「詩篇十九篇」 主の2007211礼拝

 

 先ずみことばをお読みします。(詩篇19114節 朗読)

渡辺先生ご夫妻とチャチャは、昨日朝9時に、元気に熊谷駅から、諏訪へ向けて旅立っていきました。皆様にくれぐれもよろしくとのこと、役員の方々特に留守の教会をよろしく頼みますとのこと、それから余り倫夫君をいじめないで下さい、とのことでした(後半、多少作りました)。先生方の諏訪のご奉仕、また熊谷における諸集会、このことの実現は、皆様のお祈りあってのことです。心から感謝いたします。なお引き続き、時を同じくして行われている諏訪教会の礼拝のため、午後の個人伝道研修会のためにお祈りいただければ幸いです。

さて、今日のみ言葉に戻ってまいりましょう。詩篇19篇は3つに分けることができます。

I.「輝く日を仰ぐとき、真のみ神を思う」(1-6)

II.「主の教えは、正しく、私たちの心を喜ばせる」(7-11)

III.「人は誰でも、神によらなければ、自分の過ちを知り正すことはできない」(12-14)

 

I.「輝く日を仰ぐとき、真のみ神を思う」(1-6)

A.沈黙の証し人

 

 皆さん、「433秒」という変わったピアノ曲があるのを知っていますか。その曲は、「演奏者はいっさい音を出すことなく、ある一定時間を経過するのを待つだけの沈黙の音楽」[1]とのことです。「しかし、この作品は真の沈黙を目指したわけではありません。[作曲(?)]自身、生きている人間にとって完全な無音が存在しないことを知っていました。無響室でも、心臓の鼓動や神経系統の音が聞こえてくるそうです。人間が耳を澄ましたとき、自然に聞こえるもの全てが、音楽になりうる、という哲学を具現した作品といえます。」[2]つまりあえて演奏しないことによって、普段聞こえてこない音に耳を傾けよう、というわけです。

 このことはクリスチャンにとって、大変示唆に飛んだ話といえます。つまり私たちも、日常の喧騒から離れて、大自然に目を向けるとき、普段聞き逃している、神を証しする声が聞こえてくるのではないでしょうか。私たちは歌いました。「輝く日を仰ぐとき、真のみ神を思う」と。1-6節は正にそういうことを私たちに教えています。ここで詩篇記者は、自然、特に太陽の恵みを通して、神のすばらしさをほめたたえています。

 

B.偉大な創造のみ業

 

日本では、ガスや電気などのエネルギーの供給は比較的安全性が保たれているといえますが、完璧ではありません。つい先日もガス漏れで人が死亡する、という悲しい事故がありました。もう20年以上前になりますが、チェルノブイリ発電所の原発事故による放射能漏れがありました。エネルギーの規模が大きければ大きいほど、リスクも大きいのです。そこで私たちは人間の英知を結集して事故の防止につとめるのですが、やはり完璧というわけにはいきません。

皆さん、太陽のエネルギーは一体どれほどのものだと思いますか。地表熱6000度、地球の数百倍の大きさの太陽が、地球にいる私たちにとって、もっとも都合がよいように、距離や大きさが保たれ、事故も何も起きない、というのは、奇蹟と呼ぶ他ないのではないでしょうか。

暖冬が騒がれています。東京は、130年に及ぶ観測史上、初めて雪の降らない冬となるかもしれないそうです。せっかく尊い自然を預かっている者の責任として、この地球温暖化の問題に、私たちは真剣に対処しなければなりません。しかし見方を変えてみると、地球温暖化の問題は、実はどれだけ絶妙なバランスで、私たちの住む環境が整えられているかの証しということもできます。ちょっと地球の温度が上がっただけで、これだけ大きな問題になるのです。地球温暖化で年々0.6度上がる、ということは確かに大問題です。しかし地球は金星のように400度の燃える惑星ではありません。水星のように、温度差が600度ありません。人間が住むために、髪の毛一筋ほどの狂いも許されない、絶妙なバランスで地球環境が保たれています。これはもはや私たちの理解をはるかに超えています。しかし分かることがあります。それは私たちよりもはるかに大きくて、驚くほど配慮に満ちた愛のお方が、古のときより今に至るまで、休むことなくその偉大なみ業をなし続けている、と言うことです。

 

C.大いなるみ神をほめたたえよう

 

太陽は自然の恵みのうちの一部です。他にも語りだしたらキリがない、自然に満ち満ちている無言の証し人は、神の偉大さを証しています。私たちはこの自然を眺めることによって、神様に感謝せずにおれない、神様の偉大さに心打たれずにおれないのです。

