クリスチャンの原点―上からの、唯一の、全ての人のための福音 黙示録21:1−14 主の2007.3.18礼拝
世界の宗教は、人間の側から教祖、あるいは聖なる場所に近づき、恵みをいただくという考えに立っています。インド北東部・ガンジス河畔にあるベナレスBenaresという町には、ヒンズー教徒たちが河に身を沈め、罪から身をきよめるために、インド全地から暑い中を何日も何日も徒歩でやってきます。日本では神社・仏閣の境内を裸足で一定の距離を歩き、百回拝めば願いが叶うという「お百度参り」があります。中国奥地には高い岩山の一角をくり抜いて部屋を造り、その壁に仏像を描き、経文を唱える神聖な場所にしています。イスラム教では、サウジアラビア西部の都市メッカMeccaはマホメッドの生地で、カアバ神殿があります。その庭に黒石(くろいしBlack Stone)と呼ばれる大きな立方体の石があり、イスラム教徒は生涯に一度それに触れ、口づけすることを熱望しています。これらの例から分ることは、人間の側から神々に近づいて行かなければ、恵みをもらえないということです。
本日は黙示録21:1−14です。(教会聖書日課は新約が一巡し、マタイに戻ります。旧約はサムエル記下に入っています) 2節に「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神の許を出て、天から下って来るのを見た」と記されています。これは神様の方から人間に近づいて行き、救いを与えることを示しています。宗教と言われるものは、人間がお百度を踏み、河に身を沈めたりなどという何かを達成することを要求します。あるいは遠い所へ巡礼に行く、簡単に登れないような岩山を攀じ登って、そこで経文を読むというように、人間の側から求めて行くことが要求されています。しかし、真の救いは、「天から下って来る」とあるように、神様の方から人間に近づき、救いをもたらすものであることが示されています。私たちは、天から下って来られた神の独り子イエスキリストの十字架によって罪を赦され、死を打ち破って甦ったイエスキリストによって永遠の命を与えられている者であることを感謝します。まことの救いは天から、神のところから下って来ます。全ての善きものは天から下って来ます。皆さんの求めるものは何でしょうか。イエスキリストの御名によって祈り、天から下って来る恵みを受けて下さい。先ず神からの語りかけを聴いて、そして共にイエスキリストの御名によって祈って行きましょう。
内容区分
1、キリストの恵みは、主を仰ぎ望む者の上に天から下って来る 21:1−4
2、キリストの恵みは、主を信じるという決断を献げる者に下って来る 21:5−8
3、キリストの恵みは、主を信じる者に分け隔てなく下って来る 21:9−14
資料問題
1節「新しい天と新しい地」、イザヤ65:17、66:22、2ペテロ3:13を見よ。世の終りには、全被造物は死と罪の枷から自由になり、神の栄光によって全く新たにされる(ロマ8:19−23)。「海」、海は嵐と危険とを孕んでいるので不安の象徴であり、新しい天地の平和と秩序と両立できないので海は消え失せる。2節「着飾った花嫁」、イザヤ62:4−6,65:19−19を見よ。「新しいエルサレム」、キリストが非難し(マタイ23:37−38)、ロマによって滅ぼされた古いエルサレムではなく、霊的、聖なるエルサレム(ヘブル11:10,16)。新エルサレムの描写は21:9−22:5に詳述されている。3節「神自ら人と共にいまして」、キリストの受肉(ヨハネ1:14)によって現実となったが、その完全な実現は天国においてなされる。5節「すべてのものを新たにする」、Uコリント5:17を見よ。6節「いのちの水」、水は生命の象徴(イザヤ12:3、41:17−18、44:3−4、エゼ47:1、ゼカ13:1)。また水は永遠の生命の源である聖霊の象徴(ヨハネ7:38−39)。12節「12部族の名」、神の新イスラエルである教会を指す(7:1−8)。14節「12使徒」、新イスラエルである教会の土台となる(エペソ2:19−20)。
1、キリストの恵みは、主を仰ぎ望む者の上に天から下って来る 211−4
聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神の許を出て、天から下って来るのを見た(2節)
