを感謝し、「さんびをたえず神にささげようではないか」とあるように、絶え間なくキリストをほめ讃える者です。ユダヤ教では一定の時期に律法に従って献げ物をしています。クリスチャンは「たえず」とありますから、一年365日、一日24時間すべてを感謝し、讃美を通して主を喜ぶ生活に励んで行くように祈って下さい。

第三に、クリスチャンは感謝をもって「善を行うことと、施しをする」者です(16節)。

「善を行う」とは、情け深い気持をもって人に接し、神様がキリストの十字架によって私の罪を赦して下さったように赦し合うことを実践することです(エペソ4:32参照)。「施しをする」というのは、助けを必要とする人に助けの手を差し伸べることです。毎月の上野公園ホームレス伝道はキリストにある施しの機会であることを感謝します。さらに「施し」というのは、物を施すということ以上に、キリストにあっての兄弟姉妹として、悲しみも喜びも、精神的なものであれ、物質的なものであれ、共に分ち合うことをも意味しています。「神はこのようないけにえを喜ばれる」(16節後半)とありますから、讃美をささげ、善をなし、施しをすることを怠りなく励んで行くように祈って下さい。

3、キリストに従い、祈りを深めよう 13:17−19

あなた方の指導者たちの言うことを聞き入れて、従いなさい。彼らは、神に言い開きをすべき者として、あなた方の魂のために目を覚ましている。彼らが喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなた方の益にならない・・・わたしたちのために祈ってほしい。(17節、18節)

教会にはさまざまな人が集まり、いろいろな意見、主張があるかも知れないが、各自は神様が立てた群れの指導者に従って行きなさいと言われています。指導者である牧師、伝道師は神の前にあなた方のために言い開きをする者である、これはあなた方の味方として弁護する者という意味です。「あなたがたのたましい」とありますが、伝道者の最大関心事はたましいの救いと、救いを保って天国に行くことです、そのことを願って伝道者は目を覚ましている、見張りをしている、祈りの心を持ってひとり一人を導いているということです(エペソ6:18)。「彼らが嘆かないで喜んで、このことをする」とは、彼らの言葉に聞き従いなさいということです。そうしなければ、あなたがたの益にならないということは祝福を逃がしてしまうということです。

最後に祈ってほしいという要請があります(18節)。教会を導く指導者である者が祈りを要請しています。私もしばしば皆さんにお祈りをお願いしています。天においてはキリストが執り成しの祈りをもって私を支えてくれていることを感謝します(ロマ8:34)。キリストの代わりに来られた聖霊が祈りを共にして下さることを感謝します(ロマ8:26−27)。そして皆さんの祈りに支えられて、きょうも講壇に立つことが出来たことを感謝します。またお互いのために祈り合って行きましょう。

祈りを通して神様は私たちを最善に導いて下さいます。先週、友達と電話で話をしました。神学校で学んだ仲間ですが、今は週日働き、自宅を開放して水曜日祈り会をし、日曜日は礼拝をささげ、牧会伝道をしています。彼の奥さんがガンということが分り、祈りながら治療をしていました。しかし昨年10月に容態が悪くなり、彼は一週間断食祈祷をして看病にあたった。一週間の断食が終わった時、奥さんの呼吸が弱くなり、呼吸モニターの線がまっすぐになり、呼吸が止まってしまった。「まだ死なないでくれ」と思って、立ち上がって「イエス・キリストの御名によって命じる、死んではならない」と大声で叫ぶと、止まっていた呼吸が戻ってきたが、目は開かなかった。すると今まで闘病生活で疲れきっていた奥さんの顔が、見ている間に疲れや苦しみがのぞかれ、穏やかな美しい表情に変わっていった。その変化を見ながら、「ああ天国に行くんだ」と思った時に、また呼吸が止まった。そこへ医師が駆けつけてきて、臨終を告げた。生き返ってくれという祈りは聴かれなかったが、すべての苦しみを解かれて天国へ導かれたことを感謝したということです。教会は小さな群れであるが、奥さんの召天後、みんなが一生懸命に奉仕に励み、自分を支えてくれているということでした。祈りは神様に届き、答があります。「何事でもわたしの名によって願うなら、わたしはそれを叶えてあげよう」(ヨハネ14:14)というキリストの約束を信じて祈って行きましょう。

まとめ

1、7−8節、キリストは変わることのない真の救主です。良き指導者に巡り合うことは恵みです。しかし人はやがていなくなります。ひとり変わらないのはイエスキリストです。キリストに縋って行きましょう。

2、13節,15節、キリストが真の救主です。キリストの十字架に感謝して古い生活を捨て、絶えずキリストの救いを讃美し、善を行い、全てを分かち合って行くように祈り合って行きましょう。

3、17節、18節、群れの指導者に従い、牧師・伝道師のために祈り、またお互いのために祈り合って行きましょう。祈りは聴かれ、神様の最善の答が与えられます。信じてキリストの御名によって祈りましょう。

祈 り  天地の主である神様、イエス・キリストによって私たちを救って下さったことを感謝します。キリストはいつまでも変わらない真の救主であることを感謝し、今週も御霊によって祈り、キリストに従って行きます。私たちがキリストの恵みを絶えず歌って行くことができるように導いて下さい。教会に聖歌、ゴスペル、プレイズ、ワーシップソングが満ち溢れて行くようにして下さい。きのうも、きょうも、いつまでも変わらない救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献へブル注解―名尾耕作、フランシスコ会、バークレー、文語略解、LABN,川村輝典。 「矢内原忠雄全集・岩波」