キリストを信じる者は光の中を歩む Tヨハネ1:3―2:6      主の2007.2.18礼拝

新聞の人生案内に、「30歳主婦、二人姉妹です。妹は長男と結婚したので、自分が家を継がなければ実家の名が途絶えてしまうのですが、先方の願いで私は結婚して夫の名を名乗ることになりました。夫は私の両親、お墓の面倒を見ると言ってくれるが、自分の実家の名前はなくなり、私の先祖は顧みられなくなってしまう」という相談が寄せられていました。回答者は「・・・墓に葬られている先祖で実際に知っているのはせいぜい曽祖父母止まりです。つまり、将来あなたを知っているのは曾孫ぐらいまでです。現在を大切に、夫やまわりの人と仲良く過ごすことが一番です」と答えていました。人間は現在の交わりを大切にし、そして死後は墓に詣ででもらうことによって、交わりが永遠に存続できるのではないかと思っています。しかし回答者が言っているように、人間の交わりは限られています。私の場合、母方の祖母をかすかに知っている程度で、祖父、また父方の祖父母は写真で知るのみです。皆さんはいかかですか・・・。

本日はヨハネ第一1:3−2:6です。私たちは父なる神と御子イエス・キリストとの交わりの中に導かれた者です。交わりには「共有する」という意味があります。私たちはイエス・キリストの十字架を信じて罪を赦されて神の子になり、神様から永遠の命を与えられて、永遠の命を共有するという交わりの中に入れられた者です。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、永遠に変わることのない主です。先ほどの婦人のように、自分のお墓に誰もお参りにきてくれないということを心配する必要はありません。キリストはこの地上においても、私たちが天国へ行った時も、私たちとの個人的交わりを永遠に続けて下さいます。今朝、私たちの救主であり主であるイエス・キリストの恵みを、メッセージを通して知り、信じ、キリストに従う決断の祈りを捧げて下さい。今週も聖霊によって導かれ、讃美する恵みの日々であるように、共に祈り合い、励まし合い、愛し合って前進して参りましょう。

内容区分

1、キリストによって、私たちはまことの神を信じ、喜ぶように召されている 1:3−4

2、キリストによって、私たちは光の中を歩むように召されている 1:5−9

3、キリストによって、私たちは御言(みことば)を守って生きるように召されている 2:1−6

資料問題

ヨハネの手紙3通はAD90年使徒ヨハネが記したもの。1:3「交わり」、基本的には物質的なもの(ロマ15:26など)、精神的なもの(ピリピ3:10など)を他人と共有することを意味する。父なる神は御子にいのちを共有させておられる。父は御子をとおして我々にいのちを共有させて下さる。クリスチャンひとり一人が神のいのちに与ることは、クリスチャン全員が相互に神のいのちを共有することになる。1:5「神は光である」、ヨハネ福音書8:12、12:35,46でキリストは光と言われている。ヨハネ福音書8:19,14:7でキリストを知る者は父を知ると言われている。光であるキリストは父である神から出たものであるので、神は光であることを暗示している。事実、ここで神は光と呼ばれ、4:16では愛と呼ばれている。1:7「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」、私たちの罪はキリストの血によってきよめられるが、8―10節はこのことを更に説明したものである。罪を赦してもらうためには、罪を告白することである(ヤコブ5:16)。2:1「助け主パラクレトス」、ヨハネ福音書14:16,25、15:26、16:7に出てくる。ここでは復活したキリストを指す。キリストは天において、私たちのために執り成しの祈りを捧げている(ロマ8:34、ヘブル7:25,9:24)。ヨハネ福音書では、この語は聖霊を指す。2:2「あがないの供え物」、70人訳レビ25:9あがないの日という句の中と同じ語(レビ16章参照)。この語は4:10にも出る。

