クリスチャンの原点―神の教会につながって生きる 使徒20:28−35 主の2007.3.25礼拝
私たちの属する教団では三年または四年に一度、五月に全国聖会が開かれ、今年が開催年で5月2日(水)−4日(金)川口リリアで行われます。その時に牧師として長年働いている人々の表彰式が行われることがあります。私たちは7年ほど前に30年勤続ということで、一枚の表彰状をもらいました。私たちの神学校同級生は入学時18名、卒業時14名でした。30年勤続の時は他の教団に移ったり、経済問題で退いたりしたりなどで、教団に属する現役伝道者は7名でした。牧師として仕え続けることは大きな戦いがあることがこの数字で分ります。この教会から、私たちの娘を含めて7名が神学校に行きました。主のために生涯を献げて生きることは素晴らしいことですが、戦いの多い人生にあえて飛び込んで行くひとり一人に「戦いは多い、経済的、人間的保証は何一つない。だがキリストを伝えることは光栄ある務めである、主の祝福あれ」と祈って送り出しました。
本日は使徒行伝20:28−35です。使徒パウロがエペソ教会の牧師たち、教会の働き人たちに対し、神の教会の牧会について教えている場面です。エペソ教会によって初代教会の様子を知ることができます。パウロはこの後に「エペソ人への手紙」を書いています。また、エペソ教会の牧師になったテモテに対し「テモテへの手紙T・U」を記しています。さらに黙示録2:1−17にはエペソ教会宛のキリストの御言葉が記されています。エペソ教会の姿を通して、現代の私たちの教会に当てはまる重要な教訓を得ることができます。特に本日の御言葉によって、間違いのない、恵まれた教会生活をおくる教えを知ることができます。しかし知るだけでは信仰とはなりません。神の御言葉を、祈って自分に当てはめ、実践して行くのがまことの信仰です。ご一緒に御言葉を聴き、祈って、主に従う新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。
内容区分
1、教会は、神の救主イエスキリストによって始められた 20:28−30
2、教会は、神の御言葉によって強められ、成長して行く 20:28、31−35
3、教会は、神の愛によって存続して行く Tコリント13:1―2、(黙示録2:1−7参照)
資料問題
28節「神が御子の血であがないとられた神の教会」、ヨハネ3:16、ロマ3:22を見よ。この句は「神がご自身の血であがないとられた神の教会」とも訳せる。その訳によれば、教会のために「神ご自身」が血を流したことになっているが、血を流したのは実はイエスキリストである。このイエスキリストを直接的に神と認め、同時に血を流したという点から見て、イエスキリストは人間でもあると言うことができる(口語訳、新共同訳はその意をくんで訳されている)。パウロは、この句によってイエスキリストは神であり人であるという神学的根拠を提示している。29節「おおかみ」、偽預言者のことでキリストも同じように言っている(マタイ7:15)。35節「受けるよりは与えるほうが、幸いである」、アグラファ(書かれていないの意)で四福音書中にはないが、たぶん他のところにキリストの言葉として書き残され、または口伝で伝えられたもの。ある学者は、この句はルカ19:11でザアカイの信仰告白を受けて、「きょう救いがこの家に来た」と言われたキリストの御言葉の後に続くべきものであろうと言っている。
1、教会は、神の救主イエスキリストによって始められた 20:28−30
聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会(神が己の血をもて買い給いし教会―文語訳)を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。(28節後半)
使徒パウロは、エペソ教会の牧師、働き人を前にして、自分がどのように伝道してきたかを告げています(18−27節)。本日は、それに続く部分で、パウロは、エペソに3年かけて築き上げ教会の祝福を願い、教会のリーダー達に大切な教えを語り伝えています。パウロは先ず教会の起源について教えています。その前に、私たちは教会があるのは当たり前のように思っているかも知れませんが、当たり前ではないのです。この教会は40年ほど前にアメリカ人宣教師クラー先生が、当時外国人がひとりもいなかった熊谷に来て一軒の家を借り、そこを教会にしたのが伝道の出発点になっています。それは神様の導きによる事でしたので、アメリカのクリスチャン達が、熊谷のために熱心に祈り、献金を献げてクラー宣教師の働きを支えてくれました。やがて、クラー宣教師から私たち夫婦に熊谷伝道が引き継がれ、神様の導きのもとに、27年前に最初の頃に救われたクリスチャンたちが祈り、土地取得のために献金し、さらに教会堂建築のために献金をし、また大工仕事を手伝いながらこの会堂建築をしたのです。そういう多くの方々の祈り、献金、奉仕があったから、現在ここに私たちの教会堂があり、大勢の人々が集えるようになっています。教会があるのは当たり前ではなく、遠くはアメリカをはじめ、多くの方々の祈りと献金と奉仕があったということを忘れないで下さい。しかし、この建物も手狭になっていますので、神様の導きを求めて祈って下さい。
本題である教会の起源に戻ります。皆さん、「誰が教会の創始者なのでしょうか」と問われたら何と答えますか・・・。28節に教会の始まりは神様であるとハッキリと言われています。