紀元33年ごろ、イエスキリストは人間の罪の身代りになり十字架上で死にましたが、三日後に死から甦り、40日のあいだ地上にいて弟子達に神の国のことを教え、それからエルサレムのオリーブ山から天国に帰って行きました。キリスト昇天の10日後エルサレムの二階座敷で祈っていた弟子達120名の上に聖霊が降り、その日に3000人がキリストを信じて救われ、洗礼を受けエルサレム教会が発足しました(使徒2章)。キリストの「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という命令を受けて、初代教会のクリスチャン達は聖霊に満たされて伝道をし、伝道は今日まで受け継がれ、全世界に教会が増え広がり、日本にも約8000のプロテスタント教会があります。全世界にキリストの福音が伝道された時に世の終りがやって来ます(マタイ24:14)。どのようにして世の終りが来るのか、世の終りにどんな出来事が起こるのかを記したのがヨハネ黙示録です。しかし世の終りのこと以上に、ヨハネ黙示録には、全ての人が救われることを願っておられる神様の愛が満ちています。読む時には細かいこと、分り難いことはそのままにして、救主イエスキリストの素晴らしさに目を留めて行くことが大切です。
ヨハネは主の日に黙示録のメッセージを受け取っています(1:10)。主の日とはキリストが復活された日曜日を指しています。キリスト復活以前は、約4000年間にわたって土曜日が安息日でしたが、クリスチャン達はキリストが復活された日曜日を主の日、または聖日として守ってきました(Tコリ16:2)。ユダヤ人は旧約聖書をもっていますが、新約聖書を拒み、キリストを信じていないので、彼らは依然として土曜日を安息日としています。クリスチャンは旧約聖書、新約聖書を合わせて聖書としていますので、キリストを信じ、キリストが復活された日曜日を主の日としています。キリストを信じる私たちは日曜日に集い礼拝を献げます。礼拝では、聖霊に導かれてキリストを喜び讃えるさんびを献げ、聖書全体から神様の教えを聴き、感謝の献金を献げ、互いの安否を問い、祈り合っています。
2節に「新しいエルサレムが・・・神の許を出て、天から下ってくる」と言われています。この御言葉は神自らが救いを完成するために、人間のほうに近づいて来られる様子を記しています。エリコの町に住んでいた取税人ザアカイの家に、キリストは客となって泊まったことがあります。取税人は当時ユダヤ教社会の中で疎外され、差別されており、取税人の所に行けば、「キリストはあんな奴らの仲間だ」と後ろ指を指されることが分っていましたが、キリストは公然とザアカイの家に行きます。その晩ザアカイはキリストを信じて心が生まれ変わり、皆の前で「財産の半分を貧しい人々に施し、不正に取り立てた税金は四倍にして返す」ことを言い表します。それを聴いたキリストは、「わたしが来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と言われています(ルカ19:10)。キリストは苦しむ者に助けの手を差し伸べ、疎外され差別され、友達のいない孤独な者の友になって下さる愛の救主です。
現代、多くの人々が罪に悩み、死ぬ事に怖れを感じ、病気で苦しみ、人間関係のイザコザに巻き込まれています。心の苦しみを解決するためにスピリチュアルと称する、六星占星術、オーラの泉など占い師の出てくるテレビ番組は高視聴率をあげています。占い師の特徴は、先ず相手に怖れを感じさせるようなことを言う(過ちなどを責める)、それから良い事をしなさい、あなたは良い人になって行くという解決案を提示し、人を心理的に誘導して行くものです。もし良くなれないとしたら、あんたの努力が足りないからだと言います。キリストは違います。キリストは人間の苦しみの現場に飛び込んで来られたお方です。相手を見下ろさないで、相手と同じ目線に立ち、黙って苦しみを担って下さる愛のお方です。
