小さき者の友イエスキリスト ルカ15:1−7             主の2007.3.4礼拝

日本は今から70年ほど前、中国の一部を占領し、一生懸命働けば楽な暮らしが出来るようになるという宣伝で、多くの農民たちをその占領地域に送り込むという政策をとりました。ところが日本は戦争に敗れ、農民たちは中国に全財産を没収され、自分たちを守るべき日本の軍隊は先に逃げてしまい、彼らは着の身着のままで日本に逃げ帰るという悲劇に巻き込まれてしまいます。鉄道のあるところ、そして港へと、彼らは歩いて歩いて逃げて行きます。多くの人々が途中で死にましたが、最も可哀想だったのは幼児と赤ちゃんです。幼児は歩けない、赤ちゃんを抱えて親は歩けない、しかも食べ物がなく途方にくれてしまいます。そこで、せめて子どもたちだけは生き長らえてほしいと願い、情け深い中国の農民に我が子を託し、また親にはぐれた子どもたちの多くが中国の人々によって助けられました。戦争は親子を分断し、無事日本に帰れた親は我が子のことを思い続け、中国に残された子ども達は自分が日本人であることを知り、本当の親に会いたいという気持を持って育って行きます。長い歳月が過ぎて、ようやく中国残留孤児が来日する道が開かれ、僅かの手がかりを元に肉親探しをし、多くの親子、親戚が再会するという恵みを味わいました。

本日はルカ15:1−7です。一匹のいなくなった羊を捜しに出かける羊飼いが登場します。羊飼いは、いなくなった羊を見つけるまで捜し歩きます。中国残留孤児たちは自分の親に巡り合いたい、親たちは我が子を捜し出したいという願いをもち、無事に再会できた親子は涙を流して抱き合って喜びを表し、それがテレビニュースで報じられているのを何回も見ました。しかし、どうしても親に巡り合えないまま失意のうちに中国に戻った孤児達もいました。本当は親が見つかるまで、その消息が分るまで日本に滞在していたかったのに、時間や費用の制限があり、諦めて中国に戻って行く孤児達の姿を見て、胸が痛くなりました。羊飼いは、羊を見つけるまで捜し歩いています。羊飼いはイエスキリストです。キリストは罪に堕ち、滅びに向っている人間を最後の最後まで捜し歩いて下さる救主です。私たちは罪の中をさ迷い歩きながら、救主を求めていましたが、キリストは小さな弱い私たちを捜し出して救いを与え、喜びの人生を歩むようにして下さいました。

今朝、キリスト自らが話して下さった御言葉を通してキリストの愛を受け、祈って、新しい一週間の旅路を出発して参りましょう。

内容区分

1、キリストは、小さき者を受け入れて下さる真の友である 15:1−2

2、キリストは、小さき者を決して見捨てない真の友である 15:3−4

3、キリストは、小さき者と喜びを共にして下さる真の友である 15:5−7

資料問題

ルカ福音書(ルカ伝)と使徒行伝はパウロの伝道旅行随伴者である医師ルカが記したものである。ルカ伝ではキリストは初めから終りまでメシアとして現れる(1:32−35、2:11−16、6:22、10:21−24、22:67−70)。ルカ伝はキリストの福音は普遍的であることを告げている(24:47)。ルカ伝は聖霊の働きについて述べている(1:15、1:35、1:41,46、2:25−27、2:36−38、3:21−22,4:1、14、4:18、イザヤ61:1−2など)。ルカ伝は祈りの書である(キリストの祈り5:16、6:12、23:24など)。ルカ伝は女性を温かい目で見つめている(7:36−50、10:38−42、23:27−28など)。1節、キリストの周りには疎外され差別された人々が集っている。キリストはどんな人をも隔てなく受け入れて下さるからである。5節「喜んで」、喜びはルカ伝の特色である(6,7,9,10、32節)

1、キリストは、小さき者を受け入れて下さる真の友である 15:1−2

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。(1節)