私たちはこの最も古の時代の匠である、大いなる神をほめたたえましょう。主は、いつでもどんなときでも、太陽の恵みを私たちに降り注いでくださっています。私たちも、いつでもどんなときでも神様をほめたたえましょう。時が良くても悪くても、主をほめたたえましょう。讃美をもって主をほめたたえましょう。聖歌を通して、プレイズを通して、御名をほめたたえましょう。祈りの中で、神様をほめたたえましょう。何かを祈り願うより先に、神様の素晴らしさをほめたたえましょう。人々が、私たちの存在を通して、神の偉大さを知ることができるように、良い行いをいたしましょう。私たちの全存在をもって、神様をほめたたえましょう。

さて神への讃美ささげつつ、今度は、このすばらしい神様に従う者はどうなるか、ということを、7-11節に見ます。

 

II.「主の教えは、正しく、私たちの心を喜ばせる」(7-11)

A.教会のイメージとその実際

 

ある人たちは、「教会は堅苦しいところ」「敷居が高いところ」というイメージを持っているようです。しかしそのイメージは本当でしょうか。

もし教会が本当に堅いところだとしたら、この賛美の喜びは何でしょうか。今日も一緒に賛美をしました。私はいつも皆さんの賛美における喜びに心を打たれます。

また、なぜ皆さんの笑顔はこんなにもまぶしいのでしょうか。今日も握手をいたしました。私も電車の中や、職場、子供たち等々、色々な人を見ますが、教会の方々のような眩しい笑顔は、他では見ることができません。皆さん、試みに、皆さんが出会う人々の中で、良い笑顔の人を思い浮かべて下さい。自然と、教会の人々の顔が思い浮かぶのではないでしょうか。

どうやら教会が堅苦しい、敷居が高い、というのは、イメージであって、真実ではないようです。堅苦しい、敷居が高い、と言うには、余りに喜びに満ち、笑顔が絶えないからです。

またある方は、クリスチャンになってから、その生活、性格が余りに変わったので、その存在がキリストの生き証人となっています。そういう方は周りの人に、この人の信じているキリスト教は本物だ、と思わせているのです。正しい人間に生まれ変わることによって、人々の間で地の塩として活躍しているのです。

なぜでしょうか。なぜクリスチャンは喜びに満ち、笑顔が絶えず、また正しく生まれ変わることができたのでしょうか。それは8節にあるように、私たちに語られている主の教えは正しく、私たちの心を喜ばせるからです。

 

B.主の教えは、私たちの心を喜ばせる

 

主の教えは私たちの心を喜ばせます。主はわたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と語ります。ああ、私は自分のことを価値がない、と思っていたけれども、私を創ってくださった神様の目に、私は高価で尊いのだ、と知る。私は自分のことを好きになれなかったけれども、主は私のことを大好きだ、愛している、とおっしゃってくださっている。こういったことを知ることは私たちの心の喜びです。

パウロと言う人は、いつも喜んでいなさい。あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい、と言いました。クリスチャンは喜ぶ人です。主の正しい教えが私たちを喜ばせてくれるのです。これからも主の教えに耳を傾け、喜びに満たされて歩んで参りましょう。

 

C.主の教えは正しい

 

また主の教えは正しい教えです。主の教えは、私たちに、七を七十倍するまで許しなさい、と教えます。私たちは自分ひとりで考えているときは、自分は正しい、あの人を許すことはできない、と思っていました。しかし主の教えは、七を七十倍するまでゆるしなさい、つまり何度も何度でもゆるしなさい、と教えます。これこそ正しい教えです。

さらにそうやって人をゆるしていくときに、気づくと、ゆるされていたのはむしろ自分なのだ、ということに気づきます。我らに罪を犯すものを我らがゆるす如く、我らの罪をもゆるしたまえ、なんですね。「私はゆるされているのだから、人をゆるすべきではないか。」これは道理にかなった正しい教えです。そういう訳で、主の教えを聴く者は、正しい人間に生まれ変わることが出来るのです。

 このように主の教えは正しくて、私たちの心を喜ばせます。だから私たちは正しく生まれ変わることができ、喜びに満ち、笑顔でいることができるのです。ところで人間にはひとつ、非常に苦手なことがあります。この苦手なことが、12-14節に書かれています。

 

III.「人は誰でも、神によらなければ、自分の過ちを知り正すことはできない」(12-14)

A.人間は自分のことは分からない

 