私が行っていた教会に、女性で小児麻痺の方出席しました。病気の後遺症で体が不自由で、結婚する機会がないまま、先行き不安な気持ちを抱えていました。彼女は礼拝後、「病気の苦しみ、先行き不安の気持ち、友達がいないので孤独であること、自分はなぜ生まれて来たのか」という心の叫びを切々と訴えました。牧師夫人は彼女の手を握り、「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしない、これがイエスキリストの御約束です。あなたはキリストによって愛されています。その印として、あなたの苦しみを担ってキリストは十字架に架りました。しかし死んで終りではなく、甦って生きておられます。キリストはあなたの心の内に住んで、世の終りまであなたを守り、あなたを支えます。あなたはキリストによって愛されています」と伝え、祈りました。女性はキリストの愛を心に感じて大声をあげて泣きましたが、やがて彼女の目から涙が拭われ、心に喜びと平安とを得ることができたのです。4節に「人の目から涙を拭い取って下さる・・先のものがすでに過ぎ去ったからである」と言われています。「誰でもキリストにあるならば、古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(Uコリ5:17)。キリストを仰ぎ望む者の上に、恵みは豊かに下って来ます。今朝、あなたも祈って、上よりの恵みを得て行くようにして下さい。
2、キリストの恵みは、主を信じるという決断を献げる者に下って来る 21:5−8
「わたしはアルパでありオメガである。初めであり終わりである。渇いている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(6−7節)
人生には二つの道があります。それは神を信じる道、神を信じない道という二つの道です。それは信仰の道、不信仰の道という二つの道です。それはキリストにつく道、サタンにつく道という二つの道です。中間の道はありません。両方をいっぺんに歩むことは出来ません。人間は誰でも二つの道のどちらかを選ばなければなりません。6-7節に「わたし(キリスト)はアルパでありオメガである。わたし(キリスト)を信じれば、わたし(キリスト)は信じる者の神となり、信じた者は神の子の一員になる」と約束されています。
8節には「わたし(キリスト)を信じない者は、火と硫黄の燃えている池、すなわち地獄に行くであろう」と言われています。
あなたはどちらを選びますか・・・。もちろん私たちは神を信じる道、信仰の道、キリストにつく道を選んでいます。私たちにキリストを信じる決断を与えてくれたのは聖霊です。「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』と言うことができない」(Tコリ12:3)と言われているように、私たちに罪の告白をさせ、キリストを信じるように導いてくれたのは聖霊の偉大な働きです。あなたは聖霊によって、キリスト一筋の信仰生活をしていることと思います・・・。
では、信仰生活で大事なことは何でしょうか。三つのポイントがあります。
1、キリスト中心の信仰生活を貫くことです。
キリストは言われます、「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。
お尋ねします――キリストは心の真ん中にいますか・・・。キリストに心の全部を明け渡しているでしょうか・・・。どんなことでもキリストの御名によって祈っていますか・・・。
2、キリストの体である教会に所属することです。
聖書は告げています、「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではないか」(ヘブル10:25)。
天国の門の内側に入るまで、何があっても教会につながり、信仰生活を続けることです。
3、キリストについて行くことです。
キリストは言われます、「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。
後ろを見ないで、前に向って進んで行くのが信仰です。後ろを見させるのはサタンです。キリストは私たちの先頭に立って、天国への道を歩むように導いて下さいます。
信仰生活は毎日キリストにつき従って行くことです。そのために毎日、「今日も従って行きます」ということを決断することが大事です。信仰生活とは何かということを定義すれば、「信仰生活とはキリストに従う決断の連続である」ということが出来ます。間もなくプロ野球が始まります。プロ野球選手にとって、野手であれば2000本の安打を打てば名選手と言われ、投手であれば200勝すれば名投手と言われます。記録を達成した選手は「コツコツと試合に出て積み重ねてきた結果です」と言います。それを聞きながら、試合に出られるように体力を維持し、練習をするという隠された部分が大切であることを思います。信仰生活も、日曜礼拝に出席するために健康であること、様々な用事を片付け、日曜日にずれ込まぬようにするなどして、日曜礼拝出席を確保することが信仰生活の恵みにつながって来ます。子どもたちの教会学校ではクリスマスに日曜出席皆勤賞、精勤賞の表彰式をし、プレゼントをあげています。ですから、こども達は、多少熱があっても表彰式のプレゼントをもらうために休みません。私たちは、日曜に試験があったり、仕事があったりなど種々のことがあり、それにプレゼントはもらえませんが、主を信じるという信仰生活を持続して行くように、互いに祈り合い、励まし合って行くことが大切です。