私たち夫婦が神学生の頃、朝は麦ご飯・味噌汁(試験の前と日曜派遣の朝、生卵がでました)と漬物少々、昼はうどん一杯、夜は麦ご飯、漬物と揚げ物が一品というメニューでした。漬物はキャベツのシンを干した物を材料にしていました。日本が経済復興に向いつつある頃でしたが、安い授業料と寮費で50名ほどの神学生を賄うのは大変であったと思いますが、毎日食べることが出来て感謝でした。肉体の糧は乏しくても、神学校に聖霊が注がれ、私たちは御言葉によって心を養われ、霊が恵まれていました。全員が栄養失調になることなく、3年間の学びと訓錬を終えて伝道の第一線に遣わされて行きました。現在の日本は肉体を養う食べ物はたくさんあります。しかし、心を養う霊の糧が少ないので、犯罪が増え、いじめなどの問題が一向に解決していません。食べ物があって、体は元気そうですが、多くの方々の心は飢え渇いています。

私たちは小さい、助けを必要とする弱い者です。悩む心に慰めがほしい、落ち込んでいる心に勇気がほしい、人から疎外され、いじめられている心に愛がほしい、病気の身に癒しがほしいと願っています。私たちが小さく、弱い者であるのは、神を離れ、罪を犯している罪人だからです。罪の結果は死です、それで死を恐れています。

*だれがこの小さい、弱い者を受け入れ、救ってくれるのでしょうか・・・。だれがこの小さい、弱い者の罪を赦し、死に勝つ永遠の命を与えて、救ってくれるのでしょうか・・・。キリストは招いておられます、「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしの許に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)。キリストの傍に取税人がいます。ユダヤ人はロマによって支配され、税金を納めなければならなかった。取税人はロマに税金をもって行く仕事をしていたので、敵のロマ人に我々のお金を持って行く悪い奴らだと白いで見られていました。キリストの傍に罪人がいます。罪人とは文字通り罪を犯した人であり、また宗教上の細かい規則を守れないでいる普通の人々を指しています。その他キリストの傍には売春婦もいましたし、病気の人もいました。それを見て、ユダヤの宗教指導者であるパリサイ人、律法学者が「イエスキリストは罪人と食事を共にしている」と非難しています(2節)。彼らは「汚れた罪人と同席すれば、自分たちも汚される」、「罪人といわれるような連中は放っておけ」という冷たい心をもって、人を差別し、仲間外れにしていました。キリストは逆です。疎外され、差別され、仲間はずれにされている人々の友となっています。

*友とはなんでしょうか・・・。聖書は「友はいずれの時にも愛する、兄弟は悩みの時のために生まれる」(箴言17:17)と告げています。キリストは、エリコの町に住むザアカイの家に泊まり、彼が信仰告白をした時に、「この人も我々の先祖アブラハムに連なる同じ仲間である」と宣言しています(ルカ19:1−10)。当時、最もタブー視されていたらい病の人に、手を触れて癒されたのはキリストです(マタイ8:1−4)。十字架にかけられた犯罪人が悔改めた時に、「きょう、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われ、罪の赦しと永遠の命を与えたのはキリストです(ルカ23:40−43)。

*教会の頭(かしら)はキリストです。教会にはさまざまな人々が集ってきますが、特にキリストには淋しい人や問題のある人を吸い寄せる力があります。開拓伝道を始めた頃、日曜夜の礼拝にひとりの男性が出席しました。目のギョロリとした、いかつい感じの人でした。集会が終わると、その人が「何か食べるものがありませんか」というので、家内が急いでおにぎりをつくり、お皿にいれて渡したところ、よほどお腹がすいていたのでしょう、ものも言わずにガバッとおにぎりに直接食らいついたのです。食べ終わってから、「自分は山口組の者だった。拳銃で人を脅し、殺人未遂で7年ほど刑務所にいた。出所して足を洗い、兄貴分を頼って秩父へ行く途中です」と話してくれた。家内が包み紙に御言葉をいっぱい書き、それに食べ物を包み、持って行ってもらった。彼は熊谷でトラック運送の助手になり、礼拝に来るようになった。ある日、彼が牛肉を山ほどもってきて、「俺はきょう休みです。先生よ、これを一緒に食べましょう」というので、すきやきを食べました。開拓初期で、肉を買えない経済状態でしたので、すき焼きはものすごいご馳走でした。やがて、その方は岡山のほうに引越して行きました。キリストの所にはさまざまな人が来ます。私たち自身が小さい者であり、罪人でしたが、人を分け隔てせず、全ての人を迎え入れて下さるキリストの愛によって、罪を赦され、救われていることを感謝しましょう。主の救いに感謝し、きょうも回りにいる方々に声をかけ、祈りの交わりを深め、主の恵みを分かち合って行くことを心からお勧めします。