第一に、教会は「神が御子の血であがないとられた」ものです。「御子」とは神様が一番大切にしている最愛の独り子イエスキリストのことを指しています。神様は罪に捕らわれている人間を救うために、キリストをこの世に遣わされました。キリストは人間として33年半の人生をおくり、最後に十字架の上で、血を流して人間の罪の身代りになられたのです。神様は、自分自身のものであり最も大切にしておられた独り子イエスキリストのいのちを十字架の上で犠牲にして下さいました(ある訳では「神ご自身の血をもって」とあるが、血を流したのはキリストであるから口語訳、新共同訳がよい)。私たちは自分の罪を悔改めて、キリストの十字架を信じるだけで罪を赦され、教会の一員になることができたのです。そこでパウロは、「私たちは恵みによって救われている、主にあって喜ぼう。繰り返して言うが喜ぼう」(エペソ2:8、ピリピ4:4)と叫んでいます。皆さん、きょうも主の救いを喜んでいますか・・・。
第二に、教会は「神の教会」です。28節に、「聖霊」「神様」「御子(イエスキリスト)」とあります。これは、教会は人間のものではなく、神様が中心であることを示しています。神の聖霊は、キリストを信じる者の群れである教会に、監督と呼ばれている牧師を立てています。ですから、この教会にも神によって教会のリーダーとして任命された牧師がいます。私たちふたりが主の信任に応えて、牧会伝道の使命を果して行くように、また様々な点で祈り、支えて下さるようにお願いします。ここでお知らせします。この度、4月1日付けで荻野倫夫・チャチャ先生夫妻が、教団補教師として認証され、熊谷福音キリスト教会派遣になりました。神の教会が更に発展して行くために、神の働き人が備えられたことを感謝します。来週4月1日伝道師就任式を行います。倫夫・チャチャ先生が主の働き人として聖霊に満たされ、伝道者の使命を全うして行くように祈って下さい。
第三に、教会は救われた者の集まりであり、キリストは「わたしにつながっていなさい」と言われました(ヨハネ15:5)。つながるとは永住するという意味です。キリストを信じ続けて、キリストの体である教会にずっとつながっていなさい、という意味です。キリストは「わたしを通って行かなければ誰も天国に行けない」と言っています(ヨハネ14:6後半)。昔から『神を父とし、教会を母として持て』という勧めがなされています。母を亡くしても立派に育つ子はいるし、家出して成人する子もいるでしょう。だからといって、母親なしで大丈夫と言って、母親から離れて勝手に家出することが許されないように、クリスチャンであるのに、母である教会から離れて行って、天国に入れるだろうといういうことは考えられないことです。また、この子どもには手こずると言って、子どもを簡単に追い出す母親はいないでしょう。母である教会も、簡単に教会員を除名せずに、また教会から遠ざかっている人が復帰することを信じて祈り続けているのです。改めてキリストに全ての人がしっかりつながって行くように祈って下さい。
2、教会は、神の御言葉によって強められ、成長して行く 20:28、31−35
だから目を覚ましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを、絶えずさとしてきたことを忘れないでほしい。(31節)
ここでは教会生活の上で、とても大切なことが教えられています。
第一に、「あなたがた自身に気をつけなさい」(28節)と言われています。どのようにして気をつけるのでしょうか・・・。32節に神の御言葉が私たちの信仰を養い、御言葉によって導かれて天国へ進んで行く力を与えると言われています。自分自身が先ず御言葉によって教えられて、心を養われ、恵まれて行くことが大切です。教会生活になれて来て、ある年月を重ねてくると、周りの方々のお世話をするようになる、そうすると自分の足元のこと、自分に必要な霊的糧を求めることが後回しになることがあります。私は牧師として、様々なことを直接に、電話で、携帯メールで、Eメールなどで受けます。それは際限なしです。その時に思うことは「汝ら静まりて我の神たるを知れ!」ということです(詩篇46:10)。教える前に、何かをする前に、あれこれ方策を講ずる前に、神の前に沈黙することです。自分自身が先ず神様によって養われ、恵みをいただかなければならない羊であることを知って、ひたすら主の前に静まり、祈ります。その時にキリストが「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4:4)と教えて下さったように、神の声が聖霊によって心に響いてきます。
私の若い時の体験ですが、ある方の問題のために祈っていました。祈りながら、頭の中であの手この手の方策を考えていました。すると「ただ祈れ」というように導かれ、考えていた全ての方策を忘れることにしました。30分ほど祈った時に「祈りをやめてもよい」というふうに導かれ、心に平安が与えられました。すると問題をもっていた方から「解決しました」という連絡がありました。その時以来、どんな問題を聴いても、トラブルがあっても、先ず静まって祈るならば、生きておられる主が問題を解決に導いて下さることを体験し続けていることを、感謝しています。
第二に、「すべての群れ(群れ全体)に気をくばること」(28節)と言われています。「牧する」という羊を飼うという言葉が使われているので、この言葉は直接には群れの監督者である牧師に言われている言葉です。と同時に私たちひとり一人が互いに祈り合い、支え合って行くことを示しています。具体的にどのように気を配るのでしょうか・・・。