イエス様はこうおっしゃいました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」。どういう意味でしょうか。これは自分のことは梁のように巨大でも良く見えず、人のことはちりのように小さなものでも、良く見える、と言うことです。人は自分のことは分からないのです。

この詩篇も作ったのは、ダビデという信仰深い王様です。この信仰深い王でさえ、自分のことは良く見えなかったのです。あるときダビデ王は、人を落としいれ、しかもその罪を隠蔽するために、更に罪を犯します。このダビデのもとに預言者が参ります。そしてこういう話をします。ある金持ちが、自分は余りあるものを与えられながら、他の人を落としいれ、しかもそのことを隠蔽するために更に罪を重ねた、こういう人をどう思いますか。ダビデは義憤に燃えて言います。そんな人は死刑に処すべきだ、と。そこですかさず預言者は言います。「あなたがその人です。」この時初めてダビデは我に帰り、「私は罪を犯した」と認めることが出来たのです。1214節は、この時のダビデ自身の苦い経験が反映されているのかもしれません。あのダビデさえ自分のことには無知だったのです。私たちはダビデと共に、一体「だれが自分の過ちを知ることができましょうか」(12)と告白せざるを得ません。

 あるクリスチャンが、かの有名な哲学者をこう評しました。かの哲学者は、豪華な御殿を建てたけれども、自分は隣の犬小屋に住んでいる。その意味は、その哲学者の言うことは、お説ごもっとも。彼は世界中のあらゆる問題を取り上げ、それについて論じることができる。まるでその知識は豪華な御殿のように立派だ。しかしその知識には、「自分」についての知識が欠けている。自分の悲惨さを認め、そこから救われる、そういう知識が欠けている。だから彼は立派な御殿を建てたけれども、自分自身はその隣の犬小屋に住んでいる、と皮肉ったのです。

 耳の痛い話です。このことは、この哲学者に限らず、私たちすべてに当てはまるのではないでしょうか。私たちは時事問題や、他の兄弟姉妹のあのことこのことは良く見え、適切に論じることができるかもしれません。しかし私たちは、驚くほど自分自身について無知なのです。自分の知恵、経験、適切な判断能力、聖書の知識、信仰が、自分を律するために、充分に活用できていないのです。

 

B.私たちが神の前にひとり立つとき、初めて隠れたとがの問題を扱うことができる

 

 そこで私たちは、ダビデと共に主に向かいます。「主よだれが自分の過ちを知ることができましょうか。」つまり「主よあなたしかおられません。あなただけが私の祈りに答え、私を隠れたとがから解き放ってくださるのです」と告白するのです。この詩篇の記者は賢明にも、私たちの無意識と呼ばれる領域も含め、神の助けを求めているようです。私たちがどれほど賢く、どれほど努力しても、ついには、自分のことについては完全には分からないままにとどまるでしょう。だから私たちは神に祈らざるを得ない。この私自身から隠れた、私の過ち、それらを行わないように、私を守ってください、と。

私たちはいつかこの地上の働きを終え、天の御国に帰ります。そのとき、私たちはひとり神の前に立たねばならず、善であれ悪であれ、公平に裁かれることになります。ですが私たちはそのときが来る前に、いつも神様の前にひとり立つ備えをしていきたいのです。それが祈りです。祈りによって、私たちは神の前にひとり立つこととなります。私たちは他の誰でもなく、神に祈るのです。ただ神おひとりにむかって祈るのです。そうして私たちは神の前に、自分ひとりとなって、自分の罪の問題が初めて取り扱われることができるのです。

そこでは全ての世の中の喧騒から解放され、ただ私の罪の問題のみが問題となります。またただ神の声のみを聞くこととなります。そうなって初めて、私たちは自分の隠れたとがからの解放が始まるのです。

 

C.隠れたとがからの解放を求める祈り

 

祈りましょう。祈って、私の隠れたとがから救っていただきましょう。

最後に12-14節を私たちの祈りとして、このメッセージを閉じます。祈ります。

「主よ。

だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。

どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。

また、あなたのしもべを引き止めて、

故意の罪を犯させず、

これに支配されることのないようにしてください。

そうすれば、わたしは過ちのない者となって、

大いなるとがを免れることができるでしょう。

わが岩、わがあがない主なる主よ、

どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが

あなたの前に喜ばれますように。

主イエスキリストのお名前によって、お祈りします。

アーメン。」



[1] 楽譜の風景:ジョン・ケージの普通のピアノ曲http://homepage1.nifty.com/iberia/score_cage.htm

[2] 前掲ホームページ