2、キリストは、小さき者を決して見捨てない真の友である 15:3−4

あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。(4節)

世の中は、大体の事柄が多数決の原理で動いています。ここでは99対1ですから、圧倒的多数で一匹の羊は見捨てられても仕方なかったはずです。しかし、この羊飼いはいなくなった一匹を見つけに出かけたのです。もう日は西に傾き、夜の帳(とばり)があたりを包みはじめ、獣が出没する夜になろうとしています。でも羊飼いは、わが身の危険をも顧みず出かけて行きます。羊飼いはイエスキリストです。道をはずれ、迷子になり、迷惑をかけているのは私たちのことです。私たちを見つけ出し、救って下さったまことの救主であるキリストの恵みを知っておきましょう。

第一に、キリストは小さい、弱い者の立場に立って下さる救主です。昨今、いじめのことが大きな社会問題になっています。子どもが担任にいじめられていると相談した。担任はいじめている者達には注意せず、いじめられている子どもに「強くなり、立ち向かえ」と言い、子どもは不登校になってしまった。これはいじめられている側にも問題があるとする考えですが、いじめている側が悪い事はだれの目から見ても明白です。その教師はいじめを受けている子どもに寄り添い、身を挺して守ってやるという任務を放棄してしまっています。守るということの実例ですが、ナルオが中学の時に、上級生にお金を要求されたので、思い切って担任に訴えた。担任が調べてみるとクラスの大勢が被害にあっていた。担任はそれを知ると直ちに加害者宅を訪問し、それがいかに悪いことであるか、親を交えて諭し、二度とこんなことをしてはならぬと命じた。担任教師が迅速に行動して子どもを守るという立場を貫き、また加害者に厳正に対処したことによって、問題は無事に解決したのです。キリストは弱い羊の立場に立っています。キリストは、「羊よ、お前が私の言うことを聞かないから迷ったのだ。お前はダメ羊だ」とは言わなかった。「とにかくわたしが捜し歩いて、救ってあげる、待っていなさい」と言って出かけたのです。キリストは迅速に行動し、弱い者の立場に立って、救いの手を差し伸べて下さる救主です。

第二に、キリストは、最後まであきらめないで弱い者を守り、問題を解決して下さる救主です。私の心にあるのは、主の救いに与りながら、洗礼を受けながら、主の御許から離れている人々のことです。目をつぶると、それぞれの方の顔が思い出されます。しかし、離れていると時々名前と顔が一致しなくなるので、名簿を見直し、顔を思い出し祈っています。祈り続けることによって、祈りが叶えられるという一つの例として17年のブランクを経て、地元の教会に復帰している方がいます。私たちは「去る者は日々に疎し」で、どうしても離れている人を忘れがちになる、だがキリストは「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」という愛をもって(へブル13:5)、天上において祈り続けて下さっています(ロマ8:34)。主によって必ず家族や友に救いが与えられ、離れている方々の信仰復帰があることを信じ、祈りをやめないで祈り続けて行きましょう。

第三に、キリストは、あなたに常に目を留め、守り、支えて下さる救主です。いなくなった羊は問題を抱えている人を表しています。今朝あなたの問題はなんでしょうか・・・・今朝あなたの霊は恵まれていますか。あなたの健康は大丈夫ですか。病気の癒しを願っていませんか。あなたの人間関係はうまく行っているでしょうか。あなたの経済はどうですか。仕事はうまく行っていますか。学生さんは試験OKですか。社会に巣立つ時を迎えている人は平安ですか。自分の罪の赦しを求めている人もいますが、心に赦しの平安を得ていますか・・・・。キリストはいなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かれたように、私たちの祈りの課題が解決するまで、最後の最後までトコトン面倒を見て下さいます。

3、キリストは、小さき者と喜びを共にして下さる真の友である 15:5−7

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。(7節)

