クリスチャンの原点―キリストに従い、ついて行く マタイ4:18−20        主の2007.3.11礼拝

神様は世界を創造されただけではなく、世界を一定の秩序をもって支え、人間をはじめとするあらゆる生き物を常に守っていて下さる愛の神様です。神様が天地創造以来コツコツと創造のリズムを保っていて下さるので、やがて日本の地に桜が咲きほころび、木々は新緑に染まって行きます。日本に来て冬を過ごした白鳥たちは天体の運行を目印にしながら、何千キロという距離を移動して故郷へ帰ります。私たちの頭上には、変わることのない地球の軌道に合わせて人工衛星が運行を続けています。創造の神様は揺らぐことのない一定のリズムをもって、コツコツと全宇宙の仕組みを保って支配しておられます。神様は不変の意思をもって世界を保ち、また世界に住む私たち人間を不変の意思をもって愛しておられます。創造者なるまことの神様に背き、罪人になってしまった人間を見捨てずに、神様は預言者を通して「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす」(エレミヤ3:22)という愛の呼びかけをなさっておられます。皆様方は、神様によって愛されています。何故なら、「わたしはあなたがたの背信をいやす」という主の招きの声を聴き、聖霊に導かれ、神の独り子イエス・キリストの十字架を信じて罪を赦され、心に「私は救われた」という輝きに満ちた喜びが溢れているからです。

本日はマタイ4:18−20です。イエス・キリストは、「わたしについて来なさい!(我に従いきたれー文語訳、Follow me―RSV)」と言われます。この御言葉こそクリスチャン信仰の原点です。キリストに従って行くことは一生の課題です。神様が全世界の秩序をコツコツと保っておられるように、私たちも日々コツコツと主に従い続け、やがて時満ちて地上の信仰生涯を終え、天の御国の門を潜りぬけて神様の御前に導かれるのです。私事ですが、私は先週木曜日の早朝から激しい頭痛があり、二日間休みを余儀なくされました。教会の現状をみますと、いろいろな面で恵まれていますが、恵みが加わるにつれて、サタンも必死になって働いているので、牧師として本当は休むどころではないのです。しかし、体が風邪によって動けない、ベッドの中で眠り、目を覚ましては祈るという二日間でした。しかし神様は愛です。「わたしについて来なさい!健康な時も病気の時も。恵まれている時も試練の中にある時も」というキリストの御声が私の心に響いてきました。「病む事もある。自分の願った通りに行かない事もある。大事なのは神様の御心を知り、それに従う事だ。いかなることがあろうとも、祈りをやめるな」という教えをいただき、いつも祈って下さっている皆さま方の祈りを感じつつ、昨日は大馬力で日曜礼拝の準備を行うことができました。ご一緒に主の語りかけを聴き、新しい決断をもって祈り、一週間の旅路を出発して参りましょう。

内容区分

1、キリストは、特別な条件、資格を問わず「わたしを信じて、ついて来なさい」と言われる 4:18−19

2、キリストは、「一生を通じて、わたしに従い続け、ついて来なさい」と言われる 4:19

3、キリストは、「世の権威、力、財力に頼らず、わたしに頼りなさい」と言われる 4:20

資料問題

取税人であったマタイが救われ(9:9−13)、主の弟子に選ばれ(10:2−4)、彼は帳簿をつけるように、キリストのなさった事・教えなどを系統的にまとめてマタイ福音書を記し(例:5−7章山上の垂訓)、また彼はユダヤ人であったので、ユダヤ人に対し旧約聖書から多数の引用を挙げ、イエスがキリスト(約束のメシア)であることを明示している(例:1:1−17キリストの系図)。19節「ついて行く。従う」は、単に随行する事ではなく、弟子入りをする事であり、同時に師に「服従する」事である。キリストに従う処に神の国がある。「わたしについて来なさい」、キリストより宗教、哲学を学ぶのではなく、また聖書を学ぶのでもなく、キリストに従うことが弟子たる者の唯一の必要なる態度である。

1、キリストは、特別な条件、資格を問わず「わたしを信じて、ついて来なさい」と言われる 4:18―19

イエスは彼らに言われた、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(19節)