教会の全ての集りにおいては、神の御言葉が常に霊の糧として必要です。もし聖書を開かない集まりであれば、それは教会の集まりではありません。教会の牧師が常に御言葉の恵みを提供できるように、祈りと学びの時間が与えられ、また生活面で支障のないようにすることも大切です。私事ですが、人が増え、年をとってきているのに仕事量が増え、絶え間なく通信があり、来訪者があり、神学校の奉仕もある。なかなか静まれないので、夜11時から2時ぐらいを個人的な時間にしていました。朝に早天祈祷会があるので、5時半には起きるという生活をしていましたら、昨年めまいを生じ、救急車で運ばれました。それ以来11時就寝を心がけ、体調を取り戻しています。牧師が常に御言葉を語って行けるようにお祈り下さい。また教会の集まりの中に、間違った教え、異端が忍び込まないように注意することです。そのことが29−30節に警告されています。
第三に、キリストに一生懸命に従って行くことです。31節を読みます。パウロは、自分は裏も表もなく、ひたすら、真っ直ぐにキリストに従ってきた。私はエペソ教会のために祈り、あなた方のために涙を流して祈り、あなた方を導いてきたと告白しています。さらに「わたしは、あなたがたも働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与えるほうが、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(35節)と告げています。母なる教会ということを申し上げました。教会は弱い者を助け、乏しい者に与える愛の教会であるように、それこそが母なる教会のまことの姿です。昨日上野公園ホームレス伝道に行ってきました。皆様のお祈りと愛の献げ物に感謝します。比留間師が集会で証をしていました、「自分達の教会は正式な信徒数は7名です。この僅かな信徒数で毎週土曜日に上野公園で礼拝をささげ、300名の人々に給食を提供しています。火曜日にも給食活動をしています。このために寄付をしてくれる人、あるいは有力な団体がバックにあると思っている人がいるかも知れないが、そんなものはありません。私たちは神様を信じてイエス様の救いを伝道し、そして路上生活の方々のために給食をしています。すると、神様が不思議な方法を通して私たちを支えて下さっている。あるスーパーが食料品を差し入れてくれたり、様々な奇蹟的助けが与えられて働きが9年も継続している。第四土曜日には熊谷から牧師が来てメッセージを伝えてくれ、一緒に来る方々が讃美奉仕をし、しかもおにぎりを500個以上も持参して下さる。私たちの支えは神様です」と。その証を聴き、社会の底辺にいるホームレスを切り捨てないで救いの手を差し伸べている働きに祝福が与えられていることは、「受けるよりは与えるほうが、さいわいである」という主のお言葉は真実であるということを実感しました。
3、教会は、神の愛によって存続して行く Tコリント13:1−2
たといわたしが、人々の言葉や御使いのたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(シンバル)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無にひとしい」(Tコリ12:1−2)
エペソの教会がどうなったかは黙示録2章に記されています。エペソ教会は偽りの信仰をもっている者達を見抜いています(黙示録2:2)。御言葉の正しさを守るということにおいては勝利を収めていました。しかし「あなたは初めの愛から離れてしまった」と言われています(黙示録2::4−5)。なぜそんな事になってしまったのか・・・教会というものが、神の独り子であるイエスキリストの血によって贖い取られたものであるということがあいまいになってしまったからです。イエスキリストを信じれば誰でも救われる、そして全ての人が教会の一員になって天国を目指して進む神の家族になるのです。そこに差別扱いはないし、全ての人がキリストを見上げて信仰生活をして行くのが教会です。
教会で最も必要なことは何でしょうか・・・。お互いを大事にすることです。常々お願いしていますが、新しい方々や、これから信仰を求めて行く方々に声をかけていますか・・・。現在洗礼を希望している方々が2名います。素晴らしい主の恵みです。どうそ祈って下さい。やがて、この方々が教会に加わり、そしてクリスチャンとしての歩みを確かにして行くように祈って下さい。
教会に愛が満ちるとは、教会の一員である私たちひとりひとりがイエスキリストの愛に満たされるということです。誰もが教会に来てホッとする、自分が受け入れられているという教会となって行くように、聖霊を通してキリストの愛が私たちひとりひとりに豊かに与えられるように祈って下さい。
まとめ
1、20:28前半、教会は、神の独り子イエスキリストの十字架の贖いによって始まっています。キリストを信じて教会につながることが祝福です。
2、20:31、教会は、神の御言葉によって強められ、成長して行きます。御言葉を信じ、キリストに一生懸命に従って行きましょう。
3、Tコリント13:1−2、教会は、神の愛によって存続します。キリストの愛を求めて祈り、お互いを大事に、祈り合い、励まし合って行きましょう。
祈 り 主なる神様、独り子イエスキリストの十字架により救われ、教会の一員になっていることを感謝します。教会生活で大事なのは愛です。聖霊によってキリストの愛に満たされ、お互いに受け入れ合い、祈り合って行けるように導いて下さい。イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献使徒行伝注解―榊原、黒崎、フランシスコ会、文語略解、LANT、竹森、米田