5−7節の中に喜びが三回も出てきます。ルカ福音書には喜びのことがたくさん出ているので、喜びの福音書と言われています(例えば6,7、9,10、32節)。何を喜んでいるもかといえば、ここでは神様から離れていた者が、キリストによって見出され、救われた喜びです。7節には、ひとりの人が救われると天において大きい喜びがあると言われています。

今朝、皆さんはキリストによって救われたことを喜んでいますか。私たちがキリストを信じた時に、地上で喜びがある、同時に天国においても大きい喜びがあると言われています。私たちは小さき者であり、神様から離れていた罪人でした。キリストは罪人の私たちを捜し出し、救いに入れるために、世の初めから持っておられた天の栄光の位を棄てて、人間となり、33年半の生涯を歩まれ、人生の苦しみを嘗め尽くし、最後には私たちの罪の身代りに十字架にかかって下さったまことの救主です。小さき者のために、十字架の上に命を献げて下さったのはキリストだけです。キリストは私たちを罪から贖いだし、その肩に抱き上げて下さいます。それほど私たちを大事に思い、いとおしく思って下さるのです。キリストはあなたを離れません、あなたを捨てません、あなたの問題全てをその肩に担って下さいます。あなたの病気を癒して下さいます。キリストにすがりなさい。キリストの中に飛び込んで行きなさい。そこから恵みの道が開かれます。ある所でひとりの女性に出会いました。お話を聞いているうちに、罪の話になりました。私は何も言いませんでしたが、その方が突然泣き出して罪の告白を始めたのでビックリしました。最後に私が祈ったのですが、祈り終わったらニコニコして「ああ、うれしい」と何回も言っていましたが、イエス様を信じ、心が新しくなり喜んでいる彼女の気持が伝わってきて、私もうれしくなりました。

ところで話が変わりますが、多くの方々が集い、場所が狭いので、とりあえずベンチの代わりに折りたたみイスを入れて少しでも多くの方々が集えるようにする、折りたたみイスを動かしテーブルを出して食事ができるようにということで準備を進めています。それは物理的な対処ですが、では霊的な対処は何か・・・全ての者が謙ることです・・・・全ての者がキリスト中心の家族の一員であることを憶え、互いに祈り合うことです。全ての者が救いを喜び、キリストの救いを伝えることです。新しい方々を迎え入れ、声をかけ、仲間になって行くことです・・・・そのためには謙ることが大切です。私たち小さき者を救って下さったキリストに感謝を献げ続けて行きましょう。

まとめ

1、1節、キリストは私たち小さき者の真の友です。弱い罪人の私たちを救って下さったキリストの愛に感謝を献げましょう。

2、4節、キリストは小さき者を決して見捨てない真の友です。キリストは小さい弱い者の立場に立ち、弱い者を最後まで守り、常に支えて下さる主です。最後の最後まで面倒を見て下さるイエスキリストにすがって祈りましょう。

3、7節、全てを捨てて、命までも十字架の上に献げて救いを表し、しかも救いの恵みを共に喜んで下さるイエスキリストこそ真の友です。私たちを抱き上げ、支えて下さるキリストの愛をほめ讃へ、今朝あなたの問題を主に祈って解決をいただき、勝利を与えられて行きましょう。

*教会成長の大事な節目を迎えている時、ひとり一人が主の前に謙って行きましょう。

*Power of Loveを讃美し、祈りを献げます。

祈 り

天地の主である神様、御子イエスキリストによる救いを感謝します。小さき者であり、弱い罪人である私たちに特別に目を留めて下さって、私たちの真の友になって下さったイエス様に感謝を献げます。イエス様が常に私たちの味方であることを感謝し、どんな時でもイエス様にすがって行きますので、今週も私たちを導いて下さい。きょう主の御名によって、病の方々が速やかに癒されて行くように祈ります。きょう主の御名によって、主の導きを求める者、問題解決を願う者に聖霊の導きを与え、正しい判断力により祝福の道へと進ませて下さい。私たち小さき者の友イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ルカ注解―榊原、フランシスコ会、黒崎、LABN、文語略解、米田、Ryle。「賀川豊彦・キリスト新聞社説・1946.4.27号」