キリストは天の栄光の位を捨てて、人間としてこの世に来られ、30年間は隠れた生活をしていました(キリストの私生涯)。神の時が満ちて、紀元30年キリストはすべての人の模範となるためにヨルダン河で洗礼を受け(3:13−17)、荒野でサタンの試みに勝利を得ます(4:1−11)。その後すぐにキリストは、「悔改めよ、天国は近づいた」(4:15)と宣言され、公に伝道の働きを開始されます(キリストの公生涯)。伝道開始直後、キリストは弟子達を選び、寝食を共にして彼らを教え、訓練して行きます。本日の場面で、ペテロとアンデレが最初の弟子になった事が記されていますが、キリストの招きについて考えてみましょう。

「わたしについて来なさい」というキリストの招きの言葉は単純です。「あなたを招いているのは、わたしキリストである。あなたが、わたしの弟子となる条件はただ一つ、わたしについて来ることである」という内容です。招きの声を聴いたのは漁師のペテロとアンデレです。彼らはごく普通の一般庶民と言われる人々で、特別な学歴、家柄、地位、財産などのない人々です。世の中では会社勤めをするにしても、試験があります。学力、健康、人柄から人相、背の高さまでテストする時もあります。世の中では、そのようにして仕事に適した人物を選ぶのです。ところがペテロたちは何の試験も受けず、漁師からいきなり主イエス・キリストの弟子になっています。これは世の常識とは異なることです。キリストは役に立ちそうな人物を選んで弟子にしているのではないようです。キリストは神の子ですから、何でもお出来になります。人間の力を借りなくても、人間の救いの業を行うことがお出来になります。キリストの生涯を見てみると、大切な瞬間はいつでも独りです(例:ゲッセマネの祈り、十字架、復活の場面)。ですから、キリストを助けるなどということは誰も言えないのです。キリストの弟子選びの基準は、キリストについて行く者です。

では何故キリストは弟子を選んだのでしょうか。それはキリストの恵みによる選びです。キリストに従い、キリストのために奉仕して生きるのは、ペテロにとっても他の弟子達にとっても喜びであったのです。奉仕に関して、キリストが私たちに恵みを下さったから、感謝のしるしとして、多少の苦労はあっても奉仕をする義務があるという考えがあります。しかし、奉仕は、私たちが恩返しとして、しなければならないような義務ではなく、キリストの恵みに単純に感謝することです。キリストが私たちのために命を献げて下さったという恵みに感謝して奉仕をする時に、祈りが生まれ、讃美が与えられ、心に喜びが湧いてきます。キリストの恵みによって私たちは選ばれ、救われています。キリストは「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と言われています。使徒パウロは、「あなたがたが救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである」(エペソ2:8−9)と言っています。キリストに選ばれた私たちのすることは、キリストについて行く事です。これだったら学歴、家柄、財産などは無関係です。ついて行くことは誰にでも出来ます。ある方々はキリストに40年も50年も従い続けています。ある方々は最近キリストについて行くことを始めているかもしれません。大事なことは、「きょうというこの瞬間にキリストについて行く」という事です。キリストについて行くことが喜びを産み出し、キリストのために仕え、奉仕して行く力の源になります。

「わたしについて来なさい」。キリストの招きに、いつからついて行くのでしょうか。ついて行くのは今、この瞬間からです。私の友達は、和菓子屋でアンコを練る仕事をしている時に、「我に従いきたれ」という招きの声を聴いて、学歴もなく、何の取り柄もない、こんな自分が牧師になれるだろうかと思った。しかしイエス様について行こうと決断して従った時に、誰よりも深く祈り、霊的な洞察力という賜物を与えられています。これは学歴では得られない、従う者に与えられる主の賜物です。信仰生活は「わたしについて来なさい」というキリストの招きに応えることです。ついて行くために、私たちは朝ごとに聖書を読み、祈ります。日曜礼拝に励み、水曜祈り会に出席します。若い方々に勧めます(若い方々に限らず皆さんひとり一人に対してです)、祈り会に出席して、多くの方々のために執り成しの祈りを献げて下さい。私の信仰成長は高校生時代から祈り会に出席したことによって得られました。テレビを見るよりも、遊ぶよりも祈り会です。キリストを信じて、キリストに従う決断をもって祈って下さい。

2、キリストは、「一生を通じて、わたしに従い、ついて来なさい」と言われる 4:19

イエスは彼らに言われた、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(19節)