1、キリストによって、私たちはまことの神を信じ、喜ぶように召されている 1:3−4

わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(3−4節)。

キリストによって、神様との交わりに入り、喜びが与えられます。私たちは天地万物を創造されたまことの神様から離れていた罪人です。日本には八百万の神々がいるとされています。熊谷では夏に八坂神社のうちわ祭があります。先週諏訪に行って来ましたが、諏訪神社が四つもあり、御柱祭という行事があります。諏訪の地にキリストの福音が浸透して行くように祈りながら礼拝をささげ、個人伝道研修会をしました。主によって集会が恵まれことを感謝し、皆さんのお祈りに感謝します。出雲大社のある松江の伝道所のためにも祈っています。日本にはまだまだ偶像がたくさん祭られていますが、私たちは救われ、まことの神様を信じる信仰を与えられていることを感謝します。

私たちは、神の御子イエス・キリストの十字架によって救われ、キリストの復活によって永遠の命を与えられています。私たちが自分の罪を認め、キリストの十字架を信じた時に罪が赦され、心が生まれ変わりました。しかし罪の赦しだけではなく、永遠の命も与えられています。何故なら神様は永遠に生きておられ、その永遠に生きている力をもってキリストを復活させ、キリストは永遠に生きている救主になられたのです。私たちはキリストを信じて、罪の赦しと同時にキリストの復活の命をいただき、永遠の命を宿しています。それが父ならびに御子イエス・キリストとの交わりであると言われています。交わりには共有するという意味があります。クリスチャンは罪を赦され、神様と御子イエスキリストとの交わりに入り、永遠の命を共に持つ者になっている、だから喜びが満ちあふれてくると言われています。

話は少し変わりますが、昨日早天祈祷会で、聖書日課第二ペテロ2章を読み、恵みを分かち合いましたが、恵みを発見するのに困難な章でした。何故なら偽預言者、偽教師が現れ、人を惑わし罪に誘い込んで行くということが述べられていたからです。しかし聖書は神の言葉です。「主は信心深い者を試練から救い出す」(Uペテロ2:9)という希望の聖句がちゃんと記されていました。ところで、皆さんは聖書を毎日読んでいますか・・・。今朝も読みましたか・・・。聖書を読めば、心に神様の御言葉が響いてきます。聖書を読めば読むほど信仰が恵まれます。私は16歳で洗礼を受け、その直後に聖書全巻を読もうと決意して、創世記から黙示録までを一気に読み通しました。それが私の信仰の土台を形成し、信仰を今日に至るまで保ち続ける大きな力になっています。若い方々に勧めます、聖書をコツコツ毎日読んで下さい。聖書は迷いのない、きよい日々を導く人生の道標となります。年配の方々は聖書を日々読むことによって判断力、記憶力を確かにする力が与えられます。私事ですが、ある方に道を教えるのに、曲がるべき交差点の名前が咄嗟に出て来ないので、少し話を長引かせながら必死になって考えて、ようやく思い出して事なきを得たことがあります。もし聖書を毎日読んでいなければ、「ほらほら、あそこを何して曲がればいいんです」というような、変な分からない説明になったかも知れません。

さて本題に戻りましょう。1:3−4を通して、クリスチャンになれば、喜びが溢れてくるということが約束されています。キリストの十字架を信じて、偶像から解放され、罪を赦され、神の子になり、天国へ向う永遠の命を与えられていることを感謝しましょう。

ある江戸っ子の証しです、「私は神田で生まれ、神田明神の氏子でお祭には参加していましたが、信じる気にはならなかった。というのは神田明神というのは、俵藤太秀郷などに平らげられた平将門の、首のないからだを祭ったお宮ときいて神田明神ではなく、これではからだ明神だ。そんなものを信心して、どれほどのことがあるでしょうか。浅草に行けば、隅田川からあがった水死人を祭った土座衛門様というのがあり、回向院の境内にはねずみ小僧の墓があります。けっこう繁盛しているが、ばからしくて信心できません。このたび始めて天地の造り主であるまことの神様がおられ、不信仰な罪ある人間を救うイエス様の十字架を知り、心から満足して信仰するようになりました」。

私たちも、キリストによってまことの神を信じ、喜ぶように召されていることを感謝しましょう。

2、キリストによって、私たちは光の中を歩むように召されている 1:5−9

神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。(7節)