3、キリストの恵みは、主を信じる者に分け隔てなく下って来る 21:9−14
それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。(12−13節)
天国の中心は新しいエルサレムの都です。都は宝石のように輝き、15−17節にはその大きさが記されていますが、ある人の計算によれば、22兆人が入れる広さがあるということです。ここでは新しいエルサレムには東西南北に三つずつ、合計12の門が開かれていることが記されています。
東に三つの門があります。東は太陽が上り、一日がはじまる方角です。これは人生の若い時に信じた者、あるいは子ども時代にキリストを信じて聖なる天国の都に入った人々を表しています。
北に三つの門があります。信仰を理論的に、理性的に考えてキリストを求め、信じ、聖なる天国の都に入った人々を表しています。
南に三つの門があります。南はあたたかい風が柔らかに吹く方角です。キリストの十字架を信じ、心が愛で溢れ、聖なる天国の都に入った人々を表しています。
西に三つの門があります。西は日が沈む方角、暗くなって行く方角です。これは人生の黄昏にキリストを信じた人々を表しています。昨日、羽生の北林さんが長男憲一さんと共に来訪されました。北林さんのご主人は2005年12月26日77歳でキリストを信じ、2006年78歳で天に召されて行きました。頑固な無神論者でしたが、私たちはお祈りするために病院を訪問しました。祈る前に、「イエスキリストのことをお話してもよいですか」と聞くと、「はい」という返事でした。そこで、家内がキリストの十字架、復活の絵を見せながら伝道した時に、素直にキリストを心に迎え入れ、救われ、神の子になりました。まさに人生の黄昏、最晩年にキリストを信じるという恵みに与ったのです。
私は人生の若い時にキリストを信じたので、東の門グループであると思います。皆さんはどの門からでしょうか・・・。素晴らしいことは、キリストを信じれば、東西南北どの門からでも天国に入ることができるということです。天国の門が開かれていることを感謝し、門を潜り抜けて天国へ入って行きましょう。門を潜り抜ける条件はたった一つ、キリストを信じることです。キリストは「わたしは門である。またわたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父の御許に行くことはできない」(ヨハネ10:9、14:6)と言われました。キリストを信じれば、年齢、性別、男女、学歴、出身、財産などに関係なく、罪を赦され、天国に入って行けるのです。キリストを信じる者は誰でも天国に入って行けるように、全ての方面にわたって門は開かれています。
まとめ
1、2節、キリストの恵みは、主を仰ぎ望む者の上に天から下って来ます。
2、6−7節、キリストの恵みは、主を信じるという『決断を献げる者に下って来ます。
3、12−13節、キリストの恵みは、主を信じる者に分け隔てなく下って来ます。
祈 り
天地の主である神様、私たちは天から下って来られたキリストの十字架を信じ、救われたことを感謝します。世の終りは近いと言われていますが、神様は全ての人が救われることを願っています。私たちの家族、友人、周りの方々にイエスキリストを伝え、聖霊の働きによって信じることができるように導いて下さい。病気の方に癒しが与えられることを信じます。問題の中にある方に勝利が与えられることを信じます。今週も恵み深い御霊によって信仰の道を歩ませて下さい。私たちの救主であるイエスキリストの尊いお名前によって、これらの祈りと願いとを天の父である神様にささげます、アーメン。
参考文献―黙示録注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、生島、LABN、文語略解。 「世界宗教事典・ケネデイ原著・教文館」