キリストは弟子達に「わたしについて来なさい。従って来なさい」と呼びかけています。ついて行くというのは、ブラブラついて行くという意味ではありません。キリストの弟子になって、キリストに服従する日々を歩むということです。キリストの弟子とは、どのような者でしょうか。

キリストの弟子は、救われてから、毎日毎日、信仰生活を積み重ねて、主に従って行きます。私は教会時代、牧師と青年部有志で富士山や秩父の山に登ったことがあります。下から見ると、山はやたらに高く見える。リュックサックを担いで上り始める。最初は鼻歌まじりで上っていますが、二時間、三時間と上り続けると、息は切れる、喉は渇く、腹はへってくるという状況になり、鼻歌は消え、無口になります。しかし、時々山道の隙間から後ろを振り返ると、景色がパノラマのように開けて見えて、疲れを忘れ、爽快な気分になります。そして、上る力を回復し、遂に山頂までたどり着き、眼下に広がる壮大な風景を眺めながら、腹を満たし、喉を潤し、上って来て良かったという思いを深めることができたことを思い出します。信仰生活も毎日一歩一歩の積み重ねです。ある時ふと気がついた時に自分の霊が恵まれ、不平不満が消え、心にキリストを喜ぶ思いがあふれていることに気づきます。

キリストの弟子は、祈りを込めて毎日の小さな事柄にも全力を尽くして行きます。内村鑑三が若い弟子に言った言葉があります。「君はつまらぬ仕事や雑用に時間を取られるのは嫌だと言っているが、人生の大部分は骨折り仕事・労役(drudgery)である。重荷を負って牛車を強く引かねばならない。それが人生であるし、キリストもそれをされた。もし君がその仕事に堪えられないなら、君はどこへ行っても役に立たぬ。それを嫌がってはダメだ。君がやらなければ誰かがやらねばならないではないか。同じ嫌な仕事を、君がやる時には正しく勇ましくやってのけなければならぬ。その仕事を君がやらないのならば、君はその仕事について論じる資格がないのだ」。それを聴いて彼は自分の傲慢に気づき、「人生の大部分は労役(drudgery)」であることを心に刻んで、何事も感謝をもってするようになった。やがて彼は聖書を教える神の器として成長し、用いられて行きます。私事ですが、私たちの恩師弓山先生も同じようなことを教えてくれました。「開拓伝道で、最初から人が来ないかもしれない。だが教会の仕事は無数にある。呟かず、疑わず、どんなことでもコツコツと主の名によってして行きなさい。与えられた事をどんな事でも感謝をもってして行けば、主は祝福を下さる」。私たち夫婦は、その教えに従い、あらゆる事柄を、感謝をもってさせていただいてきました。例えば、毎週皆さんの座っているイスに手を置き、そこに座る人のために祝福が豊かであるようにと祈ります。卑近な例としては、時々脱ぎ散らかした玄関の靴をしまいながら、これらの人々が毎週健康で教会に来られるように、また玄関を整理したことによって、後から来る人が教会に対して好い印象をもつようにと祈ります。何事でも主の名によってして行く時に、心に喜びがあり、その喜びが伝道のエネルギーになり、救われる人々が加えられてきました。開拓伝道を開始して20年目、突然弓山師より「君、今度開設される神学校関東分校の教師になってもらいたい」と言われました。都会には学歴ある多くの牧師方がいるのに、地方で伝道牧会している名もなき私が指名され、ビックリしました。その関東分校が発展し、4月から神学校夜間コースになり、4年間で週3回の授業を受け、働きながら学んで、伝道者の資格を取れるようになり、殆ど宣伝しなかったのに、今回新しく5名もの応募者が与えられています。また私たちが、牧会伝道において、何事でも主の名によってコツコツと励んできた事が、多くの人々とのつながりを産み出し、実に沢山の方々が、時には外国からも、電話、来訪によって相談と祈りを求めて来ます。それを殆ど家内が引き受けているので、時としてオーバーワークになり、眼底出血をもたらします。私たち夫婦のために祈って下さい。荻野倫夫・チャチャ伝道師夫妻も働きに加わっていますが、若い二人が皆さんの祈りに支えられて、キリストの器として成長し、用いられて行くように祈って下さい。