私たちはキリストを信じて生まれ変わった者です。神様を信じて神の子になっている私たちは、神の光の中を歩んでいます。かつて私たちは罪を犯していた者でしたが、神様の憐れみによって罪を赦され、罪の力から解放され、救われました。救われてクリスチャンになりましたが、クリスチャン生活の中で罪を犯すことがあるかも知れない。しかし、私たちには、罪に汚れた場合に赦され、きよめられる恵みがある。それは十字架上で流されたキリストの血の力を信じることであり、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである」(7節)という約束にすがることです。クリスチャンは、十字架のキリストを見上げながら、私たちは神の前に光の子になって、いつでも神様の御言葉によって、正しい道を歩んで行こう。神様に隠し事をしないで、明るく生きて行こうという勧めに従うように祈ることが大切です。

ある所でひとりのご婦人に会いました。その人は「イエス様を信じている」と言うのですが、何か信仰に陰があるような印象でした。最初それが何であるか分らなかったのですが、話をしているうちに分ってきた。その方は一冊の経文を隠し持っていたのです。親が残したものであり、ただ持っているだけだと言いましたが、持っているので、つい見てしまう。そうすると経文を通して働くサタンによって心が不安定になり、信仰がだめになってしまう、祈れなくなってしまうのです。そのために信仰に陰が生じ、恵まれなくなっていたのです。どんなにキリストを信じていると言っても、罪を隠し、偶像を隠し、闇の中を歩んでいるなら、救いからどんどん離れて行ってしまいます。皆さんの身辺に偶像に関係するものがあれば、それらから遠ざかり、祈って一つ一つ処分して行かれることが祝福をもたらします。キリスト以外の偶像は棄てて行かねばならないのです。

最近、ラジオニュース、新聞のニュースによると、携帯電話が発端になって性犯罪が増えているという事です。学校教師、公務員などが携帯・出会い系サイトで女性と知りあい、性的な罪を犯し逮捕されています。今や携帯電話が一億台を突破していますから、皆さん方もお持ちであると思います。私も携帯をもっていますが、必要な通信以外には使いません。皆さんも不必要な所、例えば出会い系サイトなどに絶対に接続してはいけません。それは罪を自分に呼び込むことであり、サタンの闇の業に引き摺り込まれることになります。(インターネットも同じです)。

では罪を犯したら、どうするのか・・・。「罪を告白しなさい」(8−9節)と言われています。罪は隠せません。日曜学校の歌に「「罪は隠せぬ、人には隠せても、神には隠せぬ」という讃美があります。罪を犯したら、言い表して神様に赦しを求めれば、憐れみを受けることができます。箴言28:13に「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる人は、あわれみを受ける」と言われています。ダビデはウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、妊娠させ、それを隠すために夫のウリヤを死に追いやるという罪を犯し、誰も知らないと思っていました。しかし、神様は預言者ナタンによって、彼の罪を白日のもとに曝しました。その時にダビデは王座より滑り降りて、神様に罪を告白し、赦されることができました(サム下11−12章)。使徒行伝の時代、アナニアとサッピラは人に誉められたいために偽りの献金をし、聖霊によってペテロがそれを指摘した時に、それを告白しなかったので、神様の厳しい審きを受けています(使徒5章)。

亀永松太郎は刑務所に入っていましたが、脱獄をして、家に忍び入りお金と洋服を盗み出し、紳士の姿をして遊び歩いたが、何を食べても飲んでも味がなく、平安がなかった。再び捕まって刑務所に戻った時に安心したそうです。どんなに表面を飾っても、罪を隠しているならば、神を欺き、自分を欺いているので平安がないのです。自分の罪を告白すれば、神様は罪を赦し、不義をきよめて下さいます。亀永松太郎は、後に悔改めて救われ、釈放後、伝道師になっています。キリストを信じ、裏表のない明るい、正しい神様に喜ばれる生活を継続して行くように祈りましょう。

3、キリストによって、私たちは御言(みことば)を守って生きるように召されている 2:1−6

「彼(キリスト)を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。(4−5節)