キリストの弟子であるというのは一生涯のことです。私が行っていた教会はおばちゃんが多かった。「渡辺さん、若い時に救われて良かったね。その若い力をイエス様に献げて、あんたは神学校行きだね。将来は神学校でも教えるようにならなければね」とおばちゃん達におだてられ、脅され(?)、祈られて信仰が成長しました。私が教会に行き始めて50年ですから、おばちゃん達の多くは天国に行きましたが、健在の方々は70年ぐらいの信仰生活をして恵まれています。私は自分の信仰が保たれて来たのは、もちろんイエス様の恵みですが、おばちゃん達の祈りのパワーがあったからであるという感謝の思いで一杯です。天国の門を潜り抜け、イエス・キリストにお会いするまで信仰生活は続いて行きます。

3、キリストは、「世の権力、財力に頼らず、わたしに頼りなさい」と言われる 4:20

すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。(20節)

キリストは「わたしについて来なさい」と言われ、「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」という使命を与えています。しかし経済の保証、先行きの保証を何も言っていません。しかしペテロ。アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、全てを献げて主に従って行く道を選んでいます。これは、キリスト信仰はご利益信仰ではないことを表しています。世の宗教はご利益宗教です。拝めば儲かる、病気が治る、家庭円満になる、そのために多額のお賽銭を献げなさいという取引信仰です。聖書の神様は「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者の上にも、雨を降らして下さる」恵み深いお方です(5:45)。この分け隔てしない神様の恵みに感謝しながら、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば衣食住・生活に必要なものは全て添えて与えられます」とキリストは言われます(6:33)。第一に霊の救いです。経済問題はその次です。聖書朗読のイザヤ40章の御言葉を思い出して下さい。「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」と歌われていました(40:31)。この御言葉のように、恵みと力は上から来ることを感謝します。

ところで、教会には様々な働きがあります。今週はファミリーです。ゴスペルもあります。全ての集いの中心にイエス様がいて下さることを信じて、共に祈り合って下さい。夕べの礼拝もあり、新しい方々が集っています。その他諸集会があります。もっと広い場所をと、教会堂のためにも祈っています。それらに加えて個人的な問題を抱えている方、病気の方を思うと、牧師として私はいても立ってもおれないという気持ちになります。私事ですが、めまいで入院してから半年目になり、復調を感じています。しかし目の治療があり、目の病気の名前は忘れましたが、原因は過労、睡眠不足そして情緒不安定とありました。何で情緒不安定かなと思いましたが、いろいろなことを受けて気がつかないうちにストレスを抱え、情緒不安定になったのだ。だから、もっと主にすがって行けば勝利を得ることが出来ると確信しています。

キリストは言われます、「わたしについて来なさい」。ペテロとアンデレは自分が頼りにしていた網を捨てて、ただキリストにすがるという信仰に立ちました。私も主を信じ、全てを御前に献げ、主にすがって行こうと思います。「主は言われる。これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリア4:6)。私たちの人生の主導権をとるのは神の深い御心をきわめ、全ての人をキリストに導く聖霊です。今朝あなたは主について行く思いを新たにしていますか・・・。今朝あなたの問題はなんでしょうか・・・。主に祈りましょう。主は祈りに応え、平安と共に解決の道を示し、必要なものを与えて下さいます。主に祈りましょう。

まとめ マタイ4:18−20を読みます。

1、キリストは、特別な条件、資格を問わず「わたしを信じて、ついて来なさい」と言われます。

2、キリストは、「一生を通じて、わたしに従い、ついて来なさい」と言われます。

3、キリストは、「世の権力、財力に頼らず、わたしに頼りなさい」と言われます。

祈 り

天地の主である神様、救主イエス・キリストによる救いを受け、私たちはキリストに従って信仰の日々を歩んで行きます。私たちはイエス様に従って行きます。自分の才能、持ち物に頼らず、それをイエス様に献げますので、イエス様に従う喜びで心が満たされ、そしてイエス様が与えて下さる賜物を受けて従って行ける様に導いて下さい。今朝、問題を抱えている方の上に臨んで下さい。病気の者の上に上からの癒しの力を与えて下さい。ファミリー、ゴスペル、夕べの礼拝の上に祝福を注いで下さい。会堂の事も先ず祈りと共に的確な情報を与えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献マタイ注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、LABN、文語略解。「身近に接した内村鑑三・石原兵永・山本書店」