この手紙を記した使徒ヨハネの祈りと願いは、クリスチャンが罪を犯さないように、真っ直ぐに生きてほしいということです。そのためにキリストにしっかり?がって行くことが大切です。

何故キリストに?がっていなければならないのか・・・キリストは私たちのために罪の贖いとなって十字架で死んで下さったお方だからです(2節)。キリスト以前の人々は、罪に対する神様の怒りを宥(なだ)めるために、罪の身代りに動物をささげていました。それが贖いということです。キリストは罪のない潔い身を捧げて、罪の完全な贖いを成し遂げて下さいました。もし私たちが罪を犯した時に悔改めれば、キリストの十字架の恵みで罪を赦してもらえます。

何故キリストに?がっていなければならないのか・・・キリストは私たちの助け主だからです(1節)。どんなふうにして私たちを助けるのか。キリストは十字架の後に復活され、今は天にいて私たちのために祈っておられます(ロマ8:34)。祈りには力があります。昨年9月私はめまいで救急車で病院に運ばれたのですが、入院したら元気になって来ました。元気になったのは、「皆さんが祈ってくれている」という祈りの応援を感じ、天においては罪を赦し、病を癒す力ある助け主キリストが祈って下さっているということで安心感が全身を覆い、元気になれたのです。キリストに縋って下さい。キリストは永遠の助け主です。インマヌエルの主として、いつも共にいて下さる救主です。

最後に大事なことです。キリストを信じている、知っているという人は、神の御言葉を守り、それに従う者であると言われています(3−6節)。

アメリカの女性実業家キャシー・アイルランドさんの証しです。彼女はクリスチャンホームに育ったが、10代のうちに教会に行かなくなり、モデルになった。モデルの世界は薬物、性の乱れがあり、彼女は孤独だった。パリに仕事に行く時に、母親がスーツケースに聖書を入れてくれ、それを読み始めて、キリストの十字架による無条件の愛の救いを知り、18歳で回心しクリスチャンになった。モデルの仕事を続けていたので、誘惑が多かったが、誘惑を退け、25歳で外科医の夫と結婚する。ビール会社のモデルをしていたが、アルコールによって家庭が崩壊し、人の人生が狂わされてしまうことを知り、高収入の仕事を断ってしまう。それはキリストの戒めを守り、信仰の生活を歩むためであった。間もなくソックス・メーカーからデザインの仕事が入り、大ヒット商品を生み出した(今はソックス、アクセサリー、家具、照明器具など年間売り上げ1000億円のブランド商品最高経営責任者)。もしビール会社の仕事をしていたら、現在の仕事を頼まれることはなかったでしょう。キリストに従う道を選んだ時に、主がその仕事を与えて祝福して下さったのです。「御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされる」ということは真実です。

まとめ

1、1章3−4節、キリストによって、私たちはまことの神を信じ、喜ぶように召されています。

2、1章  7節、キリストによって、私たちは光の中を歩むように召されています。

3、2章4−5節、キリストによって、私たちは御言を守って生きるように召されています。

祈 り 父なる神様、御子イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪を赦し、神を喜ぶ明るい人生の中に導いて下さったことを感謝します。神様の御言である聖書に従って生きて行けるように、聖霊によって祈りを与えられ、信仰の道を真っ直ぐに歩めるように導いて下さい。キリストに従って行けば必ず道が開かれることを信じ、信仰第一、キリスト第一に進ませて下さい。水曜日の朝夕の祈り会に出席させて下さい。土曜日の上野ホームレス伝道を祝福して下さい。来週の教会総会で、昨年の恵みを感謝し、2007年度は既に始まっていますが、キリストを見上げて進む信仰の決意と一致を新たにするように教会を導いて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ書注解―黒崎、米田、バークレー、フランシスコ会、LABN、文語略解、口語略解、新共同訳略解。 「平民の福音・山室軍平・救世軍」「基督教案内・沢村五郎・CLC伝道団」「御翼・佐藤順・アンカークロス社」「読売新聞2月16日号」